纸老虎 ***
大通りを渡り、商店街を抜けてまっすぐに坂を上っていくと高台に広い屋敷がある。
持ち主である老人の話によると、コロニアル様式、というらしい。かつてどこぞの国で財をなした異国の老人は、そこを終の棲家としている。
一虎は、彼に呼ばれて月に2度、そこを訪れていた。
渋谷の繁華街からほど近いのにもかかわらず、年じゅう葉擦れの音が話し声のように風に乗って聴こえてくる。
周囲に人影が見えない時には、手入れの行き届いた木々たちの退屈を持て余した囁き合いが坂のあちこちでこだましていたが、誰もがうらやむその静けさは、一虎にとってはむしろ落ち着かない気持を抱かせるものだった。
かえって不自然なほど平穏さを演出された町並み──それは、かつて父母と過ごした日々をどことなく思い出させるからである。
白い塀に囲まれた屋敷の門前につくと、表札の下に備えつけられたチャイムを鳴らす。
「羽宮っす」
と名乗れば、暫くして使用人の中年女が出迎えた。
門があき、枯れ色まじりの芝生が茂る庭を横目に、玄関の方へ誘導される。前を歩く女の曲がりかけた背中を見るたび、
(金持ちの愛人にしちゃ、影がうすすぎる)
と、一虎はひそかに思っていた。
木造の螺旋階段を上り、いちばん奥の部屋の前で立ち止まる。ノックすると中から「どうぞ」と返答が返ってきて、一虎はギギィと重たいドアを押し開けた。
「そろそろだと思っていたよ」
窓辺に立って楡の木の枝ぐりを見ていた老人は、白い眉の下の目尻を和らげた。
外は陽が傾きかけ、室内には濃淡さまざまの葉陰が落ちている。
そのコントラストの中に融け込むようにして、老人は佇んでいた。
「まぁ、一応シゴトだし」
一虎はごてごてした木の装飾のついた長椅子にゴロリと横になりながら言った。それが、一虎が老人に与えられた仕事だった。
契約書のようなものには何ひとつサインしていないし、都合のつく曜日を訊かれただけで時間を指定されているでもない。おまけに、老人の連絡先も知らない。
ゆえに、ほとんど待ち合わせに近いものといえばそうなのだが、そのへんの自販機なんかで釣り銭の取り忘れに期待するよりも何万倍、いや何十万倍も見返りが大きいことだけはたしかだった。
──絵のモデルをやってくれないだろうか。
そう道で声をかけられた時、はじめは断ろうと思った。
だが、示された額に目を瞠った。
こんな割のいい仕事は、まず他にない。もっとも、たかだか老人の前でじっとしているだけのことで本当に手に入るなら、の話だが。
断ろうと思っていたのにその気が変わったのは、しいていうなら老人の顔に、覚えもないのに懐かしさを感じたからかもしれない。揺らいでいた天秤は、いともたやすく傾いてしまった。
「なぁ、おっさん」
キャンバスにむかう老人に、一虎はそう声をかける。
家を出る前から、今日こそは訊いてやると意気込んでいたのに、それから先の言葉が出てこない。
元々ほとんど会話らしい会話をしてこなかったというのもあるし、絵に興味がなかったというのも勿論ある。
だが、それ以上に老人のことが分からない。だから、何をどう声をかけていいのか、分からなかった。
「何だね」
老人は何度も色を塗り重ねて薄汚れた紙パレット上で、色とも呼べぬ染みを混ぜ合わせる。
その頬には細かな皺が刻まれ、乾燥した皮膚は象のようだ。やわらかい雲を千切って貼りつけたかに見える白髪と顎周りの髭は、よく見れば一本一本が硬質な繊維から成っている。
ふさふさと茂る眉の下に翳る目に内側のすべてを見透かされているようで、はじめの頃は居心地の悪さを感じていた。
金持ちの酔狂、生い先短い老人の戯れと、まだ無関心でいられたのも、出会って間もなかったからだろう。
「なぜ俺を選んだのか」──そんな疑問が心中に根を巡らし、むずむずと芽が出て抑えられないほど大きくなっていたのは、だんだん老人の視線に心地よさを覚えはじめた頃だった。
自覚してからは、ちらりと老人をうかがい見ては視線がかち合いそうになる前に目を伏せるという、いかにも小物がやりそうな姑息な仕草に何度も苛立ちを覚えもした。
乾燥した空気が微かに動いて、老人は目を細めながら絵筆をバケツに浸す。
