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    調@大人向け他

    @seitea21

    調(@seitea21) の大人向けや企画系SS置き場です。増えるかどうかは常に未定、塚不二オンリーは確定です。大人向けにつきましては、18歳以上での閲覧をよろしくお願いいたします。

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    調@大人向け他

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    ご要望いただきながら再々版できなかった一冊目、『とける、ほどける、むすばれる』を期間限定でこちらに再録してみました。
    急ぎ仕事でダーシ等ポイピクに合わせて修正出来ていませんが、このたびはお試しということでご寛恕くださいませ。
    『know,don`t know』『our sleeves,always』(再録)
    『傘ひとつ』(書き下ろし)
    の三本を収録しておりました。お求めありがとうございました!

    #塚不二

    とける、ほどける、むすばれる know,don't know
     

     その町は、古い城に見下ろされていた。いつの時代のものとも知れぬ。様式はごた混ぜで、壁は堅牢だが塔は高く天を貫き、大きな窓にステンドグラスは嵌っていない。誰が何のために建てたかも、町民達は知らなかった。
     町にはまた、いわゆる吸血鬼伝説があった。これもいつから囁かれたか、分かるものはいないだろう。生気を喰らい永きを生きる化け物が、城に住まうと言われて久しい。
     国は城を遺跡とし、一切の立ち入りを禁止している。本当のところは誰も知らない。
     
     城の全貌が見晴らせる位置に、大きな親水公園があった。河川や湖の近くにあるようなものではなく、幾多の水路が縦横無尽に走りつくり出されたものだ。町のものには、お堀公園と呼ばれている。
     公園の出入り口にあたる二箇所の大橋の他にもまだ、多数の橋が水路を渡る。その中の、通称青の橋と春の橋がかかる広場に、手塚は来ていた。白い半袖のシャツと黒のズボンは町の学校の典型的な制服で、胸ポケットの、学生すら自校のそれを覚えていないような複雑な刺繍が、辛うじて差を主張していた。
     ここの広場は一面の芝生で、木製のベンチが置かれていて、春には桜の花が咲く。環境は申し分なかったが、広い敷地の中ほどだからか、通り過ぎるものもいない。
     そんな場所を訪ねる理由は明確で、待ち合わせをしているからだ。しかしいつもより遅い。どうかしたかと思った頃に、「手塚」と、耳ざわりのいい声が届いた。
    「不二」
     駆け寄った不二が、にこにこと笑まう。町内の学校に通う彼は手塚と違(たが)わぬ出で立ちで、胸ポケットの刺繍だけが違っていた。
     この広場が好きでよく来ているという彼とは、もう何度も会っていた。不二はよく話し、よく笑う。自分もそれを楽しんで、いつしか放課後、ここで落ち合い共に過ごす日課ができた。
    「待たせちゃったね、ごめんね、手塚」
    「いや―気にするな。何かあったのか」
    「うん」
     言った不二が、少し表情を曇らせた。
    「臨時の全校集会があって―キミのところは、なかったんだね」
     町で若い女性ばかりが、行方不明になっているのだという。吸血鬼の仕業だと、噂が随分広がっている。事態はなかなかに深刻で、町長が主導し、自警団を設立した。全校集会はそれを受けて開かれたもので、学生諸君は無責任に騒ぎ立てず、何か気付いたことがあったらすぐに大人に伝えるようにと、そんな話があったという。
    「ボクも昨日、夜のニュースで見たよ」と不二が言ったのは、自警団ができた件だ。町長の演説が流れたが内容は覚えていないと、気を取り直したように笑った。
    「町長さんってあんな風だっけって、そっちばっかり気になっちゃって。住んでいる町のトップなのに、意外と曖昧なものだよね。もっと若くて、恰幅がいいイメージだった」
    「そんなものだろう、見る機会も滅多にないんだ」
     そうだよね、と不二は笑い頷いて、その話はそこで終わった。
     話すことはたくさんあったし、話さなくても、それでよかった。ふたりで過ごす時間はいつもと変わらず穏やかに流れ、空が暮色に滲む頃、また明日と言って別れを告げた。
     
     数日後、不二がまた、遅れて広場にやってきた。向けられた笑顔に力がなくて、手塚は凶報を悟った。
    「女の人の、遺体が見つかったんだって」
     数日のうちに、三人が行方不明になっていた。必死の捜索は実らず、今朝、一人が町外れの廃工場で見つかった。喉が裂かれ、身体中の血がなくなっていたという。その話はたちまち町中に広まって、不二の学び舎でも皆が、そればかりを話題にしていた。
    「騒いじゃ駄目だって注意があったけれど、逆効果だよね。吸血鬼がよみがえったんだって、大騒ぎでさ」
     木のベンチに並んで座り、呟くように話した不二の横顔から、ふっと微かな笑みもかき消え、手塚は僅かに眉をひそめた。
     途端に不二が、顔を上げた。浮かんだ微笑は、妖しいほどに美しく形づくられて、整った唇が「ねえ」と囁き弧を描いた。
    「実はボクが吸血鬼―だったら、どうする?」
     艶やかに髪の毛が揺れて、不二の吐息が手塚の首筋にかかった。甘い香りが鼻孔をくすぐる。手塚の鼓動はどくりと鳴って、今にも酩酊しそうだった。
     しかし全て顔には出さず、手塚は静かに事実を告げた。
    「違うだろう」
    「―うん」
     再び距離を戻した不二は、いつも通りの穏やかさで、誰かに何かを言われたのかと、聞いても黙って微笑んでいた。
     美しい、繊細な容姿に、優しい笑み。人当たりのいい優等生に向けられるのは、好意だけではないのだろう。
     けれど彼の微笑みは、取り繕われたものではない。彼の心が現れたものだと、手塚はよく知っていた。だからこそ、手塚は心底、安堵した。
    「お前じゃなくて、よかったと思う」
     瞬いた目を、見つめて告げる。
    「吸血鬼とやらが人の喉を裂いて殺さなければ生きられないような種族なら、お前は生を悲しむだろう。―そうではなくて、本当によかった」
     もう一度、不二は目を瞬かせた。そしてどこか、くすぐったげに微笑んだ。
    「ありがとう、手塚。―優しいね」
     その言葉は、否定の言葉を発するよりも早く、すとんと手塚の心の中におさまった。そうなのだろうと、素直に受け止めることができた。優しくありたい、大切にしたい―。不二を前にして想う心が、彼の瞳に映ったのだろう。そしてまた、考えた。優しいのは、その瞳を持つ不二なのだと。
     凪いだ気持ちで空を見上げ、梢近くまで落ちた日を見て、手塚はベンチから立ち上がった。
    「家まで送る」
    「え? いいよ、そんな」
    「お前は吸血鬼じゃない。―襲われたらどうするんだ」
     不二が笑う。情報通のクラスメイトの話では、行方不明の女性達には、共通点があるらしい。少しばかりふくよかで、目尻が下がり、胸が大きいのだという。吸血鬼の好みだと、これも噂になっていた。
    「だからボクは大丈夫だよ」
    「油断をするな。吸血鬼とやらが、常に選り好みするという保証はないだろう」
     言えば不二はくすくすと笑みをこぼした後、「ありがとう」と、こっくり頷き立ち上がった。
     
     宣言通り送り届け、自宅の玄関の扉を閉める彼を確かに認めた上で、手塚はようやく踵を返した。町の通りをひとりで歩く。夕焼けが、血のように天を染めていた。
     この町には、吸血鬼の伝説がある。もう随分と、長い間。
     けれど彼は―不二は、吸血鬼ではない。町のどこかで女性を殺した殺人犯も、吸血鬼ではあり得なかった。喉を裂かれ、血がなくなっていたとしても、吸血鬼の仕業ではない。
     手塚はそれを知っている。
     現代のこの町で、吸血鬼と呼ばれているもの。城に住まい、人の生気をすする化け物。それは自分なのだから。
     歩く手塚は大気に溶けて、次に姿を現した時には、もう、城の中を歩いていた。学生の出で立ちなどしていない。はるか昔から変わらない、黒が基調で紫の折り返し襟の、オッドベストに赤いタイ、マントとトップハットだった。
     
