はじめての隣 一
「隣、いい?」
ふわりと声が落ちてきた。青空から光が降りたと錯覚する、居心地のよい声だった。自分にはついぞない感覚だ。手塚は内心驚きながら、「うん」と彼――不二へと応(こた)えた。
不二はにこりと微笑んだ。彼と知り合い半月ばかり。なんら含むものもなく、素直に澄んだ微笑もあると、今では手塚も知っていた。知ると同時に近くで見たいと思ったが、彼が隣に座るのは――彼の隣に座るのは、これが最初のことだった。
部長の訓示が途切れたときに、手塚はちらと横を見た。膝小僧の小さなまろみが目に飛び込んで、慌てて前を見、またゆっくりと隣の彼へと目を戻した。見たいという望み、あるいは欲望――少し違うように思う。自然な首の動きであり、自然な心の動きだった。
体育座りで膝を抱(かか)えて、不二は前を向いていた。手塚の視線に気づいた様子はなかったが、なんの弾みか白い指がきゅっと重なり細い足をかき寄せた。おとがいがわずかに持ち上がる。
手塚も空を見上げてみた。四月にしては空の青は薄かった。浅い春の名残の色に、ひとはけの雲が流れている。――そうか、風が吹いたのだ。
手塚は再度、不二を見る。そういえば、左右どちらもあいていたのに、彼は迷わず右へと座った。既に知る利き手の側(がわ)をふさがないのは、不二の配慮ではなかろうか。自分にしては好意的な見方だったが、そうだろうと手塚は思った。やはり自然な気持ちでそれを受け止めた。
陽光は淡く、コート脇の大気に混ざりたゆたうようだった。その中で、ほのぼの白い手足を折り曲げ、不二が隣に座っている。なんとはなしに落ち着いて、手塚は前を向き直った。再開された話とともに、脳裏で反響する心音も聞いていた。
聞きながら、手塚は不思議と安らいだ。今、自分の隣には、不二がちょこんとおさまっている――ただそれだけの事実ひとつを透過して、心臓の音も薄い日差しも穏やかに、世界はゆったり広がっている。
「隣、いいかい?」
小首をかしげて不二が微笑む。
「ああ」
手塚は首肯し、身じろぎをする。隣に彼の場所をつくる。
「ありがとう」
笑った不二が、手塚の右側へと座る。初夏の日の中、残暑の日の中、涼やかに吹く秋風の中――。
いつからか、首肯に続けて身じろぐことはなくなった。不二の居場所をあけておくのは当然だ。不二が隣に来ることは、手塚にはもう、当たり前のことだった。
「やあ、手塚。寒いね」
冬のある日も変わらない。花びらのような笑声を白い息へと変えながら、不二は素直に手塚の隣におさまった。
「夜から雪らしいからな」
「ふふ、うん」
顔をほころばせた不二が、雪が好きだと手塚は既に知っている。雪見をし、喜ぶ彼を思い浮かべた。だから朝、予報を聞いて、嬉しいことだと思ったのだ。
「油断はするなよ。しっかり着込め」
言いながら手塚は考える。もし、その隣にいられたら――たとえば彼にマフラーを巻いてやれたなら、――おかしな夢想だ。雪が降り出す時間には部活はとっくに終わっている。
「……手塚」
不二が首をかしげた。ふっとなにかに思い至った表情だった。
「もしかして、キミも雪を見たりする?」
手塚は再度考え、うなずく。これからは、そんなこともあるかもしれない。不二が見ている雪なのだ。それはきっと美しく、自分も見たいものだった。
「ふふふ、じゃあ――一緒に見るかい?」
咲いた笑顔はいとけない。いたずらを仕掛ける無邪気な子供を思わせたが、不思議と気にはならなかった。手塚はただ、感嘆する。
「さすがだな、不二」
「え?」
「そうしよう」
ずいぶん容易(たやす)い話だった。一緒に見ようと誘えばそれでよかったのだ。手塚がそうであるように、不二が断ることはないのだ。とろりと甘い心地で手塚は、「何時にする」と話を進める。まばたいた不二の口もとで、ふたたび笑顔がこぼれて咲いた。あえかな花弁がくすぐったそうに揺れていた。
「え? ああ、うん。それじゃあ、手塚――」
ふたりで共に雪を見た。イルミネーションも見に行った。日差しがぬくみはじめたころ、手塚はふと、気がついた。おのれもまた、不二の隣に自然と座り、あるいは立って並ぶようになっていた。もしかしたら、ずっと前――雪見よりも前からだったかもしれない。
