世俗の戯言に心を乱す仙人の話「私がいた世界でね、‘キスの日’と呼ばれる日があって。映画……って言ってもわからないか。恋人役として共演していた役者の二人が、世界で初めて芝居でキスシーンを演じた日なんだ」
――それが今日なの。
色めき立つ女共の声に辟易しながら、どうしたものかと天を仰ぐ。
救国の功労者ともあろう者が数人の小娘共に混ざり、くだらない情報を共有し合い時折甲高い声を上げながら騒いでいる。
盗み聞きするつもりは毛頭無い。しかし千里先の呼び声をも捉えるこの耳は、見下ろす彼女らの会話を具(つぶさ)に拾い上げてしまう。
彼女らに悪気は微塵も無いだろうが、気を休めるにも暫くは場所を移した方が良いのではという考えが脳裏にチラつく。
どこかに人気がなく静かに過ごせる場所は無いのだろうか。……女が集まり立ち話を始めると、とにかく長いのだ。
「皆、楽しそうに話していますね。どんな話をしているんでしょうか」
日当たりの良い場所を避けるように屋内へ避難していた重雲が、我に問いかけるでもなくそう呟いた。
姦しいだけにしか聞こえないあれが、此奴には楽しげに聞こえるらしい。階段横の壁に背を預けるように腰を下ろし、白と黒の毛を全身に蓄えた犬をその膝に乗せたまま、声がする方に目を向けていた。
全容は不本意ながらも知るところとなったが、話せば折角鎮まった重雲の陽気が再び昂ぶるは必定。また此奴も答えを求めてぼやいたのではないのだろう、無言でいる我を特に気に留めるでもなく、膝上で伸びきっている犬の毛をゆるゆると撫で続けている。
温かな手に撫でられ続け満足したのか、結構な時間そこを陣取っていた犬は大きな欠伸を一つしてから起き上がり、尾を左右に揺らしながら甘えた鳴き声と共に濡れた鼻先を重雲の顔に近付け――。
「んぅ」
「!!」
犬の薄い舌が重雲の唇を掠めた。立て続けに舐めようとし、しかし当の重雲の抵抗が緩いせいで的は外れこそすれ、口の横だったり鼻だったりが唾液塗れだ。
被害を被った重雲はというと、キツい口調で制してはいるが、顔が完全ににやけきっている。――全く、犬に顔を舐め回されて何が楽しいのか。
「ポチーーー!どこにいるのーーー?」
少女の声が下の階から聞こえると、犬はひと吠えしてそのまま階段を下りていった。
我と重雲だけとなった空間に、待ち望んだ筈の静寂が訪れる。
「……チッ」
「…………。えっと、魈様?」
身に着けている装束で口周りを雑に拭う重雲が訝しげにこちらの様子を伺ってくるが、短く「何でもない」と返すのがやっとだった。
想い人の唇を犬如きに奪われ嫉妬している仙人がいるなどと、どうして口に出来ると思う?