     歴史にすらならないような、旧い時代のことだった。この地に生きる若者として、手塚は政治手腕を発揮し、未来を嘱望されていた。全てはこともなく順調で、やがて婚礼の話が来た。相手は権力者の娘で、政界での高い地位も約束される。悪くはないと受諾した。
     数日後の夜、屋敷の扉を娘が叩いた。婚儀のことで話をしたいと言われて鍵を開けてみれば、見覚えのある男が娘よりも前に立ち、その手に猟銃を構えていた。手塚に用意された官位を狙う、そう公言してはばからなかった、同年代の若者だった。彼と娘が手を組んだのだと気付くと同時に、男の猟銃が火を噴いた。
     貴方の妻なんて絶対いやよ。愛も知らない冷血漢が―。娘がそう叫んでいたのが、人間としての、手塚の最後の記憶だった。
     ああ、そうだ。愛など知らない。娘も愛してはいなかった。だからただ、その幕引きに納得して、次に気がついた時には―自分は何か、人ではない存在へと化していた。
     
     その正体を告げたのは、大神の使いだという輝く光の塊だった。都で厄災が相次ぎ、誅殺された形の手塚は、その原因とされて祀り上げられて、一柱の神になったのだという。
     しかしお前は完全ではない。光は冷厳に告げた。お前は和魂を欠いている。荒魂のみの祟り神だ。この地に縛られ、この地の人間の生気をすすり、存在するのが今のお前だ。愛を知らない、それ故だ―。
     手塚は再び納得し、そうして町を見渡して、国が昔、霊的な国土防衛を図り建てた鎮守のひとつに我が身をおさめた。
     時が流れ、町のありようも変わって、今も残るその建物は、単に城と呼ばれて遺跡となっている。
     
     石造りの城はどこまでも冷えていた。天頂についた月が冴え冴えと、大きな窓越しに光を注ぐ。青白く照らし出された部屋は虚ろにただただ広がって、僅かに配置された精緻なデザインを極めた家具類、殊に大きな寝台が持つ豪奢さは、いかにも空々しかった。そこに手塚は横たわり、町の大気にあふれた人の生気を吸って、眠りにつく。
     いつしか自分と重ねられるようになった吸血鬼は、元は海の向こうから、物語としてもたらされた存在だ。原書を読んだことはないが、血から生気を得るという。随分と非効率的だが、多分絵にはなるのだろう。思いながら、目を閉じた。
     そのせいだろうか。その晩手塚は、滅多に見ない夢を見た。目の前で不二が微笑んでいる。抱きしめて、その首筋に、歯を―いつの間にやら生えた牙を、突き立てる。流れ込む血は、まるで甘露のようだった。
     
     目が醒めると、自分はひとり寝台にいて、彼を抱いた感触は、どこにも残っていなかった。
     自分はひとりだ。当然だ。そしてそれが、孤独と呼ぶものなのだと、それすら自分は知らなかった。
     知らない方がよかったのかと思いがよぎる。すぐさまきっぱりと否定した。そんなことは、決してない。知らないままだということは、彼と出会わぬということだ。それはいいことではなかった。あの出会いは至高だと、手塚は定かに知っていた。
     
     翌日、不二はまた遅れた。遺体か行方不明者か、あるいはその両方が出たと、察することはたやすかった。やがて現れた彼は顔色が優れず、やはり概ね推測通りで、正確には、行方不明者がひとりだった。彼と同じ学校の、生徒の家族が付き合っている女性だという。その瞬間がより詳しく、学内に広まったようだった。
    「昨日、この公園で会っている時だったらしいよ。橋の近くで、入り口にある自動販売機に男の人がひとりで行って、戻ってきたらいなかったって。反対側の橋まで見に行ったけれど、そこには自警団がいて、誰も通らなかったって」
     淡々と話した不二が、言葉を切って首を僅かに巡らせた。いつもと変わらぬ城がある。景色を確認するようにして、再び目を伏せ、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
    「一緒に公園中、水路も探したけれどいなくって、顔を上げたら、お城がやけにくっきり見えて―もう会えないんだと思ったって」
     諦めた男性は、帰宅し家族に語ったという。吸血鬼に彼女を奪われた、と。
     それきり口をつぐんだ不二は、一心に、何かを考えるようだった。顔色はやはり悪く、覚えのない誰かの彼女にはすまないが、手塚には、そちらが余程気にかかった。できる限り柔らかにした声をかける。
    「不二、今日はもう帰れ。休んだ方がいい。送ろう、行くぞ」
     不二は素直について来て、ふたりで大橋を渡った。そこで不二が足を止めた。胴体に金の太いラインが走る白い大型のワゴン車が停まり、男がばらばらと周りにいた。
    「自警団、と―」
     消えた言葉を追って彼の視線を辿る。頬のこけた男がいた。ひとりだけ作業着ではなくて、ステッキを両手でついていた。自警団を組織した人物を思い出す。
    「町長か」
     手塚が呟いたのとほとんど時を同じくして、町長もふたりを目にとめた。親しげな笑みが向けられて、「見回りだよ」と説明される。この辺りで行方不明者が出たばかりで、おかしな話ではなかった。
     不二が息を吸った音が、横から微かに聞こえてきた。彼は町長に笑顔を返して問いかけた。確認をするようでもあった。
    「町長さんも、見回りをされるんですね」
    「最近は物騒だからね。君達も、吸血鬼には気をつけるんだよ」
    「この町の吸血鬼は、少しふくよかな女性が好きらしいって聞きました」
    「―そうかい。吸血鬼にも好みのタイプがあるのかな」
    「町長さんの―好みのタイプは、どんな女性なんですか?」
     ごく僅かに、沈黙がおちた。町長は笑い声をあげてそれを葬ると、「スレンダーな女性だねえ」と何度も頷き、「帰りなさい」と告げて車の方へ向かった。男達が後に続き、車はすぐにエンジンをかけて、ふたりの前から走り去った。
     不二は最後まで見送っていた。笑みがかき消えた顔が、何か思いつめたように、まっすぐ前を向いていた。
    「図書室で、一ヶ月間の新聞を見たんだ。自警団ができる前、行方不明者のニュースはひとつも載っていなかった」
     独白にも似た言葉だった。
     不意に不二は、我に返ったようだった。手塚を見上げ、にこりと笑う。
    「なんだかボク、変な話をしちゃったね。ごめんね、手塚。忘れていいから」
    「気にするな。―帰ろう」
     ゆっくり休めと伝えながら、触れた肩はあたたかかった。
     
     不二を送り届けてから、夕闇が迫る町を歩いて戻っていく。そうやって、思い巡らす時間が必要だったのだ。
     不二が考えた軌跡は、手塚にも辿ることができた。吸血鬼はいない。人は消えない。つまりはそういうことだった。人が消えて、そこに車が一台あれば、その中に隠されたと考えてしかるべきだった。町長自ら組織した一団の車であろうとも。自警団ができる前、行方不明者はいなかった。なのに団はつくられて、町から女性が消え始めた。
     先刻会った町長の姿を思い出す。人ならぬ手塚だからこそ、分かる事実もまたあった。あの男には、死臭がまとわりついていた。本人のものだけではない。複数の、若い女性の死の匂いだ。喉を切り裂き殺害したのは、この町を統べる町長だ。
     
     その日の夜、手塚の眠りはいつにも増して浅かった。夢を見た。血の海の中にいたような気がする。凍るような深紅の世界で、左手だけがあたたかかった。不二に触れた手のひらだった。
     
