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    桃本まゆこ

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    桃本まゆこ

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    2/9ピョンまに新刊の進捗です。
    オメガバース 。カプ混在。松深、沢深、河深要素あります。サンプルはほぼ河田のターン。倫理観薄め、あんまり明るい話じゃないです。お好きな方だけご覧ください!

    続◯△⬜︎「これあげます」
     深津の手のひらに乗せられたのは白いアヒルのマスコットだった。目の前に立つ沢北はその小さな白い塊に視線を落としたまま、いつもよりずっとしおらしい顔で小さく笑っている。
    「俺だと思ってください……っていうのもなんか変か」
     だってこれ深津さんだし、と、まるで当然のように沢北は呟いた。沢北は明日、ここからいなくなる。期待と不安と、それらが綯い交ぜになった興奮と高揚に頬を赤らめ、光り輝く目をして未来を見ている。
    「深津さんに似てるって思って買ったから、こいつは俺っていうか深津さんの分身みたいなもんかな?」
     春に芽吹く若葉のような眩しさで、目の前の少年は晴れやかに笑っている。深津はまばゆいものを見るように目を眇めた。
    「深津さんが持っててください、ずっと」
     手の中に転がる柔らかさを感じながら深津は息を吐いた。今この瞬間自分の心に刺さった棘が永遠に抜けないことを悟り、そしてオメガという性別に生まれ付いた自分の運命を呪った。
     オメガに生まれなければ、アルファに生まれなければ、きっとこうなることはなかった。恋はどこまでも残酷だった。



     スポーツ選手として世界トップクラスの申し分ない実力があり、さらに容姿端麗。自信に満ちた振る舞いの一方で、規律を重んじる伝統校の出身らしい謙虚さと真面目さでどんな場面でも礼儀正しい振る舞いをする沢北栄治は、日本のマスコミと世間がいかにも好むタイプの二面性を持ち合わせた人物と言える。沢北と深津の熱愛報道は瞬く間に世を駆け巡った。当初こそ二人の関係を揶揄し、また深津がオメガであることを理由とした下世話な記事もあったが、それらの多くはやがて『学生時代から公私共に沢北を支え続けた深津』というストーリーに変わっていった。糟糠の妻の美談は日本社会では好まれやすい。メディアではスキャンダルとして叩くより、二人を持ち上げる方向へ舵を切った方がウケが良かったのだろう。アメリカ帰りのスター選手とその同性の恋人、という肩書は一種のステータスのように扱われ、沢北の持つ容姿とも相俟ってますます人気が高まった。沢北にこれまで女性関係の報道が一切なかったことも追い風になった。世間は瞬く間に祝福ムード一色に染まり、二人はスポーツ界のベストカップルなどと呼ばれ非常に好意的に受け入れられた。沢北自身がSNSを頻繁に更新するタイプだったこともあり、認知度と共にフォロワー数も爆発的に増えた。あの週刊誌の記事を発端とし、ブームを超えて社会現象を起こすほどに、今や沢北と深津の二人は世の注目の的となった。

