猫にてのひら-1 目が覚めると、真っ暗だった。
あたたかい布が体に被さった感触がする。寒くて布団に潜り込んでしまったのだろうかと腕を持ち上げようとした類は、おかしなことに気がついた。
妙に腕が動かしにくい。普段の感覚と、なんだか違う。自分の体じゃないみたいだ。
奇妙な感覚に疑問を抱きながら、改めて腕をそっと持ち上げる。暗闇に慣れてきた目が己の腕を映して、類はぴたりと動きを止めてしまった。
短いふわふわの毛に覆われた腕は、どう見たって、猫のそれだった。
*
夢かな。でも、感覚はあるし。いやいや、人間が猫になってしまうなんて……。
類は手足をもそもそと動かす。いったん布団を抜け出したいが、体を持ち上げることが既に難しい。腕や脚を曲げ伸ばしして、体を捩り、どうにか自分を覆っていた布から抜け出した。これだけでも一苦労だ。
匍匐前進のような体勢から自然と四つん這いの姿勢をとって一息ついた類は、自分が抜け出した場所を振り返る。そこには布団と、布団の影に隠れた衣服が取り残されていた。
はっとしてその場に伏せ直すと、そこだけ毛の薄い腹に布の感触が伝わってくる。
「…………」
しばしの沈黙の後、類は布団の端を咥えて、破らないように苦心しながらずるずると捲った。ある程度捲れたところで諦めて、布団の中からどうにか衣服を掘り出す。そしてそのままその衣服をちょいちょいとつつくと、ズボンの中から下着が出てきた。
全部脱げている。
猫なのだから当然かもしれないけれど、そして既に察してはいたけれど、今の類は全裸だった。
猫になるなんて興味深い現象だ。このまま色々探ってみてもいいか、なんて思っていたのに、途端に抵抗が生まれてきた。
早く元に戻ってほしい。よりによって、今日は司と遊ぶ約束があるのだ。
布団から抜け出すまでの類は、約束の時間までに元に戻らなければ、このままの姿で待ち合わせ場所まで向かってみようかとぼんやり考えていた。若干鈍感な節のある司が気がつくかは怪しいが、伝わるように頑張って反応を見るのも面白いかもしれない。もしも待ち合わせ場所に辿り着けそうになければ、今日は家でゲームをすると宣言していた寧々の家までどうにか行ってみて、自分だとアピールしてみようかな、とも。
全部ナシだ。
このままの状態で外になんて出たくないし、寧々とも絶対に会いたくない。異性である寧々の前や見知らぬ人の前で姿が戻りでもしたら大惨事だ。いくら日頃から変人扱いをされていても、類にだって常識や羞恥心は備わっている。
「にゃあー、みゃあ、みゃ……」
休みの日でよかった。ぼやこうとした口から出たのはどうにも心細そうな鳴き声だ。そうだろうと予想していたとはいえ、猫の言葉。
類は三角の耳をぺたりと伏せて、ぎこちなく枕元を探った。お目当てのものを探り当てて、前足で触れる。
お目当てのもの──スマホは、猫の足ではひどく扱いにくい。画面ひとつもなかなか点けられず、類は、真っ暗な画面に映った猫の顔としばし睨めっこする羽目になった。
試行錯誤の果て、どうやら自分はまあまあ整った顔立ちの猫になっているらしいという役にも立たない情報が思考の外から頭に刷り込まれた頃、画面が突然パッと明るくなった。表示されたのはロック画面だ。
こんなもの設定しなければよかった。
普段は存在をほとんど気に留めないそれも、今はただひたすら邪魔だ。類は、動かしにくい前足をぷるぷるさせながら、画面を点けるのに使った時間の倍以上をかけて、ロック画面と格闘する羽目になった。ようやく数字を全て正確に押せた頃にはすっかり疲れ切ってしまっていたけれど、目的はその先だ。
格闘の成果か元来の器用さか、最初よりはずっと滑らかに動くようになった前足で画面を叩き、メッセージアプリを開く。司とのトーク画面を選択して、どうにかこうにか文字を打った。ほとんど怪文書のような様相の、それでもなんとか意図が汲み取れそうな文章が出来上がる頃には、相当の時間が過ぎてしまっていた。
『まなちあわせいけそないい』
出来上がった文章を見た類は項垂れた。待ち合わせには行けそうにない、と言いたかったのに。いまどきは幼児だってもっとまともに文章を打つ。それでも、今はこれが類の精一杯だった。
