***「バデーニさんっ……!」
懐かしい名前だった。
かつて、途方もない古の日々に、私はそう呼ばれていた。
しかしそれは、とうに捨てたはずの名前だった。
もしも今、この世界で、その名前を呼ぶことができるとしたら。
それはたぶん、彼しかいない。
(……オクジーくん、なのか?)
心の中でなぞった彼の名前が、ひどく懐かしい。
今は二十一世紀で、此処はヒマラヤ山脈に立つ高地天文台。こんなところに、彼が生きているはずがない。
けれど、彼以外にはあり得なかった。
かつての私の名を呼んだ。それだけで、どんな不都合も、不合理も、非現実も、全てを否定して、彼が彼であることを証明していた。
「……それは、誰だ? 私の名前は■■■。悪いが人違いだろう」
しかし彼の知るバデーニという人間は、もういない。
――許せ、オクジー君。
**************
19XX年
新たな国際天文観測プロジェクト「Project X」が発足。
アジアと欧州の研究機関が連携し、ヒマラヤ山脈に新たに建造される高地天文台を拠点に、変光星の長期的な光度変化とその背後に潜む宇宙物理現象の解明を目指す。
まだ企画段階にあった本プロジェクトに対し、ある日、研究機関の代表メールアドレス宛に一通の匿名電子メールが届いた。
内容は、既存の観測データを再解析したうえで提示された、極めて独創的な変光星の分類理論と、その挙動に関する新たな数理モデルだった。
添付されていたのは、現行の学術体系とは一線を画す構成で書かれた一連の論文草稿と、いくつかの観測データ──すべて相当に古い観測記録によるもの──、そしてそれらを裏付ける精密な予測結果。記された数値の正確性は驚くほど高く、解析に当たった研究者たちは、その理論の完成度に信じ難さすら覚えた。
署名はなかったが、最後にはこう記されていた。
《この観測プロジェクトに、私の叡智のすべてを捧げる用意がある》
即ち、当プロジェクトへの参加を希望する旨であった。
研究者たちはこの匿名のメールに当然困惑し、疑念を抱いた。内容の精緻さと論文の質の高さは認めざるを得なかったが、送り主の正体は不明。著名な学者であれば、匿名での投稿などありえないはずだ。しかし、名もなき学者がこれほど完成度の高い研究を成し遂げることも考えにくい。どちらにせよ本当に存在する人物であれば、並外れた頭脳と才覚の持ち主に違いなく、プロジェクトにとっても有益な人材となる可能性は高かった。
会って話を聞くべきだ。メールは匿名であっても、これほどの論文を書けるのは、きっと名の知れた学者に違いない。
いや、あまりにも不自然だ。研究者として本気でプロジェクトへの参加を望んでいるのであれば、自らの名前も学位も明かさないなど到底あり得ない。怪しすぎる。
白熱する議論の中、プロジェクトの代表を務める老齢の学者が、静かに口を開いた。
「疑うことは、知るための第一歩である」
合理主義哲学の祖、デカルトの言葉だった。
知の探究に身を捧げる者にとって、「疑い」とは拒絶ではなく、真理の扉を開く一歩であるべきだと彼は言った。
《一度会って話がしたい》
匿名の差出人にそう返事をして一週間後。欧州某国に所在する研究機関に、その男は現れた。
男は、自らを■■■と名乗った。
男は長身で、見事な金髪を肩下までゆるやかに垂らしていた。切り揃えられた前髪の下からは、氷のように澄んだアイスブルーの双眸が覗いている。シミひとつない頬は白磁のようで、その容貌から察するに、男はまだ相当な若さにあるように見えた。
実際に、男は年齢を二十五歳だと言った。
ラテン語を含む十カ国語以上を自在に操り、その語り口には思考の緻密さが滲み出て、まるで知性の化身であるかのような響きをもっていた。
しかし聞くところによれば、彼には学位はおろか、高等教育の履歴すらなかった。