     目覚めて少し考えて、手塚は城の外に出た。
     不二の在籍する学校へは、もう幾度も通っていた。彼はちょうど、体育の授業中だった。肩から半袖に二本の青いラインが走る体操着姿で、グラウンドの端のコートでテニスをやっていた。ゆったりと取られた袖口から、細い腕がすらりと伸びて、布一枚の軽装が、華奢な体を際立たせていた。
     初めて彼を見た時も、同じ体操着姿だった。あの時も、同じようにテニスをしていた。学校を訪れたのは気まぐれで、目にとめたのは偶然だった。日差しを受けた姿ひとつはしなやかで、明るい景色のただ中にあって、きらきらと光るようだった。妙に気になり、心に残って、何度も同じ学舎に通った。
     
     クラスメイトのアウトボールを追いかけて、不二が校庭の外れの茂みに分け入ってきたことがある。探し物は手塚にはすぐに見つけられ、彼の元に転がしてやった。
     こんもり連なる低い庭木の隙間から、ボールを押しやる腕が見えたのかもしれない。彼は双眼を見開いて佇み、何度か瞬きを繰り返した。逃げて騒ぐか、人を呼ぶか、噂にするか。手塚の想像は全て外れた。不二は丁寧な手つきでボールを拾い上げ、両手で持って、微笑んだ。
    「―ありがとう」
     囁、身を返し走り去る、小さな背中を呆然と見た。ひたひたと何かが胸を満たしていって、手塚はしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。
     
     三日三晩考えて、四日目から、彼の姿を追いかけた。不二はお堀公園の一角を気に入っているらしく、よく訪ねてはベンチで休み、木々を見上げ、時に写真を撮っていた。手塚は衣服を制服らしく変えてから、そこに姿を現した。
    「ここで誰かに会ったのは、初めて」
     不二は嬉しそうに笑った。新緑が目に眩しくなる、少し前のことだった。
     
     甘やかな、明るい記憶を辿りながら、手塚は授業を見守った。クラスメイトが打ったボールが茂みの中に転がって、笑った不二が走ってくる。
     あの時のように押し出してやろう。思い手塚が動く前に、パシュッと空気が音を立てた。
     音の発生した方に、銃を構えた男がいた。不二は地面に倒れていた。男が再び銃口を向ける。ひと睨みでその心臓を止め、不二の元に駆け寄った。胸元の布地が小さく弾けていた。ぐったりと目を閉じていた。息はまだある。腕にかかえて城へと運んだ。通り過ぎた町の景色も既に見飽きた城門も、何もかも、等しく目には映らなかった。
     
     永い間もうずっと、ひとりきりだった城の中に人がいる。ひとりきりの眠りを重ねた寝台に、自分以外が横たわる。不二が今、ここにいる。こんな形でなかったら、それは喜びだったろう。こんな形だから叶った。力をなくした痩身が、白いシーツに沈んでいる。こんな形で、見たくはなかった。ならば叶わないままでよかった。
    「ふじ」
     ようやく呼びかけた声は、震え掠れて音を成したか怪しかった。しかし彼は、うっすらと瞼を持ち上げた。揺らいだ視線が手塚を見つけた。異質な場所で、異質な姿をした手塚に、不二は確かに笑いかけた。その口から紡がれたのは、異なるものへの糾弾ではなく、訪れる未来の確認だった。
    「―死ぬのかな」
     手塚は再び声をなくし、見つめた不二は、また笑んだ。
    「だったら、お願いがあるんだ、手塚。―ボクの血を吸って。全部、食べて」
    「―……」
     一体何を言われたのか。すぐには頭が働かず、見返す手塚の視線を受けて、不二はやはり微笑んでいた。
    「キミの糧にして欲しいんだ。だったらボクは幸せだから。それで死ぬなら、少しもこわくなんかないから」
     人に向ける言葉ではなかった。死を前に、錯乱した様子はない。むしろ静かに落ち着いていた。知っていたのか、不二は既に。自分が人ではないのだと。
    「いつから―」
    「初めて―ううん、二回目、に、会った時かな。ふふ、キミ、油断したね。公園で、お堀端にいたでしょう。水面に、影が映っていなかったんだ」
     それならば、ほとんど最初の出会いからだ。隠し続け、偽り続けていた手塚を、彼はとっくに知っていた。
    「何故―」
    「なんでかな。人じゃなくてもいいやって、仲良くなりたいって思ったんだ」
     不二は変わらず笑みをたたえて、昔を懐かしむまなざしをした。
    「それに―すぐに、分かったんだ。いつかボールを見つけてくれた手なんだって」
     公園の出会いを二回目だと言った。最初の出会いを、彼は記憶に留めていたのか。格別に驚いた様子もなかったから、学生の賑やかな日々の中に紛れて薄れ、消えたものだと思っていた。
    「覚えているよ。―神様だって、思ったんだ。古い本に、この町のお城には神様がいるって書いてあったから。人の生気を糧にして、代わりに守ってくれているって」
     古文が好きだと言っていたのを思い出す。町の古い文献を、手に取ることがあったのだろう。古い言葉が連なる書を読み、彼は何を考えたのか。どこまで書かれていたのだろうか。自分の過去は、一体どこまで。
     あるいは錯乱しているのは、手塚の方かもしれなかった。思考はうまくまとまらず、聞こえてくる不二の声だけが、今の手塚の全てだった。
    「キミはボクを守ってくれた。たくさん幸せにしてくれた。だから、お願い、ボクを」
     ただただ耳を傾け続け、手塚はふっと、気がついた。気付くとそれは、明らかな違和感の形を取って、手塚に疑問を投げかけた。
     人の体は、これほど頑丈なものだろうか。胸を撃たれてなお生きている、話ができる、そんなことがあるだろうか。
    「……手塚?」
     手を握ることで今は応え、注意深く集中して、不二の気配を探っていく。結論はすぐに出た。ただ、あり得ない答えだった。
     彼は今、人と人ではないものとの狭間にいる。生と死という話ではない。ひとつの存在としてのありようが、人であり、同時に人ではなくなっていた。
     そんな筈はない。彼は確かに人だった。人として出会い、時を過ごした。疑うべくもない事実だ。けれど―思えばいつからか、彼と会っている間、そんなことは忘れていた。笑みを交わすふたりは神と人ではなく、ただの手塚と不二だった。自分が神だと、祟り神だと、彼とは違う存在だとは、―。
     
     ―遠い昔。祟り神になった自分に、輝く大神の使いは言った。
     お前は愛を知らないが故に、欠落をもって生じた神だ。荒魂のみの祟り神だ。けれどもし、その魂に和魂を持って添うものがいたら。お前が愛し、愛されて、愛を知って誰かと結ばれる日がきたら。お前はそのつがいと共に、ひとつの完全な神として、世界に受け入れられるだろう。
     
     ―ああ、そうだ。自分は彼を愛している。手塚は素直にそれを認めた。知っている。分かっていたことだった。
     愛している。もうずっと、きっと、初めて会った日から。大切にしたいと、優しくしたいと、そう思った。できるものなら、ずっと共にいたいと願った。
     不二周助を、愛している。手塚は今や愛を知った。そうして、もしや、彼も、―彼は。
     
     不二が笑う。痛々しいまでに明るく。そうして彼は、真摯に手塚を見つめると、一際さやかに微笑んだ。
    「―好きだよ、手塚。キミが好きだ」
     それはまごうことのない、彼の想いの発露だった。
     