これでは司を困惑させてしまいそうだが、何も言わずにいるよりはいいような気がした。待ちぼうけにさせるのも悪いし、それで怒らせてしまうのも嫌だ。
スマホの操作ひとつままならない現実に、類はほんの少し打ちのめされていた。このまま元に戻らなかったらどうしよう。人間の体でやりたいことは、溢れるほどたくさんあるのに。そう思うと助けを求めたいくらいではあったけれど、猫の体と声では事態を説明することすらできない。うちに来てほしいと送ることも考えたが、それは普段の類の誘いに対する司の態度からやめてしまった。
司が類の家に訪れたことはない。部屋においでよと誘っても、誰が行くかと却下されてしまうばかりだ。普段のあの反応から見れば、来てもらうことは難しいだろう。……この状態で断られてしまったらと思うと、さしもの類も心が折れてしまいそうだった。
しばらく経っても戻らなければ、セカイに行ってみた方がいいかもしれない。ミクたちにも当然会いたくはないが、ここまで非現実的な事象の原因をセカイ以外に求められる気もしなかった。誰かに捕まる前にレンかKAITOを探すしかないだろうか。猫の姿とはいえ全裸のままだし、意思疎通もろくに取れないけれど。
「みゃう………………」
あまり取りたくない手段だった。
しかし、他に方法は思いつかない。待ち合わせの時間も刻一刻と迫っている。ただスマホに短文を打ち込むだけで随分と時間を要してしまった。
打ち込めたものだけでも送ってしまおう。疲労困憊のまま息を大きく吐き出して、送信ボタンをタップする。送信は一度で上手くいった。若干の達成感を覚えながら画面を見ていると、類が送ったつたないメッセージの横に、すぐさま既読の文字がついた。
直後、スマホが震えだす。
振動に驚いて、類はその場で垂直に跳んだ。
自分自身のリアクションに数秒の間呆然としてから、はっとして画面を覗き込む。そこには『天馬司からの着信』と大きく表示されていた。通話の受信画面だ。まさか通話で返してくると思っていなかった類は、判断に迷い、足先を握るように動かした。
メッセージなら、半ば崩壊しているとはいえ、短いものを打ち込める。通話は無理だ。繋いだところで今の類は猫の鳴き声しか出せない。しかしあんな怪文書を送った後だ、このまま出ないのもまずい気がする。
迷った末に、類は通話終了のボタンを狙って足を振り下ろした。通話には出られない。でも、反応があれば、画面の向こうに相手がいることは示せるはずだった。
ぷつ、と通話が切れる。類が心臓をどくどくといわせながら画面を窺っていると、トーク画面に司の発言が新しく表示された。
『どうした』
『体調でも悪いのか』
ぴこん、ぴこん。連続で素早く表示される言葉に、類は困ってしまった。疲れているものの、体調は悪くない。猫にはなってしまっているが。猫になるって、体調不良に入るんだろうか。
どう返せばいいものだろう。戸惑いながら画面をタップすると、当たりどころが悪かったのか、メッセージ作成枠ではなくスタンプの選択欄が表示されてしまった。真っ先に出てきたのは、えむが「これすっごく類くんに似てるんだよ!」と教えてくれた、デフォルメされた猫のスタンプだ。
これなら文字を打ち込むよりも返事がしやすい。猫が首を傾げているスタンプが目に入ったので、類は、それを慎重な手つきで選んだ。
……選んだ後で、体調が悪いことにしてしまえばよかったと気がつく。どうやら類は自分で思っているよりも、よほど混乱しているようだった。
『どういうことだ?』
『いや、いい。すまん』
『家にいるのか?』
最初の問いには答えづらい。類の様子のおかしさを気遣ってか司が即座に撤回してくれたことに感謝しながら、頷いているスタンプを選んだ。普段であれば即座にできるやり取りに、いやになるほど時間がかかる。
スタンプを送ったところで、次に言われる言葉と司の行動に予想がついた類は、メッセージの作成画面に戻ろうと奮闘した。無事に画面を戻せたはいいが、その過程でスタンプがでたらめに、そして大量に送信されてしまう。
『なんだ 大丈夫か』
『今からそっちに行く』
『地域はわかるが詳しい場所がわからん』
『寧々に聞く!』
スタンプとスタンプの合間に、司の言葉が入り込む。類は大慌てでメッセージを送った。
