爪 頭の回転が速いからなのか犬飼先輩はじっとしているのを好まない人なんだと思う。
ソファに座ってぼーっと動画を見ている俺に少しずつ近づいて後ろに回ってきたり、なにかとイタズラを仕掛けてくる。ここで反応するとからかわれたりするから、俺はあんまり反応しないようにしている。
後ろから俺の腹に手を回してぎゅっとくっついてみたり肩にあごを乗せてみたりもする。心地よい体温や柔らかい髪の感触、時折り香るフレグランスのせいで平常心が保てなくなっていく。
そのうち後ろから俺の手をつかんで、指先をじっと見ていると思ったらセンターテーブルの下の引き出しから爪切りを取り出した。俺の右手の爪からパチン、パチンと切っていく。
そんなに爪、伸びてたかな?
わりとこまめに切っている方だと思うけど、犬飼先輩が気になるほど伸びてたなら申し訳ないなと思う。
「あの……爪、伸びてました?」
「うん、ちょっとね」
先輩は動画そっちのけで切った断面までガラスの爪ヤスリで滑らかにしてくれる。反対の手も同じように切っていった。
やっと終わった、と思ったら爪ヤスリの面を目の細かい方に返して、今度は爪の表面を擦り始めたのには驚いた。
「あの、そこまでしなくても……」
「ついでだよ」
両手の爪が全部きれいになるまできっと終わらない。もはやどっちが暇つぶしなのかわからなくなる。
「はい、終わり。お疲れ様」
美容室で髪を切った時のように言われて爪を見てみると光を弾いてピカピカと輝いている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
犬飼先輩はにっこりそう言ったっきり、いつもの様子に戻って飲み物を飲んだりお菓子をつまんだり、テーマパークの耳付きカチューシャを俺の頭に乗せてみたりしている。
誰が見てるわけでもないし、先輩は楽しそうだしまあいいか、と俺は最後のシュークリームに手をのばす。
○○○
「じゃあまたね」
「はい、また明日」
と別れて、家に帰って手を洗った時、先輩の本当の意図に気づいた。
タオルで水分を拭き取ると爪が綺麗すぎてびっくりする。爪の表面なんか磨いたことなかったから違和感がすごい。
いただきます、と箸に手をのばす時、ごちそうさまと食器を下げる時、明日の予習でシャーペンを握る時も、歯ブラシを使う時も寝る前にデスクライトのスイッチを押す時でさえ、爪が目に入って犬飼先輩のことを思い出してしまう。
犬飼先輩は一筋縄ではいかない。そんな当たり前の事を忘れていた自分が恥ずかしくなった。
○○○
一週間ほど立って爪が伸びてきた頃、犬飼先輩はまた俺の爪を切った。表面にヤスリをかけようとしたので、
「それは、ちょっと……」
と控えめに抗議してみたが、先輩はにこにこと
「なんで?」
と聞くので、あんまり爪が綺麗だと恥ずかしいんです、と俺はもごもごと理由を説明したけど、
「恥ずかしくないよ。辻ちゃんの指、すうっと伸びてて綺麗だから爪も綺麗にしたほうがいいって」
とよくわからないことを言ってそのまま、また表面までツヤツヤに磨かれてしまった。
自分は無意識に爪の表面を指でなでてるんだなと気づいたのもこの頃だった。いつもなら意識すらしない爪の表面が異様に滑らかな触り心地になっていて、俺はその触り心地の良さに眉根を寄せた。
そんな事が二、三度繰り返された。綺麗な山なりに整えられた爪にすっかり慣れてしまった頃、いつもなら勝手に俺の手を取ってまじまじと見つめていた先輩が、急に何もしなくなった。
毎日少しずつ伸びていく爪に焦燥感が募る。こんなに伸ばしたこともなくて、爪先が少し引っかかるだけで不快に感じる。
自分で切ってしまえばいいのだけど、勝手に切って
「あー!なんで勝手に切っちゃったの!」
と怒られはしないだろうか。
学校で会った時やボーダー本部への行き帰りでなんとなく犬飼先輩の様子を伺うけど先輩は飄々とした態度のままでいる。今の先輩に、
「爪が伸びてきたんですが、切っても良いですか?」
なんて聞く方が不自然だ。犬飼先輩だってきっと不思議な顔をして、
「え、爪?好きにすれば?」
と言うに決まってる。
そう思った途端、胸に強い悲しみが広がった。そんな事を言われるくらいなら勝手に爪を切って詰られる方が何倍もマシだ。
ただの犬飼先輩の気まぐれを間に受けて、期待して、先輩は実は俺のことなんかどうでもいいと思ってることを突きつけられるくらいなら。
家に帰ったら爪を切ろう。それで犬飼先輩が怒るならその方が良い。俺はそう決意した。
「あれ?辻ちゃん、爪長くない?」
たった今した決意を、たった一言で犬飼先輩が打ち砕く。
「はい。結構、伸びてきちゃって」
恥ずかしくなって、俺は手を机の下に隠してしまう。
「こまめに切った方が良いよ?爪の間にゴミとか入ると不衛生だし」
まるで他人事の口調に紙にインクが染みていくように哀しみが広がる。
「そうですね……。今日、帰ったら、切ります」
「そう?割れちゃうと悪いから、今切ってあげようか?」
思わず顔をあげると、犬飼先輩は見透かしたような笑みを浮かべている。
「あ……はい。お願いします」
「じゃあ医務室で爪切り借りてきて」
「……はい。とってきます」
たったそれだけで今までの悲しさが全て散ってしまう。
「ありがとう」
俺から爪切りを受け取った犬飼先輩は向かい合うように座って爪を切る。
切り終わると俺ににっこりと笑いかけた。
「ほら、ね。爪が綺麗だと気持ちいいでしょ」
そういう犬飼先輩の爪は、短いけれど磨かれていなくて、俺の爪ばかり熱心に手入れしているのだとたった今気づいた。
END