     愛し、愛され、愛を知り―結ばれる日がきたのなら。お前はその、つがいと共に。
     
    「だからお願い。最期に全部、キミが食べて」
     身を切るような笑顔を浮かべ、再び願う不二の肩を、手塚はそっと押さえ込んだ。
    「全部、くれるか―?」
     肯定の色を乗せた瞳が、不意に惑う様子を見せた。手塚は手を離さなかった。まっすぐにその目を覗き込んだ。
    「お前が欲しい。最期じゃない。―今だけじゃない。お前のこれから先も、……全部」
     手塚を見つめ直した不二が、何かに気付いたようだった。一心に耳を、心を傾け、やがて双眼は悟りを得、僅かに潤んで手塚を見上げた。
     静かに顔を近づけて、その唇に口づけを落とす。不二は拒みはしなかった。もう一度、今度は深く口づける。差し込んだ舌で歯列をなぞり、彼の舌を絡めとると、戸惑いがちに、僅かに応えが返された。無防備な、体操服の下から手を差し入れた。そのまま布をたくし上げ、滑らかな肌を辿って胸を撫であげる。飾りに触れても、彼は身を震わせて吐息を漏らしただけで、一切抵抗しなかった。
    「不二。―不二、愛している。……不二」
     不二が笑う。まるで花が咲くように。ゆっくりと持ち上げられた両腕が、手塚の背中に回された。
    「―食べて、手塚」
     もう一度。深く、長く、口づける。離れた唇は赤みを帯び、細く光る銀の糸が伝わった。どちらからともなく笑みを交わすと、更にもう一度口づけた。
    「愛しているよ、手塚。―大好き」
    「愛している、不二。共にいてくれ。―ずっと、俺と」
     ぬくもりを覚えた胸が震えた。合わせた頬が、涙で濡れた。それは手塚の、あるいはふたりの心だった。どこまでも深くまざりあい、ひとつになってあふれ続けた。
     
     何度も高みに昇りつめた、熱はなかなか引かなかった。しっとりと濡れた肌を合わせ抱きしめ、唇に、頬に瞼に鼻筋に、顔中に、身体中にキスを降らせた。
    「愛している」とひとつ覚えに囁くたびに、彼が笑って「ボクも」と応える。いとおしさが、求める気持ちが、後から後から湧いてきて、それはどこまでも際限がなかった。この想いに終わりはないと、手塚は誰より、知っていた。
     
     その日の夜は満月だった。町の一角で炎が上がった。全焼した町長の自宅の焼け跡から、住人以外の、行方不明だった女性達の遺体も一緒に見つかった。
     町長は大病を患っていた。不確かな伝説にすがり、生き血を飲めば不死になると考えたらしい。
     吸血鬼は町長だった。そのニュースが町を激震させる陰で、ひそやかに、学生達の間では、不思議な話が広がっていた。
     ある学校のあるクラスに、ひとつ机が余分にあった。ちょうどの数だった筈のそれが何故増えたのか、答えられるものはいなかった。実は誰かが本当に、吸血鬼に攫われて、人々の記憶からも姿を消した―本物の吸血鬼とはそういうものだと、まことしやかに囁かれた。
     
     町には古い城がある。吸血鬼が住んでいるのだと言われている。ひとりだけではないらしい。何か言葉を交わす声が、鈴振るような笑い声が、聞こえたというものもいる。
     本当のところは、誰も知らない。





        our sleeves,always


     春が今にも終わろうとしていた。草木の緑は、濃く鮮やかに視界を染める。日差しからはまろみが抜けて、部活のさなかに風が止むと、暑さを覚えるようになった。
     ひとり、そうしてまたひとり、メンバー達はジャージを脱いでラケットを改め握り直し、脱がれたジャージは次々に、コート脇のベンチの上に折り重なった。
     それでも未(いま)だ春ではあった。練習を全て終える頃には、かしいだ陽光は弱まって、半袖で屋外に立っていると、いささか寒いようだった。
     手塚は最後までコートに残った。あちらこちらへ指示を出し、部室へ戻る部員達を確認し、片付けに遺漏がないかをチェックする。全てを終えて近づいたベンチで、一着だけになったジャージが待っていた。
     手に取り広げ、袖を通そうとしたところで、違和感に気付く。背中の布地が足りないようだ。どうやら一回り小さいそれは、自分のジャージではなかった。
     ネームの刺繍を確認しようと持ち直したのとほとんど同時、軽やかな足音が近づいてきて、「ごめん、手塚」と不二の声が微笑んだ。応えようと振り返って、またしても違和感に、今度は一目で気がついた。
     不二が着ているジャージが大きい。視線を受けて、彼は開いた口を閉じ、苦笑をすると首をすくめた。
    「ごめん、……キミの。着るまで気がつかなかったんだ」
     間違えちゃった、ごめんねと、もう一度謝るその姿は、いつもの色に包まれていて、なのにいつもと明らかに違った。ゆったりとしたシルエットは、秘められた体の細さを際立たせ、太ももに達した丈の長さはいとけなく、両の袖も随分あまり、白く小さな指先だけが覗いている。
     その手を口元に寄せて、不二は息を吸い込むと、にこりと笑みをこぼして言った。
    「ふふ、手塚のにおいがするね」
    「―……」
     においには、気をつけているつもりだが。一体どんなにおいがするのか。それならお前は、俺のにおいに囲まれて、……―。
     返事をしようと高速回転する思考を、そこでねじ伏せ押しとどめる。これはいけない。チームメイトに言うことではない。ならば何と言うべきか。
     考えようにも頭は全く働かず、脳内で、不二が再び微笑んだ。しなやかな痩躯を、手塚のジャージで包まれて。
    「ごめん、手塚」
     彼の声が、現実から聞こえて手塚を引き戻した。
    「ごめんね、ちょっと肌寒くて。慌ててジャージ、取ったから。確認、ちゃんとしていなくて」
    「―……いや」
     ようやく絞り出した声は、何を否定しているのだろう。しょんぼりと、ささやかなことを重ねてわびる、彼の言葉か。こわばっているに違いない顔から、怒りを誤読されたであろう自分か。
     そもそも今、自分は一体、何を思い浮かべたのか。自我を失うにもほどがあるではないか。こんな自分を、彼が知ったらどう思うか―。
     考えながら不二を見て、今度は己の目を疑った。肌寒くてと言った彼は、いつの間にか、手塚のジャージを脱いでいた。きちんとたたんで、両手でこちらに差し出してくる。むき出しの細い腕は空中に伸び、冷えた大気に、迫り始めた夕闇に、飲み込まれていくようだった。
     覚えず踏みだし、着ていろと言いかけ、手に持つ彼のジャージに気付く。とにかくそれを羽織らせると、不二は礼を言ってから、素直に袖を通し始めた。
    「キミの袖はさ、綺麗に見えるね」
     不意にそんなことを言う。手塚は受け取ったジャージを見た。確かに汚れてはいない。洗濯を欠かしてはいないし、ましてや今日は、ほとんど脱いだままだった。
    「お前の袖も、綺麗だろう」
     分からぬままに指摘をすると、不二はあえかな笑みを浮かべた。
    「うん、そうだよ。ボクの袖は、とても綺麗」
     そのまま泡と化していき、風に消え去りそうな笑顔で、不二は小さく呟いた。
    「だけど、キミのは―」
     深くうつむいた顔が再び手塚に向けられる。その表情はいつものような、柔和でありつつ捉えがたい笑みだった。
    「よかった、綺麗に見えていて」
    「不二」
     どういうことだと聞くより早く、「戻ろっか」と不二は明るく微笑んで、そのまま踵を返していった。
     完全に機を失って、言葉を飲み込み、その後を追う。後ろ手に組まれた彼の繊手が伸びている袖は、ぴたりと手首に合った長さで、どこから見ても綺麗だった。すらりと細い両の腕も、小さな背中も、歩む足も。揺れる髪の一房さえも、彼は隅から隅まで綺麗で、だから余計にすまなく思った。
     自分はどうかしていたのだ。あのような夢想は決して、していいものではなかったのだ。
     