『寧々はやよばないて』
『司くんだか」けで』
寧々は呼ばないで。司くんだけで。
幸い予測変換で仲間の名前は真っ先に出てきたが、残りはぐちゃぐちゃだ。どうにか意図を汲み取ってもらえることを祈るしかない。……寧々が来たとしても、犠牲になるのは類の羞恥心くらいではあるのだが。
類のメッセージはどうにか間に合ったようで、すぐさま既読の印がつく。その後数分も経たないうちに、司から返事が届いた。
『近くまで来ていた。急いで向かう』
『親御さんは居ないそうだな。自力で鍵は開けられそうか』
どうやら寧々から上手く聞き出してくれたらしい。司の言葉に、類は床を見下ろした。寝具から床までなんて大した距離ではないはずなのに、猫の体で見るとやけに高く見える。
……それでも、普段司が跳んでくれている高さよりは、ずっとずっと低い。
『がんばるよ』と書かれたスタンプを選んで送る。そのまま振り返った類は、体の動きを確かめるようにその場で何度か足踏みして、軽やかに寝具を飛び降りた。
*
そう簡単に上手くいくわけもなかった。部屋を出るだけで大苦戦し、玄関先での鍵開けチャレンジに至っては通算十回目の失敗を迎えている。
鍵に届きそうな足場を見つけたはいいが、捻る、回すという動作は猫には難しい。何度も足場を落ちたせいで、類は、もはや登り降りくらいであれば猫そのものの動作で行えるようになってしまった。
上手く体重をかけて押すようにしてやれば回せそうだ、と手応えは掴みつつあるが、司が来るまでに開けられるかは定かでない。近くまで来ていると言っていたから、もうそろそろ着いてしまうかもしれない。喉から低く唸り声をあげて不機嫌を示しながら、類は再度前足を伸ばした。
手応えはあるし、コツも掴めてきたはずだ。伸ばした足先が鍵に触れ、ぐ、と押し込む感覚が伝わってくる。
(回っ、た……)
ガチャ。
鈍い音を立てて、鍵は一気に回転した。前足の支えが無くなり、かけていた体重を乗せる場所が消える。身構えることもできないまま、類は前のめりに落下して、勢いのままドアノブに胸を打ち付けてしまった。
痛みと衝撃に襲われ、体勢を戻せぬままに猫の体とは思えぬ無様さで落下する。体を引っかけながら落ちたせいで下がったドアノブが、激しく音を立てながら跳ね上がった。
「類 開けるぞ!」
外から聞き慣れた声がする。司だ。どうやら到着していたらしい。慌てたように名前を呼ばれたが、類は詰まってしまった息を整えるのに精一杯で、返事のひとつも返せなかった。
勢いよくドアが開く。陽光を背負って立つ司の姿は、今の類から見るととても大きい。
「…………猫?」
床で丸くなったまま浅く息をする類を見て、司はぽかんとした顔のまま屈み込んだ。立ち位置の関係で、ドアは閉まり切る前に司の体にぶつかって止まっている。
「さっきの音はお前か?」
「にぃ……」
司の問いに、類はか細い鳴き声をあげながら頷いた。強打した胸が痛い。呼吸は少しずつ落ち着ついてきたけれど、まだ、苦しい。
司は恐る恐る手を伸ばし、ゆっくりと類の背を撫でた。あたたかくて、優しい触れ方だ。撫でる速度につられるように類の呼吸は静かになって、平常に戻っていった。胸の痛みも、こころなしか和らいでいる。
「よしよし……。呼吸が落ち着いてきたな、大丈夫か?」
「にゃー」
ひとつ鳴き声をあげて頷く。司はそんな類の様子を見て、ぱっと表情を明るくさせた。
「そうかそうか! しかし、鍵が開いた音がしたはずなのに、猫しか居ないとは……。類は一体どこに居るんだ? まさか倒れていないだろうな」
「みゃーお」
「首を横に……倒れてはいないということか?なら、どこに、……」
類の反応を確認して玄関の奥を見遣った司は、途中で言葉を止めた。ギギ、と音でも鳴りそうな動きで類の方に視線を戻し、口元を引き攣らせて問いかける。
「お前、オレの言葉がわかって返事してるのか」
類は、その言葉に頷いた。司は類の反応をまじまじと見て、眉間に皺を寄せる。「嘘だろう」「そんなまさか」ともごもご呟いて、そのまま囁くように、もうひとつ問うた。
「…………まさかとは思うが、お前、類か?」
「にゃあ!」
そうだよ、司くん! 僕だ!
