少女の恋に祝福を「──だし、声掛けてきなって」
「や、やっぱり無理……!恥ずかしいし迷惑だよきっと……」
昼食を取り終え彰人と二人で廊下を歩いていると、控え目ながらも高揚した様子の女子生徒の会話が聞こえてきた。反射的にそちらに目を向ければ、彼女たちの熱っぽい視線は隣を歩く橙に注がれていた。
彰人が女子生徒に人気があるのは今に始まった事ではないが、ここ最近は顕著にそういう視線が増しているように感じる。というのも先日Vivid BAD SQUADが主催したイベントを彰人のクラスメイトが見に来ていたらしく、その時に撮影された動画がSNSを通じてあっという間に学校中に広まっていたらしい。あの日は全員最高といえるパフォーマンスをしていたが、特に彰人には高校生離れした凄みがあったから、関わりの無い女子生徒たちでも惹かれてしまうのは仕方がないように思えた。
今居る彼女たちも、彰人と直接の面識は無いようだが、あの日の熱に浮かされたようにはしゃいでいるのが伝わってくる。彼女たちの大切な想いを盗み聞きしようとは思っていないのだが、俺の耳は不必要な時にまで小さな音を拾ってしまう。申し訳ない気持ちになりながら彰人の様子を確認するが、特に聞こえてはいなかったのか、変わらぬ調子でスニーカーを近い内に買い替えたいという話をしている。
そのまま彰人に相槌を打ちながら他愛もない話をしているうちに、昼休み終わりの予鈴が鳴った。彼女たちの姿はいつの間にか見えなくなっていた。
教室に戻って午後の授業の準備をしていると、昼から登校してきたらしい暁山に声を掛けられた。
「ねえねえ。弟くん、最近大人気だね」
「暁山……見ていたのか」
「うん。にしても弟くんがすっごく面倒臭そうでボクちょっと笑っちゃった。オレと冬弥の会話の邪魔すんな!って見るからに聞こえてきそうだったし」
「?……彰人はあの女子たちに気がついていたのか?」
「そりゃあ、あれだけ分かりやすかったら気づいてると思うよ」
「そうだったのか……ひょっとすると、俺が彼女たちの邪魔をしてしまっていたのだろうか」
だとしたら悪い事をした、と反省していると、暁山は慌てた様子ですぐに否定の言葉を口にした。
「えっ、違う、違うよ!弟くんはああいう子たちとどういう風に接するかは自分で決めてると思うし、冬弥くんが邪魔したかも〜なんて思わなくても良いと思うよ」
「そうだろうか」
「うん。それにあの子らもホントに弟くんと話したかったら色々やり方はあると思うし。冬弥くんはいつも通りで大丈夫だよ」
「それなら良いんだが……」
確かに暁山の言う通り、今回の彼女らに限らず、本当に彰人に好意を伝えたいならば色々な方法があるのだろう。俺がいちいち気にする事では無いというのは正しい。
例えば、彰人に好意を寄せる女子生徒が知人に頼んで彼を呼び出し、頬を赤らめながら想いの丈を告白するとして。彰人がその想いに応えるかどうかは分からないが、そういう接触はこの先いくらでも起こり得る……もしかしたら俺が知らないだけでもう起こっているかもしれない、それくらい現実的で自然な事なのだと思う。
それなのに、そのいくらでも有り得る光景を思い描くと、胸の中に何かモヤモヤとしたものが引っ掛かるのを感じる。人が人に好意を伝えるというのは素敵な事だと思うのに、なぜこんな気持ちになるのだろうか。
「──くん、冬弥くん、どうしたの?」
「あ……すまない、暁山。少し考え事をしていた」
「浮かない顔して見えるけど……理由とか、聞いても大丈夫?」
「ああ……むしろ、俺もどうしてこんな気持ちになるのか分からないから、暁山の意見が聞ければ有り難い。実は──」
あまり褒められた物では無いだろう自分の感情を、包み隠さず暁山に話してみる。暁山はずっと真剣な表情で俺の話を聞いてくれて、しばらく考える素振りを見せた後、俺にとある提案をしてきた。