     隣町の中学校で、自殺騒ぎがあったらしい。三年生の女子だという。
     受験を控える学年になったプレッシャーだ、いや失恋だ、友人関係の悩みだ、家庭の事情だと、憶測が飛び交い、手塚のクラスもざわめいた。うんざりとして見回した視線が、教室を覗く担任のものと重なった。目配せをされ、席を立って後に続く。
     そうして連れて行かれたのは、手塚でもほとんど縁のない部屋だった。校長室の来客用の応接セットに座るように促され、一枚の写真を見せられる。同年代の少女だった。
     知っているかと聞かれ否定をしようとした時、光沢紙に焼き付けられたボブカットの先端が、ふわりと踊っているのが見えた。記憶は突然よみがえった。
     確か一年ほど前だ。時折自主練習に行くコートのある公園で、彼女に呼び止められたのだ。全く覚えのない顔だが、あちらは自分のことを知っているようだった。手塚には珍しい話ではなかった。
    「手塚くん、今、時間いいかな」
     退けかけたその時に、不意に彼女の細身の体や、ショートボブの髪の毛が、鮮やかに脳裏を刺激した。女子としては比較的長身なのだろう。見上げる視線も〝彼〟のそれと、重なるような角度だった。
     足を止めた手塚を前に、彼女は顔を輝かせ、しかし目と目を合わせた途端に、ふっと息を飲み込んだまま沈黙し、やがて手塚を見直した。
    「あの、いきなりごめんね。手塚くん、―誰か好きな子、いたりする? ちょっと、私に似ている感じの」
     驚いて見返す。とっさに否定をしようとし、しかし言葉は、手塚の口から出てこなかった。嘘をついては、いけないような気がしたのだ。
     彼女は笑って頷いた。
    「そっか。じゃあ、私の話は―うん、おしまい。いいや、忘れて。ごめんね、突然」
     駆けていく後ろ姿が最後だった。以来ひとつも接点はなく、学校名も今知ったような案配だった。
    「一度会ったことがあります」
     答えると空気が緊迫し、どんな話をしたかと聞かれる。
    「話があったが、やはりいい、と」
     まとめ上げて返答すると、教師達は顔を見合わせ、いつのことかと問いを重ねた。一年ほど前だとこれにも簡潔に答える。空気は明らかに弛緩した。
    「ならば無関係でしょう」
     言ったのは同席していた学年主任で、「すまなかったね」と手塚に笑う。
    「―中の生徒が自殺しようとした話は? そうか、聞いたか。実はあちらの学校で、彼女が君に、その、なんだ。振られて自殺をしたのだと、そんな噂があるようでね」
     さすがに寝耳に水の話に、手塚は覚えず顔をしかめた。
     その女子生徒は、隣町にある廃ビルの屋上から飛び降りたらしい。夜の間のことだった。遺書はなく、屋上のフェンスは壊れ役をなしておらず、縁石も既にぼろぼろで、事故のようにも見て取れた。しかし深夜、家族の誰にも断らず、ひっそりと家を出たのは変だった。彼女はビルの脇に盛り上がっていた木々の茂みに引っかかりつつ転落し、おかげで一命は取り留めたが、意識不明の状態だった。その翌日、青学テニス部の手塚に振られての傷心自殺だと、囁かれ始めたのだという。
    「根も葉もないのは幸いだが、参ったね、抗議はしておくべきか」
     教師達は顔を見合わせ相談を始め、思い出したばかりの少女の写真一枚は、あっさりその手で引っ込められた。
     手塚は一礼し部屋を辞した。本当に根も葉もない、くだらない噂ではあった。しかしそれはそれとして、あの少女が時を経て、理由は分からねど死を選んだかもしれないというのは、思いがけず重たかった。三年生―同じ学年だったのだ。
     教室へと戻る途中、廊下から見た外の景色は、どこか色彩を失って、暗く陰っているようだった。
     
     だからといって手塚に何か、できること、するべきことがあるわけではない。切り替えて、いつも通りに授業を受けて部活をし、一日の終わりに部誌を書き上げる。最後に部室の戸締まりをして、不二と共に帰路へと着いた。
    「ねえ、手塚。もしかしてさ、―何かあった?」
     歩きながら、遠慮がちに問いかけられて、夕映えに縁取られた彼の顔を見直した。
    「どうしてだ」
    「なんか今日、いつもと違ったかなって思って」
    「……そうか」
     いつだったか、「手塚は全く笑わない」という話題になったその時に、「え、笑うよね?」と首をかしげたのは不二だった。そんな昔を思い出しつつ、他言無用と前置きし、校長室での出来事を話す。本来ならば自分ひとりで抱えるべきであることを、何故話しているのかは不可解で、それでも話し終えた後、「しんどいね」と呟いた、不二のしんとした声音に、ふわりとすくい上げられた気がした。
     真綿にくるまれるような沈黙の帰り道、最後に「またね」と笑んで手を振りかけた不二が、ふと、持ち上がった己の袖口をじっと見つめた。
    「袖―」
     ごく微かな声を捉え、聞き返しても「ううん」と笑う。記憶に新しい単語だ。もう一度しつこく聞き直すと、不二はまた、小さく笑ってようやく言った。
    「袖が綺麗なのってさ、滝の水や、波や露に洗われるような、そういう綺麗さもあったなって。―ますますボクのは、綺麗だなあ」
     最後はほとんど独り言で、そうしてひょいと上げられた顔には、明るい笑みが乗せられていた。
    「帰らないとね、遅くなっちゃう。―またね、手塚」
    「―ああ、また」
     袖云(うん)々(ぬん)は、どうやら何かの比喩らしい。別れを告げて、立ち去る背中を見つめながら、明日図書室で調べてみようと決意した。それはきっと、昨日消え入る笑みを浮かべた、不二の心につながることだ。
     
     しかし翌日の昼休憩、図書室には行けなかった。手塚は再び校長室に呼び出され、くだんの女子生徒との接点を洗い直された。
     新しく話すべきことも、思い出すことも何もなかった。どれだけ記憶を探っても、会話は一度きりだったし、教師のたとえ話のように、彼女が試合を見に来ていても、それこそ手塚の知るところではあり得なかった。
     苦渋の表情を浮かべた教師達によると、彼女が部活―新聞部で使っていたパソコンのゴミ箱フォルダから、テキストファイルが見つかったという。手塚くんに告白したい、でも断られたら生きていけない、そんなことが書かれていた。
     むろん遺書だとはいえない。パソコンに想いを綴る娘なら、もっと身近な携帯電話に、何かを残したかもしれない。しかし彼女の携帯電話は、現場からまだ見つからない。ビルの横には深い池が広がっていて、もしもそこに落ちていたなら、水を抜きでもしなければ、発見は困難になるだろう。本人の、意識は未だに戻らない。
    「とにかく君は、無関係だね」
     念押しされて、きっぱり「はい」と肯定し、午後の授業に備えて手塚は教室へ戻った。
     一体何が起きているのか。得心のいかぬ気持ち悪さが、背筋を這い上るようだった。
     
     その日、部活は休みだった。陽の高いうちに着いた帰路で、ぽつりぽつりと不二にメモ帳の話をした。不二は静かにそれを聞いて、「そっか」と言って、また黙った。重くはなく、張りつめもしない。柔らかに寄り添うような沈黙が、じわりと胸に染み込んでいく。
     そういえば結局、袖のことを調べられなかった。不二は、手塚の袖は綺麗に見えると言った。つまり見えるだけであり、手塚の袖は綺麗ではないのだ。彼が手塚に負に属するようなことを言うのも、考えてみれば奇異な話だ。手塚が望めばいつでもすんなり横に添う、不二がくれるのはいつだって肯定だ。
     あるいはそんな彼ならば、聞けば教えてくれるだろうか。聞いてみようと口を開く。
     ちょうどその時。不二の名前を呼ぶより先に、他人の声が、無遠慮に割り込んだ。

