Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    norico_nnn

    センチメンタルな話が好きです。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 9

    norico_nnn

    ☆quiet follow

    ばじとら。今更独りきりでは生きてゆけない二人の話。捏造注意の雰囲気小説。リハビリで書いたため、ほとんど無校正です。誤字脱字衍字を発見した場合、マシュマロ(https://marshmallow-qa.com/norico_nnn)で教えていただけると幸いです。[23.7.30]

    #ばじとら
    punIntendedForAHatchet

    Fall in night わざと照明の光度を落とした広い空間のあちこちに、硝子製の水槽が等間隔に並んでいる。規格統一された画然たる水槽の中には、種々雑多な魚類が縦横に泳いでいた。彼らの意思とは無関係に、純粋で作為なき動きの一つ一つ、濃紅や淡黄、薄橙の色彩が、怠惰で受動的な娯楽を求める見物客の目を楽しませる。
     休日の昼間は家族連れが目につくが、夜になるとやたらとカップルが目立つ施設だ。家族連れは甲高い話し声がうるさく、カップルは醸し出す雰囲気がいちいちうるさい。行楽シーズンの情報番組内で取り上げられる僅かなシーンだけで、テレビ越しにもその喧騒がよく分かる。水族館を子どもの知的好奇心を誘発する教育施設と認めるか、ロマンチックな要素を加える舞台装置と見なすのか。どちらにせよ、オレの守備範囲外である。
     どっちの客層としても、オレは水族館を訪れたことがない。両親は家族サービスするような気質じゃなかったし、まことに遺憾ながら今まで恋人がいたためしもねえ。家族でもカップルでもない客層といえば、残るはダチ同士。そう、オレは今回小学時代からの親友を連れ、この小規模な水族館をふらりと訪ねてきている。
     出し抜けにオレの発した「水族館行こうぜ」との簡素な誘いに応じ、のこのこ着いてきた場地。オレの右隣にいるこいつが「なあ、あれ食える魚じゃねえ?」とか、「あの魚の名前、カッケーな」とか言って盛り上げようとしてくれたお陰で、来館したてはそこそこはしゃいだ。どうせ来たんならそれなりに楽しみたい提案者のオレは、微細に嵌め込まれた半透明な鱗への光の載り方をじっくり眺め「なんか青魚っぽいよな。焼いたら美味そー」とか、プレートに記された斜体の学名を読み上げながら「へー、結構カッケーじゃん」とか、割りと食いつきの良いテンションとトーンでもって、場地の声かけに逐一返事していた。
     空元気めいたやり取りを重ねれば、次第に新鮮味は失われる。歩むほどに次々と展開される魚類の展示にもすっかり慣れ、初々しい感嘆の声はお互いの喉奥に鎮まっていった。見知らぬ学名の新奇な魚を前にして、明らかに沈黙が増える。瞳は魚を追っているけれど何も見ておらず、唇は動かせるけれど何事かについて語らない。数分経てば棒立ちだった両足を動かし、壁面に示された順路に諾々と従う。限られた短い鑑賞タイムの中途から、事務的な作業の繰り返し。
     そもそもここに来たのって、魚を鑑賞するのが目的じゃねえし。オレとしてはとにかくアジトの外に出て、どっかで適当に時間を潰せりゃそれで良かった。レイトショー、ネットカフェ、ファミレス、プラネタリウム。夜でも場地と行けそうな場所はたくさんある。たまたま水族館が口に上ったのは、ほんの偶然だ。行ったことのない場所への無意識下の関心が、気紛れで極に振れたのだろう。最終受付時間ギリギリでチケットを購入し、なんとか館内に滑り込んだ。それから空騒ぎの数十分を早送りし、親しいダチ同士とはとても思えぬ沈黙の現在に至る。
     二人して余所見し黙りこくっていても、オレはまるで平気だった。一見別方向を眺めている場地は、視覚を遠く遊ばせながらも持てる感覚を総動員し、隣のオレへ懸命に傾けていると知っているから。沈黙は沈黙でも、気遣いの部類に属すやさしい沈黙である。展示室を覆い尽くす限りなく黒に近いコバルトブルーからスタートし、水槽の背景に着色されたアセチレンブルーへと連なる幾重ものグラデーションが、場地のもたらす沈黙を端正に彩る。
     それに、少年院収容による二年の孤絶は気楽に弾む会話より、じっと側にいてくれる人間をオレに欲させた。いつまでも変わることない、損得抜きの友達。世界の全てが敵になり、かつてつるんだダチにことごとく見捨てられようとも、たった一人の親友が、場地が隣にいてくれたら良い。無言のうちにも微かな温度を含む言葉の応酬は、空っぽで上滑りの会話なんかに比べ遥かに上等だ。
     場地との関係において沈黙よりも恐ろしいのは、視線の交錯だった。正直、場地と目を合わせたくない。年少を上がったばかりの日陰者のオレには炎を想起させる鮮烈な瞳がなかなかきつく、偶然かち合いそうになる度に緩慢な速度で逸らしたり、わざと大袈裟に抱きついてみたりと、ありとあらゆる手段で誤魔化した。場地はオレの不審な挙動に多分気づいてっけど、特段指摘はして来ない。仲間ばかりか後輩からも慕われる度量の広さで知らんふりを決め込んでくれているうちは、拙い対策を続行するつもりだ。
     隣にいる男に視線を送らず、ポケットに忍ばせた携帯電話を取り出し時刻をチェックする。終業時間までしぶとく粘る予定だが、あと小一時間で閉館だ。逢い引きじみた場地との時間も、そろそろタイムリミット。館外で解散した後は、是非もなくあの家に帰んのか。嫌だな。だけど便宜的に家と名づけられた真っ白な檻以外、オレには帰る場所なんてねえもんな。この世の、どこにも。
     不意に蘇る馴染み深い絶望に、遠く離れていた意識を水槽の中に戻す。ようやっと潜在の海から浮上した思考を、たちまちに眼前の対象へと水没させた。聴こえぬはずの水音を立てる小魚達が、砂地に植わった海草の上を回遊している。銀の下地をした鱗は表面に別な彩りをうかべ、儚い命の輝きを光に溶かしては硝子の内外に撒き散らしていた。調整された照明の角度で鱗の銀は白に映り、オレの薄い網膜をかすかに掠める。
     白色をしているものは、全て死に近しいものに感じられる。オレの住んでるマンションの色に似てるから。暴力的な父親、無関心の母親がオレを最低限監視するべく附与した、一人部屋の四方も白い。白は、無機質。少年院の単調なグレーの反復だって、少しでもホワイトに寄せればもはや白の一種だ。有罪の少年達はコンクリートの壁を、日毎に己の罪状で汚していった。白は、孤独。マイキーに復讐すべく加入した芭流覇羅の特攻服も、何の因果か純白だ。敵の返り血で染まること前提のチームカラーに、オレは近々マイキーの血を映えさせる計画である。白は、虚無。機嫌を損ねた父親に強か殴られた後、腫れた目蓋の裏に投影されんのは血の赤でも闇の黒でもなく、絶対的な白だった。白は、オレの精神を殺す色。
     母親からの飼い殺し嫌さに芭流覇羅のアジトに昼夜入り浸っているオレの、無機質な四角に閉じ込められている状況の変わらなさ。マンションから少年院、少年院からゲーセンと、従来の四角から新たな四角へ移動してゆくばかりの堂々巡りは果てしがない。今晩だってアジトを抜け出した後の行き先が、この水族館。そんで都内某所の水族館から、自宅マンションに帰る道筋がはっきりついている。規模の大小こそ違えど、オレも結局は生け簀から水槽を転々とする魚だ。どこへ行けども拘束的な環境は不変であり、重い軛から解放されて自由を勝ち取る明るい未来は絶無だった。
