ヴー、ヴー、ヴー。
机の上に載せていたスマホが忙しなく震える。その音に雨彦さんと二人揃って視線を向けたけれど、僕はすぐに目の前の人の唇を貪ることに戻った。そんな雑音が耳に入らないくらい夢中にさせたかったけれど、僕の技量はまだ足りなかったらしい。雨彦さんはキスの続きより震える携帯を気にしている。
「それ、ずっと鳴ってるなら電話だろう。出なくていいのかい?」
「いいんじゃないー? こんな時間なら、寝てたことにすればさ」
「火急の用事かもしれないぜ。俺は逃げやしないから確認だけでもしておきな」
「……」
雨彦さんの言うことはもっともだ。だからこそ、冷静になりきれていない自分との温度差を感じて苛立ってしまう。理不尽なのは分かっているけれど。
無言のまま膝で這って、未だ鳴り続ける無粋なスマホを覗き込む。液晶画面の表示は──。
「…兄さん?」
『お、想楽〜。やっと出たなぁ、もう寝てた〜?』
「…もしかして、酔っ払ってるー?」
『おー。案件がいっこ片付いたからさ〜、祝勝会ってやつ』
通話ボタンを押した途端、呂律の回らない大声が響いた。後ろの雨彦さんにも聞こえてしまっているのがどうにもいたたまれない。聞こえないところで出ればよかった。
『もう風呂入ったか? 俺も帰ってすぐ入りたいから追い炊きのスイッチ入れといてほしいんだけど』
「え、今どの辺り?」
『〇〇駅…あ、電車来た。じゃ頼んだぞ〜』
プツンと通話が切れた。兄さんの告げた駅から、今電車に乗ったならこのマンションまでは約20分といったところ。そんなに猶予はない。
「それじゃあ、俺はそろそろおいとましようか」
背後で人が立ち上がる気配に慌てて振り返る。すでに背中を向けていた雨彦さんを「待って」と呼びとめた。
「電話出ておいてよかったな。はち合わせたら流石に気まずい」
「……帰るのー?」
「本当は挨拶のひとつでもした方がいいんだろうが、今回は大目に見てくれ。いつかきちんとな」
ひらり、とひとつ手を振って雨彦さんはそのまま出ていこうとする。──途端、生じた気持ちのままに僕は駆け出した。雨彦さんの横をくぐり抜けて玄関へ先回りする。目的の物を手に取ると行く手を阻むように立ち塞がった。
「雨彦さんー。…お願い、聞いてくれる?」
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「想楽〜ただいま〜」
玄関の扉が開くと同時にアルコールで上擦った声が飛び込んできた。「おかえりー兄さん」と廊下で出迎えてやれば赤ら顔がへにゃりと笑う。
「おー、悪かったな〜寝てたのに起こしちゃって」
「ほんとだよー。僕明日も学校あるんだからねー」
「ごめんって。ありがとな」
「はいはいー。お風呂は沸いてるけど、そんな酔っ払ってて大丈夫ー?」
「大丈夫大丈夫、気をつけます〜」
随分と飲んだのか、いつもよりふわふわしている兄さんが風呂場へ向かったのを見届けると、僕は足音を潜めて自室へ向かった。畳敷きの和室に敷かれた布団を乗り越えて、静かに押し入れを開ける。
「よう。兄さんには気付かれなかったみたいだな」
「……雨彦さん」
長い足を窮屈そうに折りたたんで、雨彦さんは押し入れの中に居た。居て欲しいと、僕が望んだ。
兄さんが帰ってくる前に玄関から持ち去った雨彦さんの靴を押しつけて、布団を出した分だけ空いたスペースに隠れていてと頼み込んだ。そんな滅茶苦茶なお願いをされてもこの人は怒りも呆れもせずに、いつもの読めない笑みを浮かべる。
「それで? 俺は一晩押し入れで過ごせばいいのかい?」
「……」
それはとても惹かれる提案だった。まだ帰らないでほしい、その一心で強引に引き留めたけれど。
このまま狭い押し入れの中で、隠れて飼うように雨彦さんを閉じ込める。まるで、雨彦さんがすっかり僕のものになったみたいに。そう考えて、どくどくと胸が高鳴ったのは確かだ。
だけど。
「……ううん。出ていっていいよ」
なんだか違うなって、そう思った。
繋ぎ止めておけない幻みたいな、僕のものになんてならない雨彦さんがいい。押し入れの襖を開け放ち、縮こまる雨彦さんの手を引いた。
「ごめんなさい。狭いところに押し込めちゃってー」
「いいや。案外居心地は良かったぜ」
「もー、またそんなこと言ってー」
もっと拒んでくれないと手放しがたくなってしまうじゃないか。押し入れからのそりと這い出たところでそっと繋いでいた手を離した。手の中に感じていた雨彦さんの温度が霧散する。寂しいなんて思うのは図々しすぎるかな。
今度こそ玄関まで見送りに出た。まだ兄さんはお風呂に居るから、帰るなら今のうちだ。
「我儘きいてくれてありがとう。気をつけて帰ってねー」
「ああ。それじゃあ…」
雨彦さんが立ち去ろうとしたタイミングで、突然少し篭った歌声が聞こえてきた。思わず後ろを向いた先、声の出処はお風呂場。兄さんがお風呂で歌っている……うろ覚えの Legacy of Spirit を。よりによって雨彦さんがいる時に。すごく恥ずかしい。
「北村」
「え、」
そんな時に声をかけられたから油断していた。振り向いた途端に雨彦さんが屈んできて、僕の額にほんの触れるだけのキスを落とす。目を閉じる隙すらなかった。
「…またな。兄さんにもよろしく」
それだけ言って、ほとんど音もなく雨彦さんは玄関扉の向こう側へと消えていった。
おでこが熱い、気がする。あのキスで、雨彦さんの熱だけ僕に残していくような術をかけていったんじゃないかって、そんなわけないと思いながらも考えてしまうほど。名残を惜しんでいるのは僕だけじゃないと、少し自惚れてもいいのだろうか。
ぼんやりと立ちつくす僕を置き去りに、兄さんの熱唱はいつしか鼻歌へと変わっていった。