幼い頃から病弱であったため、学校へ通うことはなく、教育のすべてを家庭教師から受けて育ったという。
資産家であった祖父は天文を趣味としており、彼の屋敷には優れた蔵書と本格的な天体観測設備が揃っていた。
家に出入りしていた家庭教師もまた天文学に造詣が深く、彼はそれらの影響を受けて天文への関心を得て、やがてほとんど独力で知識を深め、次第に個人的な研究に没頭するようになった。
長らく患っていた病は一年ほど前に完治し、そろそろ自身の研究成果を世間に発表でもしようかと考えていた。そんな折に今回のプロジェクトの存在を知って、参加を申し立てた。男は自身についてそう説明した。
にわかには信じられなかった。わずか二十五歳の青年が、独力でこれほどの知識を身につけ、欧州でも有数の学者たちを凌ぐ論文を書くだなんて。
しかし事実、彼の知性は圧倒的だった。
試しにその場にあった最新の観測データを見せると、彼は即座に細かな数値の不整合を指摘し、新たな星の変動パターンを推測した。さらに、これまでの理論では説明できなかった現象について、独自の数理モデルに基づく大胆な仮説を即興で立ててみせた。
「■■■君、と言ったかな。ようこそ、我が研究チームへ」
代表の発したその言葉に意を唱える者は、誰もいなかった。
20XX年
天文台、建造完了。
国際天文観測プロジェクト「Project TRIMURTI」、始動。
欧州から天文台へ派遣される研究者として、■■■を含む三名の、比較的若い人間が選ばれた。現地では既に、アジア側の研究者、及びスタッフらが在中している。
三人はまずインドの某都市に降り立った。そこからは四輪駆動車にゆられ、未舗装の山道を長時間、陸路で移動する。標高が上がるにつれ酸素は薄くなり、息苦しさと寒さは増した。途中の村々で休息をとりながら、彼らは丸二日をかけて、辺境の地を目指した。
ヒマラヤ山脈西部、標高約四千五百メートル。一年を通して雪を抱く山々に囲まれながら、荒涼とした岩肌が露出する、高地砂漠。
そこに、世界一高い天文台が厳然と佇んでいた。
「空に一番ちかい天文台……」
天文台を前にした男はそう呟いて、祈るように目を閉じた。
世界最高所の観測拠点において、この小規模な国際研究チームは、淡々と任務を遂行し続けた。
都市から遠く隔絶され、光害はほぼ皆無。大気の揺らぎが少なく、空の透明度の高い、乾燥した高地。そのうえ設置された望遠鏡は最新鋭の高性能機。環境、設備共に申し分なく、光学観測においてきわめて高精度のデータ収集が可能だった。
生活では、高地順応のための医療的措置と環境管理が常に求められた。酸素濃度の補正装置が作業区域に常設され、気温は日中でも氷点下を下回ることが多く、設備や消耗品の取り扱いには細心の注意が払われた。
食料を含む物資の補給は、数ヶ月に一度、空路と陸路を組み合わせた手段で行われた。時々近くに暮らす遊牧民から山羊のミルクを買うこともできた。
太陽が沈み、夜が訪れると、空はまさしく星の海と化した。深淵を溶かした空に、宝石を砕いたような星々が整然と輝いている。星がまたたく音すら聞こえそうで、時おり走る流星は空の脈動のようであった。
ここへ来て初めての夜。長旅の疲労も忘れさせるほどの、まさにこの世のものとは思えぬ絶景に、欧州からの研究者たちは皆、息を呑んで見入っていた。
そのうちの一人、瞬きもせず星空を見つめる男のアイスブルーの瞳から、はらはらと涙がこぼれ落ちていた。
「■■■、大丈夫か?」
仲間の一人が声をかけると、彼は自分が泣いていることに、初めて気がついたように息を呑んだ。少しばかり驚いた顔をして、そしてわずかに目元を綻ばせて言った。
「……ああ。ちょっと、思い出したんだ。昔、たった一度だけこれと同じくらい美しい空を、私は見たことがあるんだ」
「へえ、そりゃあ何処だい? こんな景色、どこだって見れるもんじゃないぜ」
「だろうな。まァ、特別な空だったんだよ」