     水生生物への感嘆を潜めた喉奥から、乾いた笑いが込み上げる。透明を隔てた向こうに泳ぐこいつらも硝子の四面に閉じ込められ、大海はおろか井戸にだって行けやしない。可哀想って思うのは傲慢だし、共感は安っぽい。代わりに嘲笑してやるよ。鰓呼吸を繰り返す魚も、地上でしか生きられぬ肺呼吸の人間を哄笑してるんだから、きっとおあいこだ。
     うっすらと濁る水を透かした遠目には、暗がりに乗じていちゃつくカップルが映っていた。甘えるようにして肩へしなだれかかる女に、男が満更でもない態度をとっている。仲良くお魚鑑賞に来たブラフも束の間、浅ましい下心でもって作り上げた二人だけの空間にすっかり夢中だ。水族館に来たんなら見ろよ、人間じゃなくて魚を。せめて金払った分はよ。オレはちゃんと、代金分は回収している。奢ってやった場地はどうか知らねえけど。
    「こーいうとこで『好き』とか言って、ついでにキスなんかしちゃうとさあ、女子は簡単に落ちるんだってよ」
     滑らかな鰭を翻しては銀色の煌めきをひけらかす魚の群れにもとっくに飽きてしまったオレは、展示物とは全く関係のない話題を提供する。水槽越しのカップルが発散するムードに当てられたのも、多少なりとも原因としてあった。したがって内容は、テレビかネットで仕入れた薄っぺらい恋愛の知識だ。
     好き、キス。たったそれだけのことで落ちるなんて、馬鹿みたいだと思う。その場の雰囲気に呑まれ、流されているだけ。こういう女はコクって付き合ってデートして、手近なラブホに直行っつー、なんとも面白味のないインスタントなコースを辿るのが目に見えている。こんな短絡極まりないワンパターンのルートを用意する男も、その軽薄さに見合う程度の男だ。軽いものと軽いものとは、ひっつきやすい分離れやすい。ここへデートに来た何組が、今後別れんだろうな。
     恋人同士、つまりは恋愛している二人。恋と愛を並列させた恋愛という語彙の実在についてはもちろん、それらをセットで語りがちな風潮が、オレには実に不可思議だった。オレの欲しがる彼女ってのは恋人じゃなくほとんどセフレに片足突っ込んだようなモンで、そこに愛は介在しない。
     恋が存在するってのは分かる。性欲の単純な言い換えだからな。ストレートに性欲っつったらいやに生々しいため、小綺麗なオブラートに包んでみた代物が恋だって説明には非常に納得する。男的には手っ取り早くセックスしてえけど女子は夢見がちで面倒臭えから、とりあえず恋ってことにして言葉巧みに言いくるめ、さっさとセックスに持ち込むってわけだ。世に流布する恋愛マニュアルを朗々と謳い上げる男の本意を女子は薄々勘づいており、しかしあえて指摘しないでおくのが恋人同士の正しいマナーである。実に単純明快な話だった。
     性欲を大前提として、恋は存在する。けど愛は存在しない。愛どころか愛する二人が婚姻関係を結ぶという世間一般により祝福されしセオリーを、オレは昔っから根本的に理解出来なかった。結婚した二人のセックスを愛の営み、生まれた子どもは愛の結晶って御託を並べる連中には、マジのマジに反吐が出る。飲み込みやすいよう大量の白砂糖でコーティングしてみたところで、クソはどこまでもクソだ。
     日本の離婚率の高さ、知ってるかよ。オレは知ってる。てか、離婚現場を目撃したことがある。近隣住民の寝静まった真夜中、トイレに立って自室に戻る廊下の半ば、細く伸びる蛍光灯の明かりに誘導されドアの隙間から垣間見た、親が離婚届に判を捺すシーンは鮮明だ。何を隠そうオレの両親は数年前に離婚しており(父親は幼いオレだけでなく、母さんにも暴力を振るっていた)、今は母さんと二人暮らし。
     たとえ将来を誓い合った男女が離婚を回避し得たとして、統計には計上されぬ不倫や浮気は掃いて捨てるほどあった。ダイヤモンドより堅い誠実を生涯に渡り保証すべき唇で、本気と遊びの狭間に揺蕩う愛を嘯く。遅かれ早かれ、燃え上がった情熱は必然醒める運命なのだ。
     それと、性懲りのない再婚。かつて育んだ関係を忘却しきった面構えで、新しく選んだ相手と契約を結び直す制度は滑稽極まりない。愛の永遠性を紙の上で打ち消す制度がまかり通ってんのは、感情の持続が公的に否定されているのと同義だ。罅の入った陶器の皿を処分し、傷一つない真っ白な皿へ買い替えるように。萎れてしまった花を棄て、より色鮮やかな生花を購い花瓶に活けるように。愛は取り替えの利く安っぽいものなんだと、リアルに実感した。
     人間の持ち得る全ての感情の最上位に置かれる愛が、完璧かつ絶対の真実ならば。際限なく退廃した惨めな有り様、衆目に晒したりしねえよな。離婚も再婚も、浮気も不倫も、オレが愛に絶望する理由を裏づけている。大した年数生きてもねえオレの実体験に基づいた主観と統計に蓄積された客観的データにより、愛の不在は確実に証明されていた。
     こんな話題、場地は一切興味ねえだろうから、ほとんど独り言のつもりだった。へえ、とか、ふーん、とか、短い相槌を打ってくれるだけで、オレとしては満足だ。この話題は、「男が女に言う『好き』は、意訳したら『セックスしてえ』だよな」にも変更可能な代物だ。ずっと黙ってんのもあれだし、たまには年相応にくだらねえ事柄も話したい。
     口先だけでぺらぺら喋りながら目線を斜向かいに転じ、別なカップルの女を観察する。暗がりでも魚の鰭より派手な光彩のスカートの引きずっていると了察されるその女は彼氏と控えめに手を繋ぎ、珍しい熱帯魚の美しさに逐次感心している。ボディラインに沿うよう裁たれた光沢のある裾は太腿にまつわりつき、壁や床へ陰影を長く延ばすしなやかな尾鰭になる。オレは女の腰のくびれまで目線を上げ、ついでに胸元の起伏にも注目した。お、あのカップルの女、もうちょい胸がデカけりゃオレの好みかもしれねえ。
    「お前は?」
     だからまさか、場地からのこんな返しは予想外で、吃驚するってか聞き間違いを疑うレベルだった。なんかこいつ、食いついてきたんだけど。うっかり視線がかち合う危険も忘れ、思わず右隣を振り向いた。
    「は?」
    「お前は落ちんの?」
     オレが、落ちる? 誰に? 思考が一瞬フリーズし、何を言われているのかさっぱりだ。問い返す代わりに二三度大きく瞬きすると、急激な視線の転移で拡がった視野が、場地のシルエットを余さず収める。瞬きくらいじゃぶれない輪郭をした場地の双眸は、真っ直ぐにオレを捉えていた。金刺繍の施された漆黒の特攻服は踏み絵の後に白い特攻服へと新調され、すっかり芭流覇羅の一員に仕立て上げられている。男らしく精悍な外見に、今となっては忌々しい東卍に在籍していた頃の面影はない。仮に連想させるとすれば、肩まで伸びる長く重たい黒髪だけだ。
     ぴったりと身体を包む特攻服の、あいにくの白さがライティングの照り返しで浮き彫りになる。人工の暗がりでは微光さえ発する清廉気取りの白は、オレの手で逆しまの闇に引きずり込まれた証左だった。光の三原色を重ね合わすと白になるが、絵具の三原色を混ぜ合わせると黒になる。オレは頭の片隅にある冷静な部分を沈着に稼働させ、あらゆる光を拒絶した果ての白色はくしょくに、多様な色彩を受け入れた末の黒色こくしょくを場地の上にダブらせた。