類は何度も頷き、にゃあにゃあと鳴いた。胸の痛みも忘れて四つ足で立ち上がり、呆然とする司の足元でくるくると回る。普段であればそんなことはしないのに、今は動き回りたくて仕方がない。
心の浮き沈みがすぐさま表に出てしまう。いつもと違う体になってしまっているからだろうか。
猫の姿のくせに、まるで飼い主に懐く犬だ。類は最後に司の足に頭を軽く擦り寄せ、開きっぱなしのドアを離れて家の中に上がった。
「にゃぁお」
上がりなよと一声鳴いて、司を待つ。ぽかんとした顔で類の振る舞いを見ていた司は、はっとして立ち上がった。
「お邪魔します」
挨拶をして、きちんと玄関のドアに鍵までかけてから、綺麗に靴を揃えて上がってくる。普段の生活からもうかがえるが、司は礼儀正しい。仲間が猫になってしまった、などという異常事態の中でさえこの振る舞いなのだから、その所作は体に染みついているのだろう。
「お前、本当に類なんだろうな。これでお前がただの猫で本物の類が倒れていたりしたらオレは……」
「みゃう」
本物だよ。伝わらないもどかしさも込めて、尻尾で司の足を軽く叩く。そのまま家の中を先導し、類は自室へと向かった。
惑う様子を見せながらも、司は素直に着いてきた。類の散らかった部屋を見回して何か言いたげにはしたが、結局は無言のままで立っている。……司を連れてきたはいいが、類は意思を伝える手段を持たない。またスマホを使ってどうにか頑張るしかないだろうか。
スマホは寝具に置き去りだ。床を踏み切って登り直そうとしたところで、体勢が悪かったのか、胸に鈍い痛みが走った。
「にゃ……っ」
ついさっき強打したばかりといっても、普通にしていれば痛まなかったのに。すっかり忘れて跳ぼうとしたくらいに薄れていたけれど、特定の体勢をとるとまだひどく痛んでしまうらしい。
跳ぼうとする素振りだけを見せ、細く鳴いて床に蹲ってしまった類に、司は慌てて近寄ってくる。
「どうした、どこか痛むのか」
類は小さく頷いた。司がその背を労るように撫でる。広く大きな掌は、類を傷つけない。痛む箇所に障らぬようにか、常の騒がしさからは考えられないほど、静かで穏やかな触れ方だ。
痛みが引いていく。玄関でもそうだったけれど、司の手はまるで魔法でも宿しているかのようだった。司に触れられると、類はすっかり安心してしまって、その手に夢中になってしまう。
心身が、痛みごとくたくたに溶けていくみたいだ。力を抜いてたらんとしてしまった類に、司は「猫は液体と聞くが、本当に溶けているな……」と頓珍漢なことを言った。たぶん、多少意味合いが違う。
司の独り言に己が正体をなくしかけていたと気がついた類は、むくりと身を起こした。このままではまずい。どんどん人間らしさを失っているような気がする。一つ鳴き声を上げた類は、前足で寝具の上を指した。
「ん、登りたいのか?」
「みゃあ」
頷く。自力で高所に登れない以上、抱き上げてもらう必要がある。恥ずかしいような気もするが、選べる手段が類にはなかった。
司は不慣れな、しかし類の体に負担のないように気を配っているのだろうとわかる手つきで、類をそっと抱き上げた。前足の下と尻を支えるような、動物の抱え方としては及第点、しかし中身が人間である類にとってはやけに恥ずかしい抱え方。頼んだ身ではあるものの、すぐに下ろしてもらえたのが類にとっては救いだった。
「言葉が本当にわかっているのであれば話せないのは不便だな」
スリープモードになったスマホのロック解除に挑戦しだした類を横目に、司は鞄からノートと筆記具を取り出して、ざかざかとなにかを書き始める。
「よし、できたぞ! 見ろ、類!」
類がロックを解除するよりも先に、司が大きな声をあげた。類が声につられてそちらを向くと、司がノートを広げて見せてくる。