彼が自らの話をするのは、きわめて稀なことだった。
あの匿名のメールで研究所を騒がせてから、およそ三年。初めに口にしたわずかな身の上話を除いて、彼の過去に触れられる機会はほとんどなかった。
彼はこの三年という歳月を、すべて研究のためだけに費やしていたように思う。余計な人付き合いを避け、無駄な言葉を慎み、研究室の灯の下に広げた宇宙を相手に、ただ黙々と理論とデータに向き合い続けていた。
元々の性格もあるのだろうが、他者との馴れ合いを意図的に排除している。というより、そもそも必要としない人間なのだと感じた。
もっとも研究においては、意外なほど協力的でもあった。
己の功績を守るために知識の共有を拒む学者は少なくないが、彼はそれとは異なっていた。
彼自身、理解していたのだろう。知識を共有したところで、誰も自分の域には届かないということを。
「そういえば■■■、オマエ視力もかなり良かったよな。俺なんか裸眼じゃあ車の運転もできねぇよ。やっぱ目がいいと、同じ空でも見える星の数が違うんだろうな。羨ましいよ」
そう言われた彼は、金色の睫毛をひとつ瞬かせ、「ははっ」と笑った。彼が笑う顔を見せたのは、それが初めてのことだった。
アイスブルーの瞳が空を仰ぎ、懐かしむように目尻を細めた。遠く彼方の宇宙を見つめながら、彼の口から紡がれた言葉は、さらに遠く、どこか別の世界にでも語りかけるかのように、静かに星の海に響く。
「あの頃は私も……、星なんかひとつも見えないくらい目が悪かったんだけどな」
研究チームは日々、空に、宇宙に向き合い続けた。変光星の光度を綿密に記録し、膨大なデータの統計解析に没頭した。理論の検証と新たな仮説の構築に余念なく、また各々の論文も執筆しつつ、世界の果てのようなこの地で、日々の観測と計算が繰り返された。
そして気がつけば、プロジェクトの始動から、十年の時が流れていた。
欧州から来た三人の研究者のうち一人は、七年前に祖国に戻った。待っている婚約者と結婚し、家庭を持つのだと言った。
もう一人の仲間も、有名大学から教授職をオファーされたことを機に、五年前にヒマラヤを去った。
その後も数名の研究者が赴任したが、辺境の地での過酷な生活に馴染めず離脱した者、体調を崩して下山を余儀なくされた者、家族や個人の事情で急遽去っていった者など、去る理由は様々であるが、多くの人間にとって此処は人生の終着点ではなかった。
そうして十年を超え、当時のまま残っているのは■■■と、雑務をこなすスタッフとして地元から雇われた六十代の男の、二人だけになった。
入れ替わりは絶えなかったが、それでも日々の観測と解析、研究は粛々と続けられていた。
そんな彼らの、標高四千百メートルを超える土地での孤独な活動が、あるとき新聞記事として取り上げられることになった。
P国のとある大衆紙の片隅に、彼らの生活やいくつかの功績が、写真付きで紹介された。
同国でフリーライターをしている一人の青年――オクジーは、その新聞を手にしたまま、淹れたばかりのコーヒーを盛大に床にぶちまけた。
机に置かれていた取材用のメモ帳も被害を被っていたが、今はそれどころではなかった。
(バ、バデーニ、さん……!?)
粗いザラ紙に刷られた写真はいくぶん不鮮明だ。けれど自分が、彼の姿を見間違えるわけがない。
オクジーは該当のページを抜き取って、コーヒーの被害を免れたダイニングテーブルに広げた。
眼帯もしていなければ、顔の傷も見当たらない。しかしそれでも、彼であると確信せずにはいられなかった。
六世紀前にこの国で出会い、己の人生においてもっとも濃く、希望と輝きに満ちた流星のような時間を過ごした。そして最期は同じ処刑台の上で、星空のもと共に命を散らした人。
記者:■■■先生はすでに十年以上、こちらの天文台に勤務されていると伺っております。ヒマラヤでの生活はいかがでしょうか?