     その幻影に触発され、幼少期に母親から贈られた外国の絵本の挿絵が脳裏に浮かぶ。主人公の小魚がその外観の異端さゆえ、同種族から仲間外れにされていた物語は、友人関係を上手く築けぬオレの関心を強く惹いた。大人の言いつけを守り、文字通り“いい子”だった頃のオレが、両親の帰りを待ちながらページを捲っていた懐かしい絵本の一つである。
     僕が目になる。高らかに宣言した異色の魚は、墨のような己の黒さを活かす戦法を巧みに編み出す。そうして小魚の群れを率いて自分達の身体の倍以上ある巨大な敵に勝利し、仲間の信頼を掴み取る。馴れ合うばかりの同質では駄目だ。黒でなければ、異端でなければ勝てない戦いもある。
    「今ここで『好き』っつってキスしたら、お前はオレに落ちんのかって訊いてんだよ。なあ、落ちんの?」
     熱をたっぷり孕んだ場地の息が、オレの前髪を静かに揺らす。独自の生存戦略で空想世界に逃避していたのに、たちまち現実に引き戻されちまった。いつの間に近接したのか、オレの眼前すれすれまで寄ってるし。マジで今、どういうシチュエーション。
     眉間に刻まれた縦皺の数を数えつつ、とりあえず現状を簡単に整理する。オレからこいつを誘って水族館に来た。ほんの気晴らしにでもなりゃラッキーだと思って。そんで館内に入ると、夜の時間帯だからデート目的のカップルばっか屯しており、ダチ同士の来館者はオレ達だけ。おとなしく魚を鑑賞していたところ、施設特有の暗い照明を良いことに、大っぴらにいちゃついてるカップルが偶然目についた。彼らのやり取りに突如として悪乗りを起こしたオレは、冷やかしの会話を始めてみる。いかにも男子中学生っぽい、女を性的に眼差す低俗な話題を振った。そしたら次の瞬間には、水槽の前で場地に迫られている。は? やっぱおかしいな。
     点在するカップルの群れに誘発された良い感じのムードもオレ達の間には生じておらず、ただ脈絡なしに下世話な話を向けてみただけで、この有り様。逆に見方をほんのちょっと変えれば、デート中の相手に熱烈なモーションかけて今はその返事待ちってので、ごくありきたりな普通の出来事っぽく説明出来そうなのが、むしろヤバい。
     墨で書写したように力強い眉に挟まれた眉間から、つつと目線を下げる。周囲に悟られぬ強度の声音で語気を荒くして囁く場地は、至って真剣な表情だ。教えられたばかりの知識を本人相手に披露して、お前は何がしてえの。そんなこと、いちいち訊かなくたって決まってる。こいつはオレを落としたい、らしい。おそらくは、というか十中八九そういう意味で。
     こいつ、本気か? いつもの場地ならスルーするよな。普段ならさらっと流す話題を、ここぞとばかり懇切丁寧にキャッチしているのは極めて不自然だ。完全に対象外だった恋愛関連の事柄に突然、興味が湧くとは思えない。もしかして誰か好きな奴がいる、とか。誰にも言えない本命がいるから、意中の奴と本番を行う前に、オレ相手に予行練習するつもりなのだ。告白もキスもオレで済まし、男だからとノーカンにして本番の女に向かう。手際良く親友のオレを落とせりゃ、大本命も難なく落とせるって寸法である。あー、はいはい。なるほどね。
     年少と娑婆に分かたれ二年も隔絶している間、塀の中のオレ宛に手紙を綴っていたのと同時進行で、愚かにも恋にうつつを抜かす男に成り下がっていたなんて。オレは彼女を欲する自分を無自覚に棚上げし、親友の女絡みの経緯を疑ってかかる。場地の心を奪った相手がどこの馬の骨なのか、たまらなく知りたかった。学校の女子、姉の友人、まさか大人の女。今まで熱心に鑑賞してきた際どいグラビア雑誌のカラー写真が、脳いっぱいに乱舞した。
     でもこいつ、女どうこうってよりオレが落ちるか否かをやたら気にしてたよな、確か。疑問文のため上昇調のイントネーションで韻律が整えられる中、文末以外に抑揚をつけていたのは『お前』のワードだったはず。場地が覚えたてのテクニックを駆使してまで落としてえのがオレって、いや、まさかな。
     とりとめのない混乱する思考でも、たった一つだけ理解していた。ここで頷いたら、全てがおしまいになる。十代にして既に前科持ちのオレはとっくに終わりだけど、別の次元においてさえおしまいにはなりたくない。せめて唯一手元に残された友情は、ギリギリまで保つべきだろ。不意に新規の好奇心を宿した親友に、こんなところで落とされてはならないのだ。
     無比の友情を保持したい一心で、オレはごくりと唾を飲み込み声の通りを調節する。そうしてこのまま勢いづき唇寸前まで距離を詰めかねない場地に、婉曲した断りを入れた。場地のドアップのせいで狭まる視界の端では、補給される酸素の圧を受けたイソギンチャクが不規則に靡いている。
    「……分かんねえ。オレ、女子じゃねえから」
    「そうか」
     嫌悪でなく性別を論拠とした断固たる否定に、場地は容易く身を引く。思ったより、めちゃくちゃあっさりしてんな。なんか因縁つけてこられて、もうちょい揉めんのかと思ってた。場地が引き下がった際の空気の振動が被服を通してオレの皮膚に波及し、身体一つ空いたスペースがほんのりと冷たい。
     安定した沈黙を塗り潰すようにして、何とはなしに寂しい余韻が静閑な薄暗がりに漂う。問答前より、場地の身体が遠退いていた。傍目からすればオレ達の間隔は元の通り、適正なダチの距離感。親しい会話を応酬するのに程好い、手を繋ぐには少々遠すぎるセンチメートル。
     簡単なジェスチャーで移動の意思を示し場地が次の水槽に移るから、オレも慌てて後に続いた。今度は茶系統の魚類を飼育する分厚い硝子製の水槽の真ん前で、場地は右、オレは左に並ぶ。自然に出来上がった日頃の立ち位置を崩さず、展示された水槽を揃って凝視するオレ達。暗黙の了解か、急拵えで取り繕われる何事もありませんでした感が、反って事後の異様さを際立たせた。
     こっちの水槽前に移ってからもずっと、オレ達はひたすら魚を眺めているふりに徹している。概して面白味に欠けたコーナーなせいってのも、理由の一端であるにはある。海草の陰に憩う魚は、いくら目を凝らせど黙して砂に伏したまま。生物であることが疑わしいほどろくな動きがなくてつまらなく、ざらついた質感も色合いもとにかく地味で、対象物の美を要求する鑑賞には適さぬゾーンだ。均された砂地には錆びた土管や苔蒸した石が転がり、よっぽどのマニアじゃなきゃ寄りつかない絵面が展開されている。
     水槽の端っこ、機械の隙間より断続的に立ち上る泡を見つめていると、さっき髪に吹きかけられた熱っぽい吐息の触感が呼び起こされた。緊迫した面持ちで切実に問いかけてきた、場地の抑え難い息遣い。金と黒に染め分けたオレの髪を揺らしてやまぬ、季節外れの南風。
     呼気であれほど熱ければ、唇の熱さはいかばかりかとしばし思いを馳せる。オレよか体温の高い印象のある場地は、きっと粘膜もこよなく熱い。経験不足ゆえキスの技巧は拙いにしろ、唇自体の温度を口移しに注ぎ、相手の心身を優に溶かし尽くすのは想像に容易かった。
