観月と裕太と比嘉と201号室「おや裕太くん、おはようございます。ゆうべはよく眠れましたか?」
「あ、ハイ……。おはようございます、観月さん」
ここ、いいですか?と尋ねる裕太に、観月はゆったりと片手を挙げてどうぞ、と示す。元より観月が座っていたテーブルには他に誰ひとりいないのだからすんなり座ればいいものを。このような裕太のさりげない礼儀正しさを、観月は内心愛おしく思っていた。
「観月さん、今日も朝メシそれだけですか?」
「ええ……。大体いつもこんなモノですよ。朝はこのくらいがちょうどいい」
クロワッサン一切れに、エビとブロッコリーのサラダ、枝豆のビシソワーズにダージリンティー。意識の高いOLのような観月の朝食に対して、裕太は大盛りごはんに味噌汁、焼き魚と目玉焼きとソーセージ。お盆いっぱいに載ったソレを一瞥して観月が鋭く目を細める。
「裕太くん、野菜」
「あっ……。味噌汁に、大根入ってるし……」
「色の濃い野菜を食べるようにと、以前も言ったはずですが?今朝は確かほうれん草のおひたしがあったはず。取って来ます」
裕太が止める間もなく、観月は口元を上品にナプキンで拭って席を立った。持って来てくれるならもちろん食べるし、こういう時の観月に甘えるのはいつもの事だ。あざす、とだけ返して観月が戻ってくるのを待たずに箸を持って食べ始める。
「はい。あとデザートも」
「あざす……。えっ!朝からデザート食べていいんすか」
「裕太くん、ボクは日頃、キミが度を越して糖分を摂りすぎるのを心配しているだけです。こうして朝に適量の糖分を摂るのは非常に重要なこと……。寝起きのアタマも冴えて来ますからね。ほらリンゴのコンポートですって、おいしそう。ボクもおなかに余裕があったらいただこうかな」
聖ルドルフからこうして観月と二人、先輩たちを差し置いてU-17強化合宿に参加できるのは、裕太にとって実に誇らしいことだった。兄貴も当然参加していて煩わしいし照れ臭いけど、兄貴のほかにも他校の同学年や先輩たち、刺激的なメンバーが山ほどいる。恵まれた環境で日々テニスに打ち込む裕太だったが、ほんの少し気になることがあったので、観月と二人になったこのタイミングで思い切って聞いてみることにした。
「えと、観月さん」
「何です?ああこぼれてる……。裕太くん、ほら口元」
観月がお母さんのように紙ナプキンを口元に当てがってくれるのをそのままに裕太は続けた。
「くん、とか付けなくて、大丈夫なんで……」
「は?」
「いや、観月さん、前は裕太とか呼んでくれることもあったじゃないですか。ルドルフはもちろん他校のみんなだってほとんど俺のこと呼び捨てだし、なんかくん付けされると妙にくすぐったいっていうか……」
「……続けて?」
「……観月さんも、呼び捨てしてくれていいのにって……。せっかくこうして、学校代表して二人で合宿来れたんだし。もうちょい、気軽に接してもらえたら嬉しいなって。へへ、そんだけなんですけど……えっ泣いてる!?」
膝に敷いていたレースのハンカチを目元に当てて、ぐすん、と鼻をすする観月に裕太は目を白黒させて、だけど朝はお腹がペコペコだから箸を止めなかった。こんがりと焼けたサバが美味しい。
「それはッ……。この僕を兄のように、いえ、兄として、いえ……むしろ兄以上の存在として捉えてる……、というコトですか……!?」
「いや、違いますけど、みんな呼び捨てしてるし」
「勝った……!」
「え、何がですか?ちょ、泣かないでくださいったら」
「あぃ~っ!ぬーが?ルドルフの裕太が観月チャン泣かせてら!凛~!おもしれーから来てみ~!」
空の食器が乗ったトレイを持って通りがかった甲斐が、観月の肩にガッ!と片手を掛けて大声ではやし立てる。なぜか観月は以前から、比嘉のメンバーに人気があった。というか絡まれることが多かった。
「ちょっ……、気安く触れるんじゃありませんっ!仲間を呼ぶな仲間をッ」
「だって観月チャン泣いてるば!?鼻が赤いぜー。わん心配だば~」
「おもしれーから来てみって言ってましたよね……」
