寝ても醒めても やっと訪れた休日前夜。いつも通り飯を食ってのんびりして、角名の気分が乗ったら一緒に風呂入って、そんでそのあとはお楽しみ…となるはずだった。少なくとも先週はそうだったから、今週もと期待していた、のに。
「もうええわ!勝手にせえ!!」
そんな捨て台詞を吐いて引っ込んだ寝室。同棲を始める際、ベッドは大きいのを買って一緒に寝ようと決めた。個人の部屋はあった方がいいと言われたが、これだけは譲れなくて。お互いそれなりにガタイのいい体躯をしているため、必然的にベッドも通常サイズでは収まらない。個人の部屋でそれぞれにそのスペースをとるより、寝室をひとつ設けた方が自室を広く使えるのではないかと提案した結果である。
しかしそんなのは建前で、本音はただ一緒に寝たかっただけ。せっかく一つ屋根の下にいるのに、寝るのまで別々にする意味がわからなかった。同じベッドなら誘いやすいし、寝室として一部屋構えるのならゆったりとしたベッドも置ける。実際、折半してなかなかに寝心地のいいベッドを手に入れてからは眠るのが楽しみだった。
しかし、それとは別に腹が立つこともある。元々は気心の知れた仲だし、お互い口も悪い。喧嘩になることもそう少なくはなかったが、ここまで腹が立つのもそうないのではないだろうか。もう今日は口利いてやらんと決めたので、早々にベッドに向かって寝に入る。ベッドを占領しているのを咎められるかもしれないが、一緒に寝るのが嫌ならソファで寝ればいい話で、そこまで譲歩してやるつもりはない。
(なんやねん…絶対俺は悪ないし)
目を瞑りながら思い浮かべるのは、先ほど言い争いをした角名への文句。侑だったら手や足が出るが、相手が角名ではそうもいかない。それくらいには、まだ思いやる情がある。興奮状態で寝れるか少しばかり不安だったが、いいベッドのおかげか思いの外すんなりと眠りに誘われていった。
◆◆◆
次に目を覚ますとそこはなぜか外で、何度か辺りを見渡しても佇んでいるのは見知らぬ公園。太陽が昇って青空も広がる光景はさしてめずらしいものでもないため、少しだけ肩を落とす。
(夢なら、もっと不思議なんでもええのに)
そんなことを思っていると、公園の中にいる一人の子どもに目が留まる。しゃがみこんでいる後ろ姿からはなにをしているのかわからないが、近くに親らしき姿はない。
(一人で来たんか…?それとも近所の子か?)
夢であってもまだ幼い子どもが一人でいるのはさすがに心配なので、事情を聞くために傍へと歩み寄る。もしかしたら迎えを待っているだけかもしれないし、怪我でもされたら夢見が悪い。
「…なあ、僕ひとりなん?」
そう優しく声をかけると、しゃがみこんでいた子どもがこちらを振り返る。その顔には、見覚えがあった。
(え、角名っ!?)
治の知っている角名をそのまま小さくしたような外見の子どもの手には小さなカメラが握られており、写真を撮っていたのかとその時気づく。しかし角名に似た子どもはこちらを見たままうんともすんとも言わないので、もう一度ひとりかどうかを訊いてみた。
「えっと、僕ひとりなん?お母さんは一緒やないん?」
すると、きょとんとしていた子どもは周りをきょろきょろと見渡しはじめる。どうやら母親を探しているようだが見当たらず、立ち上がって何度も周りを探すも人っ子一人見当たらない。母親が近くにいないとわかるとだんだんと表情が曇り、その瞳にはじわじわと涙が浮かんでいく。
「まぁま……まぁま…っ?」
「ああ〜〜!!ちょちょっ、泣かんでや…!」
ぐずりだした子どもに目線を合わせながらなんとか宥め、緊張感を解くために名前を訊くと「…りんくん」とぽつりと答えてくれる。
(やっぱ、角名…よな?)