    「青学テニス部の手塚だよな?」
     振り返ると、男子生徒が立っていた。
     他校の制服。髪の分け目や眼鏡のフレームが自分と同じで、背丈や目つきも似ているようだ。何か妙な感じがしたが、おもてには出さず短く答える。
    「そうだが」
    「俺は―中の新聞部員。だいたい要件は分かるな?」
     自殺未遂をした生徒の学校。彼女は新聞部員だった。
     不二は手塚の隣から、一歩後ろに退いて、けれども確かにそこにいた。静かな気配を確認してから、口を開く。
    「噂の話か」
    「噂じゃねえよ!」
     急に乱雑な口調になって、生徒は手塚を睨みつけた。
    「パソコンに証拠があったじゃねえか」
    「証拠としては不十分だと聞いているが」
    「そんなもの!」
     彼は叫んだ。拳を握りしめるのが見えた。
    「そんなもの、遺書入りの携帯が見つかりゃはっきりすることだ! 自殺の証拠だからな。池さらいくらいすぐにするさ。すぐに見つかる。そうしたら分かる。ラブゲームだったと思い知れ。お前が悪いんだよ、全部!」
     喚きたてている相手に、話が通じるなどとは微塵も思わない。「そうか」とだけ言って、終わりにしようとしたのと同時に、「ちょっといいかな」と、随分穏やかな声がした。
     虚を突かれたように男子生徒は手塚の後ろを見、数歩前に出た不二を、もう一度まじまじと見直した。こんな奴がいたのかと、視線が言外に述べていた。気持ちを汲むに長ける不二に、それが伝わらぬ筈はなく、しかし彼は意に介さず、顔には笑みさえ浮かべていた。
    「ねえ、間違えていたらごめんね。キミも手塚に勝てなかった?」
     緩やかに問われた内容は、自然な口調と裏腹に、突飛で異質なものだった。見覚えもないこの生徒が、いつどこで、手塚と何の勝負をしたのか。それが今、どういう意味を持っているのか。
     怪訝に感じる手塚に対して、男子生徒は、音が立つほど青ざめた。身体中がおこりのように震え始めて、そうして顔色が白くなると、血走った目が急に目立って見てとれた。
    「勝て―俺は、別に、こいつが、こいつに」
    「うん。―でも、考えた? 好きなテニスで、絶対一位になれないんだって。だって、手塚が強いから」
     生徒はテニスをしていたのか。ならば確かに、戦ったことがあるのかもしれない。思い改めて見た男子生徒は、手塚の視線にもはや気付かず、「テニスなんてしてねえ」と、天をつんざくように叫んだ。手負いの獣の咆哮だった。不二はまるで諭すように、懇切丁寧にそれに応えた。
    「あのね、ボクも文化部の子と話して初めて知ったんだけど―テニスをしていない人って、案外用語を知らないんだよ。たとえば、ラブゲームとか」
     男子生徒は絶句した。口をわななかせ、また閉じた。不二はあくまで穏やかに、しかし言葉を休めなかった。
    「手塚のこと、きっとよく思っていないキミは、新聞部で、部のパソコンでファイルを作って、ゴミ箱に入れたりもできたよね。今でも手塚のことが好きだ、振られたら生きていけない―なんて書いてさ」
     大きくはないがよく通る声が、その耳ざわりの良さに似合わぬ歪みきった目論見を、淡々と、白日の下にさらしていく。
    「でも、だったら最初から、振られたら死ぬって遺書を書いておけば済んだ。パソコンのファイルは、噂もすぐに鎮まりそうで、後から急いで書いたのかな。それでも遺書にすれば良かった」
     不二はそこで、小さく息を吐きだして、震えの止まない男子生徒を、多分初めてまっすぐに見た。
    「どうしてそうしなかったのかな。もう遺書があったから? 何で携帯に遺書があるって、キミには分かっているんだろう。携帯のメモ帳にも打ち込んだから? 女の子の携帯にそんなことができるのって、いつだろうね」
     手塚もまた、気がついた。本人の意思と無関係に、今は行方不明の携帯電話に触る機会は一度きりだ。彼女が飛び降りた直後。あるいは、―突き落とした、直後。
    「違う、違う、違う!」
     男子生徒は絶叫し、震える膝を地面についた。何度も首をうち振った。
    「違う、俺じゃない! 俺はただ、あいつが星空を撮りに行くから、夜にひとりで抜け出すって言うから、心配で、行ってみて、そしたら物音で、あいつが驚いて、後ずさって、そのまま……!」
     呆然とした彼の目に、一面の星が流れ込んだ。似たような星空を、一年前、合宿で共に見たことがあった。彼女は失恋したばかりなのだと言って笑い、そして泣いた。相手は青学の手塚。小学生の頃にテニスの大会で、何度やっても勝てなかった、どんなにやっても二位ばかりで、もうやめようと諦めた、勝てないと思い知らされた、その相手の名前だった。一年前の、小学時代の、暗い怒りがよみがえり、衝動のまま、落ちていた携帯電話を拾った。手塚くんに振られた、さようなら、と打ち込み下界に放り投げる。どこか遠くで、小さく水音が聞こえた気がした―。
     何度も破綻し、行きつ戻りつした話を、不二は辛抱強く聞いた。そして静かに口を開いた。
    「今の話、ちゃんと大人にした方がいいよ」
     うなだれた男子生徒は何も言わなかった。しかし首が、僅かに縦に一度動いた。
     手塚はゆっくり前に出て、不二の隣に並んで立った。自分がこの男子生徒に、かける言葉は何もなかった。
    「帰ろう」
     不二に呼びかける。
    「うん」
     いつものように不二は微笑み、手塚と共に歩きだした。

     幾つもの角を曲がり横断歩道を渡っても、しばらくふたりは無言だった。
    「彼は彼女のこと、好きだったのかな」
     やがてぽつりと不二が言った。
    「彼の袖も、波に洗われたりしたのかもね」
     不意に手塚は、国語の授業を思い出した。かけじや袖の濡れもこそすれ―。昔の和歌に、そんな言葉が出てきていた。
     袖は濡れる。たとえば波になぞらえられる、悲恋にこぼす涙のために。
     
     三度目の校長室への呼び出しは、概ね想像通りだった。
     女子生徒が目覚めたのだ。急に音がし、驚いて、足を滑らせたと話した。あれは事故で、手塚の活躍を日頃よく思わない生徒が、噂を流し、パソコンに細工をしたらしい。その生徒からは、学校が処分を決める前に、地方へ引っ越すと連絡が来た―。
     青学としては厳重抗議と再発防止の約束の取り付けで矛をおさめるがいいか、と丁寧に確認されて、分かりましたと返答し、手塚は直ちに部屋を辞した。

     授業まで、まだ少しだけ時間がある。図書室に行き、大辞典のサ行を含む巻を見つけて、袖の項を引いてみた。
     確かに袖は濡れていた。波に、滝の水に、時雨に、露に。悲恋で流す、ありとあらゆる涙の例えに。
     自分の袖が洗われていると間接的だが言った不二は、悲しい恋をしているのか。それは胸を、鷲掴まれる想定だった。彼が悲しんでいること、誰かに想いを寄せていること。
     そしてまた、袖には墨がついていた。古来より、人に恋い慕われると袖に墨がつくと言われ、故に恋われるしるしとして、袖に墨つくというらしい。
     ボクの袖はとっても綺麗―。
     最初、袖の話が出た時、不二はそう言って笑った。
     何が綺麗だ。不二は何も分かっていない。自分の袖が、どれだけ黒く染まっているか。あの日、ジャージを取り違え、手塚のにおいにすっぽり埋もれた彼をみて、手塚が何を思っていたか。
     それはいかにもどす黒く、このまま抱けば、袖どころか、彼を汚すような想いだ。彼のためを思うなら、すぐにも捨て去るべきだった。
     
