虎の威は装飾品 あ、まずい。
そう悟った俺は咄嗟に、隣で寝転ける甘寧の首根っこを掴んで、後ろへ引っ張った。力の加減をつい忘れて甘寧が椅子ごとひっくり返るのと、軍議用のでかい机が真っ二つに割れたのはほぼ同時だった。
もんどりうつ甘寧とそれを軽く笑う俺の向かいには、愛刀である飛燕を握った陸遜が一人立っている。
「凌統テメェ!」
「あんたは俺に感謝すべきだ」
いきりたって周りの見えていない甘寧は、俺の言葉の意味を全く理解できていないようだった。首を傾げた甘寧に分かりやすく、無惨にも机の意味を無くしてしまったものを指差す。
注目すべき点は、奴が今までだらしない顔を預けていたところに、綺麗な斬れ目が伝っていること。
「なんだこりゃ」
甘寧は素っ頓狂な声を上げる。何を思ったか、おもむろに切り口を観察しはじめ「上手く斬れてやがんなぁ」と感心しているのを、俺は聞き漏らさなかった。
こういう時、空気を読まないこの男の言動やら行動は大いに笑える。状況的には全く笑えないけれど。
「軍議中?だったか?」
「あんたは夢の中だったけどね」
「机、すげぇことになってんだけど」
「甘寧、前」
「前?……うっ、わ」
そこでようやく甘寧は、向かい側で沈黙を保ったまま得物を引っさげた陸遜に気づき、みるみる顔色を悪くさせた。それも仕方ない。
陸遜の背後に、不穏な色をした気が揺らめきたっているのが見えるのだから。
「お、俺のせいか?」
助けを求めるような頼りない声で、意見を求めてきた甘寧を見て、俺は噴出した。ぴくぴく顔を引きつらせてこっちを見ないで欲しい。
「少なくとも、二割くらいは要因になってるんじゃない?」
おめでとう、と付け加えて意地悪く返してやると、甘寧は珍しく慌てた様子で陸遜に向き直った。流石の甘寧も、陸遜がえらくご立腹であることは理解出来たらしい。
「り、陸遜……わり、」
「なんてことをするのだ!!このわっぱはっ!!!」
甘寧の意を決した謝罪は、今にもちびりそうな文官の、取り繕った怒号にかき消された。一人が口を開けば、後ろに控えていた他の文官・武官達も、そうだそうだとつられたように口を開く。
ぽかんと口をあけた甘寧に、俺はまた吹き出してしまった。
「失礼。話を聞いてくださらなかったので、つい」
それまで口を閉ざしていた陸遜が、満を持して発言した。相変わらず、凛と通る良い声だ。
しかし、いつもと違う点が二つ。ちっとも詫びる気のない口調。ちっとも笑っていない冷ややかな視線。恐ろしいのは、口元だけはいつも通り緩やかに孤を描いている点。
そこがどうも勘に障ったようで、諸官らは一層がなり立てる。そしたら今度は陸遜の勘に障ったらしく、次は横一文字に飛燕の斬撃が飛んだ。
「どうぞ、お静かに」
陸遜がぴしりと言い放つと、またも静寂が訪れた。
何の罪もない元机は、四つに分裂して転がっている。かわいそうに。
虎の威は装飾品
若輩者を指揮官としていいのか。
軍内でも特に年若い陸遜が都督に抜擢されてから、一部の文・武官からの反発は日に日に強まる一方だった。
ある程度予想されていたことではあるが、親しい者が蔑ろにされる様は、見ていて気持ちのいいものじゃない。かと言って、周囲の人間がどうこうできる程、簡単な問題でもない。
陸遜以前の方々を思い浮かべてみると、確かに経験豊富で威厳のある錚々たる顔ぶれだ。経験の浅い若者が、跡を継いで国を支えていけるのか、皆が不安に思っていた。だが、彼以上の適任者がいないのもまた事実。陸遜にはその素質が十分にあるし、本人にも強い意志と覚悟があった。
現に最初は反発していた将兵も、陸遜の指揮能力の高さを目の当たりにしてからは、支持に回る者がほとんどだった。今反対しているのは、陸遜に要となる役職に就かれると困るような、手前勝手な都合を持つ先の見えない連中ばかり。
