未定以下の成分が含まれます。
・年齢操作(学園に入る前の時間軸)
・「子供の頃に理由あって女の子の服を着ていた時期がある」が性癖なので書きました
それぞれ理由があって留三郎と伊作が女の子の服を着ています
文次郎は2人を女の子だと思っています
・3人の家庭事情と出会いの捏造
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本来であればその使いは文次郎でなく兄の役目だった。
向こうの家の娘の体調が思わしくないとのことでその見舞いと、中元の贈り物と、そのついでに家を継ぐ長男の顔を売ろうという目論見だった。
文次郎の家は祖父の代で成りあがった商家だ。
文次郎より五つ年上である兄は早いうちから家を継ぐことを決められていた。そのために今の文次郎の年の頃から店や取引の場に同行して仕事を学んでおり、来年には元服してこのままつつがなく跡取りとしての人生を歩むはずである。
その兄が夏風邪をこじらせてとても出歩ける状態ではなくなってしまった。相手方に兄を紹介したいのはやまやまだが、中元を贈る時期には限りがある。
自分だけで行くしかないかと父は肩を落とした。
ところがその数刻後ひったくりに遭遇した父が倒れた拍子に腰をやってしまったものだから、盗まれた風呂敷の行方と父の容態という二重の災難で母も悲鳴をあげる羽目になった。
下心のある両親はこの訪問を中止にしたくはなく、かと言って家の者以外を使いにやるのは相手が気を悪くしないかと葛藤し、その末に文次郎にお鉢が回ってきた。本来なら表舞台に出すつもりなどこれっぽっちもなかった幼い次男坊に、である。
母は最後まで文次郎を行かせるのに渋い顔をしたし、兄も悔しそうだった。しかし文次郎を可愛がってくれていた手代が母を宥め、父がそうさせよと決定を下したことで二人は口を噤んだ。
文次郎はもう九歳なのだから、家の使いくらい難なくこなせる。
手代が母に言ったように礼節もわきまえているし、頭だって悪くない。字だって力強くて綺麗な筆致だ。体は丈夫、足腰も強く、この暑い中でも山のひとつやふたつ向こうの町まで往復するなど造作もなかった。
そんな文次郎が兄の裏方に押しこめられている理由はつまり、次男であるからだ。さらに言えば母に似た容姿でないのも一因だろう。
最初に生まれた子である兄は母に似て細面の優男だったので、親の寵愛を一心に受けた。体はあまり強くなかったが物覚えがよく、将来への期待は大きかった。
その五年後に生まれた次男である文次郎は兄の補佐になるべしと育てられた。兄が家を継いで華やかな表側の仕事をするならば、文次郎はその裏方の仕事をさせようという心づもりだった。文、という文字の入った名も兄を支えるために賢い子になるようにとつけられた。
その願い通り文次郎は賢く、計算も早く、帳簿のちょっとしたズレもすぐに見つけられるような子に育った。しかし理不尽に裏方の雑務や尻拭いを押しつけられて黙っているようなおとなしい性格ではなかった。真面目だが元気で頑強で、文官よりも武官の気質を備えていた。そして勤勉で怠慢を嫌った。
よく言えば慎重、悪く言えば軟弱で面倒事を嫌うところのある兄と文次郎はそりが合わない。長男に対して従順ではない次男について両親も難色を示し、常に両親や兄との軋轢は絶えなかった。
この挨拶の役目を前のめりで引き受けたのは何も兄の代わりになってやろうとか、そんな大それた目論見ではない。
家の中では日陰の存在だが、文次郎は自分の才に自信があった。それを見せてやろう、それで少しは自分を見直すといいという、自己顕示欲と矜持だった。文次郎や妹を自分の家来のように扱う兄への意趣返しも少し含まれている。
先方への見舞いと挨拶はみごとに成し遂げた。
母からは余計なことはせず、中元を渡したらすぐに帰るようにと口酸っぱく繰り返されたが、急な訪問ならともかく時間を割いて場を設けてくれているのだからそれこそ礼節を欠いた話だ。