     待ち合わせにはひっそりとした喫茶店を選んだ。手持ち無沙汰にスマートフォンを取り出すとニュースサイトのヘッドラインが目に入る。連日飽きもせずに流れてくる沢北栄治と深津一成の名前を見るともなく眺め、松本はスマートフォンをポケットへ戻した。喫茶店の外壁を覆い隠すように伸びた蔦の葉が窓の外で揺れている。
     美談として聞けば美談であるのだろう。けれど松本の知る事実と照らし合わせるなら、世間を夢中にさせているそのラブストーリーは脚色されすぎている。テレビやメディアはこうして無邪気に都合の良い物語を作り上げ、やがてそれがあたかも事実かのように広まってしまう。つい先日には、深津のベッドで裸になっていたのは他ならぬ松本自身であったというのに。気を紛らわすようにコーヒーカップに口を付ければ、熱く苦い液体が無言の喉を滑り落ちていった。
     その時、木製のドアの開く音に重なって古めかしいドアベルがカランカランと音を立てた。松本が視線を向ければ、スポーツブランドのキャップを目深に被り、マスクで顔のほとんどを覆い隠した一人の男が足早にこちらへ向かってきていた。
    「ごめん、遅くなった」
    「いや、こっちこそ。わざわざ悪いな」
     ランチタイムを過ぎ、中途半端な午後の時間の店内には老齢のマスターを除き他に誰の姿もない。先ほどまでお喋りに興じていた二人組の女性客はほんの数分前に席を立ったばかりで、今この店にいる客は自分たちのみのようだった。辺りを確かめるように視線を巡らせ、松本の向かいに腰を下ろすと深津はようやくマスクと帽子を外した。
    「この前返せばよかったんだけどな。遅くなって悪かった」
     そう言いながら松本は胸ポケットを探り、一本の鍵をテーブルに置いた。窓から差す西日に埃の粒子が浮かび上がり、何の変哲もない銀色の鍵が鈍く光る。
    「いや、俺の方こそ忘れてたから……ありがとう、わざわざ」
     静かに口を開く深津の表情はやや疲れているように見えた。いつか、料亭の一室でこの鍵を河田から渡された日のことが松本の脳裏に過る。それはもう随分と遠く、昔のことのように思えた。
    「……あの家からは引っ越すことになった」
     テーブルの上の鍵に手を伸ばし深津は独り言のような抑揚の無さでそう呟いた。沢北と暮らすのだということは、言われなくても分かった。
    「そうか。じゃあこの鍵はもういらなかったか」
     松本が軽い調子でそう言うと、深津は少し慌てたように口を開いた。
    「そんなことない」
     顔を上げた深津と松本の視線がぶつかる。今日初めて目と目が合った。一夜にして時の人となってしまった深津の顔を松本はまじまじと見た。髪型も、顔付きも、最後に会った日からほとんど何も変わっていないのに、何かが明らかに違う。あるいは違って見えるような気がする。
    「毎日お前らの顔をニュースで見るよ。変な気分だな」
     沢北栄治は正真正銘のアルファだ。沢北の持つ行動力は凄い。誰も深津には触れさせないという圧を感じる。住んでいた家も引き払わせて、自分のオメガを閉じ込めておくのだろう。それがアルファの本能だから。
     ふう、と息を吐き出し、松本は顔から笑みを消した。ただ鍵を返すためだけに今日ここに来たわけではない。
    「お前と沢北がこうなったことに反対するわけじゃない。でも、河田はどうなる?」
     松本が問うと深津の目の色が変わった。沈黙が二人の間に流れ、冷ややかな緊張が視線と共に交差する。
    「何のことだ」
    「河田はお前を諦めるために結婚して、お前を取り返すために離婚したんだろう」
    「……さあ。そんなことは聞いてない」
     深津は何の感情も篭らないような声で言い放った。松本の知る限り河田から深津への献身は高校時代からこれまで十年以上に及ぶ。河田の妻であった女性と、河田自身による発言から見てそれは間違いなく事実だった。深津のあの様子を見ているのであれば、深津が持つ沢北への執着も河田はわかっていたはずだ。そんな状態で一体どんな思いで傍にいたのか。いっそ悪趣味なくらいの自己犠牲だと松本は感じた。
    「河田が結婚する時、いや、河田の奥さんを初めて紹介された時」
     松本は静かに口を開き、昔を思い出すかのような声色で呟いた。
    「深津が女になったらこんな感じかもしれないって思ったよ、俺は。お前は気付いてなかっただろうけど」
    「……!」
     深津の顔に動揺が走る。丸く見開かれた目が揺れている。相手の女性はベータだった。河田の性格なら、オメガと結婚したらきっと一生別れないだろう。だからベータの女性を選んで、子供もあえて作らなかった。もしものときに離婚という選択肢を取ることが出来るようにしていた。それも全て深津のために。河田はきっと最初から、深津の人生を背負う気でいた。松本がそれを伝えると深津は激昂した。
    「適当なことを言うな!」
     静かな恫喝が松本の鼓膜を震わす。握り締めた拳がテーブルを叩き、カップの中のコーヒーがわずかに波打った。店の奥では店主が俯きがちに食器を拭いている。深津は挑むように顔を上げて松本を見た。
    「憶測で物を言うのはやめろ。あいつにも、前の奥さんにも失礼だ。河田は、離婚は自分が子供を作ってやれないからだって、奥さんに申し訳ないから別れるんだって、そう言って……!」
     怒りを滲ませた表情に反して深津の顔は血の色が失せていた。青褪め、神経質に視線を惑わせ、深津が声を震わせる。
    「お前にはそう言うだろうな」
    「どういうことだ」
     食って掛かるような深津の険しい視線に射抜かれても松本は動じなかった。それどころか河田の言葉を疑うことなく信じる深津の愚直さが可愛らしくさえあった。まだほんの子供に過ぎなかった十代の頃から今まで、文字通り心身を削って作り上げてきた信頼関係という名の鎖で、河田は深津を繋ぎ読めようとしている。窓の外、暗い緑色をした蔦の葉が視界の隅で揺れる。蔦は強く、水が少なくても日が当たらなくても枯れない。ほんのわずかな養分を吸い上げしぶとく生きる。深津の求めるアルファが自分ではないと分かっていても、河田は深津から離れなかった。松本の目にはそれが愛のようにも、執念のようにも見えた。蔦に絡まれた建造物は早く朽ちる。椅子に深く腰掛け、松本は長く息を吐いた。
    「憶測じゃない。今の話は全部、河田の奥さんだった人から聞いたよ」
     静かに言い放った松本の前で、深津は哀れなほど分かりやすく息を飲んだ。
    「河田はきっと、お前をまだ愛してる」
     風が吹き、窓の向こうでザワザワと葉擦れの音が鳴る。言葉を失くした深津の横顔に、蔦の葉の影が揺れていた。