    「手塚、また、何かあった―?」
     気付くのはやはり不二だった。あれからしばらく寝不足の夜が続いていたが、本人に話せる筈もない。黙っていると、不二は柳眉をひそめながら、そっと手塚の目の下に触れた。
    「隈ができてるよ。キミ、ちゃんと眠れてる?」
     彼の体が、自分の目の前にあった。腕を伸ばし、閉じれば抱きしめられるだろう。
     当然ながら、してはいけないことだった。手塚の顔のすぐ近くにある、もう真っ黒な不二の袖は、そうは見えない清潔さで、清らなかおりが柔らかく溶けるようだった。
     何度も何度も、何日も、夜が更けるまで考えた。考えるまでもないことだった。この美しい少年を思うなら、自分は離れるべきであり、そしてそれは―決してできないことだった。
     決してできない。不二なしで生きる、そういう未来は、もはや手塚のどこにもなかった。
     一体いつからこうなったのか。思い起こそうとしても、彼とあった全ての時間が浮かぶばかりで、最後には、何度も共に見上げた空の、青一色が脳裏を占めた。碧空は、いつもあれほど美しいのに、不二の袖は、もう永遠に、黒いままだ。
     噛みしめるように考えてふと、思い出す。不二は初めに、何と言ったか。手塚の袖が綺麗に見える―実は墨がついていると、そういうことを言わなかったか。
     それは一体、誰の想いでつけられた墨か―。綺麗に見えてよかったと、いつものように笑った彼が、自分は恋をしていると、遠回しに嗤った彼が、目の前の彼に重なった。
     これは果たして、うぬぼれだろうか。
     手塚はゆっくり、両方の腕を動かした。不二を包んで、引き寄せそっと抱きしめた。
     こんな時に可笑しくなるほど、不二はひたと固まった。
    「てづか」
     上ずった声が困惑に満ちて、困らせてすまないと思い、手塚は少し考えて、思う自分をはるか遠くに投げ捨てた。
    「睡眠時間を削って考えてみたんだが、不二」
     細い背中をかき抱いて、小さな頭も抱え込み、滑らかな首筋に顔をうずめる。
     彼のかおりが、その存在が胸を満たし、手塚を安らがせるとともに、動かす力に変わっていく。
     思えばそれは、決して初めてではなくて、何度もあったことだった。―ああ、そうだ。だからこそ。
    「不二。お前と俺は、一生の、後まで離れず生きるべきだ。―まずは俺と、付き合って欲しい」
     腕の中は静まり返った。手塚は待った。やがて不二の両の手が、持ち上げられて、微かに震え、それからひどくゆっくりと、手塚の背中に回された。
     
     午後のコートは、日差しが止まず降り注ぎ、風があっても暑かった。季節は夏に近づいている。
     メンバーは皆、ジャージを脱ぎ置き、結局一度もそれを着込まず、おのおの部室に戻っていった。いつも通り手塚は最後まで残り、今は後片付けの最終確認をおこなっていた。
    「ねえ、手塚」
     それをベンチで待っていた、不二の声が近くでした。どこかうきうきと弾んでいる。首を巡らせてみると、一回り大きなジャージを着た彼が立っていた。
    「間違えちゃった。キミのだね」
     いたずらっ子のように笑まい、不二は両袖を揃えて顔に近づけた。
    「やっぱり大きい。くやしいなあ」
     言って笑い、大きく息を吸い込んで笑う。
    「キミのにおいがするよ、手塚」
     手塚は頬を緩めて不二に近づいた。彼を包む自分のジャージの襟ぐりを、両手で取って持ち上げて、その陰で不二に口づけた。
    「お前のかおりもするな、不二」
     囁くと、不二は朱を刷いた頬で、くすりと首を傾けた。
    「ねえ、知ってる? 手塚。袖は交わしたりもするんだ」
    「袖交わす、だな」
     想い合うふたりが袖を振りあい、あるいは袖を敷きあって、共に眠ることだという。
    「不二。―帰りにうちに寄らないか」
     不二は「うん」と頷いた。彼の袖は、手塚のために、きっとこの世のどんなものより黒いのだろう。
     微笑む彼は、そしてまた、誰より何より、綺麗だった。その美しさは、あの日の、今日の、空の青にもよく似ていた。
     手塚は笑んだ。きっと定かに。自分のジャージに包まれた、不二の背中に手をやり促し、そうして共に、歩き始めた。




    傘ひとつ


     金曜日の午後の校舎は、休みをすぐの前にして、どこかさざめきに満ちていた。目くじらを立てることではなく、何より手塚自身とて、今はそのさなかにいた。土日の予定を不二に問う。答えはすぐに返ってきた。
    「土曜日に、親戚の家に泊まりに行くよ」
     どうして? と視線で問われ、「いや」と答える。「家に来ないか」と発するつもりでいた言葉は、丸ごと飲み込み首を振った。急ぎの用があるわけではない。新しい釣り具を買って、それを誰より先に彼に見せたいというのは、手塚の勝手な願望だ。
     何でもない、楽しんでこい―。言うより早く、不二が「手塚」と、顔を僅かに傾けた。
    「ボク、日曜の昼頃には帰るんだ。キミの家に、お邪魔していい?」
     反射的に首を縦に振りかけて、手塚は意図して顔をしかめ、言うべき台詞を探し直した。
    「無理はするな。一泊とはいえ、疲れるだろう」
     不二は柔らかく頷いた。
    「うん。でもさ、キミに会えたら―ボク、嬉しくて、元気になると思うんだ。それに」
     釣りの道具を買ったって言っていたじゃない、見せて欲しいな、と続けられて、手塚はもはや是も非もなくして、「分かった」と首肯した。
    「ならば駅まで迎えに行く。何時の電車だ」
    「大丈夫だよ」
     不二は言って笑ったが、どうしても彼に何かをしたくてたまらずに、食い下がって、到着時刻を聞き出した。
     
     その日曜日の昼前に、空は急に暗い雲に覆われた。ぽつりぽつりと雨粒が地面を濡らし始めて、週末は晴れるといった予報はすっかり外れだった。
     家を出る支度をしていると、携帯電話に不二からメッセージが入った。
     一本早いので帰っちゃった。今、駅だよ―。
     分かった、と、薄い機械に素早く打ち込む。靴を履き終えた手塚は、続いて傘立てに視線を投げた。
     
     駅前は、相変わらずの雑踏だった。その中に覚えのある顔を見て、手塚は思わず足を止めた。
     一ヶ月前、写真の中で髪の先を揺らしていた、一年前、一度言葉を交わした少女の顔だった。背の高い連れは、友人だろうか。いつ退院したのだろう。確かな足取りで歩きながら、少女は遠目にも楽しそうに、しゃべり、そして笑っていた。幸せ、喜び―そんな言葉が似合うような光景だった。

