二回目 オレはもう死ぬなと思ったのは二度目のことだった。思いがけず助けられ、入院生活をするのも二度目のことだった。以前と違うのは、退院してからも病人のような生活をしなければならないことだった。
関東卍會と二代目東京卍會の抗争の折に、乾は瀕死の重傷を負った。電車が暴走し、さまざまなものをなぎ倒した。その下敷きになったのだ。下半身を押しつぶされ、これは死んだなと思った。だが乾は仲間たちに助け出され、病院に運ばれた。そのあとのことはよく分からない。なにしろ乾が意識を取り戻したのは、半年後のことだった。どうやら乾は数日間生死を彷徨い、奇跡的に助かったということだった。
潰されたと思っていた右足は元通りとはいかないようだが、どうにか歩くことはできる程度には回復した。バイクに乗れなくなったのは残念だが、命が助かっただけでもよしとしなければいけない。そのくらいの重傷を負っていたのだ。
乾が目覚めてから、しばらくすると、幼馴染がすっ飛んできた。堅気に戻った九井は大学を目指し勉学に励んでいるということだったが、乾が目覚めたと知って、とりもなおさず飛んできたらしい。眼鏡をかけたままで、髪は乱れていたし、足元はサンダルだった。
少年院に迎えに来たのが九井だけだったように、ここでもまた九井が飛んできてくれたようだ。
お礼を言いたかったが、意識が戻ったというだけで乾は瞼を開けているだけで精いっぱいだった。長い間寝たきりで、筋肉が落ち、体力も免疫力も底をついていた。ココ、と呼びかけた声に音はなかった。
九井が近づいてきて、乾の手を握り締めた。あたたかく力強い手に握りこまれて、思い出した。下半身を押しつぶされ、もう駄目だと思った時に、傍にいてくれたのは九井だった。その時もずっと手をつないで、名を呼んでくれた。
オレは二度もココに助けられた。
一度目に助けられた時は、ココのためなら命を差し出してもいいと思った。けれど二度目のいまは差し出すものがなにもない。
しばらくの間、九井はずっと手を握り締めてくれていた。
乾の療養のため、九井は東京郊外の一軒家を購入した。九井が東京を選んだのは、病院にすぐ駆けつけられるからだ。リハビリを経て、どうにか歩けるようになったとはいえ、乾に段差は厳しい。そのためバリアフリーの平屋建てのつつましい一軒家だ。以前の九井の部屋はどちらかといえばスタイリッシュだったが、今の家はすみやすさに重点を置いているためか、朴訥とした印象がある。
日の当たる南面の部屋で、乾は一日のおおよそを眠って暮らしている。長い入院生活で落ちた体力はいまだ戻らず、些細なことで頻繁に熱を出すようになった。よく言えば穏やかに、悪く言えば茫洋と乾は生きている。なにせ乾に稼ぐ手段はない。それどころか家事もろくにできない。すべては九井の好意に支えられてのことだった。
「イヌピー」
けれど九井の声はあたたかかった。
チームに入っていた時の棘はすべて抜け落ちて、おだやかな表情を浮かべるようになっていた。
「ちょっと休憩しようと思って。イヌピーも水分補給しろよ」
九井は医大に入った。理由など聞くまでもない。乾のために医師を目指すのだろう。自惚れではなく、確信だった。九井にはその知恵があり、能力があり、なにより努力を惜しまないことを乾は知っている。
勉強の息抜き、と称して九井は乾の様子を見に来たのだろう。手もっていたカップをサイドボードにおき、九井は乾をベッドに座らせて、熱を測る。流れるような動作は、この半年で慣れきったものになった。
「熱はないな」
九井はほっとした顔をして、乾にマグカップを渡した。カップの中身はジンジャーシロップを湯に溶かしたものだ。以前好んで飲んでいた炭酸はたまにしか飲まなくなった。カフェオレは一日二回だけだ。いまの乾は体にいいものしか摂取していない。
九井が取り寄せたジンジャーシロップはおいしくて暖かい。
自分だけコーヒーを飲むわけにはいかないと思っているのか、九井も律儀に同じものを飲んでいるのがすこし可笑しかった。九井に言わせれば、別々のものを作るほうが面倒らしいが、それならコーヒーをふたつ淹れればいいだけのことだ。
「この近くにカフェがオープンしたんだ。イヌピーの体調がいい時に行ってみようぜ」
なにげない言葉に頷きながら、九井の視線を感じる。九井は乾のことをよく見つめている。最初は体調管理のためかと思った。むろんそれも大きな理由だろう。けれど九井の目の底にあるのは恐怖だった。九井は乾を失うことを恐れている。九井は死を恐れている。赤音に続き、乾を失うことを恐れている。
あまくて暖かい飲み物を口にしながら、乾は考える。
オレはココのためなら死んでもいいと思っていた。
いまのオレは生きている。
ココのためになにもできぬまま、茫洋と生きている。
気がつくと乾は眠っていた。体力がなくなっているためか、こういうことは多かった。ぼんやりと瞼を押し上げると、目の前に九井がいる。九井がベッドにもぐりこんでいることもまた、よくあることだった。九井の手が乾の手を握り締めている。乾が生きているのかを確認しているのだろう。
乾はそっと指を絡めた。九井の手は長く細く、ペンだこがある。九井の努力の証だ。九井はいまだ乾のために尽くそうとしている。
「ココ」
声はささやかだった。
「おまえは自分のために生きていいんだぞ」
九井がうっすらと瞼をあける。体力を失った乾とは違い、九井は昼寝などしなくてもよかった。横になって微睡んでいただけのようだった。
「オレが医者を目指しているのは、だれかを救うことができるかもしれないと思ったからだ」
「オレのためじゃなくてか」
「もちろんイヌピーもだけど。赤音さんを失って、オレは金を稼ぐことばかり考えていたけれど、医者になる道もあったんだって思い出した」
それが出来てしまうのだから、九井ははすごい。乾は溜息をつく。
「イヌピーにはオレを見ていてほしい」
九井の声には絶望を乗り越えた者だけが持つ強さがあった。
「オレが二度と道を外さないよう。やりすぎないよう。傍にいてほしい」
「……オレはなにもできないぞ」
「傍にいてくれるだけでいいんだ」
九井の表情はおどろくほど甘い。実際九井は乾に甘えようとしているのだろう。以前の九井なら乾に弱みを見せようとしなかったのに、今の九井は弱みを見せたうえで甘えさせてくれと乞うている。ずるいな、と思う。乾の幼馴染はいつの間にこんな強かな大人になってしまったんだろう。
「自分で言うのもなんだけど、オレは優秀だから、医者でも弁護士でもサラリーマンでもなんでもなれる。どのみちイヌピーには苦労させないよ」
どんな未来であってもいっしょにいることは、九井の中では確実であるようだ。
九井がしれっとした顔で言うものだから、笑ってしまった。
「自分で優秀とか言うなよ」
心なしか弾んだ声を出してしまった。まるで子供の頃みたいに。それがわかったのだろう。九井がはっとした顔をして、そして次の瞬間に少年の顔もで笑った。
「だって、ほんとうのことだろ」
九井がためらいがちに、けれどしっかりと乾の身体を抱きしめる。
「マブだろ。オレのそばにいてくれよ」
「マブってなんだよ」
「イヌピーがそれを言う?」
呆れたような、それでいて嬉しさを含ませた九井の声に、乾は両手を広げ、九井を抱きしめた。
「心配をかけてごめんな」
九井が強く抱きしめ返してくれたことが答えだろう。
あたたかい腕のなかで乾は目を閉じた。
乾青宗は生きていてよかったのだ。