     シューズの底が体育館の床を擦り、キュッキュッと小気味良い音が鳴る。むせ返るような汗の匂い、ボールの弾む音、交わされる掛け声。高校時代の三年間、教室よりも寮よりもこの体育館にいる時間の方がずっと長かった。毎日朝から晩まで、一心にボールを追いかけ続けていた。
    「深津さん!」
     嬉しそうに声を弾ませて、十代の沢北がこちらに向かって駆け寄って来る。この頃はまだ十六になったばかりだっただろうか。アメリカに渡ってからも身長は多少伸びたと聞いているが、それより今と昔では体格の方が違う。少年らしい瑞々しさを残した体躯は現在に比べて随分ほっそりとしているし、頬にはまだ子供らしい丸みが残ってあどけない。
    「今のどうっすか? ちゃんと見ててくれました?」
    「見てたベシ。俺じゃなくて先にマネージャーの意見を……」
     コートサイドに視線を向けながらそう言いかけて、深津は言葉を切った。何か本能的な気配を感じて肌が粟立つ。ハッとして振り向くと沢北の顔が息を飲むほどの近くにあった。驚きの表情を浮かべる深津に構わず美しく尖った鼻梁を深津のうなじに寄せ、沢北はスンと鼻を鳴らした。
    「深津さん、いい匂いする。何か付けてます?」
    「やめろ。嗅ぐな。何もつけてないベシ」
    「ちょっ、痛い痛い! 顔掴まないで!」
     傍目に見ればただのじゃれ合いにしか見えなかっただろう。何を遊んでいるんだとマネージャーからの怒号が飛び、沢北は慌ててコートの外へ駆けて行った。沢北の吐息の掛かった肌がジンジンと熱く、深津は手のひらで自らのうなじを擦った。いつも通りの表情を装いながら熱くため息を溢す深津の様子を、河田は何も言わずに見つめていた。