年齢は大きくかけ離れているが、小さくなっても面影は残っている。フルネームはわからないが、おそらく名前は「りんたろう」で間違いないだろう。
「えーっと…俺はな、治って言うねん」
「……おしゃむ?」
「ぅぐっ」
あまり小さい子に接する機会がなかったからか、舌ったらずな喋り方とゆっくりなペースが幼さを引き立たせるせいか、可愛くて仕方ない。どすっと心臓に矢が刺さりつつも母親が来るまで一緒に遊ぼうと提案すると、下を向いてもじもじと身体を揺らす。
「ん?どうしたん?」
「…あのね……あの、…だっこ、してほしいの…」
「〜〜ッ!!したるしたる!いくらでもしたるわそんなん!」
小さな身体を抱き上げるときゃあきゃあと楽しそうに笑い、調子に乗って肩車もしてやればさらに燥いだ声がする。角名も子どもの頃は無邪気やったんやなあと思いつつ軽く遊んでやり、休憩と称して近くにあったベンチに腰を下ろす。
「そのカバン、かわええなあ」
「…!あのね、えながちゃんっていうのっ」
両手で肩から斜めに提げている白いポーチを持ち、「可愛いでしょ!」と自慢するかのように見せてくる姿は大変微笑ましい。これはたしか、最近よく見るようになった真っ白な妖精のように可愛らしい鳥、だっただろうか。
「いつもはね、ちべくんもいっしょなの」
「ちべくん…?」
「でもちべくんいまきれいきれいしてるから、きょうはおるすばん」
ちべくんとはなんのことだろうかと思っていると、カメラを器用に操作して写真を見せてくれる。そこにはなんかぶすっとしたような、やる気のない顔をしたなにかのドアップ写真。さすがにこれだけでは判別がつかず、引きで撮られた写真を見せてもらってようやく「これは…キツネか?」と理解したと同時に、高校時代のある一幕が甦る。
角名と打ち解けてから暫くして、誰かが角名に似ていると言ってとあるキツネの画像を見せてきたのだ。名前は長ったらしかったが、たしかチベスナ…とかいうやつで、名前まで似とるやん!と大いに盛り上がった。
(なるほど……チベスナだから「チベくん」か)
おそらく洗濯中だから今は一緒じゃないと言っていたのだろう。他にも猫やら犬やら鳩など動物の写真、両親であろう男女の姿、家や公園などの風景などをたくさん見せてもらった。「すごいなあ、よう撮れとるわ」と褒めれば嬉しそうに破顔し、もっと見てみてとカメラの液晶画面を見せてくる。
(ちっちゃい頃から写真撮るの好きやったんやなあ)
角名と会ったのは高校からだが、出会った時からすでにスマホを手放さなかったことを思い出す。早弁している俺や調子に乗っている侑、喧嘩している俺らの仲裁に入る銀などの何気ない日常を、なにが楽しいのか気づけばカメラに収めていた。
『ねえ見てよこれ、覚えてる?』
そう笑いながら見せてくれたことが、もう卒業して随分経つのに未だにはっきりと思い出せるのに。
「……おしゃむ、どうしたの?」
「へっ?」
「しょんもりしてる……おなかいたい?おねちゅ?」
心配そうに顔を覗き込んでくる姿に、いつかの角名が重なってしまう。喧嘩の内容はくだらなすぎて覚えていないが、今となってはなんであんなに怒ったのかさえ思い出せなかった。不貞寝のような形をとって、いい歳した男がみっともないと愛想を尽かされても仕方がない。
「…大丈夫やで。心配かけてごめんな」
でも、それでも別れたいわけではないのだ。たしかにイラつくこともあるが、そこはお互い様。気兼ねない友人関係を経て付き合ったのだから、言いたいことを言えて当然だ。すぐに溜め込む角名に、言いたいことがあったらちゃんと言ってほしいと伝えたのは、自分のくせに。
(ほんまに…なんであんな怒ってもうたんやろ)
猛烈に角名に会いたくなったが、夢だとわかっていてもどうやって醒めるのかがわからない。俯きながらそう考えていると、下からにゅっと顔を覗き込まれて目を瞠る。
「…おしゃむ、なきそう」
「え、あ、いや…」
「やなことあった?」
「…やなこと、っていうか……喧嘩、してもうて」