「裕太~!細かいくとぅ言うなって。くり見てみー。わんが食べ終わった朝メシのお皿!」
「えっ……?綺麗に食べましたね……??」
「やっさ」
「サイコパスッ。もうボクに構わないでください!」
「裕次郎、何だば~。観月チャン泣かせたヤツはどこのどいつよ」
「甲斐クン、食堂で大きな声を出すもんじゃありませんよ。で?観月クンがどうしました?どんな醜態をさらしたのです?」
「集まってくるなッ。見世物じゃありませんッ!散れっ!南のチンピラ!」
「散れとかウケる~」
「観月チャンは朝から元気だな。おっ、寛~!田仁志~!こっち来てみ~」
これ以上チンピラが増えたら大変なので、裕太は自分と観月のトレイを両手に持って、「失礼しますッ」と席を立った。ぎろり、と比嘉のメンバーを睨みつけて、観月もレースのハンカチ片手に裕太の後へ続く。気の強い町娘の風情である。
「観月さん、残りは休憩室で食べましょうか」
「ええ、ありがとう。……裕太」
「え?……へへ、どういたしまして……」
「あんしぇーわったーも休憩室行ちゅんど~」
「付いて来るんじゃないッ!もうボクに構うなったらッ……」
その様子を食堂の柱の影から鋭く見つめる視線があった。裕太の兄、不二周助だった。
♡♡♡
「今日一日鬼みたいな顔してると思ったら、そういう事情かい。不二はデリケートだなぁ」
「いやデリケートっちゅうか……。まぁあれや、さすがの不二クンも弟の事となると平常心を失ってしまうんやろな。わかるで。兄貴っちゅーのはそういうモンや」
一日のトレーニングを終えて夕食後、部屋で悶々とした様子の不二を見かねて同室の二人が事情を聞いてくる。幸村も白石も呑気に笑っているものだから、不二はますます目を吊り上げた。
「白石……その鉢植え、トリカブトって言っていたよね」
「何を考えとるんや不二クンッ。あかんでぇ。そんな事で人生棒に振るもんやないっ」
「そうだよ不二、せいぜい乾の汁と観月の紅茶をすり替えるくらいで我慢しておきなよ」
「乾には、汁は人を傷つけるためにあるんじゃないって、断られてしまったんだ」
「とっくに交渉済みかい!……なぁ不二クン、そんな事しても虚しいだけやで。そもそも裕太クンの方から呼び捨てしてくれって言うてたんやろ?しゃあないやん、先輩が後輩を呼び捨てなんて珍しい事じゃ」
「白石は当たり前のことしか言わないなあ。今のもっと深めにツッコめば笑いが広がる所じゃないの?」
「的確に辛辣やん、幸村クン……」
「だからなおさら腹が立つんだよ~~~~~っっ!ウワ~~~~~~!」
「不二、子供みたいだ。アハハッ」
「笑いごとやないで幸村クン、ちょ、不二クン大声出すのやめとき。情緒取り戻してくれ」
勉強机に突っ伏してイヤイヤと頭を振る不二に、幸村が後ろからそっと寄り添って肩に手を置いた。白石は二段ベッドの下に座って、さてどうしたものかと状況を見守るしか出来ない。やがて不二はスン、と頭を上げて、急に落ち着きを取り戻した。
「……まあ、弟がそうやって社会性を身に付けていくのは兄として喜ばしいよ」
「せや、それでこそ不二クンや」
「それとこれとは話が別だよッ!ウワ~~~~~~~~」
「アカン、今は何を言っても無駄みたいやな……。幸村クン、何とか不二クンを慰める方法は無いもんやろか……」
「うーん」
長い人差し指を顎に当てて、幸村が思案に沈む姿勢を見せるが口元がニヤニヤと笑っている。この部屋の誰よりも楽しそうである。
「そもそも俺、呼び名に関してあんまり深く考えたこと無かったなあ。親密イコール下の名前を呼び捨てにする、とかそういうのも意識したこと無いし」
「あー、確かにせやな」
「真田のことは小さい頃はゲンイチローくんって呼んでたんだよ。可愛くない?」
「どっちが?」
「どっちも」
「おん、可愛いやん」
「白石、今のもツッコミどころじゃないの?」
「お、サンキュー不二クン。どっちもかいッ!ちゅーか何の話やッ!」
あはは、と笑って室内の空気が和んでいく。こうして話を聞いてもらうだけでも少しずつ気が晴れて、不二は改めて同室のふたりに感謝した。
