玩具の約束帰宅した兄上がネクタイを緩めながら渡してきたプラスチックの丸い玉は、いわゆるカプセルトイだった。中身は分かっている。リングを模したものだ。
「新作ですか?今度は何の食べ物だろう」
兄上も横に座ったのでソファが重みで沈んでいく。ソファの上に体育座りをしながらカプセルをクルクルと回した。よくある透明の入れ物ではなかったので中身はわからなかった。
初めてこの手のおもちゃを買ったのは僕が幼稚園の頃だった。ショッピングモールに並ぶ機械をもの珍しく眺めていたら、兄上がやってみるかと言ってくれたのだ。好きなものを選んでいいと言われたの端から順番に見ていった。好きなアニメのキャラクターのおもちゃや動物は魅力的だったが、僕が選んだのは兄上の予想していない物だった。本当にこれでいいのか?と念押しされた後に小銭を入れてキリキリと回すと、いちごのケースが出てきた。掴んだ後に兄上に抱っこをせがんで抱き上げてもらった。手伝おうかという兄上の申し出を断り、一生懸命開けると、ショートケーキがついた指輪が出てきた。そして目の前の兄上に差し出したのだ。
「あにうえにあげます!」
「俺に?千寿郎が欲しかったんだろう?」
「あにうえに、こんやくゆびわをあげたかったんです」
「婚約指輪?」
兄上が驚いて目を丸くしていたが、僕は構わずに幼稚園で聞いてきた話を続けた。
「だいすきなひととずっといっしょにいるためには、けっこんするんですって」
「幼稚園のお友だちに聞いたのか?」
大きく頷くと、兄上は驚きながらも笑っていた。
「おとなにならないとけっこんできないけど、おやくそくはできるってまこもちゃんがおしえてくれました!」
「それで婚約か。千寿郎のお友だちは物知りだな!」
お友だちのことを誉められて嬉しくてニコニコしていると、兄上もキョロキョロと並んだ機械を見始めた。一つ選んで回し、紫色のカプセルを取り出した。
「開けてくれるか?」
頼まれてカプセルを開けると中から出ていたのは、兄上が大好きなさつまいも味のパンに塗るクリームがついた指輪だった。
「婚約の時は指輪を交換するんだ。だから俺からも千寿郎にプレゼントだ」
婚約を快諾されたこともお返しが貰えたことも嬉しくて嬉しくて、ぎゅうと兄上の首に抱きついてグリグリと頬を擦り寄せた。兄上は大人のように立派だけど、頬は温かくて柔らかくて好きだった。家に帰ってから互いの左手の薬指にはめてみたが、兄上の指には小さすぎて、僕の指には大きすぎて、つけることは出来なかった。それもなんだか面白くて二人でたくさん笑ってしまった。なくさないようにと、兄上が棚の上に並んで飾ってくれた。今思えば、互いの好物を引き当てられたのは全くの偶然なのだが、幼い僕にはまるで祝福されていると思ったのだ。そのおかげできらきらとした思い出になるのはとても簡単で、その後、僕たちはたびたび指輪のカプセルトイを買うようになった。
結婚だの婚約だのと、幼稚園の頃の自分は意味をよく理解していなかった。ただ、大好きな兄上と一緒にいられるおまじないのようなものだった。兄上も幼い弟が自分と一緒にいたいという願い事をしてくれるのは嬉しかったのだろう。いつもニコニコと対応してくれていた。そして、その内純粋にカプセルトイを気に入ってしまったのだ。結婚の意味も、婚約の意味も、理解ができるよになっても、この遊びは続けられた。なんでこんな物をモチーフにしたのだろうかと笑ってしまうものが多く、そのくせ造形が素晴らしいのだ。お気に入りは缶詰と生肉の物だった。最初は僕に付き合ってくれていただけの兄上も次第にハマり始め、「新しい婚約指輪あったぞ」などと言いながら買ってくるようになった。もはや二人の間ではネタの一つで、共通の趣味になっていた。