     不二は小さなケーキ屋にいた。持ち帰りが中心だが、店頭の数席でイートインも可能な店だ。大きなパラソルで雨だれから守られて、不二はコーヒーを飲んでいた。隣の椅子には、少し大きな荷物とともに、その店のロゴが入った紙袋が置かれている。手塚の家にと、手土産を選んでくれたのだろう。ふとした折に自然と現れる気遣いは、いかにも彼らしいものだった。
     もたげられた顔が手塚を目にとめ、輝いた。
    「手塚」
     片手を上げてひらひらと振られ、手塚も少し手を上げて、応えながら歩み寄る。
    「おかえり、不二」
    「ふふ。―うん、ただいま、手塚」
     微笑んだ不二が、不意に瞳を瞬かせた。
    「ねえ、手塚。何かあった?」
     いいこと、と囁かれ、先ほど見た景色のことを思い出す。不二には伝えるべきであり、同時に伝えたいことだった。
     話すと彼は、柔らかく笑み、頷いて、静かに二度、「よかった」と繰り返した。
     そうだ、よかった。あれはよい光景だった。思った脳裏に、もうひとり、関わっていた少年が浮かんだ。遠くに越していったと聞いた。彼もいつか、どこかの町で笑うだろうか。笑えなくても自業自得ではあるが、笑う彼を見たのなら、不二はきっと、今と同じく、笑むのだろう。ならばあの少年も、笑えたらいいと、そう思う。
    「お前は人の気持ちにさといな」
     長兄だからというだけでなく、人となりであるのだろう。手塚の感嘆を受けた不二は、ぱちぱちとまた、瞬きをした。
    「推理小説のようだった」
     手塚には全く思いも寄らなかった、少年の背後を、その想いを見抜いた彼は、手塚の言わんとしていることにも直に気がつき、ああ、と小さく呟いて笑った。
    「初歩的なことだよ、テヅカくん。―って? ふふ、別にさとくもないよ。分からないことの方が、ずっとずっと多いもの」
     言った視線がふっと流れて、店の軒先の傘立てでとまった。磁器製の大きな壺の中に、ビニール傘がひとつ投げ入れられている。持ち手がカバーで覆われていて、型は崩れずてかりと光り、まだ新しいようだった。
    「たとえば、ほら、あの傘もさ。お客さんがいないでしょう?」
     確かに店内は今は無人だ。忘れ物ではないのかと反射的に思ったが、不二はゆるゆると首を振った。
    「さっき、男のお客さんが来ていたんだ。あの傘をさして。買い物を終えて、またさそうとして―途中でやめて、折りたたみ傘を出してね。そのまま置いて行っちゃった」
     何かを考えての行動に見えたが分からない、と不二は笑う。
    「名探偵にはなれないや」
    「―そうか」
     応えながら、手塚は自分の傘を見て、それから彼に向き直った。
    「初歩的なことだよ、フジくん。―か?」
    「え?」
     聞き返す不二に問いかける。
    「その男性は、急ぎ足ではなかったか?」
    「―え。……うん、そういえば」
    「待ち合わせをしていたんだろう。多分恋人と。相手は傘を持っていないと彼に連絡を取っている」
     突然の雨だ。そんなことが、むら雲の下、あちこちで起きていたかもしれない。傘があるかと聞かれた男性は迅速に、ビニール傘を買い求めた。自分の持っていた折りたたみ傘と、あわせて二本、ふたり分を用意した。そうしてきっと、ふたりで食べる菓子を買いつつ気がついたのだ。傘は一本あればいい、その方が都合がいいことに。
    「都合がいいの?」
     首をかしげる不二に頷く。
    「いいだろう。いわゆる相合い傘ができる」
     あ、と不二は小さな声をひとつ落として、それからくすくす笑い始めた。
    「―うん、そうだね、そうかも。……そんな気がする」
    「すごいね、手塚」と、尊敬の念に満ちた瞳で見上げられ、「大したことじゃない」と、手塚は手の中の傘を示した。
    「俺も一本だけにしたんだ」
     不二は大きく目を開いた。そうして再び笑(しよう)声(せい)をこぼした。心地のよいその響きは、手塚の耳をくすぐって、しばらく止まず、続いていた。
     
     ひとつの傘で、ふたりで家への道を歩く。
    「きちんと入れ。濡れるぞ」
    「キミこそちゃんと入ってる?」
     言い返した不二がふと、遠くを見つめるまなざしをした。小さな笑みを紅唇に浮かべ、ほうっとひとつ、息をついた。
    「どうした」
    「うん。―袖って、濡れるじゃない」
     今では手塚も知っていた。袖は濡れる、深い恋のかなしみに。
     幾多の時代、こうしている今その時も、誰かが袖を濡らしている。もしかしたら、あの少女や、―少年の袖も、濡れていた。あれはつまり、そういう出来事だったのだろう。
     かつて自分の袖が濡れていると言って嗤った不二は、手塚を見つめて、いと柔らかに微笑んだ。
    「嬉しくて泣いて―濡れる袖も、あるかもね」
     頬がたちまち緩んでいくのを感じながら、手塚は「ああ」と頷いた。
    「あるだろう。―絶対に」
     言って見つめた不二が今にも傘からはみ出しそうだったので、手塚は不二の肩に手をやり、自分の方へと引き寄せた。彼が決して、冷たい雨には濡れないように。
     


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    調@大人向け他

    PASTご要望いただきながら再々版できなかった一冊目、『とける、ほどける、むすばれる』を期間限定でこちらに再録してみました。
    急ぎ仕事でダーシ等ポイピクに合わせて修正出来ていませんが、このたびはお試しということでご寛恕くださいませ。
    『know,don`t know』『our sleeves,always』(再録)
    『傘ひとつ』(書き下ろし)
    の三本を収録しておりました。お求めありがとうございました!
    とける、ほどける、むすばれる know,don't know
     

     その町は、古い城に見下ろされていた。いつの時代のものとも知れぬ。様式はごた混ぜで、壁は堅牢だが塔は高く天を貫き、大きな窓にステンドグラスは嵌っていない。誰が何のために建てたかも、町民達は知らなかった。
     町にはまた、いわゆる吸血鬼伝説があった。これもいつから囁かれたか、分かるものはいないだろう。生気を喰らい永きを生きる化け物が、城に住まうと言われて久しい。
     国は城を遺跡とし、一切の立ち入りを禁止している。本当のところは誰も知らない。
     
     城の全貌が見晴らせる位置に、大きな親水公園があった。河川や湖の近くにあるようなものではなく、幾多の水路が縦横無尽に走りつくり出されたものだ。町のものには、お堀公園と呼ばれている。
    22839

    調@大人向け他

    DONEお題「春遠からじ」と「赤い糸」で、不二くん受けウェブオンリー様の企画その2、WEBアンソロジーに参加させていただきます。お運びくださった皆さまには申し上げるまでもなく塚不二でおおくりいたします。
    『たとえば今…』八周年の今日にも寄せて。まさに原作と讃えられた歌のごとく、永遠に離れないふたりでいてください。おめでとうございます&ありがとうございます…!
    春遠からじ、赤い糸 赤い糸というものが、手塚にはいまいち分からない。いや、意味としては分かるのだが、つまりは合縁奇縁であり、自分の意志より運命で伴侶が決まるというのはどうにも腑に落ちない。
    「そうかなあ」
     遅咲きの梅の写真を一枚撮って、ほんのりと笑って不二が首をかしげる。
    「たぶんさ、運命ってひとつじゃなくて、たとえば今日、キミはボクに梅が咲いたって教えてくれて、だけどボクじゃない可能性も」
    「ないが」
     なにやらおかしなことを言い出したものだから、思わず食いつき止めてしまった。言葉が強かったかもしれない。反省をしている手塚に不二はまばたいて、くすくすと花より小さくまぶしい笑みをその場にこぼした。
    「ううん、――そうだね。ふふ、ねえ、手塚。キミの赤い糸はさ、きっと。キミの手の中に今あって、キミが自分で結びに行くんだ」
    620

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    229tensai

    DONEち、違う!! 俺が悪いんじゃない!!
    全国大会の準決の試合中に劣勢になっているのにも関わらずえっちな顔して写真集みたいなお色気ポーズしてる不二パイセンが悪いんだ!!!!
    不二のえちおね♂な色気爆発かわいさに世界が気づいてないのはおかしいと思っているモブ汚じさんが書きました。
    なんでこの世界の人たちは不二に欲情しないんですか?

    ※某掲示板風注意
    ※手塚が居ますがラビ時空ということで…
    「最近同室になった美人が不健全なんだが」(幸不二)(蔵不二)1:名無しにかわりまして植物愛好家がお送りします
    なんだろう…
    こう、どう考えても誘ってるとか、彼女が彼氏にするみたいな言動を普通にしてくるんだ


    2:名無しにかわりまして植物愛好家がお送りします
    お前は何を言っているんだ


    3:名無しにかわりまして植物愛好家がお送りします
    タイトルからしてツッコミどころがありすぎる


    4:名無しにかわりまして植物愛好家がお送りします
    サークルクラッシャー女に人生狂わされてる童貞の話か?


    5:マーガレット
    ごめん、色々限界で俺とした事がコテハンをつけ忘れていたよ。
    コテハンはこれにする。

    マーガレット→俺(男)。マジレスで相手の五感を奪うスタイル。神の子の異名を持つ。

    サボテン→同室になった、いつもニコニコしている不健全な美人(男)。本人は至って健全だしそういう気も全く無いのにえっちなことになったり、無意識に男に思わせぶりな態度をとったりしてくる。
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