■■■氏:最高の環境ですよ。標高の高さ、大気の安定度、光害の少なさ。すべてが天体観測に理想的な条件を揃えています。ここの星空は実に素晴らしい。崇高で荘厳で、偉大で広大で。美しい自然が息づく地球と、完全に調和しているんです。
記者:そうですか、それは素敵ですね。■■■先生は――
たとえ今の彼の名前が、あの頃とは違ったとしても。絶えず姿を変える宇宙の呼吸の中では、そんなものはきっと些細なことだ。
(やっぱりあなたも、生まれ変わっていたんですね)
この動く世界に。
そしていま彼はこの地球上で、もっとも天界に近い場所のひとつにいる。
会いたい、と思った。
いや、ずっと思い続けていた。自我の芽生えと共に蘇った、もうひとつの人生の記憶。いつも追いかけていた彼の凛とした背中。真理を見つめる彼の気高い横顔。
自分と同じように、きっと彼もふたたび現世に生きているはずだ。だから絶対にまた会える。そう信じて、この二十数年間を生きてきた。
まだ駆け出しではあるが、小説家ではなくライターを志したのも、どこかで彼が見つけてくれることを願っていたからだ。新聞や雑誌、ウェブ媒体。あちこちに寄稿できるようになれば、いつか彼の目にも、自分の痕跡が映るかもしれない、と。そんな淡い期待を、心の奥底で握りしめていた。
しかし新聞記事を読んだ限り、その期待が叶う可能性はきわめて低いように思われた。天文以外の文明をすべて置き去りにしたような辺境の地で、彼はまるで世捨て人のような生活をしながら、十年以上もの歳月を研究に捧げているのだ。宇宙に注ぐ変わらぬ情熱が嬉しくもあり、どこか誇らしくもある。けれどそんな彼に、自分の名や言葉が届くとしたら、それはよほど専門性の高い学術誌か、科学ドキュメントのような媒体に限られるだろう。
厳しいだろうな、と思う。そうした媒体で筆を執るのは、大抵の場合、その道の専門知識を豊富に備えた研究者や、技術者自身だ。コラムやルポルタージュを書く今の自分では、とても届きそうにない。仮にこれから勉強を始めたとして、執筆の場を与えられるまでに、いったいどれほどの時間が必要だろうか。
彼だって、十年後も同じ場所にいるとは限らない。
なにより、会いたい。今すぐに。
オクジーはモバイルを手に取り、ひとつの電話番号を呼び出した。学生時代からなにかと自分を気にかけて、今も贔屓にしてくれている、某出版社の担当者だ。
自分は、運がいいかもしれない。
バデーニを見つけられたこともそうだが、ヒマラヤ山脈の天文台なんて、そう簡単に個人が訪れられる所ではない。だがもしうまく話が進めば、「取材」という名目で、彼のいる場所まで辿り着けるかも……
「……あっ、あの、オクジーです。はい、いつもお世話になってます。忙しいところすいません。実は、えっと、先日いただいた連載の件で、ちょっとご相談がありまして……」
それから半年後、オクジーはついにインドの地を踏んだ。
イスタンブール、更にインド国内での乗り継ぎを経て、出発からすでに二十四時間以上が経過している。当然ビジネスクラスの予算などなく、エコノミーの座席で身を縮めて過ごしたせいで全身はすっかり強張っていた。ここから陸路でさらに数日。そう考えると、本当に世界の最果てを目指しているような気持ちになった。
――でも、もうすぐ会える。
そう思えば身体の疲労なんて、取るに足らない些細なものだ。
空港の到着ロビーで迎えを待ちながら、オクジーは自動扉のガラスに映る自分の姿を見つめた。中途半端に髪が伸びていて、頬にかかる後れ毛が少し煩わしい。
今までは短くしていたが、少しでも以前の面影を残した方が会いやすいかと思って、この半年間は一度も散髪に行かなかった。とはいえまだポニーテールにできるほどの長さもなく、手近なゴムで雑にくくっている。