「あのさ、ボク、ちょっと冬弥くんに読んでほしい本があるんだ」
「暁山が俺に?俺は構わないが……」
「良かった!じゃあ、明日まとめて持ってくるね」
話をしているうちに始業のチャイムが鳴って、暁山はひらひらと手を振りながら自分の席へと戻って行った。どういう内容の本なのか聞きそびれてしまったが、特に問題は無いだろう。
そう高を括っていたのに、次の日暁山が持ってきた本を前に俺は目を見張った。暁山はそんな俺に「後で感想よろしくね!」と、紙袋に入った7巻分の少女漫画を差し出して、いたずらっぽく笑って見せたのだった。
*
放課後に彰人と合流した途端、目敏い彼はすぐに紙袋の事を指摘してきた。
「何だそれ」
「これか。これは暁山からおすすめの漫画を借りたんだ」
「お前が漫画?……つーか、これ少女漫画じゃねえか」
「ああ。俺も少女漫画だとは思っていなかったから驚いたな」
「ったくあいつは……お前も嫌なら断っていいんだぞ」
「いや、こういった漫画は今まで読んだことが無いからな。一度読んでみるのも良い経験になると思う」
「そうか。ま、お前が良いなら良いんだけどよ」
そう言って納得してくれている彰人には言えない事だが、この漫画は暁山が俺の彰人に対する悩みを聞いて用意してくれた物だ。何か俺自身の感情を読み解くヒントがあるのかもしれない。今日の練習の後にでも、少し時間をとって読んでみようと思う。
「そうだ、彰人。練習前に少しcrase cafeに寄っても良いか?」
「ん?ああ。どのみち今日はあっちの広場で練習だし、一旦カフェに集合してから向かってもいいだろ。なんか用事でもあんのか?」
「いや、この漫画なんだが、自分の部屋に置いておいて、万が一父に見られたりしたら色々言われてしまう気がして」
「あー……」
「カフェのどこかに置かせて貰えないかメイコさんに聞いてみようと思っているんだ」
「お前の親父さん、そういう漫画免疫無さそうだもんな。それでいいんじゃねえか。んじゃさっそく移動すっか」
「ああ」
二人で校舎を出て、学校から少し離れた路地に入る。周りに人気が無い事を確認して、スマートフォンを少し操作すれば、視界が白く染まった後、見慣れたストリートの世界に立っていた。
すぐに近くにあるcrase cafeにお邪魔すると、いつものように芳ばしいコーヒーの香りと温かなメイコさんの声が俺達を出迎えてくれた。
「二人とも、いらっしゃい」
「こんにちはメイコさん」
「こんにちは」
「今日はこっちで練習なの?」
「はい。今日は向こうの練習場所がどこも使えなくて」
「あら、そうだったの」
「まあ、こっちならこっちで、こっちでしか出来ない練習があるんで。ところで、冬弥がメイコさんに頼みたい事があるらしいです」
「冬弥くんが?何かしら」
「すみません、メイコさん。今日学校で友人から少女漫画を借りたんですが──」
どこか隅の方にでも置かせて貰えないかと頼むと、メイコさんは二つ返事で快諾してくれた。指定された店の奥の方のスペースに移動すると、レトロな雰囲気の雑誌やボードゲームが綺麗に整頓されて置かれていた。
「こうしてじっくり見ることは無かったが、色々な物が置かれているんだな」
「ああ……へえ、サッカー盤なんかもあんのか」
「懐かしいな。この綺麗なカードは……タロットカードか。こんな物まであるんだな」
物珍しくてついつい意味もなく物色していると、入口の方からよく通る明るい声が聞えてくる。
「こんにちはーメイコ!あれ?彰人くんと冬弥くんも居る!こんにちは!」
元気に挨拶してくれたリンは、俺達の姿が見えるやいなや、大きなリボンを揺らしてこちらの方に駆け寄ってきた。
「ああ。リン、こんにちは」
