苦い味いつからそこにいたのだろう。片付けが一段落し、ふと振り返ったニコロは、食堂の片隅に人影を見つけ、それが誰だか分かって危うく悲鳴を上げるところだった。
「ニコロ、だったな」
マーレ兵捕虜は大勢いるが、名前と顔を覚えられてしまった者はごく僅かだろう。ほとほと運が悪い。パラディ島の調査のため、派兵された。ニコロの乗った船は一番乗りで着いたはいいがあっさり捕らえられてしまった。ひ弱に見えたせいかニコロは一人連れ出され、後続のマーレ軍に人質として晒された。
「コーヒーってやつを淹れてもらいてぇんだが」
リヴァイ兵士長は隅のテーブルの端っこに掛けていた。イェレナの提案でパラディの兵士達にマーレ料理を振る舞うことになった。その一日目を終えたばかりで、食堂は屋外にテントを設えてテーブルと椅子を並べた仮設のものだ。彼はいなかったが、昼間には調査兵団の面々が来た。食後はコーヒーか紅茶か選ばせる方式を取った。彼らとってコーヒーは未知の飲み物だったようだ。その話を聞いて来たというところか。
日はとっぷりと暮れている。この島特有の、発光する石を用いた照明器具が食堂を照らしているが、彼の座るあたりは半ば影になっている。
「もう店じまいか?」
「た、ただいま用意いたします」
ニコロは震え上がりながらも答え、準備に取りかかった。
コーヒー豆を取り出しながら、彼の様子を窺う。死神めいて見える。第一印象は最悪だった。巨人を削ぐためのやたら長いブレードを突きつけられ、マーレの艦船の前に立たされた。
いや、事前の情報の段階で恐れていた。伝説のアッカーマン。目にも留まらぬ速さで巨人を駆逐するという。ニコロは巨人の恐ろしさも目の当たりにしてきたから余計にだ。
「コーヒーは熱帯でしか採れません。だからこの島にはないんですね」
湯を沸かしつつ、ミルで豆を挽く。沈黙に耐えかね、冷静を装うために喋る。
「紅茶は葉っぱですが、コーヒーは実です。焙煎して、こうして細かく砕き、湯をかけて抽出します。蒸気で抽出する方法もありますが、その器具は持って来てないので」
彼は沈黙したままだ。お喋りが気に障ったかと、恐ろしくなる。
「すみません、余計な話を」
「いや、興味深い。コーヒーってのはマーレじゃ誰でも普段から飲めるものなのか? それとも兵士とかは特別待遇だから飲めるのか?」
「普通に誰でも飲めます。値段はピンキリですが。兵士が特別待遇ということはないです」
「日常的に飲むもんだから、他の食料と一緒に、戦争に行くにも携えてくってわけだ」
自分達は調査の為に来たのであって戦いを仕掛けにきたわけではない。そう答えようか迷ったが、言い訳じみているし、一般的な話のようにも思われたので止めておく。
「食料に比べれば優先度は落ちますが、だいたい積み込むように思います」
「紅茶もか? 昼間にここに来た奴らの話じゃ、コーヒーか紅茶か選ぶように言われたってことだが」
「コーヒー、紅茶、両方積みます。コーヒー好きばかりじゃないですからね」
「コーヒー好きもいるってことか」
「そうです。俺とかはその時の気分でコーヒーか紅茶か決めますが、常にコーヒーというのが一定数。もちろん紅茶派もいます」
湯が沸き、豆も挽き終わった。ドリッパーは小型のものを用いた。食堂なので基本的には大人数用のドリッパーを使うが、少しだけ淹れるには小型の方がいい。ドリッパーにフィルターをセットし、挽いた豆を入れる。湯を注げば、コーヒーの香りが立つ。彼が僅かに顔を上げた。香りが届いたようだ。
「変わったにおいだな」
「独特かもしれませんね」
彼からすれば、初めて嗅ぐにおいなのだろう。
少し蒸らしてから、残りの湯を注ぐ。
「どうぞ」