先だっての文で聞いていたのと違い子供が一人で訪ねてきたものだから相手方は驚いたが、文次郎は挨拶の言葉から佇まい、座り方、中元の渡し方まで礼儀正しくこなした。九歳という幼さながらその折り目正しい物言いと身のこなしにえらく感心し、茶菓子の他によく冷やした桃を出してくれたほどだった。
こうして家の使いを見事に終わらせた文次郎は得意満面の笑みで帰路についた。
往路は意気がみなぎって景色を見る余裕もなかったが、復路では周囲の様子がよく目に入った。
文次郎の住む町からは山ふたつ分ほど離れた場所だ。海が近く商いで栄える文次郎の故郷と違い、少し歩いて町から離れれば山と田畑しか見えなくなった。これだけの距離でこうも景色が違うものかと思った。
街道を少し進むと石の階段があり、その先に鳥居があるのが目に入った。古びているが大きくて立派な鳥居だ。神社があるのだろうか。
ふと興味をひかれて、文次郎はその階段を登ってみることにした。一人きりで知らない場所を散策する自由な時間など、文次郎には貴重だったのである。母や兄、それに媚びを売る連中の目線にさらされずにいられる時間は文次郎の好奇心と冒険心をおおいに刺激した。
何を祀った神社なのだろうか。商売に、勉学に、無病息災。今の文次郎にはたくさんの希望が必要だ。せっかくだから参拝して帰ろうと文次郎は階段を駆け上った。
太陽が中天を過ぎた時間になるとさすがに日差しが強く、最後の一段を踏みしめた時にはこめかみを汗が伝った。
少し上がった息を整えながら鳥居を見上げる。小さく一礼をしてから立派なそれを潜った。
境内はさほど広くはない。鳥居の下から見渡せる程度の敷地である。石畳の先に本殿と幣殿が並んでいるのみだった。だがどちらも手入れが行き届いており、どこか静謐な荘厳さがあった。
参拝者はおらず、文次郎以外に人影はない、と思いきや風に乗ってさざめくような笑い声が耳に届いた。高い子供の声だった。
近所の子供だろうか。神社が子供のたまり場になっているのは珍しくもないので、特に警戒もせず声の出所を探る。
幣殿の横に人の気配があった。石畳の参道からそれてそちらへ向かうと茂った木の枝葉が落とす影で日差しが遮られた涼し気な一角から、先程と同じ笑い声とガサガサと何かをいじる音がする。
文次郎が相手を認識する前に、足音に気づいた向こうがはたと笑い声を止める。
そこにいたのが二人の少女であると文次郎が理解したのと、あちらが文次郎の気配におどろいて顔を上げたのはほぼ同時だった。
黒い髪の少女と、黄褐色の髪の少女だった。どちらも髪の手入れはあまりされておらず、うねるような癖がある。年の頃は文次郎と変わらないように見えた。
黒髪の方は肩の下くらいまでの髪の長さで、生成に柑子色の柄の小袖を着ていた。目つきがきつく、文次郎を警戒した様子できゅっと口を引き結んでいる姿は眦の強さそのままにはねっ返りな気性が顔に出ているかのようだった。
黄褐色の方は背中までの長さの髪を毛先に近い場所で結んでおり、桃色の小袖を着ていた。こちらは驚いた猫のように目を丸くしてぽかんと口を開けている。
狛犬の阿吽のようだ、と思った。
少女らの足元には刈り取られた枝が山積みになっており、そこから葉を一枚ずつ切り取ってざるに入れているところのようだった。
興味本位で覗いたものの仕事の最中だとしたら邪魔をしたなと会釈をし、文次郎は踵を返そうとした。特に黒髪の方の目線が刺してくるようで居心地が悪い。
「もしかして、参拝のひとかな?」
黄褐色の方が目を輝かせて茣蓙から立ち上がった。膝のあたりを叩いて払うと人懐っこい顔で近づいてくる。
「おい、いよ!」
黒髪の方が鋭く叫ぶ。乱暴な物言いに文次郎は思わず顔を顰めた。
「知らないやつにすぐ近づくなよ!」
「え? 大丈夫だよ」