それは、仲の良い兄弟から恋人同士になってからも変わらなかった。母上の躾のおかげ兄弟共に物欲は無いほうだったが、これだけは違っていた。特に食べることが好きなだけに、食べ物のモチーフであればすぐに回してしまった。旅先で見かけたことのない種類を発見して、ついコンプリートをしたくなってムキになって回したこともあった。ご当地物でもなんでもないのに、カプセルで鞄の中が埋まってしまって大笑いしたこともあった。気づけばかなりの数になっており、兄上がなるべく劣化しないようにとコレクション棚を整えてくれた。結果、それぞれに二人の思い出が詰まっている物になっていた。その中でも、やはり一番最初に交換した指輪は特別だった。今でも落ち込んだ時に見ると元気になれた。指輪コレクションは、一人暮らしの兄上の部屋に置かれていた。物が少なく殺風景な印象もある部屋の中でカプセルトイたちは少し浮いているようにも見えるが、運び出した荷物の中にトイたちがあることがわかった時、幼い自分の話を兄上も大切にしてくれているのがとても嬉しかった。
僕が小学生の頃までは兄上が買う方が多かったが、ここ数年は僕が買う機会が多くなってきていた。それもそのはずだ。三十にもなった上に、元々遊ぶような場所に行くタイプの人間ではない。そうなると高校生で友達とゲームセンターに寄ることもある僕の方が見つけることが多くなるのは必然だった。最近兄上が回すのは、もっぱら一緒に出掛けた時がほとんどだったので、兄上で一人で持ち帰るのは久しぶりだった。
「兄上が買ってくるの久しぶりですね」
「最近貰ってばっかりだったからな」
「ふふ、そんなのいいのに」
交換できていないこと気にするなんて、律儀な人だと笑ってしまう。
「重いですね?なんだろう」
「開けてごらん」
促されてカプセルを開けると、出てきたのはシンプルなシルバーのリングだった。三つ並んだ石の輝きは、一目で玩具ではないと分かるものだった。
「え、え、これ」
戸惑って兄上を見れば、柔和な笑顔ながらも熱っぽく僕を見つめていた。
「婚約指輪だ」
何度も何度も、互いに口にしてきた。本来の意味なんてなく、幼い子どもの意味の無い台詞のまま使われていたはずだった。だけれども手の中の指輪は、本来の意味を持って僕の前に現れた。頭で理解する前に、ボロボロと涙が溢れてきた。兄上が優しく頬を撫で親指で涙を拭ってくれるが、止まることなく流れていく。兄上が僕の左手を取り、薬指に唇を寄せた。
「その指輪は飾らずに、ここにつけて欲しいのだが」
兄上の言葉に僕は答えたいのに涙で上手く話せず、こくこくと何度も頷くことしか出来ない。カプセルから指輪を取り出し、兄上がゆっくり指輪をはめてくれる。初めてはめてもらった指輪はブカブカだったが、今の指輪は狂いもなく僕の指にぴったりだった。
「ごめんな、卒業まであと少しなのに待てなくて」
兄上の言葉に首を横に振る。
「しかもこんな所で」
額を合わせられ、すまなそうな表情の兄上が目の前にくる。
「謝ら、ないで。嫌じゃない。だってこれは大事な思い出だから」
涙でぐちゃぐちゃで鼻声で、ちゃんと話せない。本当のことだ。思い出を大事にしているのが自分だけではないと、兄上はちゃんと示してくれている。それがとても嬉しい。みっともない顔に違いないが、兄上の目が愛おしいと語り大きな手で頭を何度も撫でてくれる。
「今度は先を越されたくなかったから」
「そんな」
幼稚園の僕に対抗しようとしている兄上に、思わず吹き出してしまった。
「兄上、ねぇ、言って」
言葉を強請ると兄上が僕を抱え上げて向き合うように膝の上に乗せた。また額を合わせられ囁くように丁寧に紡がれた言葉に、再び涙が零れた。
「千寿郎、返事は?」
質問に短く答えると、兄上が嬉しそうに笑った。しばし微笑みあったあと、兄上が慈しむように唇を重ねた。堪らずに兄上の首に腕を回して縋りつきながら、頬を擦り寄せると、あの日の兄上の頬の感触が蘇ってきた。
嬉しそうに笑っていた小さな僕に、願いは叶うよ、と呟いた。