よくある口論で、虫の居所が悪くてつい怒鳴ってしまったが、冷静になった今となってはバツが悪い気がして起きるのが少し怖い。それでも小さい角名は一生懸命話しかけてくれて、幼いながらもその優しさが身に沁みる。
「おしゃむ、ごめんなさいした?」
「…まだ、できてへんねん」
「どうして?まだおこってるの?」
「俺は…もう怒ってへんし謝りたい、けど……向こうがまだ、怒ってるかもしれんし…」
角名に謝りたいのに、起きるのが怖い。そんなジレンマで身動きがとれなくなっている俺に、頭にぽん、と優しいぬくもりが触れる。顔を上げればいつの間にかベンチの上で立ち上がった小さい角名が、小さな手でよしよしと頭を撫でていて。
「いいこ、いいこ」
「…え、と…?」
「ままがね、ちゃんとごめんなさいできたら、いつもよちよちしてくれるの」
だから、よちよち。小さな掌から感じる熱に癒されながら、そっと目を閉じる。謝って、許してくれるだろうか。もしかしたら家を出て行ってしまっているかもしれないが、それはもう自業自得だ。けれど、ちゃんと謝りたいと思った。小さい角名に慰められて、少し気持ちが落ち着いたのもあるかもしれない。そんな時なにかを思いついたのか、小さい角名はいそいそと首から提げていたカメラをこちらに向けてくる。
「おしゃむ、おしゃしんとってあげる!」
「…んん?」
「おしゃしんとるときね、にっこりするでしょ?」
「せ、せやな…」
「りんくんがとるとね、みんなわらってげんきになるの」
─── だから、おしゃむもげんきになるよ。
柔らかく笑う表情は見慣れたそれによく似ていて、たとえまだ怒っていてもいいから、早く角名の顔が見たいと思った。カメラを構え、「はい、ちーず」とお決まりのセリフを言いながら切られたシャッター。その瞬間、フラッシュの光が強くて思わず目を瞑ってしまう。
「……は……、え…?」
次に目を開けた時、俺はベッドの上にいた。部屋は電気もついていないので薄暗く、カーテンのレース越しに漏れる僅かな月明かりだけが頼りで。時計を見れば角名とケンカしてから一時間ほどしか経っておらず、慌ててベッドから抜け出す。
「ッ、角名!」
リビングに向かうも、そこには角名の姿はない。ソファももぬけの殻で、人の気配すらしなかった。それがわかった途端、どっと重力に押し潰されるかのように身体が重くなる。
(……やっぱ、出ていったんやろか)
あの喧嘩の勢いでは無理もないと思いつつ、予想はしていたけれど実際に目の当たりにするとキツい。せっかく、小さい角名のおかげで気持ちの整理ができたのに。たとえ都合のいい夢でも、癒され励まされたのは事実だ。それなのに肝心の角名がいないのでは謝ることもできない。スマホは持っていってるだろうが、連絡を入れて見てくれるかどうか。
その時、ガチャンという鍵の音がして次いでドアの開く気配がする。引き寄せられるように玄関へ向かえば探し求めていた角名がいて、俺を見て少し驚いたような表情を浮かべていた。
「ぁ、治…」
「すな…」
「…あの、さっきは」
なにか言おうとしていた角名を遮り、ぎゅうっと強く抱き締める。きっと同じことを言おうとしているのだろうが、それでも先に言いたかった。
「さっきはすまん」
「…ううん。…俺の方こそ、ごめん」
「……出て行かれたんかと思った…」
「ふは、大袈裟でしょ」
これ買いに行ってた。そう言いながら角名は手にしていたビニール袋を目線の高さまで持ち上げる。
「プリン買ってきたから、一緒に食べよ」
そう言って微笑う表情は夢の中で見た小さい角名と同じで、たまらなくなってそっと唇を奪う。角名は驚いた顔を引っ込めて仕方なさそうに笑うから、ああ、やっぱ好きやなあと実感する。
「…先に角名がええ」
「やだ、俺はプリン食べたい」
「じゃあプリンのあとでええから」
「プリン味のキスになるよ?」
「たまにはええやろ」
早く食べたくて、玄関にいる角名の手を引く。笑いながらもそれを受け入れ、角名も身を委ねてくれる。このぬくもりがなくならなくてよかったと思いながら、仲直りのプリンの蓋に手をかけた。