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    kyosato_23

    @kyosato_23

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    kyosato_23

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    鯉登の血を知りたくなかった月島の話。
    樺太での2人は何回噛んでも味が出ますね。

    貴方の中の色を知ってしまった*





    あの人の中にもあの色が流れているという事実を、俺は考えないようにしていたのかもしれない。
    溌溂とした皮膚はあんなにも血色に満ちていたのに、それでも俺はすぐ隣にいる鯉登少尉殿をどこか物語の上の人間のように思っていた。
    口を閉じてさえいれば絵本の夢物語に出てくるような気品ある貴公子。口を開けば若い外見に見合わぬ硬質で厳格な口調に、気が昂った時の派手で大振りな動作は舞台の上の役者じみていた。
    ろくに絵本にも観劇にも縁のない人生を送ってきた分際で、俺は鯉登少尉殿にその空想を重ねていた。

    劇場の舞台の上の、作り物の貴公子。
    それは今更な逃げの思考だった。
    今までに散々に手を汚してきたというのに、俺は今更になっていつか鯉登少尉殿を殺さねばならないかもしれない自分の仕事から目をそらしている。
    目の前にいる人が血の通った人間であるという事実を極力認識しないでいれば、いざ殺す時に気が楽だ。
    血が通っていないのであれば、それは作り物なのだから。仮に俺が手酷く傷をつけたとしても、あの人が舞台上の役者である限り流れる赤はサーカスの仕掛けで見せるような、紛い物の色水なのだ。



    樺太に来てから、鯉登少尉殿は多くの傷を負った。
    猛獣に牙を立てられ、屈強なロシア人と殴り合い、……谷垣一等卒や罠で負傷した俺の為に怒り、キロランケと対峙した。
    俺はもう鯉登少尉殿の中に流れる鮮やかな赤い色から目を反らせなくなっていた。



    モスという食べ物を上機嫌で咀嚼する鯉登少尉殿の横顔は喜色に溢れている。
    「ご機嫌ですね」
    そう声をかけると、父を思い出したのだと口元を綻ばせる。父の期待に添える結果を報告できるのが嬉しい、そう声を弾ませる姿は鶴見中尉殿の配下の軍人ではなく、海軍少将の息子の形をしていた。
    舞台の端から現れて舞台の端へと消える役者ではない、父母から生まれ出た息子の輪郭が鮮明になる。
    その嬉し気であるが物静かな横顔がきっとこの青年の生来の笑みだった。
    「……誇らしく思って下さるはずですよ」
    そう讃えれば鯉登少尉殿の目に輝きが増し、その頬はうっすらと上気した。疲れていても張りのある褐色の皮膚の下に流れる、力強い血流を感じさせる。
    今まで見た中で最も血の通った、好ましい表情だった。

    「……鶴見中尉殿もさぞかし喜ばれるでしょう」
    俺はその一言が血の流れる青年を作り物の舞台役者に引き戻す言葉であると知っていてそう口にした。そうするのが自分の仕事だった。
    それを聞いた途端、目論見通りに青年は喜劇役者のように大袈裟な笑みを見せて振り向いた。
    そう、それでいい。
    そうしているうちは鶴見中尉殿もあなたを消そうとはしないでしょう。
    演劇の英雄が成果を伴って国に帰るように、晴れやかに歌いながら鶴見中尉殿の元へ戻るとよろしい。
    舞台の上の貴公子でいてくれる間は俺はあなたを殺さずにすむのです。
    ……もし殺す時がくるとしても、俺は苦しまずに、すむのです。






    杉元が毛を逆立てて飛び起きた。
    鯉登少尉殿の体が強張って動きを止める。
    その背中から、ずぶりと銃剣の刃先が飛び出してきたのが見えた。
    鯉登少尉殿の骨の間を縫ってその肉と内臓を刺し、貫通した。
    遠目ながらも咄嗟にそこは大きな血管の流れる箇所に近い、と頭を駆け巡った。
    それを見て言葉を失った。