天文台の取材について出版社の担当に相談すると、「あら、おもしろそうね」と言って、すぐに社内で企画稟議を進めてくれた。オクジーが学生の頃から「あなたの文章はまるで呼吸が聞こえるみたいね」と評し、なにかと仕事を回してくれる、ベテランの女性編集者。そんな彼女から少し前に、新たに創刊される文化誌への連載を打診されていたのだ。大まかなテーマは指定されつつ、具体的な内容はこれから詰める段階であり、オクジーからも提案を求められていた。
稟議はすぐに承認されたようで、ヒマラヤへの取材期間は最大二ヶ月になった。その間の滞在費を含む渡航費用は出版社が持ってくれる。
連載は一年間も続き、各回の頁数もそれなりにあるため、これはかなり大きな仕事である。大した実績もない自分にとっては、今回の取材旅行も含め、本当にありがたい話だった。
バデーニに会いたいという個人的な願いが、オクジーをヒマラヤに呼んだ。おかげで企画はすんなりと通り、無事に連載の仕事を得ることができた。これはライターとして躍進する大きなチャンスでもある。そう考えると、まだ再会してもいないけれど、再びバデーニによって導かれたような思いがした。自分の世界を広げてくれるのは、いつだって彼なのだと、胸が熱くなった。
気合を入れるオクジーの前を、たくさんの人々が絶え間なく行き交っていた。スーツケースを引く旅人もいれば、誰かを迎えに、あるいは見送りに来た者もいるだろう。
空港に来るたびに、いつも思うことがある。
ここは、無数の人生が交差する中庭のようだ。
時間は壁を持たずに、散歩道のように伸びてゆく。出会いは構内のカフェに腰を下ろし、別れは滑走路の先で小さく手を振っている。
発着を示す電光掲示は心臓のように脈打って、今日も誰かの行き先と、別の誰かの帰路を点滅させている。
多くの人々が匿名の影だけを落として、やがて別の場所へと歩み去っていく。
いってらっしゃい。おかえりなさい。
さようなら。また、いつか。
迎えに来たドライバーは、強いインド訛りの英語を話す男だった。去年から天文台で働いているというその男と、現地の写真家とも合流し、オクジーはヒマラヤ山脈の高地天文台を目指した。
季節は冬。車は曲がりくねる悪道をゆっくりと登った。遠くには銀色に輝く雪山が連なり、冷たい空気が肺を満たす。
しかし山の天候は予想以上に厳しく、小さな村のゲストハウスで二日間の足止めをくらうことになった。標高はすでに三千メートルに近い。吐く息は絵の具のように白く、窓には霜が張りついている。
「この辺は比較的晴れる土地なんだけどね。まあ自然が相手だから、こういうことも珍しくはないさ」と、ドライバーは肩をすくめて言った。
二日後になってようやく天候が回復し、オクジーたちは再び天文台に向かって出発した。昨日までの空が嘘みたいに晴れ渡った山は、空気までも磨かれたように澄みきって、遠くの稜線まではっきりと浮かび上がっていた。
谷を越え、峠を抜けるにつれて、空の青さと引き換えに酸素が薄れていく。冷たく乾いた空気が肺の奥に染み渡り、全身が少しずつ張りつめていくのを感じた。その緊張はしかし、決して寒さだけのせいではなかった。
あの日の新聞の切り抜きは、今もオクジーの手帳に挟まれている。たった半年前の写真だけれど、彼の姿は六百年をひと跳びにして記憶を貫いた。
会いたい。その一心で、自分が持てるカード全てを切って、やっといま辿り着ける。彼の記憶に自分の存在が残っていれば嬉しい。けれどそれ以上に願うのは、彼がいま幸せに生きていることだ。時代に殺されることなく、真理を追う情熱を変わらず胸に宿し、その知性が自由に羽ばたいていればいい。それをこの目で確かめたかった。
やがて、天と地の境に張りついたような建物が、白い岩肌の向こうに姿を現した。
宇宙にいちばん近い天文台が、そこにあった。
――来てしまった、ついに。
胸の奥で、微かに軋む音がした。
それは心臓ではなく、もっと深い場所。たとえば魂が、古い記憶や感情と擦れあう音だった。