「二人がこのスペースに居るの珍しいね!何してるの?」
「メイコさんにお願いして、しばらくの間ここにこれを置かせて貰うことになったんだ」
「なあに?それ」
「クラスメイトに借りた少女漫画だな」
「少女漫画?……わあ!綺麗な絵〜!」
紙袋を覗き込んだリンが、繊細で華麗な表紙絵に感嘆の声を上げる。興味津々といった素直な様子が可愛らしい。
「ねえねえ冬弥くん、このお話面白かった?」
「今日借りてきたばかりだから、まだ読めてはいないな」
「そっか」
「リンもこの漫画に興味があるのか?」
「うんっ」
「そうか。では、貸してくれたクラスメイトに他の友人にも読ませて良いか確認してみよう」
「え、いいの?ありがとう〜!」
暁山の事だから恐らくは良いと言ってくれそうだが、一度確認は必要だろう。さっそく連絡を取ろうとメッセージアプリを開いて、そういえば小豆沢と白石にここに集合場所を変えたと連絡していなかった事に気がついた。
「彰人、」
「杏とこはねにはオレから連絡しておいたぞ」
「!そうなのか。ありがとう」
「おう」
いつの間に連絡していたのか、全然気が付かなかった。彰人はこういったところに本当に気が回る。俺もしっかりしなければとは思うのだが、大抵俺が気がついた時には既に彰人が対処してくれているから、いつも彼に甘える形になってしまっている。
今は気にしていても仕方がないと、気持ちを切り替えて暁山に連絡すると、すぐに快諾の返信が返ってきた。
「リン。確認したが、リンも読んで大丈夫だそうだ」
「ほんとう!?」
「ああ。俺たちは今から練習だが、俺が居ない時でも好きな時に読むといい」
「うん!ありがとう、冬弥くんっ!じゃあ、さっそく読んじゃおうかな〜」
そう言って、リンは紙袋の中から単行本の1巻目を手に取った。可愛らしい少女と可憐な絵柄のそれは、傍から見てとてもしっくりくる組み合わせだった。その自然さに、なぜかあの女子生徒たちの事が脳裏に浮かんだが、入口からの人の気配にすぐにそれは霧散していた。どうやら小豆沢と白石がやって来たようだ。
頭には今日の練習メニューを思い浮かべながら、彰人と二人で仲間の元へと歩きだした。
*
あれから暇を見つけてはcrase cafeに行き、奥のスペースで暁山から借りた少女漫画を読んでいた。
一通り読み終えたが、だいたいの内容は俺のイメージしていた少女漫画と遠くない物で、主人公の小雪という少女が高校に入って一人の男子生徒と出会い、彼のふと見せる優しさに惹かれていくという大筋だった。ただそれだけならこういう物かと俯瞰して読めたと思うのだが、舞という少女が登場して以降、どうにも冷静に読むことが出来なくなったような気がした。積極的な彼女が小雪の想い人に接近する度に、先を読み進めるのが苦しくなったのだ。主人公である小雪に感情移入して応援してしまうのは当たり前の事だ、と。そう自分に言い聞かせたが、胸の中のつかえは未だ取れない。
漠然とした不安のような感覚に悩まされていると、気づけば帰りのホームルームが終わっていた。少女向けの漫画だと侮っていたが、ミステリー小説とは異なる難しさがあって奥が深い。
ふと人の気配を感じて横を見ると、既にホームルームを終えた彰人がいつの間にかすぐ側に立っていた。
「あ、すまない彰人。早かったんだな」
「何ぼーっとしてんだお前」
「少し……昨日読んだ本のことを考えていた」
「へえ。まあ良いけどよ……それより、悪いが今日は先に練習行っててくれるか?」
「ああ。構わないが、何か用事が出来たのか?」
「……クラスの女子が、話があるから放課後西校舎の廊下の突き当りに来てくれ、だとよ」
「っ、そうか」
「あんま時間は掛かんねえと思うけど、わざわざ待たせんのもな」
「わかった。なら俺は先に行くことにする」
「おう。悪いな」
「いや、かまわない」
