【不滅の薔薇と白いボロ切れ】むかしむかしのそのむかし。
大変美しい薔薇のような青年がありました。
青年と同じように美しい母は人間でしたが、力強く恐ろしい父は炎の神でした。
兄や姉達はごく普通の人間でした。
しかし、末息子である青年の強さ美しさ聡明さをいたく気に入っていた父神は、青年に祝福を与えました。
青年の心臓を神の国に移してしまい、青年は死なずびととなってしまったのです。
いつまでも若く美しく、どんな酷い怪我も見るまに治ってしまう死ねない身体になってしまいました。
この為に母は人々から「悪魔を生んだ魔女だ」と迫害を受け、心を病んでしまいました。
自分がいる限り、どこに行っても同じ扱いを受けるだろうと思った青年は母達の元を去りました。
呪われた永遠の命を得た青年の、長い孤独の日々が始まりました。
横暴で傲慢な炎の神を嫌っていた女神、茨の姫の協力で青年が身を潜めた城は薔薇の結界でほぼ閉ざされており、体の大きな父神は入る事ができませんでした。
しかし同時に父神の祝福を受けた青年もまた、城から無事に出るには人間の血を飲み特別な魔力を得るしかありませんでした。
ですが青年は心を閉ざしたままそこから出ようとはせず、青年を外の世界へ連れ出そうとする父神から時折贈られてくる血液も拒み続けました。
それでもこの身体は人間とは違い、何も口にせずともなかなか死ぬことはありません。
自分の体が心做しか細くなること以外、何も変わらない日々が何百年も続いたある日のことでした。
薔薇の庭にいつもは無い、白いものが落ちています。
それはぼろぼろの布切れでした。
初めは風の悪戯で外の世界から飛ばされてきたものだと思いました。
しかし、中からゆっくりと小さな子供が出てきたのです。歳の頃は4、5歳ほどでした。
ここまで来るには茨の小道を通ってこなければなりません。
青年はもちろん通ることができませんが、人間にとっても険しい道のりです。
身に纏う白い布をあちこち引き裂いて、どうしてこんな所に人間が紛れ込んで来たのか、青年は不思議に思いました。
目の色も髪の色も見たことの無い翡翠色をしたその子供は遠い異国で人攫いにあい、奴隷として売られ運ばれている途中に逃げ出したのでした。
狭い木箱に閉じ込められたまま何日も馬車に揺られ、何処をどう通ってここまで来たのか。もう本当の家は何処にあるのか、サッパリ分かりませんでした。
子供は独りぼっちでした。
数日かけて子供は元気になっていきました。
青年は初め、ぼろぼろなのによく喋り、ころころと表情を変えるその子供をとても疎ましく思いました。
この子供の血を青年に飲ませようという父神の差し金かもしれないと訝しみ、心を開くことはありませんでした。
しかし何処にも行くあてのない子供に対し青年は「ここに居ていい」とも言わず、かと言って「出て行け」とも言わず、
子供はそのまま城に居着くこととなりました。
青年は子供に深く関わろうとはしませんでしたが、自分は口にすることのない食料庫の存在を教え、
食べられる植物や役に立つ道具の話もそれとなく子供に伝えました。
生身の人間がここで生きる術を。
死なないで済む方法を。
ぽつりぽつりと子供に話す内に青年は、随分とむかし自分が普通の人間だった頃のことを思い出していました。
子供は勤勉で、教えた事をすぐに覚える聡い子供でした。
細かく面倒を見ている訳でもないのに、子供は色んな事を学びながら、少しずつ逞しくなっていきました。
一方で、長年血を飲んでいない青年は僅かずつですがその身体にかげりが差してくるようでした。
ある日、時折送られてくる液体の正体を知り、青年を心配した子供が自分の血を飲んでほしいと言いました。
自分はなんにもない木偶の坊だけど、飲ませてあげる血ならあると。
「そんなものは要らない。」
青年は断りました。
子供は黙ってうつむきました。
しかしある日のこと。とうとう限界に近付いたのか、薔薇の庭で青年の意識が遠のきました。
気が付かない内に、ただ薔薇の庭に居るだけで意識を失うまでに身体が弱っていたのです。
いつか弱って死んでもいいと、青年はずっと思って生きてきました。父神の意のままにならず、自分はここで朽ち果てても良いと。
しかしふと気が付くと、心配げに青年を覗く潤んだ翡翠と目があいました。
青年は何故か数百年ぶりに頭がハッキリとしています。
子供が青年に自分の血を飲ませていたのです。
不器用に茨の棘で切り裂いた子供の右手には、大きな傷痕が残りました。
魔力を養う程ではない少しばかりの血でしたが、青年の無くした心臓にまでその血が巡っていく気がしました。
穢らわしいと思い込んでいた血が、こんなにもあたたかいものだと知ったのはこれが初めてのことでした。
ある日、子供が言いました。
僕が今までこうして生きてこられたのは君のおかげだ。
これまでの恩を返させてほしい。
そう言って、子供は青年に首元を差し出し、
青年もまたそれを受け入れました。
血の匂いは優しさに満ちていました。
(僕がもっと色んなものを持っていて、優しい君を、救けてあげられたらいいのにな)
しかし、人間はとても弱い存在です。
夜が冷え込み始めたある日のこと。
子供は高熱を出したきり、何をどうしても熱が下がることがありませんでした。