    俺は刺さなかった。刺さなかったのだ。
    あの時、鯉登少尉殿から真偽を問われ糾弾された時、俺はあの人の血管を傷つけることのないよう、肉を抉ることのないよう、自分のこの汚い胎の内をぶちまけてまでようやく言うことを聞かせたというのに、杉元め。

    鯉登少尉殿は恐らく杉元とアシリパを撃つつもりはなかった。
    鯉登少尉殿が好んで使っている拳銃であれば、剣術の腕を鍛え上げたあの人は少ない予備動作で相手に気取られる前に発砲できる。それをわざわざ構えたままで話しかけたのは威嚇に他ならない。そもそも本気で殺すつもりであればあの人は銃よりも軍刀を使う。
    しかし杉元があの人のそんな気質を知る由もない。直前に俺に撃たれたのだ、鯉登少尉殿にも同じく殺意があると見做すのも当然だ。
    手負の獣に不用意に近づいた鯉登少尉殿の非の方がよほど大きい。杉元のしぶとさと危険性を知らないはずはないのに。
    ……すぐに信じてしまう性質だったな、あの人は。

    いや、原因はどうでもいい。
    俺の目には逃げる杉元とアシリパよりも鯉登少尉殿の背中に滲む赤い色ばかりが映っていた。
    力なくその場に座り込んだ背中に駆け寄る。
    服にこだわる鯉登少尉殿が仕立てた質の良いコートの背から生えた無骨な銃剣の切先と、そこを中心に広がる赤い色。丸まった背中の寄る辺なさがその赤の意味を否応なしに見せつける。
    俺の心にも諦念が広がる。俺はやはり認めねばならないようだ。
    「鯉登少尉殿、診せてください」
    背後へ跪いて背を支えながら自分の方へ体を倒させる。倒れ込んできた体の意思の感じられなさにヒヤリとしたが、ひとまず呼吸をしているのに安堵する。
    貫通した切先が地面に触れないよう、腕と膝で支えて背中を僅かに浮かせたまま仰向けにさせた。
    目は虚ろだ。顔に殴られた後と、僅かな出血。こちらは大した深さではない。
    やはり鎖骨の下に深く突き刺さった銃剣が問題だった。前側はさほど出血していないが、支えている手に感じる少尉殿の外套の濡れた箇所がじわじわと広がっているように感じる。

    菊田曹長が横を走り抜け様に俺に指示を投げかけた。杉元たちを追え、と。
    上官からの命令であるというのに、俺の体は動かなかった。
    「……」
    「抜かないでください」
    鯉登少尉殿の右手が震えながら剣の柄へ伸びたのを見て、反射的にその手首を押さえる。
    抜くどころか、触れることすらいけない。少しでも触れて刃が動けば、更に血管を傷つける。そうなるとそこから止めどなく赤い色が噴き出すだろう。
    それは紛い物ではない、鯉登少尉殿の命そのものの色だ。
    やはり、今はここを離れるべきではない。

    「行け月島、私はいいから…」
    健気にもか細い声でそんな風に命じるものだから俺の耳は聞こえないふりをした。
    「いつも感情的になって突っ走るなと注意していたでしょう…」
    この人はいざ自分の命が脅かされた時に限ってそうして自分を蔑ろにし、他者を優先する。いつもは冷たくあしらっても俺の周りにまとわりついているくせに、どうして肝心な時に俺の言うことを聞いてくれないのですか。

    そんなのは知れたことだった。
    この人が血の通う生きた人間だからだ。
    血の通わない機械であれば、台本の通り演じる役者であれば、命令や筋書きから外れたりしない。
    俺は認めなければいけない。
    この人の体の中に鮮やかで愚かで美しい血が流れ、育まれている。
    俺はその赤を尊んでいるし、失われて欲しくないと思っている。
    そう自覚した傍から俺の指先はその尊い赤に汚れている。
    かつて上気していた頬の血の気が失せて、生命力の面影もない。
    外套越しに膝に伝わる鯉登少尉殿の心音が弱々しいのは厚い布地に遮られているせいなのか。僅かに早いその心音を取りこぼさないように手首を握る手に力をこめる。

    こうなって欲しくなかった。
    こうなりたくなかった。
    だからこの人の血が流れないよう、俺は。





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