そこには、五十音表と、はい・いいえの文字が書かれていた。
「これを使って文字を指してもらえばやり取りできるだろう? ……あ、見えやすいようにそっちに上がってもいいか」
どこか得意げな司に、類は頷き場所をあけようとして、気づいた。
寝具には、服が抜け殻のように落ちている。しばらく猫として奮闘していたせいで半ば忘れかけていたが、自分は人として忘れてはならないことを忘れているのではないか。
「……類、これ、お前が着てた服か?」
類はその言葉に返事をせずに、半端に捲れた布団の方にそそくさと移動して、中に潜り込んだ。
頭まで布団に潜り込んで動かなくなってしまった類を横目に、司は寝具に近寄る。腰掛けるために服を軽く畳んで避けようとして、あっ、と声をあげた。
「お前もしかしなくても全……いや。そうだよな。それは寧々も呼べないよな」
若干引き攣った声が、みるみる同情的な響きになっていく。類は恥ずかしくて仕方がなかった。
どうして忘れていられたんだろう。どうにも猫の体に意識が引き摺られている感覚が否めない。このままずっと戻らなかったら、本当に猫になってしまうんじゃないか。
恥と不安で縮こまる類の背を、布団の上から司がとんとんと叩いた。
「類、出てこい。せっかくの表もその中に居たら使えないだろう」
たしかにそうだ。表を使う方が、猫の手で無理にスマホを使うよりはずっといい。このまま潜り込んでいても何も解決しないことは類にもわかっている。
もそり、と類は顔と前足だけを布団から出した。それを見た司は眉を寄せ、人差し指を使って類の前足を催促するように掻く。
「出てこないままでこれを使って会話するのは難しいだろう?」
「フーッ……」
「威嚇するほど嫌か……。いや、だが、オレ一人だぞ。着替えくらいは見慣れているし、戻ったとしてもまあ……温泉とかだと思えば」
着替えのときは一枚残っているし、ここは温泉ではなく類の部屋だ。布一枚の差も状況の差も相当大きいものに思えて、類は司をじっとりと見上げる。司も自分の言い分が苦しいことには気づいているのか、あー、と若干考える様子を見せて、結局「まあそういうことだ!」と雑に締め括った。
仕方のない座長様だ。伝わってくる気遣いと同情に、類は渋々と布団から出て、司が開いていたノートの前まで歩く。おお! という嬉しそうな声を聞きながら目の前のノートに前足を伸ばし、何を言おうかと迷って、結局こう伝えた。
『こっくりさんかい』
「違うわ!」
司が盛大にツッコミを入れる。類は尻尾をご機嫌に揺らして、くすくすと笑った。
『じょうだんだよ』
「この状況で冗談を言うな! まったく……。しかし、本当に類なんだな」
司の言葉に、類はノートに書かれた『はい』を数回ぺちぺちと叩いた。加えて、そうだよ、の文字を素早く叩く。若干意地になって見えるその様に、司の顔には思わず苦笑が浮かんだ。
「わかったわかった。見た目はどう見ても猫だが」
『おきたらこうなってて』
「それであんな連絡をしてきたわけか。よくスマホを使えたな」
感心したように見られて、類はすこし嬉しくなってしまった。だって、本当に苦労したのだ。
『むずかしいから、このひょうがあるとたすかるよ』
「そうか! ふふん、さすがはオレ。類もよく頑張ったな、偉いぞ!」
素直な所感を伝えると、司はそう言って、類の頭を両手でわしわしと撫でた。類の名前を呼ぶくせに、その姿に気遣いも見せていたくせに、すっかり猫扱いだ。類も類で司の手を心地良く感じてしまい、ごろごろと喉まで鳴らしだす始末だったから、それを指摘する存在もない。
友人同士にしては詰まりすぎた距離に気がつかないまま、司はどこか安堵したように言う。