意識したのは、小春日和の午後だった。今日はあたたかいと思い、不二の隣だからかと思い、――そうして気づいたのだった。
隣から、自分を見上げる視線は感じた。けれども今もこれまでも、不二の拒絶は一度もなかった。すぐに心地のよい声が、ふうわり手塚に微笑みかける。――そうだ、いつでもそうだった。これから先も、そうだろう。
――見たかい? 手塚。
――やあ、手塚。
――ふふ、ナイスタイミング。手塚、ちょうどいいところだよ。
「ああ」
「うん」
「そうか」
手塚はひとつひとつに応(おう)じる。彼の隣で前を見る。ゆるゆると、景色は今日も美しい。
二
不二の声が聞こえない。手塚の隣はあいていた。風すらうつろに過ぎゆくそこに、手塚に向けられる笑みはなく、ぬくもりもどこかに消えていた。
五月晴れの頭上は一面青空だったが、まるで冬場の曇天だった。記憶に遠い、凍(こご)える冬だ。廊下もコートも薄暗く、生気の抜けた影絵だった。
何があったわけでもない。不二が風邪を引き、学校を休んだ、――それだけだ。ただそれだけがいつもと違う一日は、ぽっかりとした空隙をかかえたままで終わろうとしている。
沈む夕日がやけにぎらぎら照りつけて、手塚は足を急がせ茜をはねのける。たいした距離でもない帰路が、今日はずいぶん遠い気がする。
昨日不二が綺麗と笑った夕映えは、一体どこにいったのか。のっぺりとした景色の中で、手塚はほんの一日前を思い出す。
ねえ手塚、夕日が綺麗だよ。明日もきっと晴れるよね――。
その明日に不二はいなかった。息するように信じていた、疑うこともしなかった、隣で笑(え)笑(わら)う彼の姿は、当たり前ではなかったのだ。
どくりと胸がざわめいて、急に息苦しさが増した。そうだ、たしかに、最初は当たり前ではなかった。不二が微笑み尋ねてくれた。となり、いい――? 手塚は赤い世界の中にたちすくむ。
ポケットから布地越しにかすかな振動が伝わって、手塚ははっと我に返った。取り出した携帯電話には、着信マークと彼の名前が浮かんでいる。不二周助――。
指先が滑り、二度目にようやく通話ボタンをタップした。落ち着けと自身を戒めて、一度大きく呼吸する。薄い機械を持ち直し、「不二」と彼に呼びかけた。
「具合は」
「ふふ」
電波越しに、彼が笑まう声がした。ずっと喉に詰まっていた、空気がすっと抜けていく。手塚はもう一度呼吸して、耳を澄ませて不二を待つ。
「もう大丈夫。ありがとう、手塚。――それで、明日の練習だけれど」
「明日か。そうだな、やはり短時間ということになった。集合は――」
ああ、不二だ。時間を告げつつ、手塚は思う。いたく事務的なやり取りが、ふんわり明るく色づいている。
「うん、分かったよ。ありがとう、手塚」
うなずく笑顔が目に浮かぶ。わざわざ結ぶ約束に至らぬ自然な声がした。
「じゃあまた、明日ね」
「――ああ、また明日」
かみしめ、視線を上げて手塚は気がついた。空の薔薇色が艶(あで)やかだ。日差しの名残が雲を染め、ところどころに夜の菫(すみれ)がたゆたっている。
「不二。外が見えるか」
「うん? ――わ、すごい」
弾む声を、手塚はそっと引き寄せる。丁寧に、決して損なわれぬように。これもまた、自分にあるのが意外な心の動きだったが、同時に手塚はおのれの心に安堵した。大切にしなければならない。息するほどに自然なそれは、本当は、たぐいまれなものなのだ。どこにもなく、かけがえもない。深山が芽吹くに春日が要(い)るように、手塚に必要なものだった。
「ふふ。綺麗だね、手塚」
不二が笑う。優しい光を胸の一番深くにおさめて、手塚は息を吸い込んだ。
「不二。――今から、訪ねていいか」
逢いたいのあいは愛なのだと、そんな話を読んでいたのは親友だ。名前も忘れた登場人物、その心中を、いまや手塚も理解する。逢いたいのあいは、愛なのだ。逢いたい、あいたい、愛したい――。
身を返し、手塚は既によく知っている道をいく。彼の家へ、彼へと向かって歩を進める。
まだ道のりはあるのだが、既に彼が隣にいるという気がした。くすくす笑って手塚に言う。
――急いでいるね。
「ああ」
――ふふ、こけないでよ?
「ああ」
――それで、手塚。話って?
