心の実る処【治北】① 散々ためらった末に信介は漸く戸のくぼみに指をかけた。途端、炊けた米と出汁の温かい香りが一気に胸を満たした。
「いらっしゃいませ!」
店内から威勢の良い太い声が響いた。
「お客さん、店内ですか、お持ち帰りですか?」
「えっと……」
カウンターの向こうから帽子を被った男が同じ声量で聞いてきた。まさか選択肢があるとは知らなかった。店内を見ると座敷の席に家族だろうか、一組座っていて、数席のみのカウンター席には一人掛けていた。
店員を見るとにこにこと笑ってこちらの返事を待っていた。
「そこの席、空いてますか?」
カウンターの角の席を指差すと、どうぞ、と男が着席を促した。座ってから改めて店内を見渡すと、カウンターもテーブルも深い飴色になった木材で床は石のような硬い材質でよく磨かれているのがわかった。
最近開店した店だという。この土地の米を使い人々が温かさを持ち寄り、そして幸福を抱えて帰るのだと聞いた。一体どんな店なのか以前より気になり、信介の仕事としても確認をする必要があった。
先ほどの店員がおしぼりと水が入ったコップを目の前に置いた。どうやら店員は彼のみらしい。
「ご注文は何にしますか?」
先程の太い声は幾分柔らかくなって耳元に降りてきた。聴覚に心地良さを覚えて、その声の出どころに顔を上げた。
そして、はっとした。それは稲穂の上を疾る爽籟のようだった。
高いところにある顔。意志の強さを表すくっきりとした眉。磨かれた水晶のような目。通った鼻筋と厚めの唇は気高い愛を語るだろう。そして、新月の空のような黒い髪と明けの空のような薄墨の瞳。
黄金の実りを鳴らして秋を告げる、涼やかで確かな風のような顔立ちだった。
「お客さん?」
「あぁ……えっと、おにぎり屋、なんですよね」
「そうですよ」
「あなたが店主ですか?」
「へ? あぁ、はい。俺が店長です」
「そうですか……したら、おすすめのおにぎりを二つください」
男が顔を壁に向けた。そこには黒板がかけられていて白文字で、今月のおすすめ、と書いてあった。
「なら、トマトの炊き込みご飯と……じゃこはいかがですか?」
「それでお願いします」
「はい。少々お待ちください」
そう言って被っている黒い帽子の端を摘んで微笑んだ。
「治ちゃーん! こっち、追加お願い!」
「はぁい!」
黒い帽子に黒い髪、黒の服。なのに明るく見えるその背中を見て、おさむ、と音なく呟いた。その言葉はぽたりと胸に落ちて波紋のように静かに広がって体を温めた。
カウンターの向こうは調理場で、その男は湯気が立つ米を握りながらかけられる声に応え、客の前に出ておにぎりを渡した。テキパキと動くその様子は忙しそうにしているが、余計な動作もなく雑に音も立てず、見ていて楽しかった。
水を何口か飲んだときだった。目の前にそれが出された。
「お待たせしました」
白い四角の皿に乗った二つのおにぎりだ。米一粒ずつが天井からの灯りを反射して瞬いている。それを包む海苔は海の深い香りがする。赤いトマトの果肉が瑞々しく、じゃこもたっぷり混ぜ込まれていた。皿の端には大根の角切りと斜め切りの胡瓜の漬物が添えられていた。すでにここまでで人が集うのも納得できると思った。
「……」
皿を置いた手を黙って見つめてしまう。決定的なのは手指だった。
「いただきます」
「はい」
再び微笑んだ男が他の席に回っても、まだ目の前にその手があるかのように錯覚する程頭から離れない。
皿を持つ手の小さな筋肉の隆起と節々が目立つ指からは、大切に運ぶための神経を巡らせているのがわかる。そして皿を置くときには大きな音を立てないようにと繊細な力加減をしている。
思わず見惚れてしまった。残像にすら目を離せないでいる。そうしながらいよいよおにぎりに齧り付く。
「わ」
思わず声が出た。ほかほかとした甘い湯気を吸いながら三角の山を口に含むと、まず海苔が香ってトマトが主張して、そして塩味が引き立てた米の旨みが感じられた。たまらず、二口、三口と続けてはぐはぐと食べる。
「……美味し」
「ありがとうございます」
カウンター越しの三日月の目と合う。途端にぐっと胸が苦しくなっておにぎりが詰まったのかと思い、水を一口飲んだ。
「……おさむ、さん」
