善ナイルは左腕に巻かれた黒い布を見る。ジークの脊髄液入りワインを飲んだ印だ。ジークの「叫び」により巨人化する。知らされる前のことだが、一瞬全身が痺れた。どこかで「叫び」があったということだ。ただ距離が離れていたため、シガンシナにいるナイル達にはその力は及ばなかった。ではどこでジークは叫んだのか。勾留地に決まっている。具体的な場所は知らないが、リヴァイと三十人の兵士が監視している。では、リヴァイと三十人の兵士が巨人化してしまったということか? まさか、あのリヴァイに限って——。ナイルは信じまいとする。
ジークについて、リヴァイと話したことがあった。三年ほど前のことになる。調査兵団に鹵獲されたマーレの艦船の乗組員の一部が反マーレ派義勇兵を名乗り、エルディア人の解放を目的としてパラディ島との提携を求めてきた。首領は獣の巨人ジーク・イェーガー。ジークをパラディ島に受け入れ、腹違いの弟エレン・イェーガーに会わせろという。ジークには秘策があり、そのためには王家の血を引く巨人と始祖を有する巨人が揃わねばならないというのだ。調査兵団はジークの要求を呑む方向性で話を進めたがっているように見えた。
ナイルは折を見てリヴァイに尋ねた。
「奴らの要求を呑むのか?」
「納得できねぇようだったな。会議でも」
「ああ。だが今は憲兵としてでなく、個人的に質問している。正直、受け入れがたいんでな」
「なぜ俺に? ハンジに訊きゃいいだろ」
確かにそうだ。なぜ俺はわざわざリヴァイに訊こうとしたのだろう。ナイルは考えた。
「俺は獣の巨人を見たことがない。その本体であるジークもな。お前は獣と直に戦った。その攻撃で犠牲になった仲間達の姿も目の当たりにした」
本質からずれている気がするが、一応の説明にはなっているはずだ。
「ああ」
声が暗い。思い出したくない記憶なのかもしれない。だが今はそこに踏み込むしかなかった。
「リヴァイ、お前はジークを受け入れられるのか?」
リヴァイは物騒な顔つきになる。
「秘策とやらを確かめねぇことにはな」
確かめた結果次第で殺すことも考えているような口ぶりだ。
「確かめるために、一旦は受け入れようということか」
「受け入れるというか、品定めだな。秘策ってのが何なのか。あのクソ野郎の本当の目的は何なのか」
リヴァイはジークや義勇兵の話を信用しているわけではない。ナイルはそう確信する。
「まるっきりのデタラメってことはなさそうだろ? エレンの話の感じからして」
「エレンは始祖を有するが、その力を発動できたのは、王家の血を引くダイナ・フリッツの巨人と接触した時のみということだったな。ダイナの息子であるジークとの接触により再び始祖の力を使えるだろうと」
ナイルはエレンのことも未だ信用しきれていない。憲兵団は当初エレンを抹殺する考えだったが、ザックレーの裁量により調査兵団に委ねることになった。確かにそれなりの働きをみせてくれた。しかし、最終奪還作戦では上官に刃向かいエルヴィンでなくアルミンを助けるよう強硬に主張したという。そのような規律に従わない性質は兵士として問題ではないか。始祖の力の発動についてもこれまでずっと隠していた。リヴァイはエレンのことは信用しているのだろう。この点については調査兵団と温度差があるかもしれない。
「始祖ってのは不戦の契りとやらに縛られているらしいじゃねぇか。だがそれを無効化して全ての力を使えるようになる術があると」
「ジークしか知らない情報があるのは間違いなさそうだな」
「ああ。だから確かめねぇわけにいかねぇ。だが正直、会った途端になぶり殺しにしねぇ自信があるのかと言われるとな。あの獣の野郎、生かしちゃおけねぇという気持ちしかねぇ。どうやって殺すかなぁ。一撃で仕留めねぇことには巨人化しちまうからな。巨人になる隙を与えねぇで殺すには、と脳内でシミュレーションを繰り返しているよ」
「おまえらしくて安心したぞ」
ナイルは思わず顔を綻ばしてしまう。
「ああ。だが、堪えねぇとな」
穏やかならぬ表情だ。今まさに殺意を抑え込んでいるかのようだ。
「エルヴィンは、人類は滅びていないと確かめたがっていた。訓練兵の頃から」
「ああ。それで調査兵団を志した」