いよ、と呼ばれた少女は制止を意に介さずへらりと笑った。まず手を清めてね、と手水舎へとすたすたと歩いていく。物言いからしてこの神社の娘なのだろう。文次郎がそれについていくと、後ろで苛立った声がして黒髪が追いかけてきた。
参拝の仕方は知っている。それを聞きたかったわけではないのだが、いよという少女はにこにこと文次郎を先導した。それは構わないとしても、黒髪の少女の威嚇じみた眼差しにはさすがにカチンとくる。
睨み返すようにその顔を一瞥し、手を清める。火照ったてのひらに湧き水の冷たさが心地いい。それで少しだけ怒りが鎮まる。
「ちゃんと手を洗える子に悪い人はいないよ」
同じく暑さで火照って赤い顔をしているいよがますます笑みを深める。こちらはこちらでよくわからない理屈で褒めてくるので反応に困った。対照的な二人だ。
「またお前はそうやって……」
黒髪の少女が目を伏せて溜息をつく。強い印象の目が伏せられると物憂げにも見えたが、第一印象が悪かった文次郎にはそれも神経質な性質なのだろうといったふうに映った。
「もう、心配性だなぁ。私たちも休憩しようよ。水を汲んできてくれない?」
「はぁ……なにかあったらすぐ呼べよな」
黒髪の少女は最後にもう一度文次郎の顔をじっと見て、裾を翻して走って行った。
手ぬぐいで手指の水を拭き取りながら、文次郎は眉間にしわを寄せた。人を不審者のように睨むわ、言葉も荒いわ、なんて女だ、と思った。
「ごめんね、とめはちょっと男の子が苦手なんだ。乱暴をする子が多いから、」
「……乱暴なのはあいつの方じゃないのか」
「そんなことないよ、とめは優しいよ」
あの娘はとめという名らしい。
人の好さが滲み出るいよの言葉はどうも信憑性に欠ける気がする。この暢気な思考ではとめが心配するのも理解できる。あからさまに文次郎を睨むような、とても優しいとは思えないようなあの少女をこうしてとても優しいと手放しに褒めるのだから。
「ここは何を祀った神社なんだ」
「住吉大神。厄除けや病気治癒のご利益があるんだよ」
「……そうか」
いよに付き添われたまま本殿の前に立ち、懐から出した小銭を賽銭として置くと、以前習った通りに神体に向かってお辞儀と拍手をする。手を合わせ、文次郎は一心に祈った。
いくら祈っても足りないほどだが、神体の前で石になるわけにもいかない。目を開いて最後にもう一度深くお辞儀をした。
顔を上げるととめが桶を抱えて戻ってきていた。いよと二人、神妙な面持ちで文次郎を見ている。その目線がなんだか落ち着かず、文次郎は小さく会釈して神社を出ていこうとした。
「ねぇ、暑いでしょ。少し休んでいきなよ」
「おい……」
「いや、俺は……」
文次郎ととめの声が重なる。
「だって、すごい汗だよ。顔も真っ赤だし。これからもっと暑くなる時間なのに倒れたら大変だよ」
困惑する文次郎ととめの言葉をいよののんびりとした正論が押さえ込んだ。
先程の幣殿の横の日陰に移動して、三人で腰を下ろす。
いよに名を聞かれたので潮江文次郎だと答えた。
「私はいよで、こっちはとめだよ。よろしくね、文次郎!」
「あ、ああ……」
能天気ないよの言動にはどうにも調子を狂わされる。柔和なようでいて押しが強い。
「いよ、」
「ありがとう!」
とめが桶の水で手ぬぐいを濡らしていよに手渡す。いよはそれを頬に押しつけてつめたい、とはしゃいだ。
とめが文次郎にも手を差しだした。細くてすらりとしているが、柔らかそうというよりやや骨ばった指だった。ところどころ傷があり、荒れている。
「冷やしたいなら手ぬぐい貸せよ」
とめの物言いはいちいち文次郎の癪に障る。指図するようにものを言われるとどうしても反骨精神が刺激されてしまう。
自分を睨んでばかりの横柄な女の世話に誰がなるものかと意地を張りたい気持ちはあるが、しかしこの暑さと喉の渇きの中で井戸から汲まれたばかりであろう冷たい水は魅力的だった。おとなしく懐から取り出した手ぬぐいを渡した。