開きかけた唇は、しかし乾ききってなかなか開かない。
カップに澱むバタフライピーの青が、夕陽に揺らめく。
「……そんなに、似てたのか」
昔に喪くした身内に似ている。それが一虎が老人に選ばれた理由だと、そう聞かされていた。
たしかに他人の空似はよくある話ではある。しかし、それ以上の何かではなかったか?とふとした瞬間に思い込みそうになるのだ。
生い立ちも過去も、ありのまま何もかもを知られている、とまで思うほどに。
老人は絵筆をバケツに入れて椅子を立つと、背後の抽斗から一枚の白黒写真を取り出した。そこには5人の少年少女が並んでいた。全員がむっつりと口を引き結んでいる。
「いちばん右端だよ。その隣が私だ」
「……似てねぇ」
かすかに笑う気配がして顔を上げる。椅子に座り、キャンバスの向こうで老人は再び絵筆をとる。
長椅子と同じく過度に装飾のついた木のテーブルの上に写真を置き、一虎は寝転がって天井を眺めた。
「似てねぇ奴の絵描いて、楽しいの?おっさん」
宙を舞う埃に顔を背けながら言う。
「どう視えるかが重要なんだ」
「どう見ても似てねぇよ」
「では、君には自分自身の過去がどう視えている?」
「──……分からない。でも、乗り越えなきゃならないもんじゃねぇの」
老人は答えなかったし、笑いもしなかった。西陽がゆっくりと傾いて、部屋の中に落ちる陰が濃く長く伸びていく。しだいに夜が降りてくる。
壁の額に飾られた絵の中で、大きな葉陰に絡まる2匹の蛇の目が爛々と輝き出し、うねりながら互いを締め上げていく。
それを見ていると、生と死の温度と湿度が、濃密によみがえる。
どす黒い血と肉と、体温の名残りだ。
乗り越えるという言葉との乖離に、はらわたを引き裂かれるような痛みを覚える。
4つあるシャンデリアの電球のうち1つだけを灯して、真上からスポットを当てたように暗闇に老人が浮かび上がっている。
もはや一虎の姿は、老人の目に映っているのかも定かではない。
この老人と自分は似ている。
一虎の胸に、何となくそんな思いが去来する。
「──今日は、このあたりにしようか」
老人が椅子を立つ。
メイドも雇っているし、けっして散らかっているわけではないのに、小さな小さな綻びが少しずつ広がって、その部分からしんしんと崩れつつある。
錯覚ではなく、本当の実感として、老人の顔に日に日に安堵が増していくにつれ、“予感”は近づいている。
今日がその日なんじゃないか。一虎はぼんやりと考えた。
.
絵を見せてもらったことは一度もない。
「完成したら、見せるよ」
そう言われているだけである。
どうしてそこに向かう気になったのか。
気づけば足がそこに向かっていた。誰かが前を歩いている。肩より長い髪はいやにつややかで、目を凝らさなければ闇に紛れてしまいそうになる。
「場地?」
そんなはずはないのに呼ばざるをえなかった。だが、振り返らない。まっすぐにどこかを目指している。いや、どこかではなく、あの場所へ。
背中を追いかけて、両の足はほとんど勝手に動いている。
目指す場所は、はじめて出逢ったあの日、やみくもに暴れてたどり着いた高架下の駐車場。
ちょうど当時と同じ場所に立つと、隣に立つ場地の背は昔より低かった。
12年で一虎の背が少し伸びたせいだ。
駐車場はもう使われていないが、場所自体は当時から手つかずのままのようで、柱や天井、地面に煤けた跡が残っている。
場地の横顔を眺めながら、一虎はいつもはらわたの奥にわだかまっている疑問を口にしそうになる。
──俺達はどこから間違っていたんだろう。
場地に訊いても意味はないのは分かっている。
出会い頭に見ず知らずの人間を殴るような奴が、いちいち意味など考えているはずもない。
はじめに暴力を教えたのは父親で、拳を使いこなす感触を覚えさせたのは場地だった。
当時の自分を、人馴れした従順な愛玩動物に喩えるならば、場地は衝動のままに荒ぶる野生動物だった。
対等な付き合いを与えてくれたのも、頭で考えた訳ではない。──もっとも、場地には“与えた”なんて自覚は露ほどもないだろうが。
しかしそれも、今にして思えば力の差は歴然だったのだから、本当に対等だったのかどうかもよく分からない。