     懐かしい夢から覚めると窓の外からは雨の音が聞こえてきた。ボールが弾む音も、シューズの足音ももう聞こえない。一人きりのベッドは広く、深津は寝返りを打ってもう一度目を閉じた。新調したばかりのベッドは沢北の体格に合わせて海外のメーカーに特注したもので、キングサイズよりもさらに大きい。隣で眠る者がいないこんな夜には持て余すほどの広さだった。誰の気配もない静かな部屋に深夜の雨の音が響き渡る。闇の中で聞く雨音には遠い昔を思い出すような郷愁があった。そのせいで高校時代の夢など見たのかもしれない。
     深津との同居にあたり、沢北は新しく家を購入した。それまで沢北が一人で暮らしていたマンションも十分に広く、新居を買わずともここに二人で住めば良いと深津は提案したが、沢北はそれを拒んだ。
    「ここが俺んちだってマスコミにもバレてるし、ネットにも物件名とか書き込まれてるらしいんで。記者どころか一般人でも調べられちゃいますよ。そんなとこに一成さんを住ませらんないでしょ。元々、そのうち引っ越そうと思ってたから」
     有無を言わさぬ笑顔でそう言い切り、沢北はすぐに新しい家を決めてきた。家具も内装も事前にインテリアコーディーネーターに手配を依頼したらしく、足を踏み入れた瞬間からこの家はまるでモデルルームのように快適で完璧な状態が作り上げられていた。深津が元の家で使っていた家財類はほとんど処分することとなり、深津はほぼ身一つでこの家へと移り住んだ。
    「だって俺たち結婚するんだよ? 将来もし家族が増えても、ここなら大丈夫だね」
     転居当日、二人だけで住むにはあまりにも広すぎると零した深津に向かい、沢北はそう言って満足そうに笑った。あの日、沢北の腕に抱き締められ、広い胸に身を預けながら、深津は見慣れない部屋の景色をただ眺めていた。この場所がこれから自分たちの『巣』になるのだと頭では分かっているのに、なぜか物悲しいような、どこかへ帰りたいような気持ちになった。帰る場所はもう、ここしかないのに。


     囁くように降り続いていた雨は時間と共に激しさを増し、目を閉じてじっとしても睡魔は訪れなかった。深津は眠ることを諦めて枕元のスマホに手を伸ばした。就寝中に受信したらしいメッセージを開き、惜しみない愛の言葉を目で追う。時差を考慮すると向こうは昼頃だろう。沢北は昨日から十日間の日程で日本を不在にしていた。アメリカでの仕事があるのだそうだ。日本のチームに移籍した今でも、沢北は米国内のエージェントとの契約をまだ継続している。エイジ・サワキタという一人の選手がかの国で積み上げてきた人気は未だ根強い。
     深津はメッセージアプリから一つの宛先を呼び出し、新しく文字を打ち込んだ。会って話したい。急で申し訳ないが今週中に時間を作ることは出来ないか。簡潔なメッセージを送ると真夜中にも関わらずすぐに既読の表示が付いた。宛先の名前は『河田雅史』。
     スマホが震え、「明後日の夜なら」と同じく短いメッセージが返って来る。了承の意と感謝の言葉を送り、深津はもう一度目を閉じた。雨は止まず、静かな雨音が耳の奥に響き続けていた。


     山王工業に入学し、深津の第二性――深津がオメガであるということを初めて知った相手が同級生の河田だった。あの頃の河田はまだ小柄で背は深津の肩ほどしかなく、そして深津に対して明らかなライバル心を持っていた。県外からスカウトで入学した深津と異なり、河田は秋田県内に生まれ育ち、山王に入学することを目指して努力を続けてきた新入生だった。バスケを始めた時期は深津と同じで、小学生の頃だという。
     深津の実力は入学時から頭一つ飛び抜けていた。実力主義を貫く環境の中、入部当初から上級生のみが行う練習に参加し、当時のレギュラーに混ざって練習をしていた深津は周囲からは特殊な存在として見られるようになっていった。当時深津と同じくPGとしての背番号獲得を目標としていた河田は、嫉妬と羨望の渦巻く中で積極的に深津と関わりを持とうとする数少ない部員の一人だった。その頃の河田は今よりもずっと感情的で、年相応らしい幼さもあった。河田がレギュラー争い、ポジション争いの土俵に乗ろうと奮起していることは誰の目にも明らかだった。
     たった十五年や十六年しか生きていない少年にとって、人生のすべてはコートの上にあった。それ以外の生き方など目に入らなかった。高く弧を描くボールに手を伸ばし続けたあの頃、自分たちにこんな未来が訪れることを、深津も河田もまだ知り得なかった。
     中学生当時、深津にヒートらしいヒートはまだ来ていなかったが、両親は寮生活となる息子を案じて早くからオメガ専門外来を受診させていた。第二性については一部の教師と顧問の堂本のみに明かされ、部員たちには決して公表しないという前提で深津の両親は進学を受け入れた。
    「一成、お医者さんの薬はちゃんと飲むのよ。わかった?」
    「わかった」
     母は何度も何度もそう言って深津に念を押した。
    「困ったことがあったらすぐに連絡しなさい。いいわね。わかった?」
    「うん、わかってるよ」
    「それから……」
     深津の母親はベータで、身近な親族にオメガはおらず、深津は自身の第二性についての自覚は薄かった。中学までの学校生活で困ったことも特になく、性別検査の後も自分は本当はベータではないのかと心のどこかでは思っていた。
    「絶対に誰にも、あなたがオメガだってことは教えちゃだめよ。どんなに仲の良い友達でも、絶対に」
     その時の母の様子に鬼気迫るものを感じ、深津は喉までせり上がっていた「どうして?」の一言を飲み込んだ。