「へ?!」
「あれ、お名前、間違うてましたか?」
たしか先程その名前で呼ばれていたと思ったのだが。
「え、あっ、いえ、合うてます」
「このお店はいつから?」
「オープンして半年経ちました」
「そうですか」
「お客さんは、家近いんですか? それともお仕事が?」
「……仕事が、この辺りの担当で」
嘘ではない。けれど本当のことを全て言わずに済む程良い応えを今日も使った。
「気に入ってくれはったら、また来てください」
「はい」
そうして調理場から出て他の客におにぎりを持って行った。
二つのおにぎりを食べ終わるまで、カウンター越しに動きや表情、手指をずっと見ていた。見続けていられるほどその姿はとても輝いていた。
◇
「よぉ、信介」
社の渡り廊下の向こうに友だちを見つけてアランは声をかけた。
「お務めの帰りか?」
「おん、今月の報告しに行っとった」
尾が白い毛の狐がこちらを振り向いてそう答えた。
アランの務めは、稲荷崎地域の山の実りの管理で、信介は同じ地域の米の実りを管理することだった。同い年で管轄が近いこともあって特に親しくしている友の一人だ。
「最近よぉ人間に変化して、どこか行っとるらしいな」
友と呼べる親しい間柄になってからもう何十年も経つ。アランはいつもと変わらぬ気安さで問うてみた。
「……それが?」
ところが、信介は僅かに表情を緊張させた。仲間内ではアランと信介だけが毛色が茶や黄土色ではなく濃い醤色と白だったが、その雪のように白い毛に覆われた尻尾をピンと伸ばした。
「いやいやいや、何警戒しとん?!」
「……特に、なんも」
「なんもちゃうやろぉ。俺らが人型になることって、人の街に行くときくらいやんか」
「……まぁ、せやな」
「せやから、最近なんやよう変化しとるなって思ったから聞いただけやん」
現に今、二人が仕えている豊穣神の神官へ報告をしに行った信介も、これから里山へ下りて様子を見てこようと思っているアランも袴を着た半獣の姿だった。
「……少し前に、稲荷崎の米使ぉてる飯屋ができてん。そこの様子見に」
「ほぉ。稲荷崎の米」
「おん」
「まぁ、なら気になるなぁ」
神に仕える狐の役割は、管下の実りやそれによる人間への影響などを監視し神官を通して神へ報告することで、必要に応じて神が施す奇蹟を見て学ぶことだった。アランは先月に山に入り梅雨の影響がどうなっているかを見に行き、夏には虫たちが飛び交い、秋には無事に葡萄や木の子が顔を出すだろうと報告をした。またこの夏は非常に暑く山の動植物への影響が心配だったが、報告内容は例年通りのものとなりほっとした。きっと田も同じような状況であっただろうと予想がつくが、頻繁に田や人間の営みを見に行っていることは理解できた。
「お前なら問題ないやろうけど、無茶すんなよ」
「おん、ありがとう。アランも気ぃつけて」
「おう。さぁて、行ってくるか」
アランは組んだ手を頭上に上げ伸びをした。
「いってらっしゃい」
「またな」
アランが背を見送る中、信介はおそらく自室へ向かっていった。
頻度が高い自覚はあった。あったどころか、いつ何時ごろどこで何をして、何を見聞きしたかをちゃんと書きつけていた。以前より頻繁に人の元へ下りていると分かりながらもまた次の予定を立てていた。
どうしても忘れられないのだ。多分、あのおにぎりの味が。そう思いながら自室の小さい座卓の上の蝋燭の灯りを頼りに、明日の務めを確認した。
アランにあのように言われても特に予定を変えるつもりはなかった。日中は社の奥の本殿へ行って祈祷をし、それが終わり次第人間の街へ下りてあの店へ行く。治という店員と夜に店を訪ねると約束をしているのだ。
寝巻きに着替え布団に潜り込む。どんなおにぎりを食べることができるだろう。どんな言葉を交わすだろう。珍しく逸る心を自ら宥めて瞼を閉じた。
数時間に及ぶ祈祷を終えて、敷いていた座布団を持ち上げる。以前よりもややくたりとしてきたそれを見て、綿を詰め直した方がいいかも知れない、明日の夜なら時間がありそうだと思い至った。
「信介ぇ」
長時間唱え続けてかさついた声が呼んだ。
「はい」
その方を向くと豊穣神の神官であり、信介やアランにとっての長である黒須が手を振って招いていた。座布団を持ったまま側へ行くと、あんな、と声量を落とした。