手ぬぐいを受け取るのと反対にとめが竹筒を文次郎の手に押しつけた。中からちゃぷんと水音がする。
続いていよにも竹筒を渡す。いよはまた礼を言ってその中の水をごくごくと飲んだ。文次郎もそれに倣って竹筒に口をつける。口内に流れ込んでくる冷たい水が燻っていた怒りを少しだけ鎮火した。
とめの手が手ぬぐいを桶の中の水に泳がせる。十分に濡らせてから引き上げて、とめの十本の指が手ぬぐいに絡みつき、水を絞るために締めあげる。いよよりも肌が白いとめの頬に前髪から伝った汗がつるりと滑り落ちた。その雫がそのまま顎をつたい、胸元にぽたりと落ちて襟元を濡らす。
自分も汗をかいているのにいよや文次郎の手ぬぐいを優先しているのだと気付き、その濡れた頬や襟元に少しどぎまぎとする。
「ほら、」
睨みながらつっけんどんに手ぬぐいを押しつけられて、一瞬とめがたおやかに見えた自分の目をどやしつけたくなった。はぁ、と溜息をついて冷やされた手ぬぐいで目を覆う。
とめも続いて懐から出した手ぬぐいを濡らし、汗をぬぐった。
無愛想だな、と思う。
文次郎も決して愛想はよくないが、とめはそれに輪をかけて表情が硬い。
男が苦手で敬遠するにしても、こんな誰彼構わず刺々しい態度を取っていては相手の気分を害するだろう。そうすれば最初はとめを悪く思っていなかった男だってとめを嫌うようになるに違いない。相手に攻撃の口実を与えてしまうようなものだ。
文次郎は母や兄に追従しない自分を棚にあげて、とめの言動をそう評した。
そして文次郎は思ったことを率直に口に出す性格だった。
「おい、その目は何とかならないのか。そう睨まれてばかりじゃこっちも腹が立つ」
不満が声と口調にありありと表れていて我ながらおだやかな物言いではないと思ったが、とめが文次郎に対して冷たい以上こちらが下手に出るのも嫌だった。
一拍おいて、自分に対する苦言だと気付いたとめは眉と眦をつり上げた。
「こ……ッこういう、目なんだ! 生まれつきだ!」
「顔かたちの話をしてるんじゃねぇよ、人をまるで敵みたいに警戒するなって言ってんだ」
「そうだよ、とめ。文次郎は病気治癒のお参りをしてくれたんだから、男の子だけど悪い人や怖い人じゃないよ」
少し的外れな気もするがいよが文次郎に加勢する。友人であるはずのいよが文次郎についたとなるととめは孤立無援で、立つ瀬のなさに顔を真っ赤にして立ち上がるとどこかへ走り去ってしまった。
顔立ちはいよよりも大人びているが、まるで子供の癇癪だ。
「ごめんね。さっきも言ったけど、男の子が苦手なんだ。あと意地っ張り。悪気はないんだよ」
「……どこに行ったんだ」
「ひみつの場所。私もどこかは知らないけど、とめが落ち込んでるときにいつも隠れちゃう場所があるんだ。頭が冷えたら戻ってくるよ」
いよはあっけらかんと言った。
汗を拭いた手ぬぐいを洗い、絞ってぱたぱたと振って近くの枝へぽいと放り投げるように干す。
「まだ作業が途中だしね。私の仕事だけど、とめはいつも手伝ってくれる。一度やるって言ったらとめは途中で投げ出したりしないよ」
責任感が強いんだ、と我がことのようにいよは胸を張った。
仕事というのはざるに入れられたこの大量の葉のことだろう。
「これは何の葉だ」
「柿の葉。乾かしてお茶にするんだ」
首を傾げて足元の枝葉を見る。柿の木は近所でもよく見かけるので形を覚えていると思っていたが、こうして枝葉だけ落とされて転がされてしまうと案外何の植物なのかわからないものだと新たな発見に文次郎は唸った。
「ここら一帯で暑くなる前に枝をさっぱり剪定してしまうから、あちこち回って少しずつかき集めたんだ。とめと二人で回ったんだよ」
はさみで葉を根本からぱちん、と切って、それをくるくる指で回しながらいよがふっと表情を翳らせる。