結局のところ、自分の実力を示さなければ、昔気質のお堅い人間だろうと性根の腐った連中だろうと、人はそう簡単に自分の意見を曲げないのだ。
そうは言っても、俺や甘寧のように陸遜の人となりを知る者達は気が気じゃなく、やきもきしながら様子を見守るしかなかった。あんまり腹が立った時なんかは、新旧将兵の全面抗争も辞さない覚悟だった。
そうならなかったのは、陰口を叩かれようが、謂れのない叱責を受けようが、当の陸遜が全く意に介さず軽くいなしてみせたからだった。
頼もしいような、勝手に苛立っていた年長者である自分達が情けないような。少しばかり複雑な心境だった。
と言うのが、俺の知る昨日までの陸遜の話。
今までの理知的で穏やかな対応はどこへ行ってしまったのか。今日はどういったわけか、開幕早々ブチ切れ状態だ。今にも乱舞が放たれそうだ。
軍議とは名ばかりの、人の話も聞かず、大した理由もなくただ否定を繰り返すだけの年長者達に、怒り出すのも無理はない状況とは言え、やはり陸遜らしくはない。
(相当、根詰めてたもんなぁ)
この所、陸遜が寝る間も惜しんで書庫に閉じこもっていたのを知っていた。
『止め時が分からなくなるんです』
一度没頭すると時間も忘れて書を漁る彼が以前にそう零していたし、その光景をたびたび目にすることもあったから、今回も大丈夫だろうと高を括っていた。
(これじゃ、顔向けできない)
陸遜が無理をする度、呆れたように窘めていた人はもういない。俺と甘寧に『任せた』と言い残して。
軍議中にも関わらず、惰眠を貪っていて事の発端を知らない甘寧も、大まかな流れは何となく掴めたのだろう。俺と同じように陸遜をじっと見たまま、立ち尽くしていた。
対面の連中がやけにそわそわしていることに気づいたのか、やってきた部下に指示を出し終えた陸遜がこちらを見ていた。
あれだけ口喧しく陸遜に詰問していた文官達は、今度は互いの主張の粗を探し始めて口論になっており、自分達のことで忙しい彼らは陸遜の雰囲気の変化になど気がつかない。
陸遜は俺達と目が合うと、大丈夫ですよと言うように自信ありげに笑ってみせた。
「一つ、提案をよろしいでしょうか?」
溌剌とした声が、室内に響く。
「今回の作戦についてのご指摘、全て今この場で私にぶつけて下さい。ただし、お一人ずつ。順番にです。また、発言中の反対意見や野次は一切認めません」
罵声や、睨めつけるような視線にびくともしない、ぴんと伸びた背中。
「他の方や私の話を聞いて浮かぶ疑問もあるでしょう。こちらで筆と竹簡を用意しました。順番が来るまで、書き留めて頂けると幸いです」
自分も他人も見失わない、視野の広い目。
そんな姿を見せつけられたら、心配の一つもできやしない。
「では、はじめましょうか」
陸遜が楽しげに笑いかけ、情け容赦のない舌戦がはじまった。
転がっていた椅子を起こして、気をつかいながら腰掛ける甘寧を目の端に捉えてしまった俺は、またもや笑いを堪える羽目になった。
「想定より随分早く終わってしまいましたね」
言い返す気力をついには無くし、ぐったりとした諸官に向かって、陸遜は冷たく言い放った。
陸遜は一人一人の意見に耳を傾け、矛盾点を丁寧に指摘した。ぞっとする話だが、多くの者が記録を取りながら挑んだにも関わらず、論破し続けた陸遜は一切記録を取っていなかった。
全て頭の中に取り込んだ情報を元に、寸分の狂いもなく引き出して意見、説明、反論を行った時点で、力の差など歴然だった。
熱くなりすぎて肩で息をする者もいたというのに、陸遜は一人涼しい顔をしている。
「し、しかし、策が看破されれば我らの部隊は…」
「そうだ、将として兵達の命を預かる義務があるのだ。みすみす死地に送り込むわけにはいかん」
「死地だからこそ……作戦の遂行と兵達の命、交戦か撤退か、現地で判断を見極めるのが将たる我々の役割じゃないんですかね」
あ、やべ。言っちゃった。