     山王工業が全国でトップクラスの実力を持つバスケの強豪校であることは競技に詳しい人間なら誰しも知ることで、毎年、全国各地の強く優秀な選手たちが新入部員として集まってくる。けれどただ強い選手を集めるだけでは強いチームにはならない。山王バスケ部に入部が叶う時点ですでに地元では有名な選手であることも珍しいことではなく、それゆえにエース級の選手ばかりが集められたチームの中、プライドを打ち砕かれて去っていく部員も少なくはなかった。
     体力、体格、身体能力の面で優れた部員たちはほとんどがアルファである。第二性を明け透けに言いふらすことは誰もしなかったが、集団の中にいればその事実は嫌でも感じ取ってしまう。最強を名乗る山王バスケ部においてオメガの存在は明らかに異質であり、その時になって初めて、深津は母親の言葉の意味を理解した。幸い深津は同世代の中で体も大きくバスケの実力も抜きん出ており、一見してオメガだと気付かれることはまずなかった。第二性の特徴には個人差が大きい。成人後もオメガの特性が薄く、むしろオメガ性を強めるための治療を受ける人もいる。入学後も深津にヒートの予兆はなかった。オメガらしくないオメガ。きっと自分もそのタイプなのだろうと深津は考えた。もしも自身が女性であったなら思い悩むこともあったかもしれないが、バスケを続けるうえではむしろ都合が良い。オメガ男性の全員が子供を持つわけではないし今の深津にその希望もない。
    「……うん、大丈夫」
     山王バスケ部員が暮らす寮の入口には一台の固定電話が置かれている。ある日の消灯時間直前、受話器を耳に押し付けながら深津は頷いた。
    「何も変わりないから。心配しなくていいよ、母さん」
     電話の向こうで何度も同じ言葉を繰り返す母を諫めて受話器を置いた。ため息交じりに俯くのと同時に「おう」と声が掛かる。振り返ってみれば丁度廊下を通りかかった河田の姿があった。
    「おめ、意外とマメだなあ。毎月家に連絡してんだべ?」
    「意外は余計ベシ。電話しないと母さんがうるさいベシ」
    「へえ、心配性なんだな」
    「俺は箱入り息子ベシ」
     ふうん、と興味のなさそうな返事をして河田は自室へと戻って行った。深津もまた部屋に戻ると、引き出しを開けて小さなケースを取り出した。湿布やテーピングと共に並んだ、手のひらに乗る大きさの何の変哲もないプラケース。深津に相部屋の相手はいないが、誰かが見たとしてもきっと常備薬の一つとして何の違和感も持たないだろう。深津はケースを開け、一錠ずつ切り分けてある薬のシートを摘んだ。指先で圧し潰せばパキンと微かな音が鳴る。
    「大丈夫。何も心配ない。大丈夫……」
     手のひらに転がり出た小さな錠剤を口に含み、ペットボトルの水を呷る。周期通りに飲み続けている抑制剤が冷たい水と共に深津の喉を滑り落ちていった。
     バスケをするために山王に来た。日本で一番強い学校で、最強を目指すために。それ以外のことに煩わされてはいられない。
    ――お薬はちゃんと飲むのよ。絶対に誰にも、あなたがオメガだと知られてはだめよ。
    「わかってる、母さん、わかってるよ」
     ベッドに横になって頭から布団を被り、深津はきつく目を閉じた。受話器の向こうの母親の声が頭の中にこだまする。
     深津に初めてのヒートが起きたのは、それからすぐのことだった。


