ただ安らかであれ 軽策荘から少し離れた南の竹林は、豊かに生い茂る笹の葉が朝露に濡れ、灰色の雲を遥か遠くへと追いやった空から注がれる日の光を反射しながらそよ風に煽られ棚引いている。
深夜から日の出前まで降り続けていた恵みの雨はすっかり止み、湿った土と爽やかな草の匂いを孕んで吹く風は竹と笹の隙間を通り抜ける度にその熱を下げ、加えて天に向かって真っ直ぐに伸びる鮮やかな深緑がもたらす天然の屋根により、周辺一帯を過ごしやすい温度に保ってくれている。
モンドから来る人々はその大半が璃月港を目指す為、石門の先の分かれ道で南下する者が多い。
此処、軽策荘方面を訪れる者は少なく、人の手があまり入っていない竹林の小道を経由しようとすれば猪やそれを目当てとした魔物に遭遇することにもなる為、自ずとこの道を利用する者は少なくなる。
しかし、古より幾多の邪悪な妖魔を蹴散らしてきた魈にしてみれば、常人にとっては驚異となりうるそれらは無いに等しい懸念である。
ただ人の往来が無く、涼やかな風と木々のさざめきだけがあるこの小さな空間を魈は気に入っており、軽策の滝に眠る螭龍に異変がないかを見回るついでにこの竹林へと足を運ぶ。
独り静かに過ごすこのひと時が、魈の心を穏やかにしてくれるのだ。
休息所の石のベンチに腰掛け、川面の向こうに並び立つ岩山を眺めていると、小道の奥から強い陽の気配が流れて来るのを感じた。…次いで見覚えのある水色の頭が魈の視界に入る。
千年に一人が持って生まれるとされる‘純陽の体’。この稀有な力の持ち主である重雲だ。
朝方の曇天が嘘のような明るい日差しは、この涼しい風に包まれた場所でなければ暑く感じるくらいか。その身にとっては毒とも言える強い直射日光を、日除けの傘も持たずに浴び続けた白服の少年方士の足取りは重くふらついていた。
漸くたどり着いた休息所の日陰を見るや否や、敬愛する降魔大聖への挨拶もそこそこに、魈の隣の空いているスペースに横たわる。
回らない頭で恐らく無意識に取った行動なのだろう。平らに磨かれた石の冷たさに頬を寄せ、手近にあったさらさらとした布地のそれを仙人の召し物だと考える余裕もないままにもそもそと潜り込む。当の本人は少しでも涼感を得ようと甚く必死なのだろう。
関わる人間に対して無関心なことが多い魈だが、いつに無く口数が少ない重雲の様子がさすがに気になったのか、袖の下に隠れた顔に手を忍ばせる。
ほんのりと紅潮した頬に宛がわれた他人の掌に反応を示す余力も無いのか、閉じられたままの重雲の目が開かれることはなく、まだ子供らしい柔らかさを残すそこから伝わる異常な熱に、一瞬で己の掌が汗ばみ始めるのを感じ、すぐに手を引いてしまった。
熱を帯びた掌の上を、風と竹の香りがすぅ…っと通り過ぎていく。
汗を含み額に貼り付いた重雲の前髪を軽く梳き、剥がした袖を再び被せる。
浅い寝息を立て始めた重雲の横に座したまま、いつもと変わらず景色を眺めて時を過ごす。
独りの時間を奪われたにも関わらず、魈の心は変わらず穏やかなまま。
不躾にも仙人の袖を熱避けに使う少年に対し、これを振り払いこの場を立ち去るという選択肢は魈の中に存在しなかった。
最も、眠れる少年に袖の端を小さく握られている為、立ち去ろうにもそれは叶わぬことなのだが。