「お前の誕生日」
「はい」
「とぉに過ぎとるけど、ほんまに何もいらんのか」
「はい。何もお気なさらず」
「別に無理に高価なもん考えろ、言うてるわけやないで」
「わかっとります」
黒須はがっかりしてる、と言うのが目に見えて分かるように肩をがくっと落とした。
「まぁな、ほんまにええならええねんけど。神さんに、信介はまたいらんのか、何かないんかって聞かれてん」
「それは、かえってお気遣いいただいてしもぉて。すみません」
「どうせアランも、三日間の休み、とか言うねん。多分兄弟たちを遊ばせるんやろうな」
そういえば少し前に兄弟たちにとても喜ばれたとアランから聞いた。
「ええか。誕生日の神さんからの贈りもんちゅうのは、そこまでの一年の務めに対する褒美なんや。別に遠慮するもんでもなんもない」
「わかっとります」
「なのにお前らは。たった三日間の休みやら、団子やら……お前に関しては、これまで一度も受け取ってないやん」
「お務めはせなあかんことですから。褒められることでもないので、私はご遠慮申し上げています」
はぁー、と黒須は深い深いため息をこぼした。このやりとりは信介が覚えている限り、去年も一昨年もその前も、その前の前もしたと思う。もしや、務めが終わるまでこの先一生続くのだろうか……自分が辞退していることが迷惑をかけているのなら、そろそろ一つ、西瓜が食べたいと言ってお受けした方が良いだろうか。
「まぁええねんけど。神さんもお前の務めは褒美に値するとお考えやし、もし何か思いついたらいつでも言うてええからな」
「はい。有難う御座います」
ではこれで、と座布団を抱えたままその場を辞した。
明日縫い物ができるように自室へ座布団を置きに行ってから人間の街へ下りて、一通り収穫の様子を見てから店へ向かおう、と頭の中で予定を反芻しながら信介は廊下を渡って行った。
「あ、いらっしゃいませ!」
慣れた店の戸を引いていつものように暖簾を潜るとあの通る声が聞こえた。
「まだ時間大丈夫やった?」
「はい! むしろお客さん帰ったとこやったんで、ちょうどよかったです」
確かに店内には誰もおらず客は自分一人のようだった。
「すまんな。定休日前に、こんな時間ギリギリになってしもうて」
信介はカウンターの中、調理場の様子がよく見える席に座った。最近はこの席を気に入っており、他の客が座っていなければここが信介の定位置だった。
「いえ。ゆっくり話せるんで、ほんまにちょうど良かったです」
「話?」
治が調理場から出て湯呑みを二つ、カウンターにコト、と置いた。
「あ、いえ。その、米のこととか聞きたくて」
「あぁ」
「あと、これ。今月のメニューなんですけど」
目の前に出されたおにぎりは、淡い生成りのような色の米の中に黄色いものがごろごろと入っている。
「これは、さつまいも?」
「そう。さつまいもごはんのおにぎり」
「へぇ。美味しそうやな」
「北さんに試食してほしくて」
「……俺が?」
名前を聞かれ、こういう時によく使う名称を伝えた。あくまでも仮の呼ばれ方にすぎないその名でも、治の声で呼ばれると少しどきりとする。人の暮らしを覗くようになって数十年経ち幾度も「北さん」と呼ばれてきたが、治の声はどこか特別なのかもしれない。
「はい。感想聞きたい」
これまでは家族や常連さんに試食してもらいながら改良してきたのだという。
「ちゃんと言えるやろか……」
ある時、信介の職業を聞かれた。何度か通ううちにすっかり顔馴染みになった時、米に関する仕事だと伝えた。嘘は言っていない。すると、農業系か何かかと聞かれたのであながち間違ってもいないと思い肯首すると「食の先輩や!」と喜ばれてしまった。
「なんでもええです。北さんの思うままで」
治は信介の隣に座りカウンター席に並んだ。緊張をしているようで服の上から腿をすりすりとさすり落ち着かない様子だった。
「期待、すんなよ」
米の出来の良し悪しについて分からないわけではない。けれども、おにぎりになった米の味の良し悪しは何ぶん慣れていないのでうまく言葉が出てくるか自信がなかった。
治が首だけで、うん、と頷く。
「……いただきます」