簡単に言葉を交わして、教室を出た後は彰人と反対方向に足を向ける。遠ざかって行く足音を聞きながら、自然な会話は出来ていたかと反芻する。おそらくは大丈夫だったと結論付けて、一つ大きく息を吐いた。
放課後にわざわざ人気のない場所に異性を呼び出す目的なんて俺にだって分かる。最近の人気の過熱ぶりからして、彰人が呼び出される事なんて時間の問題だった。ただ来るべき時が来ただけ。それなのに、どうしてこんなに不穏な気持ちになるのだろう。
ずっと晴れない想いを抱えたまま、練習場所のセカイに移動すると、ちょうどストリートにリンが通りかかった所だった。
「あ、冬弥くんだ!あの漫画読ませて貰ったよ〜!わたしすっごいドキドキしちゃった!」
影のない、弾けるような笑顔に迎えられて、重かった気持ちが少し軽くなる。どうしようもない事を引きずっていても仕方ないのだから、しっかり気持ちを切り替えなくては。
「リンも読んだのか。俺も読んでみたが、少女漫画というものは奥が深いな」
「うんうん。読んでると自分の事じゃないのに胸がドキドキしたり、苦しくなったりするんだよね」
「そうか…リンもそう感じたんだな」
「うん。わたしもいつかああいう恋、してみたいなあって思ったよ」
「恋……」
聞き慣れたはずの言葉だが、改めて口に出してみると、聞いたことのない真新しい異物のように響いた。
「そういえば、彰人くんはどうしたの?」
「彰人は……クラスの女子に話があると呼び出されたから、少し遅れて来るそうだ」
「えっ!それって……!」
「ああ。おそらく告白されるのだろうな」
「わあ〜!すごいね、彰人くん!呼び出されて告白されるなんて少女漫画みたい!彰人くんって女の子にモテるんだねえ」
「ああ……彰人は、本当にすごいんだ。頼りになるし、分かりにくいところもあるが、とても優しい。たくさんの人に好かれているし、女子に告白されるのも当たり前の事なんだろうな……」
「あ……」
俺が小さく笑いながら口にすると、なぜかリンは押し黙って、先程までの明るい笑顔とは真逆の、悲しそうな表情を浮かべていた。
「リン…?どうしたんだ、そんな顔をして」
「わたし、きっと冬弥くんに酷いこと言っちゃった……ごめんね……!」
「?なぜリンが謝るんだ……俺は何も謝られるようなことはされていない」
「だって、冬弥くん……寂しそう」
「寂しそう……?」
「うん。さっき冬弥くんが彰人くんについて話してるときの顔、小雪ちゃんが諦めようとしてた時の顔に似てたの」
「諦めようとしたとき……」
おそらくリンが言っているのは、小雪が一度想い人への感情を諦めようとして一人涙を浮かるシーンの事だ。確かあの時の彼女は、友人である舞に対して嫉妬してしまう事が辛くて、自分の想いを手放そうとした筈だ。そんな小雪と今の俺を、リンは似ていると言っている。
彰人に想いを寄せる女子生徒を見た時に感じた不穏な感情と、あのとき小雪が舞に感じた感情。点と点が繋がるように、自分の中で一つの結論が浮かび上がった。
「そうか……」
これが、嫉妬という感情だったのか。気づいてしまえば、どうしてこんな事も分からなかったのかと思うくらいに単純な話だった。
「俺は……嫉妬してしまうぐらい、彰人に恋をしていたんだな」
「冬弥くん……」
今さらこんな事を自覚してしまい、痛ましい顔を浮かべるリンに申し訳ない気持ちが湧いてくる。しかし身勝手な事にも、ずっとモヤモヤしていた想いの正体がわかって、少しだけほっとしている自分も居た。
「リン。この話は、他の誰にも言わないでくれるか?」
「うん、絶対誰にも言わないよ!……でも……」
「ん?」
「冬弥くんは、彰人くんにも言わないの?」
暗に諦めてしまうのかと問うリンの瞳から、俺は情けなくも目を逸らしていた。