ニコロはコーヒーを注いだカップを彼の前に差しだした。
「黒ぇな」
彼はじっとカップを見下ろしている。
「そうですね」
言われてみれば、黒い。こんな真っ黒な液体を口にするのは少々度胸のいることかもしれない。もとより急かすつもりはないが、動向を見守る。
恐れるあまり忘れがちだが、彼はかなり小柄であり、貧相な体つきといっていいくらいだ。ニコロのほうが背が高く、体格も良い。この島の食糧事情は今でも良いとはいえないが、以前は相当厳しかったようだ。成長期の栄養状態が悪く、発育不良を起こしたのだろうか。
俺は何を、同情めいたことを考えているんだ? ニコロは我に返った。彼が敵であることを忘れてはならない。一時的に捕虜になっているだけだ。
「苦ぇな」
彼はようやくコーヒーを口にした。
「砂糖とミルクを取って来ます!」
食事時にはテーブルに出してあった砂糖とミルクのポットを片付けたのを忘れていた。このような恐ろしい相手を前にとんだ失敗をしでかしたものだ。
「いや、このままでいい」
ニコロは調理場の方へ行こうとしていた足を止めた。
「それとも、このままでは飲まねぇものなのか? 皆、砂糖とミルクを入れるのか?」
「人それぞれ、好みによります。砂糖だけ、あるいはミルクだけという人もいますし、両方いれる人もいます。ブラックで、つまり砂糖もミルクも入れずに飲む人もいます」
「そうか」
彼は再びコーヒーを口に運ぶ。
「苦ぇな」
彼は繰り返した。文句を言っているわけでなく、感想を述べているだけらしい。いかにも苦そうに顔を歪めている。目つきも険しいというほかなく、恐ろしさが増した。こうも穏やかならぬ様子でコーヒーを飲む人をニコロは初めて見た。
彼は時間をかけ、コーヒーを飲み干した。そして席を立ち、ひとこと「ありがとう」と言って立ち去った。
何だったんだ……。
緊張が解け、脱力する。落ち着きを取り戻したところで、ポットに残っていたコーヒーを飲む。すっかり冷めていた。しかしそれほど苦いだろうか? 苦味の強くない、マイルドなタイプのはずだ。飲み慣れてしまっているので、初めてこれを飲む者の感覚が分からないだけか?
彼はその後も時々食堂を訪れ、コーヒーを頼んだ。毎回居合わせたわけではないが、ニコロが見た時はいつも苦そうな顔つきで飲んでいた。いつ見ても、好んで飲んでいる様子は窺えなかった。まるで苦行のように、嫌いなものを敢えて口にしているようだった。
戦死した兵士達の眠る墓地を、ニコロは訪れていた。まだ薄暗い。昨日は人の多い時間帯に来てしまい、マーレ人がなぜここにと罵られた。ジャンやコニー、ミカサから話を聞くことができたし、思わぬ出逢いもあったので良かったが、人目につかないに越したことはない。
真新しい墓石の前に立つ。亡きひとを想う。
いったいどうして? なぜこんなことに? 割り切れない思いが溢れかえる。飛行船に乗り込んできた少女に撃ち殺されただと? ただの少女ではなく訓練を受けていたと聞いた。誰であれ、この島にいることは確かだ。兵団施設のどこかに拘束されているのだろう。もし見つけ出せたなら、この手で、仇を。
辺りが明るくなる。朝日が差し始めていた。西の方へ目を遣れば、山の稜線が黄金色に染まっている。
朝靄の向こうに人影があるのに気づく。丈の短いマントに、翼の紋章。調査兵団のリヴァイ兵士長だ。
ひとこと挨拶でもするべきか迷った。親しいわけではないが、三年前、この島に来たばかりの頃のような恐れは消えた。やや距離があるが、声を張り上げれば届くだろう。だが話しかけがたい背中だった。
ニコロが躊躇っているうちに、彼は帰ってしまった。これで良かったのだと思う。