信介はいつものように両手でおにぎりを掴み、三角の頂点を齧った。治がカウンターに目を落としているのが視界に入っていた。
「……美味しい」
「ほんまですか?」
「おん。芋が、ほくほくしてる」
「試しにしっとり系のさつまいもでも作ってみたんですけど、焼き芋で食うた方が美味しくて。ほくほく系が方が合うみたいです」
「……ん。俺はメニューに出てたら食べるし、季節が終わる前にもう一回は食べに来たいて思う」
「よかったぁ」
「あくまでも俺は、やで」
「参考になります。ほんまにありがとうございます」
ほっと息をついてお茶を飲んだ治を見て、信介も湯呑みに口をつけた。胸の中がじんわりと温まった。
「これは、黒胡麻とか載せんの?」
「それなんですけど」
治が調理場に行き、一つおにぎりをお皿に載せて持ってきた。それは今、信介が食べたさつまいものおにぎりとよく似た見た目をしていた。
「栗ご飯と色とか見た目が全く同じなんですよ」
「確かに」
栗ご飯のおにぎりは先月食べた。夜空に浮かぶ月のような輝きのある黄色をしていて、黒胡麻との色の対比が非常に美しかった。
「こっちにも黒胡麻乗せたら、美味しそうなんですけど見栄えが変わらんくて」
「うん」
人の食文化に近しい仕事をしているが、その文化の中で大切にされている彩や季節の変化ということには信介は疎かった。人間の感覚や色彩の認識はきっと狐と違う。何も助言はできないし、助言できる立場ではないながらも、お茶を啜りながら、栗とさつまいもの違いを考えていた。
「あ……皮か」「皮をね」
「……あっ」
言葉が重なって、思わず目が合った。
「ふふ、そうなんですよ。皮をつけたままでもええかなって思って」
治は笑って話を続けた。
「せやな」
「そういうレシピもいっぱいあるんで」
「ええかもな」
「で、つい今、北さんが来る前に色々調べたんですけど、塩昆布も合うらしくて」
「へぇ」
「……北さん、また近いうち来てくれる時あります?」
「え」
「難しかったらええんです。忙しいと思うし」
帽子の下、影になっている目がちらちらとこちらを見ている。
「無理にってわけでもなくて、その、また試食してくれへんかなと、思って」
ご馳走させてもらうんで夕飯兼ねて、と治が言葉を重ねる。
「……やっぱ、忙しいですかね?」
信介が何も言わないことで不安にさせてしまったようだ。
「ううん、ちゃう。嬉しい。ありがとう。いつ来たらええ?」
「よかった。えっと、無理なければ来週のどこかは?」
「ええよ」
一週間先くらいならおおよそ予定は頭に入っている。日時を相談して決めた後は、治の仕事と米について話をした。今年はどの田んぼでも実りが良く、米の質も悪くなかったことを伝える。治は、それは嬉しそうな顔をした。
「新米が楽しみです」
「俺も」
営業で残ったという味噌汁をもらって、さらにお茶のおかわりを注いでもらったときはもう二十二時を回っていた。
◇
「探しもんは見つかったか?」
声をかけると古くからの友人は、はっ、と気がついた様子で壁の時計を見やった。書庫で調べ物をしたいと言われ鍵を渡して以降、思ったよりも戻りが遅いので様子を見に来たのだった。
「練、すまん」
「ええよ。なんや集中しとったから、声かけそびれたわ」
信介は手にしていた記録書を書架に戻し、練が立つ出入り口に向かってくる。書庫の外の廊下の窓からは夕焼けが見えていた。
「何調べとったん?」
扉に鍵をかけてそう問いかけると、この友にしては珍しく、あぁ、と言い淀んだ。
「まぁ、別に無理には聞かんけど」
「……すまん。その、いずれ」
「気長に待つわ」
笑って見せると表情がほぐれ礼を言われた。書庫の管理が担当業務の一つである練は、信介が見ていたのは、人間の社会において狐が関わった出来事を書き記した記録書の棚であることが分かっていたが、一旦は言及しないでおいた。
「今年は豊作やったらしいな」
「おん。夏は天候や気温が不安定やったから、ほっとしたわ」
「真面目やな」
「仕事やからな」
「そうか」
実際に、人の社会で豊作でも不毛でも、狐たちの生活には影響はない。仕事としてやることが変わるだけで、豊作になれば生活が豊かになり不毛であれば貧しくなる、ということもない。それでもこの友である白い狐は豊作になれば嬉しいらしい。