これ以上尽くす手がないまま三週間が経ったある朝。
子供は青年の手を握ったまま、穏やかに呼吸を止めて、再び翡翠の目を開けることはありませんでした。
子供だと思っていたのに、元気な時より痩せたのに、ベッドから抱き上げた亡骸はずしりと重く、いつの間にか自分とさほど変わらないくらいの青年になっていました。
いつもと変わらぬ薔薇の庭で白いボロ切れを見付けたあの日から、気が付けば十年以上の歳月が流れていたのです。
数日後、青年は薔薇の庭に亡骸を埋葬しました。
あの日茨の道を通る時子供の身を守ってくれた、あの白い布に包んで。
痛いこと、辛いことから少しでも守ってくれるように。
そして青年は、子供が迷い込む前のかつての生活に戻りました。
大きな物音で廊下を駆ける足音も聞こえてこない。
考え事を始めるとブツブツと止まらない独り言も聞こえてこない。
庭から自分を呼ぶ声も聞こえてこない。
自分を一喜一憂させる者のいない、
ただただ静かで平穏な、何事も起こることのない日常が戻ってきました。
青年は何をするでもなく、翡翠の少年が最後の朝を迎えたベッドの端に腰を下ろし、ただただ時計が時を刻む音を聞き続けていました。
どれほどそうしていたものか覚えていないけれど、夜になると窓から冷えた空気が吹き込むようになりました。
気が付けば季節が一巡りしていたのです。
それでもここの薔薇は絶えず枯れることを知りません。
それを少年が不思議がって観察していた姿をふと思い出しました。
その時少年は、まるで君のようだね、と言っていました。
君のように変わらないままずっと綺麗だ、と。
今夜は妙に明るく、空を見上げると満月が輝いていました。
その時、何故か聞き覚えのある声が聞こえた気がしました。
青年は立ち上がり外に出ました。
空耳なのは分かっていても。
少年の亡骸が眠っている薔薇の庭に。
青年の美しい顔には、大きな火傷の痕がありました。
薔薇に触れるとその身から炎が噴き出し火傷を負ってしまうのです。
青年が城に来た日、
左に負った酷い火傷はその時のものでした。
決して死ぬ事はなく、時間が経てば傷は治ってしまうものの、それでも薔薇に触れた火傷は普通の怪我とは違い幾らかの痕が残るほどのものでした。
それを知りながらも青年は、近くにあった薔薇の花を一輪手折りました。
少年を埋葬した場所に供える為に。
しかし、薔薇に触れても何事もありません。自身からの炎に身を焦がされ激痛に苦しめられるが、何の変化も起きず薔薇に触れられるようになっている事に気が付きました。
人間の血を飲めばこの薔薇の結界から出られる。
しかし、いつの間にかそんな事はすっかりと忘れてしまっていたのです。
ふと脇を見ると、あの日子供だった少年がやってきた茨の小道がありました。
青年は吸い寄せられるように、今まで通れなかった茨の小道を通り抜け、少し拓けた場所に出ました。
薄ぼんやりと明るい光が目に飛び込んできました。
そこで見たものは、宙に浮かぶ白いぼろ切れでした。
空洞の筈の胸の中で、心臓が大きくはねたように感じました。
風の悪戯で飛ばされてきた、ただの白いぼろ切れだろう。茨の棘にでも引っかかっているのだ。
そう青年は思うのに、目を離せず、身動きひとつ取れなくなってしまいました。
すると白いぼろ切れはゆっくりと振り向いて、 翡翠色の瞳を揺らしてこちらを見つめました。
そして、聞き覚えのある優しい声で言いました。
「えへへ…久しぶり。…元気だった?」
暫く何も言えずに凝視した後、青年は少年の姿が薄らと透けていることに気が付きました。
「おかしいな。僕、ちゃんとあの世へ行けなかったみたい。……君の事が気がかりだったからかな?」
青年は恐る恐る少年の右手に自分の手を伸ばしました。
そこには確かに、あの少年の感触が感じられました。
「────触れられる……」
「うん。僕自身が触れたいものには、触れられるみたい。」
あの時自分に血を分け与えてくれた、でこぼこした傷跡もそのままでした。
「僕、ね。ずっと意識があるような無いようなまどろみの中で漂っていて…、なのに今日はあの世とこの世の境目がないみたい。」
(年に一度、10月の終わりにそんな日があると聞いていた。
もしかして、今日がその日なのかもしれない。)
「あのね、僕。君にしてあげられること、ほんとに何にも無くなっちゃった。君に飲ませてあげる血も、もう、何にも無いんだ。」
「そんなものは要らない。」
少年は黙ってうつむきました。
少年の手を強く握りしめ青年は言いました。
「お前がいてくれればそれでいい。」
青年の目から涙がぼろぼろと零れました。
涙はあの日飲んだ血のようにあたたかく、
何百年も前にしか味わったことのない海のような味でした。
白いぼろ切れのおばけも大粒の涙を流してしゃくりあげ、震える声で言いました。
「───僕が消えてしまうまで、君は一緒に居てくれる?」
「あぁ。ずっと一緒に居る。ずっと俺の傍に居てくれ。」
そしてもしもお前が消えてしまう日がおとずれたなら、生まれ変わってまた会おう。
あの日お前に血を分けて貰った俺は、もう何処にだって出て行けるから。
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おしまい