彼のいた場所に、ニコロは近づいた。真新しくはない、だがそう古くもない墓石だ。エルヴィン・スミス。調査兵団第十三代団長。没年は四年前。シガンシナにて。
四年前。戦士隊と調査兵団が戦った年だ。五年に及ぶ潜伏から戻った鎧と超大型と共に、車力と獣が始祖を奪うべく赴いた。結果、始祖獲得はならず、超大型を奪われた。女型も結局戻らなかった。マーレの敗北といえるが、調査兵団側も多くの死者が出たはずだ。鎧と超大型、女型による壁破壊まで遡れば、被害は甚大だった。
いったいどれほどの仲間を彼は、彼らは喪ったのだろう。さっきまでここにいた人の背中を、昨日会った人々の顔を、思い浮かべる。
くずおれるように、膝をつく。墓碑銘をただじっと見る。恐らく、前代の調査兵団団長だ。戦士長ジーク・イェーガーの率いる部隊との戦いで命を落とした。たった四人の部隊だが、四体の巨人だ。一夜にして都市を陥落させられる戦力を有す。獣の巨人ジークは無垢の巨人を操ることができる。投石の破壊力も凄まじい。
不意に、イェレナとかわした会話を思い出した。ニコロの勤めるレストランに食事しに来ていた。ニコロは挨拶がてら、彼女に食後のコーヒーを出しにいった。「いい香り!」と顔を綻ばせ、コーヒーをひとくち飲んだ。それから、感慨深い顔つきになった。
「コーヒーを飲むと、ジークを思い出します」
イェレナはジーク・イェーガーに心酔している。
「コーヒーを飲みながら、彼と話をしました。彼はコーヒーが大好きなんだとか。戦地に赴く時にも携帯用のドリッパーだとかを持っていくみたいですよ」
「そりゃよっぽどだ」
イェレナが何か思い出したような顔になる。
「そういえば、アルミンに訊かれたことがありました。私達がこの島に来て間もない頃です。ニコロがマーレ料理を作り、皆に食べて貰ったことがありましたよね。あの後のことです。食後に出てきたコーヒーという飲み物について聞かせて貰えないかと」
「この島にはコーヒーはなかったんだもんな」
「そう。彼らはあの時、初めてコーヒーを飲んだ。だけど、アルミンが私に質問をしたのは新奇なるものへの興味からではなかった。ジーク達の遺留物のことが頭にあったと思われるふしがありました。推測ですが、ジーク達が野営をした場所に、コーヒーを飲んだカップか何かが残されていたんじゃないでしょうか。アルミンはコーヒーの残り香を覚えていたみたいですね」
あの時は「へぇ」と聞き流してしまったが、コーヒーを飲みに来たリヴァイ兵士長と今になって繋がった。恐らくアルミンは上官であるリヴァイに報告したことだろう。獣の巨人の遺留物が何であったかわかった。コーヒーを飲んだ痕跡であったと。彼の、彼らの仲間を大勢死に追いやった憎き敵は海の向こうにいる。それがコーヒーで繋がった。
苦かったのは、コーヒーではない。彼自身の思いだ。
どんなにか、その手で屠りたかったことだろう。どんなにか、仇を討ちたかったことだろう。そうした思いさえ、抱くことは許されなかった。ジーク・イェーガーが自分はエルディア人の復権を真に願う者であると主張し、パラディ島勢との協力体制を求めて来ていたからだ。兵団もジークの意向に沿う形で動いてきた。どんなにか悔しかったのではなかろうか。もどかしかったのではなかろうか。何と、ままならないのだろう。この世の中は。
この墓石を前に、彼は何を思ったのだろう。ジーク・イェーガーは調査兵団と共に飛行船で引き上げてきて、今はこの島にいるはずだ。腰の刃を引き抜き、いつでも切り刻むことができる距離に。もちろん軍の方針がそれを許すまいが。
墓地を後にしたニコロは職場であるレストランに出勤した。仕込みに取りかかる前に、コーヒーを淹れた。飲み慣れたはずのコーヒーが、今日はひどく苦かった。