     あの温度がオレの唇に載れば、一体どんな感触がするだろう。ひたり押し当てられた唇は、充溢した己の熱気をオレの凍える唇にそっと分け与える。宥めるようにも苛むようにも捉えられる一方的な触れ合いは互いの温度の融和で温み、焦れったさを加速させるばかりだ。唇を半ば開いても、決定的なものは与えられない。あくまでも、友情の閾値に留め得る限界の口づけ。いくら欲深いオレであれ、場地とのキスは表面同士の接触で充分だ。持ち主の心に似てややかさついた柔らかさは、やがてオレの足場を緩やかに崩す。
     飛躍した想像が終点に行き着いたところで、オレはようやく我に返った。もしかしてオレはあのまま強引にでも、キス、されたかったのか? 観念して落ちると認めたオレは恋愛のまやかしで鼓膜をじっくり震わされ、かりそめの口づけを甘受する。ほの暗い照明の降り注ぐ、水族館の一隅で。
     好きと言われてキスされたかったかもしれない自分に、ひどく動揺した。ありえねえだろ。場地だぞ。出院して早数か月も経っているのに、人肌恋しいにもほどがある。性欲が溜まり過ぎて下半身が極端な衝動を起こさせるなら、基本的に女しか反応しねえオレがまさかのバグってことで、いよいよダチの資格が剥奪されちまう。
     思わず数歩後退りしたオレは背後を通行していたカップルの神聖な領域を侵し、固く結ばれた男と女の手を引き離して正規の軌道を曲げさせた。あからさまな障害物のオレを注意深く避けた後、彼らの手は丁寧に繋ぎ直され、さっさと次の部屋へと移ってしまった。カップルの後ろ姿が場地の背中より小さくなり、やがて通路の向こう側に消失する。
     気づけばオレと場地だけが、水を満たした硝子匣の並列する青白い空間に取り残されていた。場地は近くで、オレは遠くから水槽を正視しては、各々の物思いに耽る。南洋の海を透明の内部で模して取り囲む、ひっそりと静まり返る数多の水槽が天井より射すほのかな蛍光を撥ね返し、オレ達の虚像を鏡の如く硝子の平板へと映じていた。





     乾燥と冷気を柔順に従える秋風が、握り潰したチケットの半券のような枯れ葉を無情に散らしている。オレ達は無数のそれらを爪先で蹴り飛ばし、あるいは靴裏で踏みしだいては遅い帰路に着いていた。十月も下旬になれば、やたらと落ち葉が増える。近場に咲いているらしい金木犀の香りが、そこかしこに溜まる枯れ葉の堆積を払うかのようにして夜気に滲出した。
     あれから沈黙を破って流れ出す微妙な空気感にいたたまれず、滞在可能時間を僅かに残して水族館を後にした。生きてきてダチとキスしかけるってこと、まずもって起きるもんじゃねえから、さすがに結構狼狽した。それから口づけを受けたくなった、己の情動の移り変わりにも。
     このまま別れて真っ直ぐ家に帰んのもな。オレは帰ったって、どうせ今晩も自室で眠れぬ夜を過ごすだけ。ベッドに横たわり睡魔を待ち続ける無為徒労の数時間は気詰まりで、年少での惨めな日々を彷彿とさせる。ならば染みったれた天井を日の出までぶっ続けで見上げるより、気まずいながらも親友との夜遊びに時間を費やす方がよほど有意義だ。
     じゃあ、と正当な帰宅ルートを故意に外し、思いきって遠回りする道を選んだ。オレが帰ると明瞭に表明しない限り場地は側に着いて来てくれるという、信頼に基づいた大胆な行動だった。帰る素振りを見せた瞬間、場地を親友の枠組みから一旦離し、オレの持つ芭流覇羅No.3の権限使っちまうっつー手もあるにはある。加入したてで下っ端の場地に私的な命令下すオレとか、なんかウケんな。
     それに、帰宅する前にこいつに訊きたいこともある。冷え冷えする外気に当たってリセットされた気分が、場地への質問を後押しする。水族館のこじんまりと建っていた地域を抜け、煉瓦調のブロックに舗装された川沿いの通りに来てようやく、オレはいつも通りの口を開いた。
    「つーか、オレ落として場地はどうしたかったんだよ」
     落とした後の行為なんて言うまでもない。性欲に準じる感情を男からぶつけられれば、同性発信の恋慕はノーサンキューなオレとしたらそりゃ気色悪ぃし気持ち悪ぃけど、場地なら別に良いかと考えていた。年少で女扱いしようとしてきた連中とは違い、オレが女子じゃないと理解した上で、断られればきっぱり退くくらいの理性が残存しているってのも何気にポイントが高い。水族館を退去したものの数分でオレの思考はあらかた整頓され、本調子を取り戻している。
     水族館での出来事を引き継いだオレの質問に、場地は数秒間言葉を失う。先ほどまで寄せられていた峻険な眉間は開き、頭頂部には多数の疑問符が見え隠れする。強気に迫っていた際の険相とは打って変わった間の抜けた様子に、さすがのオレも拍子抜けした。マジでなんも考えてなかったって顔だ。あの一連の流れを上の空でしていたら、それはそれで問題ではあるが。
     しばしぽかんとしていた場地は無言のモードを切り替え、純粋な沈黙でなく頭の中に散らばる思考を掬い取る黙考に及ぶ。オレの顔をガン見し、脳漿に浮遊した直観の欠片をつぶさに拾い上げた。そうして馬鹿の考え休むに似たり、と外野に揶揄されそうな短絡思考で弾き出した回答が、これ。
    「話聞いたら、一虎にしてみてえなって思った」
     してみたかったから、やっただけ。落とした後のことなんて、てんで考えていやしない。いかにも直情な場地らしい答え、ではあるんだけどさあ。思いついたことをすぐさま行動に移す積極性は称賛に値するが、その特性を親友相手に発揮するのはいかがなものか。気が短ぇのは初対面の時に横っ面張られたのと、気に食わねえ大人の車を燃やしたのとで了解してる。にしても短慮すぎ。オレより少し背が高くなり黒髪が肩を越しても、内面は全然成長してねえな、こいつ。
     オレ相手に躊躇なく口説きにかかる場地の思考回路は、ちょっと異様だ。性欲や恋愛のノイズが混在することなく、よくあんだけの気迫を発してオレを追い詰められたものである。破天荒なこいつの考えることは、昔馴染みのオレでも全容は不明だった。ただ、オレを優先したいってのは分かる。東卍と決別する踏み絵をしてくれた心理と一緒で、オレの気持ちをこの場所に、場地の側に引き留めたい心情の現れ。
     教えられたばかりの口説き文句をなぞり親友を落としたがる真意を、オレは勝手に好意由来と判断して解釈する。場地の回りくどい優しさを手ずからほどいては、オレにとって都合の良い内容にする。場地はどんな手段を用いても、オレを繋ぎ止めたいと思ってくれた。オレは、場地に求められている。
     なんだかんだでこいつはオレの特別であり、オレはこいつの特別なのだ。事実を反芻する度に、作り笑いに慣れた唇の端が自然な角度で吊り上がってゆく。路地裏で再会した時にも感づいてたけど、やっぱそうなんじゃん。場地みたいな八重歯を表さねえオレの口端は、きゅ、と鋭角を保って固着する。
     無性に気持ちの浮き立つ横顔は、どうせ夜闇に紛れてバレやしない。街灯の下でさえなきゃ明確には立ち現れぬ、翳った微笑だ。上機嫌のオレは場地と同じ速度で進んでいた歩みをやや速めて追い越し、特攻服の背面に配された首のない天使の肖像を月影の最中に羽ばたかす。
     目前の川向こうには、きらびやかな夜景が開けている。ロマンチックな景色を一望出来るようにか、歩道の環境は隈なく整備され、水銀灯が川面と地面を平等に照らしていた。水族館よりずっと身近で、恋人同士の定番スポットと呼ぶに相応しい。弾む足取りのオレは転落防止に張り巡らされた、暗色をした鉄柵の傍に立ち止まる。