唐突に話が変わった。ナイルはやや声をひそめる。慎重に話すべき話題だった。エルヴィンは訓練兵時代には無邪気に夢を口にしていた。しかし調査兵団に入ってからは語らなくなったらしい。ただリヴァイには明かしていた。
「そういう夢を叶えるために調査兵団に入った。だけど壁外ってのはそういう心持ちじゃいられねぇとこだったんだろう。人類を救うという崇高な目的を胸に抱いていなければやっていけねぇようなところだった。ばたばた死んでいくからな。個人的な目的のために、ってわけにはいかなかったんだろう。俺なんかはエルヴィンは人類のために戦っているんだとばかり思い込んでいた。他の奴らも似たようなもんだろう」
「俺もそうかもしれん。訓練兵時代に聞いてはいたが、まだ同じ夢を胸に抱いていると知った時には驚いたからな」
「後から考えればの話だが、あいつのその夢はイェーガー家の地下室で一応は叶ったんだよな。グリシャ・イェーガーの手記と写真により人類は滅びていないと確かめることができた」
「だがエルヴィンは地下室に行くことはできなかった」
「あの日、シガンシナで、エルヴィンは獣の巨人を倒すため夢を諦めた。俺が諦めさせたのかもしれない。だがあいつの心は始めから決していたように思う。ともかくあいつは、先に逝った奴ら、人類を救うために心臓を捧げてきた仲間達の信頼に応えることにしたんだ。獣に向かって玉砕覚悟の突撃をするにあたり、ここで戦って死ぬことに意味が見いだせねぇというようなことを言い出した兵士がいた。もっともな話だ。逃亡した挙げ句に死んでも、戦って死んでも、死ぬという点では同じだからな。そいつだけじゃねぇ。皆、怖じ気づいていただろう。エルヴィンは新兵どもに向かって檄を飛ばした。人生に意味はないのか。生まれてきたことに意味はなかったのか。いいや、生者が意味を持たせるのだと。我々はここで死に、生者に意味を託すのだと」
エルヴィンの夢のくだり以外は、報告書にもあった。新兵の中の生き残りにエルヴィンの言葉を詳細に覚えている者がいたようだ。それだけ鮮烈であったのだろう。
「俺は、託されたんだよ」
彼は血を吐くかのように言った。ナイルはその覚悟のほどを知る。
「あれが本心だったかどうかわからねぇ。だがあいつの取った行動は、人類の未来を切り拓くために命を賭すものだった。だから俺は無下にはできねぇんだよ。獣の野郎をなぶり殺しにしてやりてぇ。だがこの気持ちを抑えてでも、秘策ってやつを確かめねぇわけにはいかねぇんだ。秘策が本当に人類を救うもんだという可能性を捨て切れねぇから」
リヴァイの悲痛な思いがまざまざと伝わってきた。
「おしゃべりが過ぎたな」
「いや。聞けてよかった」
なぜハンジでなくリヴァイに訊いたのか、腑に落ちた。獣の巨人とエルヴィンの因縁を考慮せずにいられないからだ。ハンジはエルヴィンが若き日に語った夢を知らない。
「エルヴィンの夢とかの話は」
「ああ。口外しない」
生き残った調査兵それぞれの胸に残るエルヴィンの姿を守るためだ。それがエルヴィンの見せたかった姿に違いないのだから、要らぬ話をしてイメージを崩してはならない。
あれからリヴァイは殺意を堪え続け今に至るのだろう。秘策に賭け続けた。
しかし、見事に裏切られたというわけか。ナイルはそもそもジークを信じていなかったが、卑劣な人間性に嫌悪が沸く。
獣の巨人がついにシガンシナに現れる。単独で、無垢の巨人を従えてはいない。リヴァイはどうなったのか。三十人の兵士は? 敢えて考えないようにする。
あとどれだけの時間が残されているのか。あとどれだけ、ナイル・ドークでいられるのか。家族には手紙を書いた。生活は遺族年金で保障されるはずだ。もう会えないのがただ残念だ。
『希望か、絶望か。選ぶのは誰だ?』
昔、エルヴィンに煽られたことがある。クーデターの前だった。
もう自分で選ぶこともできなくなるらしいぞ。ひとたびジークが叫べば己の意思とは関係なく巨人となり、奴の手下に成り下がって同朋を襲うようになる。悲劇だ。
できることは多くない。だが全くないわけでもない。ナイル・ドークとして生きられる間は全力を尽くす。
ナイルはマーレから来た少年を傍らに置いた。この子には希望があると信じたい。せめて守ろう。できることなら仲間のもとへ送り届けよう。そう決めた。