美しいものすべて――利吉くん。きみがはじめて私をお兄ちゃん、と呼んだ日のことを、夢に見る夜があるよ
半助が言うと、利吉は『いきなり何の話です』と言いたげな表情で見返してきた。
静寂が耳に痛いほど、虫の音すらもなくただ窓から射し込む月の光だけがけざやかだ。濡れたようなつやつやとした双眸を覗き込むと、あの日の花畑が見える。半助の運命が変わった日。
「後悔していますか」
「ん?」
「私とこうなったこと」
もう今や寂れた、ほとんど客のないような木賃宿で半助は初めて利吉を抱いた。一応の管理をしている老婆は体のあちこちを悪くしていて、また別の粗末な、他にほとんど人もいないような長屋で寝起きしているという。元は今よりよほど賑やかな村だったものが、ここから少し足を伸ばした先により商売に都合のいい立地である宿場町ができたことで急速に廃れた。ほとんど人は残っていないのを、それでも残った何人かが守って暮らしているのだった。そういう、人目につかないところであることが肝要だったからあえて選んだ場所だ。人込みに紛れることも考えたが、利吉の容姿は秀でていて、注目されやすい。今日この日、彼をそういう目で見る不埒者は己だけでいいと思った。ばかみたいな話だ。
「いいや?後悔して見えるのか」
「……あなたが、昔の話をするから。まだあの頃のような童に見えているのかと」
「せっかくだから睦言のひとつでもと思っただけだよ」
半助にとってまだ小さな利吉との日々は今も強く脳裏に焼きついた幸福の象徴だ。君と出会えて私は幸せだよ、というような思いであったわけだが、どうもうまくなかったらしい。利吉は、夜目にも分かるほど――もっとも、2人の目は常人よりよほど闇に慣れている――頬を上気させた。
「……早合点でした」
「簡単に後悔なんかするような気持ちでこんなことしないぞ、まったく」
目を閉じれば、今も耳にこだまする。その声は背中からかけられたもので、お兄ちゃん、と呼ばわったその瞬間の利吉の表情を半助は知らない。振り返って確認することもできなかった。――まぶたが火を吹いたように熱かったことだけが今も記憶に新しい。日の光がひたすらにまばゆく、視界を白く染め上げていた。
あのあとはどうしたのだったか。己はひどい顔をしていたのではないかと思うが、山田夫妻になにか言われたような記憶はない。ただ変わりなくあたたかく迎えられて、食事をしたはずだ。その夜のことで覚えているのは実際の出来事や彼らの言葉ではなく、機嫌の良さそうな伝蔵の鼻歌の調子や奥方が利吉の肩を撫でているその指先の動きのたいへんに柔らかなこと、それから、疲れたのか早々に眠ってしまった利吉の跳ねた前髪……そういう益体もないものばかりだ。そう、何の利益にもならない、けれどこの世の美しいものがすべて、すべてあの小さな家に留まっているかのような夜。
「まだ夜明けまでは間がある。少し眠ったほうがいい」
「……眠って、夢の中で小さな私に『お兄ちゃん』と呼ばれに行く、と?」
「どうかな?さすがに今夜は何年も前の記憶より、先刻まで見ていた刺激的な光景の方が夢に出てきそうだ」
「は……、それは………むしろ私の台詞ですよ。お兄ちゃんとも土井先生とも違う顔を見せていただいたばかりですから」
どんな顔をしていたのか自覚はないが、きっととにかく必死で、みっともない様だったろうと半助は思う。兄でも教師でもないただの男を利吉は知った。いや、久しぶりに再会したのかもしれない。あの花畑の、家族の団欒を乱した闖入者と。
きっといつか後悔するのは利吉の方だ、と半助は思う。抱きしめると、するはずのない花の匂いを半助の鼻は嗅ぎとった。極楽。君が君の両親と笑っていた場所。
「私は後悔しないよ……」
はい、と小さく、利吉は返事をした。