■口吸いの話■「少尉は故郷に想い人なんかはいるのか?」
たまたま二人だけになった時に何気なく杉元に聞かれ、鯉登はひょいと眉を上げた。
「いるわけがなかろう。それに私はいつか旗手を拝命することを目標としているのだ。」
胸を張って続ける鯉登にそっか、と自分で尋ねておいて杉元はどこか気の抜けた返事をする。
「なら口吸いなんかもしたことはないのか?」
「口吸い…」
鯉登はひとつ瞬きをした。
「一度だけある」
「へぇ?」
「叶うことならいつか旗手になりたいと月島に話した時に。そう、それでだから口吸いだってしたことはないと私が話したら」
『そうですか』
月島は平素の無表情を崩すことなく鯉登の目の前に立った。
『旗手は品行方正、重ねて童貞処女であることが望ましいと言われていますが…』
そんなことは知っている、と言おうとした口を唇で塞がれて鯉登は固まった。
『あまりにまっさらだと神に好かれて短命になりがちですし、逆に何者にも染まりやすいからこそ悪魔に手を引かれたりします。』
至近距離で見つめる下士官の目に光は差さない。
『ほどほどがよろしいでしょう』
『…覚えておく』
かろうじてそれだけ答えると月島は一歩下がって軍帽を目深に被り直した。
「あの一回だけだな」
淡々と話す鯉登に杉元は身じろいだ。
「鯉登少尉はそれでよかったのか?」
「よかったって、何がだ?」
「初めてだったんだろ?」
「別に必要ないからそうなっていただけで大事にしていたわけでもない初心なおなごでもあるまいし」
「私は知らなかったがまじないみたいなものだろう」
そう言って年若い少尉はそっと視線を落とす。
「まじないというか虫除けのような気がするがな」
ぼそっと杉元は独りごちた。
「虫?」
「ああいや、何でもない。それにしても月島軍曹、その様子だとおまえのことまっさらだと思ってるんだろうな。俺としては人を殺した時点で清らかもまっさらもないと思うが…」
杉元はぽつりと呟いた。
「それ以上は…軍曹のその感情は、俺が名前をつけてはいけないやつだな」