小雪は最新巻である7巻目で想い人を諦めない事を決め、彼との関係性が変わってしまうであろう恐怖を振り払って告白した。だが俺の場合はどうだろう。彰人との関係性にこれ以上を望むのだとしたら、どんな風に変わってしまうのか、全く見当がつかない。
例えば抱きしめ合ったりキスしたり、そういう事を彰人と……と考えかけてすぐに止めた。あまりに現実味が無いし、想像する事すら一方的な想いを押し付けているようで抵抗があった。
「……ああ。もちろん、彰人にも内緒だ」
「……わかった」
「そんな顔をしないでくれリン。俺は、嫉妬をするほど人の事を好きになれた事を嬉しく思っている」
たぶん彰人と出逢わなかったら、ずっと知ることの無かった感情だ。この想いを知れただけでも、俺にとってはかけがえのない経験だ。
「彰人と一緒に夢を追えるだけで、俺にとっては充分幸せなんだ」
胸の内にある本心を吐露すれば、リンは少しだけ表情を和らげてくれた。純粋な少女に満面の笑みを浮かべるだけの応えを返せなかったことが、やはり少しだけ心苦しかった。
*
俺も何度か読み返して、リンももう充分に楽しんだということで、暁山に借りていた漫画を返すことにした。
教室で彰人とお昼を食べていると暁山が登校して来たので、彰人に断り一度席を立って暁山の元へ移動する。
「暁山、少しいいか?」
「あ、冬弥くん、どうしたの?」
「これ、貸してもらっていた漫画だ。返すのが遅くなってすまない。とても面白かったし、もし良ければ、続きが出たらまた貸して貰えると嬉しい」
「えっ、ホント!?実はムリヤリ貸し付けちゃったかな〜ってちょっと心配してたんだ」
「そんな事はない。主人公と共感できるところがあって、のめり込んで何度も読み返してしまった。読みたいと言っていた友人も、とても楽しんで読んでいたぞ」
「え〜!結構お気に入りの漫画だから、そんなにハマって貰えるなんて嬉しいなあ!冬弥くんの好きなシーンとか何か感じた事とか、色々聞いてみたいんだけど……弟くんが拗ねちゃうからまた後でゆっくり話そうね!」
ああ、と俺が暁山の言葉に頷くと同時に、背後から不機嫌そうな声が飛んできた。
「おい、誰が拗ねるって?」
それほど席が離れていないので、俺達の会話はしっかりと彰人に聞かれていたようだ。暁山が詳しい話を聞かないでくれて助かった。
やはり今の配慮を加味しても、暁山は最初から俺の想いの正体に気づいてあの漫画を貸してくれたのだろう。何の偏見も抱かずに、鈍い俺でもちゃんと考えれば分かるような伝え方をしてくれた暁山には、また改めてお礼を言わなければ。
「いやいや、めちゃくちゃ拗ねてるじゃん!」
「うるせえ。もういいだろ冬弥。用が済んだんなら戻ってこい」
「はいはい。まったく、独占欲強いなあ。じゃ、またねー冬弥くん」
「すまない、暁山。また後でゆっくりお礼がしたい」
「うん。いつでもいいし、待ってるね」
そう言って、お手本のようなウインクをする暁山に見送られて、彰人の居る自分の席の方に戻る。
「食事中に済まないな、彰人。暁山は目を離すとすぐに居なくなるし、ずいぶん長い間借りてしまっていたからな。早めに返したくて落ち着かなかったんだ」
「いや、構わねえよ。そんなに面白かったのか、あの漫画」
「ああ。とても面白かった」
「それなら良かったな」
「ああ……」
俺が食事中に席を立ったせいか暁山と話している時は不機嫌そうに感じたが、今話すとそうでもないように思う。
何にせよ機嫌が直ったのなら良かったと、俺は一息ついて、一切れだけ残っていたサンドイッチに手を伸ばした。
*
彰人から直接聞くことはなかったが、A組の女子が彰人に振られたという噂は、少し前から耳に入っていた。上手くいく保証も何も無い中で告白した女子生徒の勇気を尊敬すると同時に、彰人が告白を受け入れなかった事にどこか安堵している自分が居る。