    「じゃあ、してみろよ」
     親友のよしみで特別に、もう一度チャンスをくれてやる。ってのは自分を納得させる建前で、本音は当然別にあった。オレを落とそうと躍起になる、場地の必死な顔。オレはそれを、とても見てみたい。
    「オレがお前に落ちるかどうか、試させてやるよ」
     やっぱり場地は何度でも、オレの誘いに乗る。バイク強盗よりかは低いハードルの勧誘に、ほいほい乗ってしまう。リトライを促すオレの両肩を掴んで正面へと向き直らせる場地の目には、水族館で迫ってきた時と同じ光が灯っていた。この光、この炎はたった今、オレだけのために燃やされている。遠景の一部としての水面が揺らぎ、中に名の知られぬ魚の棲むことを密やかに告げていた。
    「一虎、好きだ」
     茶褐色の瞳の奥の硝子体で、青白い燐光が爆ぜる。この台詞の裏側、言葉の本心の在処を、オレはあえて探らない。いちいち文脈の本質を質すことなく、どっちにだって取れる不安定な状態にしておく。架空の状況設定を直接現実に取り入れないだけで、同じ時間軸の中に複数の可能性が同時多発的に包摂される仕組みだった。
     台詞であることを一旦忘れて額面通り受けとれば、場地はオレを好きなんだってさ。場地が、オレを好き。胸中で復唱する傍ら、新たに生じかけた感情を抑制する。場地からのこれが性欲じゃねえなら恋でなく、世間の常識に従えばもう一方の意味になる。ないない、それだけは断じてない。場地がオレにくれる特別は友情の分類に振り分けられており、しかも広義の意味を包括しているに過ぎないってこと、受け取り手のオレが一番理解している。だったら台詞でもいいじゃん。なんなら台詞のがいいじゃん。
     頬を過ってゆらり落ちる場地の影に、息を詰めて身構えた。そろそろ、来る。睫毛をやや伏せ、これから重なる乾いた唇をぼやけた視界で凝視していた。口づけのイメージトレーニングはとうに済んでいる。後は実際に触れ合わせ、直前と直後で変質するかもしれぬ空気感ごと体験するばかりだ。
     粛然と顎を引き、きつく肩を強張らせても、粘膜の感触はなかなか訪れない。なんだよ、日和ってんのか。土壇場でキスしねえとか、オレに恥かかせんなよ。男が二言すんな。互いにファーストキスだろうが関係ねえし、容赦もしねえ。早速抗議しようと薄く瞼を開けた先、至近距離で呼吸音を響かせる場地の唇がゆっくりと動く。
    「お前は?」
    「は?」
     この期に及んでやたらともったいぶる場地のせいで、オレは再び一文字での返答をすることになる。このやり取りは、完全なるデジャブだった。水族館でといいこの遊歩道でといい、なかなかまとまった長文を話せぬ夜だ。
    「返事なしでキスすんのって、アレだろ。ヒゴーイってやつで、あんま良くねえんだろ」
     伏し目がちにしていた瞳を、驚きに見開く。こんな人気のない場所まで来といて、オレに目ぇ瞑らせといて、交わされるキスが非合意ってか。こういう時でも律儀に段取りを踏むのがこいつらしいっちゃらしいんだけど、水差すような真似すんのはガチで白ける。空気読めよ。喧嘩の立ち回りでバチバチに働く超人的な感性は、この場じゃただの飾りだった。
     学校はおろか、少女漫画での勉強さえろくろく身につかぬ場地に、知識だけは豊富なオレが一歩進んだ技を伝授してやる。ざっくり伝えた基本メソッドの要点も教授してやるのが、問題児の生徒に対する親切ってものだ。そっから更に発展させた応用編、女子に行う手法でオレを落とす試みに挑んでんだから、実践に臨む際の心構えはちゃんとしといてほしい。
    「女子には多少強引な方が良いって、」
    「お前は女子じゃねえから」
     両目の見開きでは足りず、色素の薄い瞳孔まで動員しては大いに見張る。マジ、こいつのこういうとこ。オレの言動をきっちり覚えていて、最適な反論の素材にする。しかも未経験の癖して有識者に歯向かいやがって、ムカつく。毅然と言い返した場地の双眼は揺るぎなく、反射的に口を噤んだオレの面を無言で見据えていた。
     深々と溜め息をつき、落ち葉の散り敷かれた地面に視線を投げる。そうだ、恋愛ゲームはギブアンドテイクなんだった。好きには好きで返すのが一般のルールであり、等価交換の規律が定まっている。好きのフレーズでゆくゆくはディープになるキスを引き出せるのは、その掟の恩恵によるものだ。
     リアルの恋愛ならいざ知らず、戯れの恋愛ごっこにおける真っ当な手続きは正直言ってダルい。ノリでちゃちゃっと行うキスで、こいつ何マジになってんだろ。オレの示した最短手順通りなら、軽めのキスなんかとうに終わってる。
     さっさとこの馬鹿らしいやり取りを終わらせるべく、整然とした敷石の目地を視線でなぞりながら適当に捲し立てた。結婚式の誓いの言葉は公然の真っ赤な嘘だし、これだって単なる儀礼的なやつだ。オレの心は、あらゆる肯定的な語句の裏面に寄り添わない。風の吹き具合で乱雑な散らばり方をした枯れ葉のモザイクが、煉瓦の模様を斑にする。
    「あー、はいはい。好きだよ場地」
    「オレの目ぇ見て言えよ」
     今晩の場地は、なぜかすこぶる面倒臭い。手当たり次第ダチにダル絡みして面倒臭くなんのは、オレの専売特許じゃなかったっけ。オレの許可なく、何勝手に新しい商売始めてんだよ。場地に押し売りするための面倒臭さが当の場地によって買い占められ、一挙に押しつけられて初めて、オレは逆の立場に置かれた者がなべて覚える煩わしさを実感した。
     ちら、と真ん前の場地に視線を寄越す。佇立する場地はキスする直前の体勢で停止したたまま、微動だにしていない。オレがちゃんと返事するまで、何もしねえつもりだ。マジかよ。こういう些末な言動にも、有言実行の気質はしっかり行き届いている。変なところで真面目ぶりやがって。
     今度は軽い溜め息をつき、姿勢を正してようやっと向き直る。唇を内側に巻いては戻す動作を繰り返しつつ、渋々顔を上げた。白をメインに据えた特攻服と共に下に着込んでいる場地の黒シャツが川風に煽られ、元壱番隊隊長の最後の悪あがき、芭流覇羅への反抗の旗印の如くはためく。
     リアルを模した告白への返事は次の展開へ進めるための合図だから、まことに心外ながらも義務として吐いてやる。軽佻な台詞よりもっと不愉快なのは、瞳の直視だ。演技であるにも拘わらず、告白感が倍増しになる。胸中で沸き立つ奇妙な焦燥が合意の上でそういうプレイをしてるみてえな気にさせてきて、でも場地の眼差しが発する本気度を遠目で確認すれば、やっぱり単なるお遊びとは違うのだった。
     場地の目を心理的な要因で見れぬオレにも、この難関を突破する方法があった。逸らしていても目を合わせているように見えるとされる、裏技的な見方をすりゃあ良い。整った顔面に堂々と投げた視線を、しっかりした鼻梁の辺りに集めた。対を成す力強い瞳の下、僅かに焦点を外すことですぐにでも背後の夜景に彷徨わせたがる視線を虚ろにし、己の認識も半ば誤魔化す。これでもう、二度と文句は言われまい。
     一個の影としてオレの肌にかかる場地の漆黒が街灯の光に程好く散って、白銀に見えなくもない。光の当たり加減で、髪色も特攻服の白とお揃いだ。あれほど黒一色だった場地が、今じゃすっかり表面上の潔白を気取っている。幼馴染みに恨みを募らせる輩の集まる、敵対するチームの色。腹心の部下を犠牲に獲得した、オレと同じ色。自分の心を殺してまで、オレに合わせてくれた色。