「去年からずっと、色んな病が流行ってるから。今年は梅雨も長引いたし、体を悪くして参拝に来る人もすごく多い。たくさん作っておきたいんだ。だからとめもたくさん手伝ってくれる」
「……」
気の短そうなとめが手間仕事に一心になる様を想像する。いまいちしっくりこない。
「……ねぇ、文次郎はどこの町の子? この辺りじゃないよね? もしかして、海に近いところだったりしない?」
いよが急に目を輝かせて文次郎を覗き込んできた。その勢いに思わずのけぞりそうになるが、堪えてそうだ、と答えた。
「ここより山をふたつ越えたあたりの、海に近いところだ」
「わぁ!」
いよが歓声をあげた。海が好きなのだろうか。いよはいよで、何が琴線に触れるのかよくわからない。
「ねぇ、それじゃあ今度文次郎の町へ行ってもいい!?」
「はぁ!?」
突拍子もない願いに文次郎はとっさにそんな叫びしか出せなかった。
「海のそばの柿の木の葉が欲しいんだ! 山育ちよりも海の傍で育った柿の葉の方が冷えに効くんだよ! でも子供だけで知らない人ばかりのところへ行っちゃだめって言われてるから……友達が住んでるところへ会いに行くって言えば許してもらえる!」
「いつ友達になったんだよ!?」
「今から友達になろう!」
とめが心配するのも、おそらくは親から子供だけで知らない人間ばかりの場所へ行ってはいけないと止められている理由も、改めてよくわかった。距離の詰め方がとんでもない。初対面の、どんな性格かもまだよくわかっていないだろう相手をあっさりと懐に入れすぎだろう。実際には文次郎が懐に引きずり込まれている状況ではあるが。
「大丈夫、付き合ってとは言わないよ。とにかくその町に住んでいる友達がいるって証拠になってくれればいいんだ。そっちに着いたらとめと二人で何とかするから」
「何とかするって言ってもなぁ……」
文次郎の住む町はそれなりに栄えており、環境が劣悪なわけではない。だが近年は戦で焼けだされる人間が後を絶たず、盗みやひったくりといった犯罪が増えつつある。庶民のいでたちであるいよたちが二人で歩いていたところで金目当ての悪党の標的にはならないだろうが人さらいの危険はあるし、工作に手を貸す以上勝手にどうぞと放り出すのも気が引ける。
とめは責任感が強いらしいが、文次郎だってそうである。
「……わかった、俺が案内してやる」
「えぇっ、いいよ、とめと二人でも大丈夫だって」
自分から押してきたくせに妙なところで引くいよを文次郎はじとりと見た。
「バカタレ、俺宛てに訪ねてきた相手に何かあったら目覚めが悪い」
とは言え、文次郎にも普段は店の仕事の手伝いや勉学がある。何の仕事をするにしても体力があるに越したことはないと思っているので、自主的な鍛錬もしている。
ひとまず戻って店の人間に仕事の予定を確認しなければならなかった。文次郎の手伝いが不要な日があればそれにあわせて二人を呼び寄せればいい。
都合のいい日がわかれば後日この神社にいるいよ宛てに手紙を出すということで話はまとまった。
神社の子であればいよは夏などは盆や祭事が忙しくないのかと尋ねたが、なんとかするから大丈夫だとこれまたさらりと笑ってみせた。
別れ際、いよは案内の礼だとお守りをくれた。病気治癒祈願のものだった。
「うちの神社のお守りはとめが縫ってくれてるんだ」
「……」
どういう顔をしていいかわからず、文次郎は無言になる。
とめは結局文次郎がいる間には戻ってこなかった。
家に戻った頃には陽が翳り始めていた。
両親に報告をすませると文次郎は足早に自宅から少し遠い、町はずれの「離れ」へと向かう。
妹の療養のために両親が借りあげた家である。
妹は文次郎とひとつ違いの八歳だったが、冬の終わりごろに体調を崩しそれからずっと臥せっていた。元はただの風邪であったが、それで体力を消耗したところに流行り病をもらったらしかった。
店へ近づける訳にいかずこうして離れた場所で療養させている。
