といえ「おいと といえ すっ?」
ソファからぴょこりと頭を出して首をことりと傾けた幼児にそう問われ、月島はしばらく考えて(トイレする…つまり連れションのことか…?)と独り合点した。
まだ小さい子だ、大好きな兄の友達として随分慕ってくれてしきりと名前を呼んでくれるが「月島」が「ちゅきちま」になりがちな子だ、しかも名前が四文字なのも長くてつらかったのか最近は「ちゅき!」と省略してくるぐらいだ、ラ行の発音にはまだ早いのだろう。
いつもの通りまるい目をくるくるとさせてソファの向こう側からぴょこぴょこと跳ね元気そうに見えるけれど、もしかすると背伸びして怖い絵本でも見てしまって一人でトイレに行くのが怖いのかもしれない。
「もちろん。」
手に吸い付くようなもちもちの頬を両手で挟んで月島は微笑む。
「したいときに言ってください。いつでも駆けつけますから。」
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その数日後、月島が休憩時間に一人で歩いていると廊下の向こう側から般若と化した兄が現れた。
「月島…?」
上履きのはずなのに一歩一歩近づいてくるたびに「カツーン」と硬質な音が響く。
何なんだ、上履きに何が入っているんだ? 月島は訝しんだ。
般若…より正確に言うなら般若がおたふくの面をつけて近づいてきているような印象だった。口元は微笑んでいるけれど周囲から放たれる威圧感が全く隠せていない。
あの平素は菩薩のような平之丞に珍しいこともあるものだと月島は首を傾けた。
「おお。どうかしたか?」
「もし勘違いだったら申し訳ないが…うちのかわいい弟と結婚の約束をしたのか?」
親しい友人から発せられる希少な標準語に込められた圧も相まって月島は動揺した。
「はっ?!何の話だ?」
「数日前の話なんだが」
「覚えがない…数日前…この間だろう? そんな話は一度も…何の話をしているんだ…?
…そういえばあの子に連れションに行こうと誘われたけど結局行かずじまいだったな」
「連れション?」
眼前の平之丞から荒ぶるおたふくの面が剥がれ落ちて訝しそうな兄の顔に戻った。
「もしかして…「トイレ」?」
「そう」
「正確にいうと「といえ」だったりしたか?」
「そうだな」
「馬鹿すったれそりゃトイレじゃなくて「といえ」!
こっちの方言で「結婚するか」じゃ!!!!」
友人の声帯から発せられた爆音で廊下の窓がことごとく粉々になった。
「?!!」
「…いや、すまない、お前は何も知らなかったのだから…弟にもくれぐれも言っておく…方言がこんな勘違いによる悲劇を産むということを…」
友人は儚げに微笑むと何事もなかったように去っていった。
粉砕された窓から吹き込む冷気も相まって月島は呆然と立ち尽くした。
それから十数年後、
再会した弟君…音之進が訛りの全くない標準語を使いこなし、あまつさえ稀に方言が出てもあまりの速さに聞き取れないという仕様になっていたことに、月島は兄の教育の賜物だな…とその場にはいない平之丞に想いを馳せた。
それはそれとして、当時の幼子のプロポーズが無効になったかはまた別の話である。