    「オレも好き。……これで満足かよ」
     負け惜しみの捨て台詞が秋夜に響ききる前に、場地が動いた。肩から首筋へと速やかに移行した手が、オレの後頭部に差し込まれる。やや傷む金メッシュの髪を指先でさらさら混ぜ、そのまま優しく項を支えた。オレばかりかタトゥーの虎さえ吸い込んでしまえそうな茶褐色の瞳の陰りに、オレの目蓋は一向に下りない。
     場地の唇が、オレの唇に触れる。たったそれだけなのに、とてつもなく長い時間に感じられた。永遠は、瞬間と瞬間のあわいに生まれる。瞬間、だからこそ永遠を内包している。左耳につけているオレのピアスの鈴の揺れは止まり、辺りの風景は完全に静止していた。遠方に連なる建築物の群れが暖色の色彩を放ち、オレンジやイエローをした光のシャボンを空中にかがよわせる。
     体感での長い永い時の経過につれ、内側から透明な水が零れ出した。汲めども尽きぬその水は底の抜けたオレの空っぽの器をたちまち満たし、しきりに外へと溢れる。地上で静かに溺れゆく感覚にも似て、オレは縋がりつくように場地の特攻服の裾を摘まんだ。だがあくまでも、オレの透視する心象風景だ。キスの合間にでも呼吸が出来る証拠に、オレの口元には場地の生温い息がかかっている。
     一方、粘膜の熱は物理的で直截な意味合いをオレに与える。オレは水の中で火傷しちまう不可思議な感覚を、キスで疑似体験した。場地の唇は想像以上に熱い。唇の重なりを端緒に発火し、たちどころに激しく燃え広がる。触れた箇所からただならぬ拡大を見せ、末端の細胞まで延焼させる苛烈なエネルギーがあった。
     唇の離れた後の身体器官の反応は、最中より忙しない。特に両目のフル稼働は意想外だ。断続的なフィルムを早回ししたみたく、モノクロの画面が左右で交互に現れる。口づけの余波は心臓より、網膜に強烈な作用を及ぼすのだろうか。佇む場地の纏う特攻服の白、長ったらしい髪の黒、川風に冷やされた肌の白、鎖骨を露すシャツの黒。交代で視界に干渉してくるひたすらモノクロームの光景に、実際にオレの目も白黒してんのかもしれねえと錯覚した。
     視界の氾濫を知ってか知らずか、キス間際とは打って変わった気軽な動作で、場地が口づけ直後のオレの顔を覗き込む。触覚と視覚を侵されても鼻で呼吸することにだけは注力してたから、酸素不足で目元が潤みはしていない。それでも急速に弛緩する身体をなんとか持ちこたえさせるオレに、場地はすかさず声をかける。
    「落ちたか?」
    「落ちてねえ」
     空疎の極み、完全に無意味な問答だ。はなから落ちねえ自信があるから試させてやったオレが、こんくらいのキスでどうにかなるなんてあり得ねえ。変に身体が緊張したが、落ちてはいない。ただ、頭の芯が熱に浮かされぼうっとする。無理矢理好きと言わされた、あれが微妙に効いてしまった。一刻も早くかけられた暗示を解くべく、オレは非常に粗雑な仕草で虎の刻まれた首筋を寒中に晒す。
     ぶっきらぼうなオレの態度をよそに、場地が再び身を近寄せてくる。保持される体内の熱に気を取られ、狭まる距離を拒絶するタイミングはどこにもなかった。目と鼻の先には、場地。視認した途端、唇と唇の間で、ちゅっと軽快な音が鳴る。無意識にした自分の舌打ちかと思えばリップ音だ。こいつ、またしやがった。唇を軽く啄んだ後、ちっとも悪びれずにオレを注視する。だから、落ちてねえっつってんだろ。ふざけんな。
     一定の光量を保つ街灯が、依然としてオレ達を取り巻く濃やかな夜にアーク光を放射している。オレは瞳を霞ませる白光のシャワーを掻い潜り、反発の意思を持って眼光を鋭く尖らせる。今度は全くモノクロにならず、見た通りにフルカラーの景色をまるごと捕捉する眼で場地を強く睨みつけた。
    「なんで二回もすんだよ」
    「二回目に落ちる可能性もあるだろ」
    「んなモンねえから」
     オレが認めねえのがよほど不服なのか、三回目のキスを仕掛けようとする場地の素振りを俊敏に察知した。ストップストップ。うっかりお見舞いされちまう前にと腕を動かし、むやみに突っ切ろうとする身体を強く押し止める。勢いを削いだ隙に空いてる方の手で蓋をして、ようやく安心だ。右の手のひらで受け止めた唇は、キスを遮ってもなお熱い。
     ようやく諦めてくれた場地を押し退けるとうっすら濡れた唇の隙間から赤い舌が覗いており、ディープキスの未遂を感受した。一度目は実験、二度目は勢いにしたって、三度目は洒落にならない。三度目のキスには戯れ以外の理由が不可欠であり、こっから先はダチ以上の関係性、未知の領域に突入する。ノーマルなキスの次のバードキス、そしてその次と、少しずつ深度を増してゆくこれは、もう。
    「で、どうだ? 落ちたかよ?」
     オレより少しだけ背の高い場地が、謎の自信に満ちた様子で再度訊ねる。オレが自分に落ちていると信じきっていて、確認のために重ねて問うていた。そもそも落ちた判定って、有効なのは本人の自白だけだろ。当のオレが落ちてねえっつってんだから、落ちてねえんだよ馬鹿。根拠のない自信を振りかざす場地のしつこさに辟易し、たっぷりと呆れを含んだトーンで返す。
    「だから、落ちてねえって」
    「その割りには耳赤ぇな」
     指摘されたオレが耳元に手をやり確認すんのも、きっと策略のうちだったんだろう。見え透いた罠にオレはまんまと引っ掛かり、指先で耳殻の微熱をなぞった。人差し指が伝えるこれは、確かに皮膚が赤くなっている温度だ。駆け引きを横に置いても、軽めのキス程度で体温を上げちまう自分が単純に悔しい。顔にはギリ出てねえはずなので、意趣返しに思いっきり不貞腐れた表情をしてやる。
    「寒ぃからに決まってんだろ」
     日夜冷え込んでいく気温に原因の所在をなすりつけるのは、割りと無茶な言い訳だった。十月下旬は、薄手の上着を羽織っていれば何とかやり過ごせる季節の境目。抗争での動きやすさを重視した特攻服の素材がやわな訳もなく、風を通し難いので着用してる間は寒さが大幅に緩和されている。うっすらと朱を刷いているはずの耳殻は、むしろ柵を越えて吹く川風の涼感を求めていた。
     右隣から揶揄い混じりの笑い声が上がると同時に、するりと手を握られる。場地の左手が握り込んだオレの手は、先ほど口づけを受けた方の手だ。唇よりは些か温度の低い手が、頑ななオレの手を器用に掬い取っては指を絡める。執拗に追い討ちをかけているとの邪推が入り込む余地は、意想外にも皆無だった。いわゆる恋人繋ぎに対して為す術もないオレの頬に、身体の隅々に散った半端な熱が集まりかける。
    「……ヒゴーイ」
     耳朶に余熱を宿すオレが、ちゃっかり揚げ足を取って呟く。相思相愛設定のロールプレイングゲームをけしかけたオレでなく、場地が主導権を握ってるのが面白くなかった。とんでもねえ方向から盤面を引っくり返し、一気に形勢逆転するのが場地のスタイルだ。散々ごねたって、嫌味をぶつけたって、場地をオレの思うままにしたい、のに。
    「オレが寒くねえように、手ぇ繋いでくんねえ?」
     可愛げのさらさらないオレの反応に、場地の声音がより暖気を帯びて優しくなった。あくまでも自分が繋ぎたいだけであって、仕方なしに折れた親友を付き合わせている。いかにもガキっぽい意地を張りたがるオレのために、場地はそんなお約束の構図を作ってくれる。いつもいつも、希わくはこれからも。