「今日はもうこれで終わりか?」
「おん」
「この後路成と団子食うんやけど、寄って行かへん?」
「十三夜のか」
「おん。明日は忙しいからな。今日のうちに」
収穫に感謝する十三夜の祈祷は、豊穣を祈る十五夜の祈祷同様に長い時間を要する。それが明日であり、団子など食べている時間はないので今のうちに季節を味わおうと思っている。
「俺の分あんの?」
「多めに買うて来たから気にせんでええ」
なら寄ろうかな、と信介が後をついてきた。
まさか数ヶ月後に、友のあんな顔を見ることになるとは思わず声をかけたのだった。
「おー、信介!」
社に務め始めたばかりの狐たちを育成教育する業務の路成と信介は久しぶりの席だった。
「元気やったか?」
「まぁな! お前も元気そうやな」
練の部屋に着くと先に到着していた路成がすでに中で待っていた。使い混んで艶のある卓に三人が着くと、盆に載せた団子を練がそれぞれに配った。
「聞いたで! 最近人間の店によぉ行っとるらしいやん」
「……は」
「何、その人間のこと気に入ったんか!」
「っ?! ごほっ! ごほっ……っ!?」
大丈夫か、と信介の背中をさすったが、その目は大丈夫なわけあるか、と言っていた。
「おい、路成、勘弁したれや」
「やって、たぶんこいつにぶいで。なぁ、どうなん」
「こほっ……どうって、何が」
「だから、気になる人間がおんのかって」
信介が一口お茶を飲み直した。
「おらん」
「おらんー?」
「この話は終いや。仕事の話しようや」
ええー嫌やー、と駄々のような路成の言葉を無視して信介は団子を串に刺して口に運んだ。この団子は甘さが控えめで、口の中にはほのかにもち米の香が残るのが心地良かった。
「練、この団子、三日月屋のやろ」
「せやで。ちょっと並んで買うた」
「やっぱり美味いわ」
「おい話変えんな」
「話すことないもん」
「ほんなら」
路成も口に団子を一つ放り込んで、片頬に含みながら話を続ける。
「おい飲み込んでから話せ」
「なんで、おんなじ店ばっか行くねん」
「なんでって、特に理由はないわ」
「いや、信介に限って理由がないわけないやろ。なぁ?」
練は話を振られてもお茶を飲んで、せやなぁ、と曖昧に相槌を打つだけでどちらの味方もしなかった。
「あの店の何がええねん」
「何って……普通に飯が美味いで。おにぎり。稲荷崎の米やし」
「ふんふん。ほかは?」
信介がまた団子に手を伸ばす。この三日月屋という店の団子は、十五夜や十三夜の日中は行列ができるほどの人気商品で、仕事が忙しいとなかなか口にできないものだった。
「仕事が丁寧」
「わっ、お前っぽい」
「せやから、人間のとこで仕事したときは、そこで飯食うねん。それだけや」
もぐもぐと咀嚼する。このもちもちとした食感が信介は好きらしい。二人の会話が続くので練も口に放った。
「どんな奴やねん」
よく噛んで風味を味わいながら飲み込んだ後は、お茶の香ばしい香りを楽しんだ。このお茶も人気が高いものをわざわざ買いに行った。路成は気づかないかもしれないが、きっと信介なら気づいているだろう。
「どんなって……手ぇが綺麗」
「へ? 手?」
練は湯呑みを口に運ぶ手が止まった。路成が調子の外れた声を出したので、同じく驚いているらしい。
「おん。毎日毎日、努力を続けてる手」
「……他は?」
「うーん」
お茶を啜った信介は一息ついて窓の外を見やる。練も釣られて窓の向こうに目をやると、黒に近い深い紺色の空に満月に近い丸い月が浮かんでいた。
「目かな」
「目ぇ?」
「沢山見て、悩んで、考えてきた目やと思う」
「はぁ」
路成は呆れたような声で相槌を打ち、団子を二つ一度に口に入れた。
「声もええな。真っ直ぐで、嘘をつかない声や」
「……信介、お前」
「なん」
「よぉしゃべるな」
「お前が聞いたんやろ」
「いや、そうやなくて」
練に向けられた顔は何か言いたげな、感情がはっきりしている路成にしては珍しい表情だったので思わず苦笑いしてしまった。
「何や」
「いや……ほんまに好きなんやと思うて」
「……は?」
「お前のその顔」
「顔?」
「なんか見たことない顔してるで」
「失礼やな」
「いやちゃうくて! うーん……なぁ練ー」
「いや、まぁ、好きなんは悪いことやないんから放っておいたらええんやない」