それでも、拳を交えるうちに体じゅうの血肉が高揚と痺れだすあの感覚は、まぎれもなく同類への目醒めに他ならなかった。
あれを間違いだったと認めてしまえば、俺の足下には何が残るだろう?── それが、ひどく怖ろしかった。
とっくの昔に燃え尽きた痕は、今もアスファルトに黒々と残っている。
あの車の持ち主は今、どこで何をしているだろう。燃え残りの煤に何を思ったのだろう。
どうして今まで、それを考えてこなかったのだろう。
対等でない暴力を、あれほど憎んでいたはずだったのに。
わざと考えないようにしていたのかもしれない。どこかで気づいていたことに、気づいていない訳ではなかった。
ただ、他の何を犠牲にしてでも、場地との誓いを守りたかったのだ。他の何を犠牲にしてでも。
それが巡り巡って真一郎を傷つけ、マイキーを傷つけ、大勢を巻き込むことになった。だとするなら、と一虎はそこで場地の顔に視線を向ける。場地も振り向いてじっと見つめてくる。場地の髪は、あいかわらず風もないのに闇に溶けるように靡いていた。
「──場地。それでも俺は、お前に出会えてよかったよ」
この不幸の連鎖のはじまりが、2人の出会いの業だったとしても。
出会わない運命など考えられる筈がなかった。
暗闇の中で絶えず燃え続ける灯火のように。あるいは盲者が視力を失う前に見た光景を、生涯忘れずにいるように。
場地なくして真っ直ぐに立っていることは、一虎にはできなかっただろう。
喪失を受け入れることが、こんなにも苦しく、愛しい。涙が頬をつたい、ゆっくりと流れていく。
場地は唇を引き結んだまま、端の方を僅かに上げた。犬歯は見せず、15で死んだあの頃の顔つきのまま、大人がするように笑ってみせる。
「場地、──」
一虎が口を開きかけた時、ごうぅ、とアスファルトから火炎が巻き起こった。突然のことに呆気にとられ目を瞠る。と、隣にいた場地が何かを言いかけた。しかし、その声を聴き取る間も与えず、火炎の中へ入っていく。
「待てよ、──」
あと少しのところで毛先に指が掠りそうだった。が、届かない。
「行かないでくれ、頼む、お願いだから、場地──」
大声で名前を呼ぶ。乗り越えられるわけがない。何度上塗りを重ねても、あの日の面影が浮かんでくる。どこへ行っても。何をしていても。泣きじゃくりながら、ひたすらに叫ぶ。届くまで何度でも。かつて場地が、そうしてくれたように。
「いかないで、いかないで、いかないで、──ッ────」
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放火だったのだろうか。いや、その線は限りなく薄いだろう。
一虎は焼け跡を見ながらそう考える。
ニュースを騒がせた、渋谷の高級住宅街の大火災。
というのは、屋敷が大きく、また穏やかな場所柄もあって大袈裟に取り沙汰されているのだが、敷地を占めるほとんどは庭だったこと、隣家に燃え移らずに済んだことで、被害は最小限にとどまった。
ニュースで見た見覚えのある風景と、住人の男性が死亡、という文字に驚きはしたものの、いずれこうなる気はしていた。一虎もまた、愛する者を失う悲しみを受け入れられないまま、今日まで生き延びてきたからだ。
やり過ごす日々の中で、空白と向き合うために、愛した証を確かめるために何かを残したかったのだろう。だが、形にした瞬間に昇華された想いは、一転して堪え難い苦しみに変わる。
愛した者がこの世のどこにも存在しないことを、もう二度と還らないことを、突きつけられてしまうから。
そうなれば、焼き尽くすしか無くなるのだ。
その気持ちは痛いほどに分かる。分かりすぎるほどに。執着を捨て去ることも、解放されることもできず、ずっと苦しんできた。
──どう視えるかが重要なんだ。
──君には自分自身の過去がどう視えている?
焦げついた芝生を見下ろし、一虎は野次馬の群れを離れた。
〈了〉
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纸老虎(張り子の虎)
外見は強そうに見えて実際は弱いもの。