     思春期のホルモンバランスは崩れやすい。いつものように朝練と授業をこなし、夕方の練習に向かう途中で強烈な眩暈に襲われ深津はその場に崩れ落ちた。辺りに人影はない。校舎の裏手にある倉庫から体育館までの外廊下を使うのは練習の準備を命じられた下級生のバスケ部員のみで、その他の生徒にはほとんど用がない場所だった。じめじめとした日陰の一角に深津はうずくまった。今までに体感したことがないくらいの動悸に見舞われ、息さえできないほど胸が苦しい。外周のランニングを延々と命じられた時も、気が遠くなるほど坂道を走り込んだ時でもこんなに苦しくはなかった。深津は自分の身に何が起きたのか、すぐには分からなかった。立っていられないほど目が回り、天地が引っくり返るような感覚に吐き気さえする。
    「ハァッ、ハァ、ハァ……ッ」
     どれだけ息を吸っても酸素が足りないような気がする。心臓が破れ、全身は焼かれているかのように熱い。動くことが出来ない、声が出ない、誰か、助けてくれ、誰か、祈るように胸を抑え、深津はハッと息を飲んだ。これはヒートだ。恐れていたことが起きた。ヒートが来たのだ。その瞬間、頭を殴られたかのような衝撃と、混乱と絶望が深津に襲い掛かった。
     ぐらぐらと揺れ動く意識の中で記憶を辿る。最後に抑制剤を飲んでから二週間が経過していた。ヒートの症状も自覚もないうちは『体調に合わせて周期を調整し薬を飲む』という習慣がなく、その頃の深津はただ決まった日数どおりに抑制剤を飲んでいた。次に薬を飲むのは明日の夜の予定だった。誰かに助けを呼ばなくてはと思う一方、誰にも知られてはいけないという葛藤に体が震えた。
     どうしよう、どうして、どうすればいい。体はますます熱くなる。震えが止まらず、冷や汗が出る。なんとかして自力で部屋に戻って一刻も早く薬を飲まなくてはならない。汗と涙と鼻水が同時に出て視界が滲む。
     誰か来てくれ、誰も来ないでくれ、苦しい、助けて、誰か――。
     悪寒と体調不良で意識が遠くなりかけたとき、深津の耳に誰かの足音が聞こえた。
    「おい⁉ 深津! どうした!」
     響き渡ったのは河田の声だった。おそらく倉庫に行くように命じられたのだろう、河田が両手に抱えていた空のドリンクボトルが地面に転がる音がする。深津が辛うじて顔を上げると、外廊下の端から慌てた様子で河田が駆け寄って来るところだった。
    「か、河、」
    「どうした、何があった……!」
     深津に近付いた河田がハッとした様子で顔を顰める。咄嗟に手のひらで鼻と口を覆うのが見える。深津は全身に冷や水を浴びせられたような気分になった。
    「お前、オメガか……?」
     抑えた手のひらの下、河田が籠った声で呟くのが聞こえる。ああ、もうだめだ。せっかく両親を説得して、念願の学校に進学できたのに。遠くにボールの跳ねる音が聞こえる。襲い来る眩暈と吐き気に失神する寸前に深津の心に浮かんだのは、まだバスケをやめたくないという思いだけだった。
     目を覚ましたのち、深津はその後の河田の行動を知った。深津にヒートが起きたのが部活中でなかったことは不幸中の幸いで、河田は体育館に戻ることなく、すぐに保険医を呼びに走った。なるべく騒ぎにならないようにという瞬時の判断の正しさを深津の主治医は賞賛した。あとから聞いたところでは、河田は近い親戚にオメガの女性がいるらしく、十代にしてはオメガのフェロモンに対し鼻が利くうえに、緊急時の処置についても知識があったらしい。
    今回は間に合わなかったとはいえ、深津が定期的に抑制剤を摂取していたこと、また症状のごく初期の段階のために他の生徒なら深津の不調がヒートであることはほとんど分からないだろうということから、偶然通り掛かったのが彼でよかった、と主治医は言った。発見も対処も完璧だったと。
    「初めてのヒートなら混乱したでしょう。軽く済んで良かったね」
     授業を休んでオメガ外来を受診した深津に対し、何でもないことのように医師が告げる。
    「これで、軽く済んだ方なんですね……」
     深津がそう呟くと初老の医師は労わるように目を細めた。
    「大丈夫。そのうち慣れるよ」
     その日以降、山王工業バスケ部の中で、深津がオメガであることを知るのは監督である堂本と河田の二名となった。
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    Replies from the creator

    桃本まゆこ

    DONE沢深webオンリー『さわぐ心をふかく射止めて』展示作品です。以前の壁打ち「思い出が欲しい深津」のネタを小説にしました。高校時代は始まらなかった沢深が十年後に急接近する大人沢深です。後半は書き終えたらアップします。それにしても天才のイベントタイトルですね!開催ありがとうございます!
    The Way Back Home(前編)1.

