死籠り 厄災の傷が感染する様になって百年が経ち、ボクたちは魔法科学や、マナ石すら使わない科学と言う技術に守られるようになった。だって誰だって心臓が燃えたら痛いし、絵の中に閉じ込められるのは怖い。それから不思議なことだけれど、魔法使いが弱くなってから人間はとても優しくなったのだ。ボクたちは普段、厄災から隔離されたドームで暮らしている。これを檻と呼んだのは誰だっただろうか。ミスラさんかもしれないし、リケだった様な気もする。
「ねぇ、フィガロ先生。怖くないんですか?」
「どうして?」
「だって、ほら、厄災がすごく近いです」
ボクは先生の傷を知らない。同じように、先生もボクの傷を知らない。傷を知る前に、ボクたちは檻に入った。
「怖くないよ、ミチル。久しぶりに見たけど、びっくりするほど綺麗じゃない?」
「なら、先生。ボクも怖くないです。全然怖くなくて、なんだか、ドキドキしてしまって、」
マナエリアに訪れたのは久しぶりだった。高い高いドームの天辺。ボクは全身で厄災を浴びる。檻に入ってから具合の悪くなったボクを、先生がこっそり連れ出してくれた。ドームの天辺で月の光に照らされて、ボクの心臓が高鳴る。月が、あの月が、月、月、月、月月月月月月月月月月月が、綺麗だ。厄災だなんてとんでもないと思う。きっとあれは祝福だ。魔法使いに残された最後の祈り。新しい魔法使いが生まれなくなってから何年が経つだろう。賢者が最後に訪れたのはいつのこと? きっとこの世界は滅びたがっている。今だけはそうと確信できた。
「オルトニク・セアルシスピルチェ」
歌うように呪文を唱える。繰り返し、繰り返し、だってもっと近くで見たくて、もっと傍で感じたくて、だって、月が、すごく、綺麗な、
「ミチル、綺麗だね」
「ええ、はい、とても」
月が、落ちて、世界は滅ぶ。
それは、
「――フィガロ先生、」
ボクは先生を呼んで、呪文を止めた。
「ミチル、いいの?」
先生は何もかもわかっているような顔で、ボクに聞いた。緑色の菱形が、月の光に揺れている。それがとても優しげにみえた。月よりも綺麗だった。
「はい! みんながいれば、ボクはそれで」
これはきっと最後のチャンスだったと思う。世界は滅びたがっていた。厄災は魔法使いに許された最後の祈りだった。でも、それがなんだっていうのだろう。人間はとても優しくなったし、厄災が来ても無理に戦わなくていい。それでいいじゃないか。
「先生、帰りましょう」
厄災から目を逸らす。見渡す限り灰色の土地を背にして、立ち上がる。マナエリアなんてもう世界の何処にも無い。ボクたちは自ら檻に入る。
それでもきっと、ここだっていつか、安息の地になるだろう。