「好きちゃうって」
ならばなぜ先ほどは書庫で狐と人間の間の出来事の記録書を読んでいたのか。過去に同じような出来事がなかったか調べていたのではないか。慎重な性格ゆえ、今までに例を見ない逸脱したことなのではと心配しているのではないか。そう問いたかった。
「はは、わかったわかった」
でも憚られた。余計な水を刺さず、彼の中に芽生えた何かを彼らしく楽しんでもらいたいと、余計なお世話かもしれないが心の中で応援の言葉を述べた。
信介は自室へ続く廊下を歩きながら、あ、顔そのものが好ましいのかも、と思った。この季節、足袋で木の板を歩くのはだいぶ冷えを感じるようになったが、不思議と今夜は床の冷たさは気にならなかった。
下がり気味の太く整った眉や鼻筋、微笑んで細まる目、大きく頬張る口と自分より厚い赤い唇。顎の線までも精悍で、信介が彼の店で見る穏やかさの裏には、きっと沢山の汗水を流して、歯を食いしばるような事も経てきたのだろうと推測された。そういった歴史を経てあの穏やかさなのだろうと勝手に思い描き、好ましく感じた。
それから二日後、先日試食をさせてもらったさつまいものおにぎりがそろそろメニューに載る頃だと思い信介は店を訪れた。
指を引っ掛ける戸の窪みも手で払う暖簾も、信介の手に馴染んでいた。店に入り呼びかけに片手で答えると、ちょうど空いていたいつもの席に座る。首を回し壁の黒い板を見上げると、さつまいもご飯、の文字を見つけた。ニコニコとおしぼりとお冷を持ってきた治に注文を告げてしばしその時を待った。
今日も店内ではあちらこちらでおにぎりを頬張る人の様子があった。いつも人間の昼食や夕食の時は店内で食べる人や持ち帰り客で賑わっていた。以前何の考えもなしに金曜日の夜に来てみると酒を飲む客や団体客もいて一層賑やかだった。人々に愛されてることがわかり嬉しく思った。
何度もこの店に通っているうちに客の話し声や治の調理の音が耳に心地良くなっていた。
「前からすんません」
治がカウンターの上から渡す味噌汁椀と、次に小鉢の胡麻和えを受け取る。それらを置くと続いて治がおにぎりが二つ載った皿を差し出した。
「今日も繁盛しとるな」
「お陰様で」
信介はそれを受け取ろうと手を伸ばした時──
「っ」
治と指が触れた。顔がカッと熱くなった。
「すっすまん」
咄嗟に治と目が合って慌てて手を引くと、喉が震えた。
「……いいえ。はい、おにぎり」
「あ、りがとう」
笑んだままの治から皿の端だけを持つようにして受け取った。自分は今どんな顔をしているのか知るのが恐ろしいほど、信介は顔が熱くて熱くて仕方がなかった。
新作のおにぎりは、小さい角切りの皮が付いたさつまいもと黒胡麻が混ぜ込まれていて、紫と黄色、黒と白が見た目に華やかだった。栗ご飯と似てしまうことを危惧していた治はきっと工夫を重ねたのだろうと推測できた。
それなのに味がほとんど分からなかった。
顔は見せられなくて俯いたままそそくさと食べて店を出てきてしまった。治がどんな顔をしていたのか見ることができないまま、だいぶ冷えるようになった夜風を浴びて信介は黙々と道を歩いた。きっと美味しいはずだったおにぎりを味わえなかったことを早くも悔やんだ。
失礼なことをしてしまった。みっともないところを見せてしまった。情けない自分を恥じて夜空に浮かぶ月に合わせる顔がない。
そう思いながら足元だけを見ながら足早に石段を登った。目の前に聳える鳥居の前で一礼をして左側を歩き潜った。瞬間、淡い光に包まれると信介たち狐が暮らす街の入口に着いた。
信介は、ふるっと首を振って耳や尻尾を出すとほっと息をついた。まだ顔は熱い。あの時、驚いたあまり狐の部分が出てしまわなくてよかったと今になって心から安堵した。それでも足を運ぶ速度は変えずに提灯が灯る夜道を、人間の街とは異なる土や石畳の道を只々歩いた。
翌朝起きて布団の上で信介は思った。
まだ指先に感触が残っている。思いの外柔らかい皮膚、合わさった目の静けさ、深い灰色の真っ直ぐな瞳。
あんな醜態を晒してしまってもまた会いたい。できればもっと触れて、もっと見つめて、もっと言葉を交わしたい。
そうか、自分は紛れもなく恋をしている、と漸く気がついた。