     さっき貰ったばかりの色紙を潰れないように一番上に入れて、ボストンバッグのファスナーを閉める。ほとんど余白がないくらいびっしり埋まった寄せ書きを思い出すとまた涙が出そうになるけど、泣いてばかりはいられない。ずっと狭いと思っていた二人一組のこの部屋は、一人分の荷物がなくなると随分ガランとして見えた。俺は明日、この寮を出る。コンコンとドアを叩く音がして、俺は慌てて両目を拭った。
    「沢北、いるピョン?」
    「はい、どうぞ」
     ドアの外から聞こえてくるのは予想通りの声。俺は少し緊張しながらドアを開けた。
    「……お前ひとりピョン?」
    「ッス。佐藤は別の部屋行ってます」
     一歩中に入ってきた深津さんが部屋の中に視線を走らせて訊ねた。食堂で見送りの会を開いてもらったあと、最後に二人で話したいことがあるから時間をくれ、と言ったのは深津さんの方からだった。まさかこの期に及んで説教ではないと思うけど、二人きりで話したい内容の心当たりがなかったから、同室の奴には今だけ出て行ってもらった。
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    桃本まゆこ

    TRAINING沢深だけど沢が影も形も出てきません。深に片思いするモブ女の一人語り。苦手な方はごめんなさい。
    モブの名前は山内恵令奈ちゃん。ほんとに何となく付けただけですので、もし同姓同名の方がいらっしゃってこの名前は嫌だ!とかあったら教えてください。すぐ変えます!
    金木犀/ひとりよがりの恋金木犀/ひとりよがりの恋

     私の好きな人は、ちょっと変わっている。マイペースで、いつもぼーっとしてて、無表情で、口を開けばピョンピョン言っている。バスケ部の特待生で、高校の頃は全国で一番バスケが強い学校のキャプテンだったらしい。
     背が高くて、いつも変な寝癖がついてて、手のひらが大きくて、いつもスエットやジャージ姿で全然おしゃれじゃなくって、優しくて、笑顔が可愛い。私の好きな人。


    「深津くん、おはよー」
    「山内さん。おはようピョン」
    「あはは! おはようピョン~」
     教室の隅にいる深津くんに駆け寄って、一つ離れた隣の席に腰を下ろした。月曜一限の授業なんて真面目に来ている学生はほとんどいない。教室の座席はガラガラだ。平日は毎日バスケ部の朝練があるらしく、深津くんは一限の授業も余裕なのだという。私はなんとか深津くんと同じ授業を取るのに必死で早起きしているっていうのに。
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    MAIKING9月のグッコミの無配です。
    高校生のころに曖昧な関係のまま終わった二人が大人になって再会する話。
    ※中途半端なところで終わります。全体の話の多分三分の一くらい。
    ※鼻血の描写があります。
    no title
     久しぶりの再会、という訳ではない。高校時代、共に汗を流して競技漬けの毎日を戦った友人たちは、バスケットボールの強豪大学に進むものが多かった。試合でことあるごとに顔を合わせていたし、大人になってからも何かしらか理由を見つけて集まっていた。それほど、修羅の日々を三年間最後まで共有しきった経験は強固なものだった。
     店を選ぶのは大概がセンスの良い一之倉だ。大衆的過ぎず、かと言ってオシャレ路線にも振り切らない丁度良いところをつくので、すっかり信頼されていた。
     その日、一之倉から指定されたのは普段よりも高級志向の料亭だった。
    都内一等地の広尾だけあって、金曜の夜なのに周囲の喧騒にはどこか品があった。携帯のマップを頼りに店を探すと、古民家然とした建物の前に着く。控えめな看板には、教えられた店名が達筆な文字で浮き彫りにされていた。仕事の付き合いでこうした落ち着いた店に来ることはたまにあるが、仲間内の集まりで選ばれることはほぼ無いような場所だ。
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