    「いーよ」
     やけに素直なオレの受諾に、ただでさえ深い指の交差が更に深くなった。かじかむ指先が凍て緩み、末梢まで血液が循環する。いずれ出来るであろう彼女との練習かもしれない可能性は、端から粉々に打ち砕かれていた。オレはこいつ直々にご指名を受けている。一虎としたいって、ちゃんと名前を挙げて言ってくれた。女子じゃなくても大丈夫だって確認も済んでいる。オレはオレ自身のまま受容され、真っ直ぐ求められたのだ。
     有象無象の輩を蹴散らし天辺に居座れるたまらない優越感が、決して高いとは言い難いオレの自己肯定感を高める。その一方で、多少の疑問が心の底に残留していた。川辺に敷かれた歩道に沿い、オレの手を引き力強く歩き出す場地が示す感情の質は測りかねる。オレは他の奴らと異なる特別にしても、何らかのジャンルには区分されているに相違ない。いたく興味をそそる好意の振り分けを、帰る道々検分してみることにした。
     左右に踏み出す足の一歩ごとに、心中で一問一答する。初手で同性との火遊びは、ハードル高ぇし違ぇな。恋はイコールセックスだから却下。愛とか考えただけで虫酸が走って無理。てか存在しねえし。恋とも愛ともつかぬ新たに見出だされたこの関係性は、行き過ぎた友情ってことでいいか。はたまた、罪を犯した者同士の傷の舐め合い。哀れを通り越し、いっそ笑えてくる。
     オレは場地に落ちないし、場地もオレに落ちてくれない。恋とか愛なんて華美と虚飾の言葉、十字架を背負い込むオレらには相応しくなかった。可哀想なオレ達が落ちる先は、地獄だけでいい。愛はねえから友愛ってのも多分ねえけど、場地といるとつい信じてみたくなる。あやふやなキスよりも抱擁の確かさで、オレと一緒に底無しの地獄へ真っ逆さまに落ちてくれる。
     点在する街灯の光を受けて揺れる水面が、波間に長く光跡を引く。黒い水が円い光を波頭に載せて海へと運ぶ様は、まるで流星が夜空を過るような情景だ。流れ星に三度願いをかけると叶うって迷信、オレはあんまり好きじゃない。まじないとか占いとかの類いは、はっきり言って嫌いだった。大体インチキを受け付けねえ性質なんだよな、オレは。先日久しぶりに再会した場地の髪が長ぇのはオレに対する願掛けのつもりなのかと訝り、だけど似合ってっからスルーしてやった。
     灰色に塗り込められた塀の中で過ごした二年もの歳月で、オレは青春をはじめとした美しいものを失った。輝かしくも暗憺たる夏の眩さは、未だに胸の内奥を無限に射る。持たざるオレからあらゆるものを奪い尽くした諸悪の根源たるマイキーを月末の抗争に乗じて殺すのが、今のオレの悲願だ。絶対絶対、絶っ対ぇに、あいつだけは許さない。
     血まみれの願望は、星に希望を託すロマンチックにはほど遠い。これはオレが自らの手で晴らす雪辱だから、有名なジンクスを借りずにやり遂げる。オレが願い事の代わりに呟くのは、生身の人間の名前だった。初めて会った時からずっと、地上の太陽を乞うように、ひたむきに求め続けてきた男の名前。イミテーションの星を視認してから既に二回、心中で名前を呟いている。次で三回目。何億光年もの距離を天駆ける星に、積み上げた願いが届く回数。これで気紛れを起こしたオレのささやかな願いは、あらたかな力できっと叶う。
    「場地」
     名を呼ばれて振り返る場地へ、秋の大気のあわいを縫って囁きを送る。す、き。音の間に一定の切れ目があれば、単語としての意味を成さない。好意の呪文を早口で唱え、返事も待たず唇を押しつけた。こうなりゃ合意もクソもねえ。淡く好意を囁いてみた裏面では、どれだけ封じ込めても消えぬ、落ちろ落ちろと繰り返す醜い叫びがある。本当は場地に、オレに落ちてほしい。共に地獄へ落ちるだけじゃ足りねえなんて、オレは悲しいほど貪欲だ。
     罪業の決着は地獄だと分かるけど、世間が恋だの愛だのと呼ぶものの終末は、いったいどこに落ちるんだろう。柔らかく花の敷き詰められた楽園、みてえな可憐なイメージだろうか。ならオレ達は、擂り鉢状の螺旋になってる階層の、更にずっと深いところに際の際まで落ちてゆく。でも、ああ、もうすっかり底の底まで落ちきってっから、これ以上落ちたりしねえってのもあんのかもな。こいつも、オレも。
     頭上からオレ達を見下ろす流線型を描いた街灯のフォルムは立ち込める川霧に包まれ、たちまちのうちに月の似姿へ変貌する。今宵の月は極限まで細く、偽物の月のふくよかさがすこぶる羨まれた。星のない、あっても不夜城の放つネオンの目映さにたちまち消滅する夜空には、道端の街灯さえ月よりも明るい。水銀灯の放つ微視的な粒子が月光の砕片と大気中で交錯し、停滞する上空に瀰漫していた。
     オレから口づけると、場地からのキスとは真反対にひどく冷たい触感がする。押し当てた唇で確かめる冷ややかさは硝子の質感を彷彿とさせ、オレと場地との遥かな隔たりを思わせた。少年院の面会室に設けられた分厚い硝子の障壁のように、しょっちゅう肩を組むほどだった親しい間柄のオレ達を引き裂き突き放す、こよなく無情な冷感だ。
     冷たい。けど、まだやめたくない。僅かに角度のついた横目で無抵抗の場地をそっと見やれば、切れ長の眼に見返され、心臓の鼓動が一際強く打つ。お前、こっち見てんなよ。キスされてる側なんだぞ。分かってんのか。あんだけ慎重に避けていたのに、とうとう本格的に目線を合わせてしまった。こういう時のマナーが著しく欠如している場地のせいで。
     こっち向きの場地の目を見ても、明確な「合ってる」感が湧かなきゃ「合ってない」に勘定していた。判定を下すのは、視線の張ったピアノ線が二人分の直線を成した時。場地がオレを見ていると認識しつつ、鋭敏な動体視力の猛追を掻い潜る変則的な視線の動きで回避する術をここ数日で自然と会得しており、今晩は殊更フル活用している。さっきの場地からのキスみたく鼻筋をぼんやり見たり、鼻筋より上方に位置する眉間を見たりして、目元を巧く俯瞰しては周辺視野で視覚情報を補っていた。
     だがこれは、確実に「合っている」。光を感受する双方の知覚器官が方向視と形態視で機能し、苛烈に引き合っている。ピアノ線は一直線に張り、些かの継ぎ目も乱れもない。すぐに外すと怪しまれるし、瞳を閉じれば負けになる。良くも悪くもキスの最中だ。正しい目のやり場は、場地の瞳に限定されていた。茶褐色の虹彩の奥は煌々と燃え立ち、炎と星の差異を明瞭に知らしめる。
     場地の瞳のレンズは夜の暗さをものともせず、四方八方からあらん限りの光を集めては、戸惑うオレの両目に向かって直線的に放射する。やっぱ目ぇ閉じときゃ良かった、今更だけど。白目も綺麗な晴眼にたじろぎ、場地の手の甲に若干爪を立ててしまった。オレはちょっとした過失で、地上の太陽の直射日光に焼かれる。
     視線の交差程度のよくある事象でパニクってんのは、真夜中の遊歩道上でオレ一人だけだった。一部始終を見つめている場地は平静そのものであり、なおかつ一瞬で凝った眦を緩め鋭い眼光も和げた融解ぶりが、オレの率先した強引なキスが合意のものだとやんわり教える。なんなら、オレの過去に犯したあらゆる行為も赦してくれる穏やかな表情だと、顔の上半分だけで容易く判別された。合意の表明ついでに、オレに落ちたって言ってくんねえかな。現金なオレは都合良く、そんなことを考えてみたりもする。まあ、それは追々訊くとしよう。