「大事な話だ。――不二」
日が沈む。投げかけられた赤い光に、町がいっさんに輝いた。今日もいつもと変わらない。とても綺麗な夕方だ――。
三
「隣、いい?」
不二が微笑む。手塚は「ああ」とうなずいた。折りたたみ式の座卓の向こうで、痩躯がたおやかに立ち上がる。
手塚の自室、ふたりで過ごす休日の午後だ。今日は朝からふたりで過ごした。テニスをし、喫茶店に行き、本屋を覗いて――予定がすべて終わってなお、別れがたく、手塚は不二を自室に招いた。
「いきなりご迷惑じゃない?」
「かまわない」
家に電話もかけてみせると、それ以上は拒まれなかった。
そうして不二は手塚の部屋で、慎ましやかに座卓を回る。手塚の隣にやってきて、小さく笑むと腰を下ろした。
手塚は右手を動かした。並べてみると、彼の爪は自分のものより一回り――いや、それ以上に小作りだった。整ったそこに宿った光を、手塚は指の陰へと隠す。
光ごと包んだ不二の手は、ほんの一瞬こわばって、それから静かに力を抜いた。小さな呼吸の音が聞こえる。手塚の鼓動はそれよりうるさく、不二に通じているかもしれない。手塚は重なる手を見つめる。とたんにふうっと落ち着いた。指先まで、彼はまるであつらえたようにそこにいる。
おのれの手の下、包み込んだ彼の素肌が覗いている。きめが細かく、線もほっそり優形だ。明確なふたりの差違に気がついて、けれども手塚はいっそう安らかな気持ちでいた。
これほどまでに違うのに、華奢な手首のくぼみの影にも、穏やかな親しみを感じていた。服に隠れた不二の二の腕、肩に背中――まだ触れていないところすら、既に知っている気がする。優しく弧を描(か)く唇の奥に隠れた歯列や舌も――。
想いを遂げた五月の夕べ、ふたりは――手塚はゆるりと変わった。変化は未来永劫に、変わらぬものも伴(ともな)った。
日がけぶる部屋がやんわり香り立つ。鼓動を刻む胸が同時に安堵して、あるべきところにあるのだと、いるべきところにいると思う。
彼の隣でくつろいで、手塚は眠気すら抱(いだ)く。見慣れた壁のルアーがきらきら光って見えて、――そうだ、まだ、不二にひとつひとつの由来を話していなかった。
すっかり緩んだ口を開く。不二が微笑み耳をすませて、花容をわずかにかたむけた。
母に呼ばれていることに、不二に言われて気がついた。よほど夢中で話していたのか――不二が話を聞くのがうまいから――いや、つまるところ手塚の油断だ。
咳払いをすると、不二がくすりと笑んだ。大丈夫だと言われたようで、気を取り直して階下へ向かう。母はお茶のおかわりを用意してくれていた。
受け取り、自室に戻ってくると、不二が笑顔で手塚を迎えた。
「おかえりなさい」
「――……」
まるでピースがはまるように腑に落ちて、手塚は「ただいま」と彼に応(こた)える。
「……ただいま、不二」
繰り返す。――そうだ。俺は帰ってきたのだ。あるべきところ、いるべきところ。彼の隣があいている。そこまではあと、もう少し――。
カップにソーサー、油断はできない。注意を払い、盆を机の上へと置いた。これでよし。上体を起こし片膝をついてから、手塚は不二に問うてみる。
「隣、いいか」
不二はまばたき、手塚を見上げた。上下したまつげの長さすら、今の手塚は知っている。
不二は、にっこりうなずいた。
「うん。もちろん」
返事をもらった、と手塚は考える。不二の返事だ――。
手塚は彼の隣に座る。不二が微笑む。もう何度目か――なのにまるではじめてのように新鮮に、手塚ははっと熱を覚える。
不二はちょこんと正座をしていた。膝の上でそろえられた、指の関節が軽く曲がって、こっくり光って見えていた。左手の小指の輝きは、指輪の光に似ている気がする。
「……不二」
手塚は彼に向き直り、そっと自分の左手を伸ばす。包んだ手に、今度は堅さは感じなかった。手のひらに柔らかくぬくもりが広がって、手塚の胸に染みていく。いっそう曲げた手塚自身の小指にも、同じ光が宿り、輝く。
「不二」
名を呼んだ。不二は分かっているだろうか。不二なら分かっているはずだ。手塚が映る、美しくはにかんだ目で笑う。
「うん、――手塚」
ちょうどそのとき、ふたりはさあっと明るんだ。窓辺で西日があふれ出し、ここまで届いたらしかった。綺麗な黄金(こがね)色だった。
不二と同じ日差しの中で、手塚は深く息を吐く。互いの指に光をともして、彼の隣で安らいだ。はじめてのときと同じに、今、――はじめて。