「確かに……、よく考えてみたら大した事でもないね。ありがとう。幸村、白石」
「ええんやで」
「あっ、ねえねえ、試しに俺たちも下の名前で呼び合ってみない?」
「えっ」
「えっ」
幸村の提案に白石は何だか気恥ずかしくなって、ソワ、ソワ……と目を泳がせた。まだ呼んだワケでも無いのにもう照れている。
「あー……まあ、ええんちゃう?しっくり来るかは、わからんけど……」
「ありがとう、蔵ノ介♡」
「オッ、おお……」
「周助、元気になってよかった♡」
「ありがとう、精市♡」
「よう照れずにイケんなぁ……」
「蔵ノ介も、早く呼んでよ」
「ここはボケたりツッコんだりしなくていいよ。蔵ノ介、空気読んで行こ」
「ぅ……」
ベッドに座る白石を挟んで、幸村と不二がギュギュっと腰掛ける。とても逃げられそうもない圧を感じて、白石は眉を八の字にしてハァ、とため息をついた。
「……せ、精市」
「わっ♡」
「……周助?」
「すごい刺激だ……♡」
「アカン!!恥ずッ!!ムリやこれ無理無理無理~ッ!」
たまらず立ち上がって叫ぶ白石に、幸村と不二はアハハと腹を抱えてベッドに倒れ込んだ。頬を染め、部屋の真ん中で天井を仰ぐ白石の様子はいかにも初心で、しかしそんな姿もやけに様になってるのが可笑しくて二人はますます笑い転げた。白石としては不二を慰めていただけのはずなのに飛んだとばっちりである。
「ア~ハハッ!蔵ノ介かわいい~」
「もう勘弁してくれや……。何やコレめちゃくちゃ恥ずいやん」
「まだ胸がドキドキしてるよ……。照れながら呼ばれるのって何かグっと来ちゃった」
「俺も。蔵ノ介のこと好きになっちゃう」
「僕も。蔵ノ介を賭けて勝負する?精市」
「よし、表に出ようか」
立ち上がってラケットを持とうとする二人の顔は半笑いだった。悪ふざけに耐えられなくなった白石がたまらず叫ぶ。
「もうやめや!この呼び方、普段使いは無理やろ。いつも通りに呼び合お、頼むわ」
「そうだね、俺と周助はまだしも、蔵ノ介って長くて呼びづらいし、やめよう」
「アッサリやめるやん」
「ね、不二。……不二?」
「……ねえ、こんなにドキドキするって事は、裕太ももしかして、観月に呼び捨てされてドキドキしてるんじゃ……」
「アカン、ぶり返してもうた。いや、それは無いやろ……なあ幸村クン」
「うん、ナイナイ。相手によるんだって、不二。今のは白石だから特別だよ」
「そうだね。よし、そろそろ風呂に行こうか」
「アッサリ立ち直るやん。はー、変な汗掻いたわ。風呂行こ風呂行こ」
「よし、支度しよ。そうだ、廊下で一番最初に会った奴を白石が下の名前で呼び捨てするゲームしようよ」
「長いな!何やソレ、俺だけ!?ゲームちゃうやん、むしろ俺への罰ゲームやん!?」
「冗談冗談」
「え~やろうよ。スリルがあっていいじゃないか」
「しゃあない、やったるわ。小春辺りとバッタリ会えれば無問題やろ」
「やるんだ!?」
「やられたらやり返せ、や。何やこのまんまやったら俺カッコ悪ない?」
「さすが蔵ノ介~♡」
「ちょ、それはやめやて……」
あはは、と和やかに笑いながら、三人仲良く部屋を出て行った。
♡♡♡
廊下に出ると鬼先輩がこちらに歩いて来るところだった。先輩は当然ノーカンだろうと、幸村と不二が「鬼先輩お疲れ様です」と礼儀正しく挨拶してすれ違う。しかし白石は何事にも真面目で一生懸命な男なので、「十次郎兄さんお疲れ様です」と果敢に言い切ってお辞儀をした。先輩を呼び捨てなど出来るはずも無いから、関西で尊敬する先輩を意味する「兄さん」という称号をとっさに付けたのだ。
鬼先輩は一瞬「ン?」という顔をして、しかし顔を上げてこちらを見据えてくる白石の瞳があまりに澄んでまっすぐだったので、「……おう」とまんざらでも無さそうに頬を染めて去った。
「……どや、今の、エクスタシーやった?」
「最高にエクスタシーだったよ。ふっ……」
「ふぐっ、ダメだ、俺今すぐ大声で笑い転げたいから部屋に戻るね……」
「僕も……」