金を惜しまず医者を呼び、滋養のあるものを食べさせている。おかげで不運であれば一月もせずに死に至る病にかかりながらも妹は永らえていた。
父は自分に似た娘のことは可愛いらしく、多忙な中で割ける時間はわずかだったが、仕事の合間をぬって会いに来ている。
母は文次郎同様に父に似た妹をさほど可愛がってはいなかったが、少なくとも文次郎に対するほどには表立って邪険にしていない。
しかし二人のその表層の裏側に、家族から流行り病の死者を出して店の評判に傷をつけたくないだとか、自分たちにうつったらどうしようかといったという保身が拭えずこびりついていた。
数ヶ月もの間維持が精いっぱいで治癒の兆しが見えないとなると、次第に焦りと諦めがそれに加わる。
ここしばらく文次郎が母親と険悪になっている原因はこれであったが、それはどちらでもよかった。どうせ元々不仲の母親だ。
ただただ、文次郎よりも幼い妹が孤独であるのがやりきれなかった。
障子のこちら側から声をかけても返事はない。
覗いてみると布団の中でおとなしく目を閉じている。鼻先に手をやって、そこに吹きかかる息に胸を撫でおろした。
妹はすっかり痩せてしまった。艶のあった黒髪は精彩を欠き、乾ききって布団の上に乱れ散っている。
文次郎によく懐いてくっつき回っていたせいか男勝りでおてんばな妹だった。町の娘たちの中でもとびきり元気で、足が早かった。それがもうずっと寝たきりで、この一月ばかりは庭の散策すらできない。
しばらく瞑目し、懐にあったお守りをその枕元に置いて文次郎はその場を後にした。
家に戻り、手代の手が空いた隙を見て声をかけた。いよたちとの約束の日取りを決めるためだ。
普段は働きすぎるくらいに働く文次郎が自分から休みが欲しがるのは珍しかったので手代は目を丸くした。いよたちのことは話すつもりはなかったのだが、流行り病のこともありあまりに心配されてしまったものだから渋々と事情を打ち明けた。
この手代は店の中では珍しく文次郎に優しく、文次郎も年の離れた兄のように信頼していたので、二人の少女についての愚痴を聞いてもらいたかったというのもある。
特にとめについて悪態をつくのを聞いて手代はにやにやとした。
「坊っちゃん、女の処世術ってのは二種類あるんです。女は愛嬌って言われるように愛想よくすること。もうひとつは下手な男を寄せつけないよう冷たくあしらうことです。愛想のいい女は好かれるが、舐められやすい。にこにこしてるんだから俺が好きなんだろう、何をしても許すだろうなんて調子に乗る野郎がでてくる。隙があると思われるんですよ。付け入られないように冷たく澄ましておくのも身を守る術なんです。特にきれいな娘はね。そのとめって娘は美人だったんじゃないですかい」
「……」
美人、だっただろうか。射抜くような目ばかりが印象に残っていて思い出せなかった。
思い返してみれば、確かにそうだったかもしれない。汗がつたった頬や首筋を思い出し、文次郎は思わず咳払いをした。
「ははは。いずれにせよそのとめって娘はいい嫁になりますよ。気が強くて身持ちが固くて働き者なんでしょう。坊っちゃんも隅におけませんね」
「なっ……そんなんじゃねぇよ!」
「そうですかい? とめって娘の話ばかりするからてっきり、」
「誰があんな女! いいから休めそうな日を教えてくれよ!」
この手代は仕事ができて人柄もいいが、女好きで色恋沙汰に興味がありすぎるのが難点だ。
からかわれながら何とか日程の調整を終わらせる。誰にも言うなと釘を刺すとまたにやにやとした笑みが返ってきた。
気恥ずかしさを打ち消そうとせんばかりに文次郎は墨をすり、一気に手紙を書きあげた。感情的な、燃えあがるような筆致になった。いつもの文次郎ならもっと落ち着いた字を書くというのに。
勢いのまま封をし、翌朝には飛脚に受け渡した。
手紙に記した約束の日付は五日後だった。