そういう自分の綺麗ではない想いを、俺は今隣に座るリンに向けて、ぽつりぽつりと言葉にしていた。
バーチャルシンガーに年齢という概念があるのかは分からないが、見るからに年下の少女に赤裸々に語ってもいい内容なのか。そんな疑念が湧かないわけではなかったが、リンが俺と彰人の事を真摯に気に掛けてくれていたので、彼女には俺も本当の事を話さなければならない気がしたのだ。
「すまないな、こんな話を聞かせてしまって。だがリンには申し訳ないが、リンに聞いて貰えたお陰で気持ちが少しスッキリしたような気がする」
「そんなあ、申し訳なくなんかないよ!わたしも冬弥くんのお話聞きたかったし、それで冬弥くんがスッキリしてくれるならとっても嬉しいよ」
「そうか。なら……これからも時々話を聞いてもらえると助かる」
「うん!いつでもたくさんお話してほしいな!」
「ありがとう、リン」
「ふふっ……あ、そういえば、冬弥くんに聞いてみたかったことがあるんだけど聞いてもいい?」
「ああ、なんだ?何でも聞いてくれ」
「あのね、冬弥くんって、彰人くんのどういう所を好きになったの?」
そんな事を言うリンの表情は、今までの神妙なものから、好奇心を隠しきれない少女らしいものへと変化していた。
「どういう所を……」
「うん。わたしも彰人くんの良いところはたくさん知ってるけど、冬弥くんにとっての彰人くんはどういう風に見えるのかなって」
「そうだな……」
例えば夢に向かって努力を惜しまない姿勢だとか、俺よりも色々な経験を積んでいて頼りになる所だとか、困っている人が居たら自然に手を貸してしまう優しさだとか、リンの言うとおり彰人にはたくさんの魅力がある。ただ、リンは彰人の長所を聞きたいのではなく、“俺にとって”彰人はどういう存在なのかを知りたがっている。
それならばと静かに目を閉じて、彰人と話しているとき、歌っているときの事を思い返してみる。すると、ただそれだけで胸の奥に火が灯ったような感覚がした。
「熱が……」
「ねつ?」
「一緒に歌っているときの熱さだったり、ふだん話しているときに感じる暖かさだったり……俺は彰人と居るとき、いつも熱を感じているように思う。その熱に触れるのが心地良くて、ずっと近くで触れていたいと……そう願ってしまっているんだろうな……」
なんとか言葉にしてはみたが、ずいぶん抽象的になってしまったように感じる。うまく伝わったか、不安になって未だ押し黙るリンの反応を待つ。
すると、しばらくしたあと彼女は頬を赤らめて、「すてき」と一言、歌うようにつぶやいたのだった。
*
「──という事があったんだ」
「そうなんだ〜!彰人くん、優しいんだねえ」
「ああ」
「う〜ん、やっぱりレンとは全然違うっ」
「そうだろうか?俺はレンだってとても優しいと思うぞ。特にリンに対しては」
「えっ……そ、そんなことないよ!この間だってね──」
「たくさんお話してほしい」というリンの厚意に甘えて、最近はよくセカイの入り組んだ路地裏などで、リンに彰人の話を聞いてもらっている。これがいわゆる恋バナというものなのだろう。別に大それた話でもなんでもないが、彰人にも言えない秘密を隠れて共有するのは、いけない事をしているようで少しだけワクワクした。
練習後に残って話をしていたのだが、そろそろお開きの時間が迫っていた。名残惜しい気持ちはあるが、セカイとはいえ少女を遅い時間まで付き合わせる訳にはいかない。
「またね~!」と大きく手を振るリンに軽く手を振り返し、曲の再生の止めてセカイを後にする。
現実世界に戻って大通りに出る道を歩いていると、暗がりに一人、壁に寄り掛かるようにして男が立っていた。あまり深くは考えずに先へ進もうとすると、男は行く手を遮るようにして俺の正面へと立ち位置を変えた。