早まる脈を落ち着けるように、オクジーは深く息を吸い込んだ。透明な冷気が喉に落ちる。ゆっくりと踏み出した右足が、純白の雪に重く沈んだ。
所長への挨拶を終えると、事務員だという初老の男が施設内を案内してくれた。
併設の宿舎は、一通りの生活環境が整っていた。食堂や共用のリビングルーム、そして健康維持のためのフィットネスジムも備わっている。
オクジーに割り当てられたのは短期滞在スタッフ用のゲストルームだった。長期滞在し、研究に勤しむ学者たちの居室は別の区域にあるという。
「あの、すみません。バ、いや、■■■さんに会いたいのですが……」
案内が一通り済んだところで、オクジーは事務員に尋ねた。自分が知らない彼の名前を口にしたとき、わずかに喉が引きつれて音が霞んだ。
「■■■先生? めずらしいね、知り合いかい?」
「そう、ですね……。昔、すごく前なんですけど……、なんとゆうか、お世話になったことがありまして……」
「へえ。たぶん今は、天文台にいると思うよ。今日は三日ぶりに晴れそうだからね。キャリブレーションでもしてるんじゃないかな。天文台の場所、わかる?」
「あっ、はい、ありがとうございます。さっき施設の地図も頂いたので、大丈夫だと思います」
オクジーは地図を見ながら来た道を戻った。資料室と書かれた部屋を通りすぎて、研究棟に続く廊下の手前を右に曲がった。通路を進む足音の間隔が、少しずつはやくなる。薄く冷えた空気が頬をすり抜ける。
重厚な鉄製のドアの前に立つと、指先がほんの少し震えた。深呼吸をひとつして、オクジーは冷たく無機質な扉のノブを握った。
静かに押し開けると、ドアの隙間から放射線のように光があふれ出す。まるい天体ドームの真ん中に、大きな望遠鏡が、眠る巨獣のように鎮座している。
その足元に、彼がいた。
「バデーニさんっ……!」
懐かしい名前だった。
六世紀ぶりに音にして、呼んだ彼の名前。
自分でも聞いたことがないくらい、必死に祈るような声だった。ドームの天井に霧散した声が、残滓となって冷えた空気を震わせた。
彼が振り向いた。
天蓋からこぼれる陽光に、金色の髪がきらきらと泳ぐ。
俺の姿を映した彼の目が大きく見開かれた。
息を呑むように開いた彼の薄い唇が、きっと俺の名前を紡ぐのだと予感した。彼にも記憶があるのだ。そう思った。
けれど彼はすぐに口を閉じてしまって、それからほんの一瞬だけ、目元をくしゃりと歪ませた。
ひと呼吸分の沈黙が床に落ちる。そうして彼がふたたび口を開いたとき、その白い顔からは、全ての感情が消え去っていた。
「……それは、誰だ? 私の名前は■■■。悪いが人違いだろう」
「えっ……」
心の凍てつく音がした。
カチ、と鳴った奥歯を噛み締める。塗りつぶされそうな思考を引きずり起こして、彼の言葉をなぞった。
――覚えて、ない? でも、さっき……
ほんの刹那でも期待してしまったから、上手く受け入れることができなかった。指先からこぼれ落ちた欠片が、いつの記憶なのかもわからない。
だが立ち尽くすオクジーを気にすることもなく、彼はもう手元のタブレットに視線を落として、何事もなかったように仕事へと戻っていた。
「ちょっと、■■■先生。所長が呼んでるよ」
突然の背後からの声に、オクジーの肩が大きく跳ねた。振り返ると、さっきの職員が入り口に立っていた。その呼びかけに「わかった、いま行く」と、彼――バデーニが短く応じた。
床を打つ靴音をドーム内に響かせて、彼はタブレットを持ったまま、オクジーには一度も目を向けずに通りすぎていく。
すれ違いざま、オクジーは咄嗟に声を上げた。
「あ、あのっ、バデーニさん!」
思ったよりも大きな声が出てしまった。
足を止めた彼の隣で、職員の男が不思議そうに眉をひそめた。
「バデーニ? 先生、そんな名前もあるのかい?」
「知らん。どこぞの誰かと間違えてるんだろ」
それだけを言うと、彼は足早に去って行く。
足音だけがまるい天井に反響し、やがてそれも遠ざかっていった。