「……よく連絡してくれた。あれが無ければ、オレは仲間の緊急事態に気づくこともできなかっただろう」
君を呼ぶつもりはなかったんだよ、とは、類には言えなかった。小さな罪悪感がちくちくと胸を刺す。慌てていたし、どう伝えていいかわからなかったとはいえ、類は司に助けを求められなかった。そこに踏み込んできてくれたのは、司の方だ。
事態は何も進展していない。司の言葉に罪悪感を覚えると同時に、こんなことを素直に言ったって君は来てくれたかわからないじゃないか、なんて反論が頭に浮かんでいる。
──それでも、類はなんだか、満たされたような気分になっていた。
司の手は変わらずあたたかくて、優しい。撫でられるのも語りかけられるのも、気持ちがいい。司が自分たちの危機には気が付きたいと思ってくれていて、今日、類のところまで駆けつけてくれた。それが全部、心地よかった。
心地よさでとろけ、常より回転を鈍くした頭が、幸せに満ちていく気がする。寄り添うような触れ方に、彼がいればきっと大丈夫だなんて、根拠のない安堵が体内を巡る。
(もうちょっとだけ撫でてほしいな)
司が撫でるのをやめようとする気配を感じて、類の中にほんのりと欲が生じた。
あと数回撫でてもらうくらいなら、いいんじゃないのかな。そう思った類は司の手に擦り寄るように体を伸ばす。その仕草に気づいて類の頭を撫でようとした司が、ぎょっと目を見開いた。
「る、類、ちょっと待っ……おわあ」
悲鳴をあげて、司はそのままひっくり返る。眼下で横になり、自分の顔を見上げる司を見て、類は首を傾げた。いきなりどうしたんだろう。
体を伸ばしただけの自分が、なぜ、司の上にのし掛かっているのだろう。
……裸の腕が視界に映っている気がするのは、気のせいだろうか?
「待て待て、類、お前元に戻って……」
答えはすぐに司の口から明かされた。
司は目を見開いたまま、流れるように視線を類の顔から下方に移そうとする。驚いた類は、動揺のまま司の目を勢いよく覆った。
「どわあ 何するんだ、今度は逆か、中身が猫か」
「君が視線を妙なところにやろうとするからじゃないか!」
「す、すまん、本当に元に戻ったのかと思ったらつい」
猫から人に戻った記念すべき第一声は、司に対する情けない反論だった。珍しく動揺を露わにした類の声に、司もしどろもどろになっている。
類の掌を司の睫毛がくすぐる。落ち着きなくさわさわと動いていた感触は、やがてぴたりと動きを止めた。
「うう……。目を閉じているから服を着てくれ」
「うん、ありがとう……」
類は疲労に満ちた溜息を吐いて、そっと掌を司の顔から避けた。
……目を瞑った司が、類の目の前で、寝具に押し倒されている。
落ち着いて見るその光景に、妙に胸の内がざわついた。慌てたせいか頬を淡く染めて横たわる姿はやけに無防備で、どうとでもしてしまえそうに見える。
(どうとでも、って。何をするつもりだっていうんだ)
軽く頭を振って、類は身を起こした。手早く着替えて司に声をかける。
「もういいよ」
「ん、ああ。なんだったんだ、猫になるわいきなり戻るわ」
「僕が聞きたいくらいだよ」
「それもそうか……」
類は、疲れた、と一言こぼして寝具に腰掛け、ぐったりと背を曲げた。座り直した司が横から両手を伸ばし、頭を撫でてくる。
猫のときのように溶けそうなほどではないが、司の手はやっぱり心地いいままで、類はついその手に頭を擦り寄せてしまった。もう、猫の姿ではないというのに。
司はそんな類の振る舞いをおかしそうにしながら、類の頭を撫でている。
なんだか今日一日で、お互い距離感を見失ってしまった気がする。そんなことをぼんやりと思いながら、それでもこの心地よさを失うことを考えると口には出せずに、類は司の手の温もりを甘く受け止めていた。