     裏側に金属の光沢を貼りつける偽りの月明かりの下、初めて直接目を見交わせられた。そこには喚起された幻視のみが可能にしてくれる、憐れむべき錯誤があった。対面に架空で張られた硝子の皮膜に、互いの視線は暈けて歪む。眼差しに籠めたたぎる感情は硬質な皮膜を破れず、明後日の方角に流出して行ったきり。相手を正視しているつもりでいながら、実際は自分自身の願望を相手の上に投影している。せっかく晴れて出院しても、オレと場地はこんなにも硝子越しだ。
     柔和に眼を眇る場地の無骨な右手が、オレの頬を撫でる。首の傾きで流れ落ちた黒髪は灯光ばかりか月の光も遮り、濃密な夜の帳を間近に現出する。滝を成す丈長の髪もまた底の抜けたオレの器に際限なく注ぐけれど、黒は水ほどに透明にはなりきれない。黒は透明に憧れて、だけど透明とはかけ離れた混濁の位相にいる。
    「んっ……」
     不意打ちのキスをお見舞いしてやりたいがために身体を左方向へ捻り、口づけて以降は極力おとなしくしてたから、恋人繋ぎを強いられた右手はやや捩れていた。若干の圧が加わり、オレの利き手に微妙な負荷をかける。手首に集まる筋の束が軋むも、局所的な痛みはオレの一方的な行為を何ら妨げない。つーか、それどころではなかった。一分でも一秒でも長く口づけていたいと、全身で懇願している。秋の夜長に比して、浅い夢のただ中だ。ひと度醒めれば金輪際、今晩の出来事をトレースしたやり取りは、オレと場地の不健全かつ健全な関係性上起こりようがなかった。
     なのに肝心の場地の五指は人差し指から徐々に緩み、やがて小指が思わせ振りにオレの手の甲へ引っ掛かった後、あっさり外れた。それを契機に唇も離れ、指先で頬を撫でていた右手もたちまち引っ込められた。都会に澱む川の水に冷やされた秋風が、ひとしお手肌に染みる。言葉と態度で場地を煽りまくって必死の形相を拝もうとの目論見が大いに外れ、まさかのオレが場地に必死こいてりゃ世話ねえな。
     絡めていた指をさらりとほどかれる寂しさ、密着した身体が引き離される哀しみは、瞬く間に償われた。場地がオレの腰に手を回し、性急に抱き寄せてきたのだ。深々と組み合わさっていたオレの手は、場地の筋肉質な腕へとナチュラルに導かれる。オレがやや仰け反る姿勢となり、加えて場地が屈んだことで、一際濃い影が生じた。
     場地を構成するパーツの集合──手入れの行き届いた長髪、しきりに紅炎を発する瞳、シャープなラインの顎、連続して攻撃を繰り出す腕、頼り甲斐のある広やかな背中、愛機に颯爽と跨がる脚──が全体に置き換わり、さながら水底に映る魚影だ。地表に伸びる影がゆらり揺れてはオレの矮小な影を取り込んで、更なる奥行きを見せる。その場その場で陽になり影になり、数多のサーチライトの追跡からオレを匿ってくれる。
    「落ちた?」
     好意の仄めかしよりもなお控えめに、影のベールに覆われた顔を凝視しながら唇をささめかせる。対外には平静を装っていても、内部に渦巻く不断のモノローグはかなりひどい。落ちろ落ちろ落ちろ、落ちろ。お前のその不器用なもどかしい優しさで、足元を掬われ落ちてしまえ。女からは持て囃されるが男相手にはほぼ無効の顔面を直向け、「落ちた」以外は用なしの返答を待つ。
     逸る期待を押し隠し、硝子の素、石英や曹達の細かに散る幻の空気を静かに呼吸した。痛覚を失した肺に玻璃の欠片が入り込み、ささくれたオレの精神を焦らす。脇の道路にテールライトも過らぬ人通りのなさは、この時ばかりは逆効果だ。
     ややあって場地の手が持ち上がり、頬を軽く撫ぜたと思いきや、今度はオレの顎に手のひらを添え、下唇を丁寧になぞった。ゆるゆると動く親指は端で止まり、逆光の場地の口許と思しき箇所が、掠れた低音に合わせて開閉する気配がする。
    「……落ちてる、今」
     すぐさま唇で唇を塞ぎ、場地はオレの愚問を分かりやすい最良の形で諭す。所有者でさえ堪え難く感じていた唇の冷たさは、凍傷によって帯びる熱として速やかに変換されてゆく。熱くて、冷たくて、熱い。街灯の角度を考慮すると、どうしたって視線を合わせられないのが心底惜しかった。
     たった今のオレは場地の影と、場地を取り巻く夜景の重なりをかろうじて視認している。認識する風景は視界の範囲内と外で完全に断絶しており、オレの足元が切り立った危うい崖であれ、一切が不可知の闇だ。たった五分前に誕生したばかりの、常に真新しく崩壊している、オレと場地の二人ぼっちで取り残された世界。
     場地の口にした台詞を、鈴の音だけは頑なに遮断する外耳でリフレインする。想像以上に想像したことを叶えてくれる場地だ。終末のプロローグは、存外鼓膜に心地良い。既に確定した未来の破滅だって、案外悪くねえなと思わせる。ダチがいなけりゃ、天国なんてただのふわふわした花畑でクソつまんねえ。阿鼻叫喚を極める劇烈な地獄でも、別に良いよな。こいつとなら。
     透徹した明るい悲観に浸りつつ、合わさった唇を半ば開く。こいつのオレにしたがったキスを反故にせず、段階を踏んでこのまま最後まで行ってやれ。お前がオレにすることは、行為を施されたオレがいかなる否定の文句を口走ろうと、優しさ由来なら合意、全部合意。だから、もういちいち確認したりすんなよ。すっかりほだされたオレは二度と離れぬよう、唐突な誘惑に応え始めた場地の腕へと想いの限りしがみついた。


    (了)

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭😭😭😭😭😭💖😭👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    norico_nnn

    PAST熊池SS。書いたのはいいけれど、アップする機会を見失っていたもの。誤字脱字衍字を発見した場合、マシュマロ(https://marshmallow-qa.com/norico_nnn)で教えていただけると幸いです。[23.12.31]
    熊なんか恐くない 同僚の池照と付き合い始めて半年経つが、未だキス止まりだ。糊のきいたシャツの裾に手を差し入れ、指を滑らせてもいない。ABCでいうところのAの段階で、長らく足踏みしている。今時中学生でももう少し進んでいそうなものだが、深く口づけた際俺の舌の動きに必死で応えようとする池照の愛らしさに、いつだって軽い懸念は霧消した。
     今晩、池照を俺の家に泊めて映画鑑賞することになっている。学生時代から友人の家に泊まった経験のない池照は、訪問前から今日のいわゆるお泊まりデートを楽しみにしてくれていた。これ幸いと、何も知らない恋人に無理矢理手を出すつもりはない。俺達は俺達の速度で、ゆっくりと進めていけば良いのだ。
    「お邪魔します」と礼儀正しく挨拶する池照を迎え入れ、リビングに通す。酒を飲めぬ池照のために烏龍茶を注いだグラスを並べ、慣れた手つきでDVDをセットする。体大同期の兎原や先輩の裏道さんなら、退屈を極めるB級映画を観せたって平気だ。しかし、恋人同士の親密な時間を過ごすにはそぐわない。なるべく途中で眠られたくないしな。ここは無難に、ファミリー向けの話題作を選んでおいた。
    2815

    related works