いい歳した一端の将軍が聞いて呆れることを言うもんだから、傍観に回っていた俺の口もついつい滑ってしまった。視線が一気に集まったのが分かる。ああ、もういいや。
「死地と分かった上で、それでも信じて付き従ってくれる兵達を生きて帰すことは、確かに将の責務でしょう」
「凌将軍、そうだろうとも。だから私達は、」
「だからこそ、その責務から逃れるための言い訳にしちゃいけないと、俺は思いますが」
この人達は配下可愛さに陸遜の策を否定してるわけじゃない。自分可愛さに、だ。
力不足でごめんなさい、ならまだ話もわかるが。兵の命を隠れ蓑に、保身を図るなんて。これが自分と同じく兵を率いる立場の人間かと思うと、情けなくて仕方がない。
「命の責任は自分自信が負うべきだ。国や謀や、ましてや命を賭して戦ってくれる勇士のせいにしていいものじゃない」
そもそも、割り当てられた要地の守備をあんたらが拒否すると、結局は他の奴らが迷惑被るってのに。それすら考えが及ばないのか。
務めて冷静に発言したつもりだけれど、ふつふつと込み上げる怒りが顔に出ていないかだけが心配だった。
ところで誰か、さっきから俺の隣でひゅーひゅー口笛を鳴らす馬鹿を止めてもらっていいだろうか。なんでお前がそんな得意げな顔してんだ。
押し黙った武官がしぶしぶ着席した。ここまでだなと確信し、ほっと息を吐いたその時。今度は一人の文官が慌てて声を上げた。
「ま、待て!最後に、甘将軍はどうお考えかお聞きしたいのだが」
「は?俺?」
突然話を振られた甘寧は首を傾げる。
実を言うとこの男、先程までの討論をほとんど聞いちゃいない。論破人数三人目くらいから、頭が追いつかなくなったのか、はたまた飽きたのか。まあ、限りなく前者だろうが。甘寧は性懲りも無く船を漕いでいた。
それに気づいていた上での発言だろう。甘寧の自業自得とはいえ、見下したような、下卑た笑い声が耳につく。
「軍議中に船を漕ぐほどの余裕をお持ちですからな。都督殿の策をどれほど理解されているのか伺いたい」
「荒事の経験は誰よりもおありのはず。都督殿の少々強引な作戦であっても問題なかろう」
「なにせ作戦ごと叩き潰すことで有名ですからな。上手くいかずとも、ご自身のお力でなんとかなされましょう」
馬鹿にしたような態度の老人達に、俺まで腹を立てそうになる。が、当の本人は、呑気にあくびを一つ。
ぼりぼりと頭を掻いた甘寧は、観念したように立ち上がった。嘲りの視線を向ける者達には目もくれず、陸遜の方を向いて。
「陸遜」
「はい」
「さっきの話、聞いてなかった。悪ぃ。てか、早すぎて何言ってんのかさっぱり分からん」
突然の謝罪に沈黙した後、周囲はどっと笑いだした。陸遜も一瞬ぽかんとしていたが、すみませんと苦笑した。
「俺が知りてぇのは一つだけだ」
甘寧が問いかける。
「勝てるんだな?」
問われた陸遜は、一層笑みを深めて挑発するように返答した。
「私が今まで、勝算のない策を披露したことがありましたか?」
「ねぇな」
「あとは、出陣される先達の皆さんの頑張り次第、といったところでしょうか」
その強気な発言に「聞くまでもねぇか」と、甘寧は満足そうににっと笑って返した。
「そういうことらしいから、俺はこいつに従うぜ」
甘寧らしい、非常に単純明快な答えの出し方だった。
苦虫を噛み潰したような顔をしている面々に向き直ると、空気が一瞬で変わった。肌がひりつくようなこの威圧感。戦場でたびたび見せる射抜くような鋭い眼孔で、甘寧は言い放った。
「無能っぷり晒す前に、まず腹ぁ括れや。それが嫌なら……首でも、括るしかねぇかなァ?」
脅迫、もとい、お願い事をする時は『はっきりゆっくり、笑ってするもんだ』と言っていたのはいつだったか。
おっかない言い回しに顔面蒼白、戦々恐々の文官達を見届けると、甘寧は席についた。
くっくと俺が笑っていると、陸遜がこちらを向いていた。
「凌統殿はいかがですか?」
「そりゃもちろん、頑張りますよ。有能な先達としてね」
俺がそう言うと陸遜が力強く、分かりましたと頷いた。
そして、一旦は収めた飛燕を再び引き抜く。
「私は殿から拝命賜り、この任を全うしています」
きりっとした目を部屋全体に向けて、飛燕を四つに分裂した机の一つに突き立てた。それは決して力強い動作ではなかったはずなのに、剣先を突き立てられた机にはぴしぴしと亀裂が生まれ、バラバラに砕け散った。
机ってこんな風に壊れるんだ?という疑問は、今はあえて抱かないことにした。
「次に逆らうことがあればこうなること、忘れないでくださいね」
にこりと綺麗な笑顔で言い切った陸遜は、ゆるりと席に着く。辺りを見渡し小首を傾げた。
「お返事は?」
「ぎ、御意……」
「結構」
今日一の良い顔で、陸遜は満足そうに頷く。
「別室に簡単な食事を用意してますのでよろしければ。お帰りの際は家の者がお送りします」
それでは、本日はここまで。
隅の隅まで反論を許さない、完璧な対応で締め括った若輩者を見る顔は、皆等しく同じだった。
「悪い顔になってたねぇ」
「一端の小悪党になっちまって、かわいくねぇの」
弾かれたように部屋から出て行く面々を三人で見送った。しばらくはお互いに無言で。その内、誰からともなく笑みが零れた。
かわいくねぇかわいくねぇと繰り返す甘寧は、とにかく陸遜を構い倒したいとはっきり顔に書いてあった。気持ちが分からなくもないのが微妙に腹立つ。
「甘寧殿と凌統殿の普段の言動や行動を、一部参考にしてみたのですが」
小悪党?と首を傾げる陸遜の姿は、先ほどとは打って変わってあどけなく年相応に見える。本当に末恐ろしい都督殿だ。
「お前の嫌味ったらしいひねくれ回った物言いを真似てみたってよ、凌統」
「あんたの突拍子もなけりゃ見境もない喧嘩の売り方を再現してみたってさ、甘寧」
「あ?」
「は?」
昔は、苦笑いして眺めているだけだったのに、今や手馴れたようにどうどうと宥められる。興奮した馬を宥める時と同じ要領だそうだ。これじゃあどっちが年長者か分かったものじゃない。
陸遜のことを「経験不足で威厳が足りない」などとぬかした御仁は、改めて思い返してみて欲しい。俺達の小競り合いがはじまると、真っ先に呼びつけられて仲裁に入るのは誰になったのか。もう肝の据わりなんてそこらの比ではない。
「ありがとうございます」
ふいに頭を下げる陸遜に、俺と甘寧は顔を見合わせ首を傾げた。
「面白いもの見せてもらった礼を俺達が言うならともかく、陸遜から礼言われるようなことはなにもしてないよ。とくにこいつは」
「そうだぜ、陸遜。こいつはほんとに、なにもしてねぇ」
「はあ?」
「ああ?」
「いいえ、お二人のおかげです」
陸遜は首を振って、きっぱりと否定した。
「支持して頂けたこともそうですが。お二人が近くにいるだけで、自分でも驚く程大胆になれるんです」
今、俺達に向けられているのは、それはもう花がほころぶような満開の笑顔。
「これからも、頼りにさせて下さいね」
さあ忙しくなりますよ、と。どこか楽しげに。陸遜が真後ろの棚に資料を片付けはじめた隙に、俺と甘寧は顔を寄せて極力小声で話した。
「育て方間違ったか……?」
「……そうかも」
この人誑しっぷり。 誰の影響なのか、聞かずとも分かる。
上がる口角と染まる頬を隠そうと必死な頼みの綱が二本、背後にあることは絶対に知られてはいけない。絶対に。
「あの、早速で申し訳ないのですが」
二人揃って「喜んで!」と条件反射で答えると、陸遜は困ったように頬をかいた。
「片付けの手伝いを、お願いしても?」
おまけ
凌「気前の良いところは魯粛殿かな」
甘「緩急の付け方は周瑜だろ」
凌「机バーンは間違いなく殿」
甘「それな」
陸「分析するのはやめてください…」