「よお」
「っ、彰人!」
声を掛けられ、初めてその男が少し前まで一緒に歌の練習をしていた相棒である事に気がついた。
「どうしたんだ、わざわざこんな所で……何かあったのか?」
「いや、何もねえよ。お前を待ってただけだ」
「そうか……」
急ぎの用では無いのなら、明日では駄目だったのだろうか。どことなく普段とは違う彰人の様子に戸惑っていると、不意に腕を取られて、今来た道を引き返すように細い路地の方へ連れて行かれる。
「彰人、怒っているのか……!?本当に、急にどうしたんだ!」
「……怒ってはねえけど。お前、オレに何か言う事はねえか?」
薄暗い街灯の下で立ち止まり、向き合った彰人が問いかけてくる。彰人は意味もなくこんな事はしない。それはよく知っているので、何か思い当たる節が無いか必死に頭を巡らせるが、心当たりが全く無い。
「……まあいい。じゃあ聞くが、お前最近リンと二人で何話してんだ?」
「っ……!」
「レンが相談してきたんだよ。最近リンと話す時間が減ってる気がするって。別にお前とリンがどうこうなるなんて思ってねえけどよ、相手が誰だろうが、相棒が自分以外の奴と隠れてコソコソしてたらレンだって面白くは思わねえだろ」
彰人の思ってもいなかった指摘に、俺はずっと自分の事しか考えていなかったのだとはっとする。リンと話すのが楽しくて、それが周囲に与える影響をまるで考えられていなかったのだ。
「たしかに、俺ばかりがリンを一人占めしてしまっては申し訳ないな……レンに悪い事をしてしまった。今度謝らなくてはな」
「まあ、あいつも別に怒っちゃいねえと思うが。お前らが変にコソコソしてるから不安になってんだろ……で、何話してんだよ」
「……それは、暁山に借りた漫画の話を、」
「んな事わざわざ隠れて話す必要ねえだろ」
「……」
とっさに思いついた事を口にしてみるも、すぐに一蹴されてしまった。彰人の言う通り、わざわざ隠れて話すような内容ではない。何か他に良い言い訳は無いかと必死に考えてみるが、彰人を欺けるような物は到底思い浮かびそうにない。結局俺にできる事は、ただ隠し通す事だけなのだ。
「……彰人には、言わない」
「なんでオレには言えねえんだよ」
「それは……俺の、プライベートな感情の話だからだ」
「それ、オレに対する感情の話だって言ってるようなもんだぞ」
「……っ」
「なあ、何考えてんだよ冬弥」
図星を突かれて何も言えないでいる俺に、彰人がグッと距離を詰めてくる。反射的に後ろに下がるも、狭い路地ではすぐに背中が壁に当たって動きを封じられてしまった。
薄明かりの下、感情がはっきり読み取れるほど、彰人の顔が近くにあった。
「あ、彰人、近い……」
「“小雪”は伝えてたぞ、自分の想いを」
「え……」
不意に目の前の唇から、彼の知る由も無いはずの人名が発されて思考が停止する。
「……恋愛に興味無さそうだったお前が、暁山に勧められたとはいえ少女漫画なんて読んで、主人公に共感した、みてえなこと言ってたからな。気になってオレも暁山に借りたんだよ」
「そう、だったのか……」
そういえば暁山に漫画を返す時にそういった事を話したような気がする。彰人は少女漫画に興味を持たないだろうから、内容を知ることは無いと油断しきっていた。
彰人は察しが良いから、あの漫画を読んだのならきっともう俺の想いに気づいている。だからわざわざこうして俺に話す機会を与えてくれたのだろう。俺が想いを拗らせて、また以前のように一人で抱え込んでおかしな方向に進んでしなわないように。
だが今回は彰人の心配するような事にはならないと言い切れる。俺は何があっても、相棒としてずっと彰人を支え続けると決めているのだから。
これ以上の変化を望まないのならば、この想いは俺の中で大切に仕舞っておくべき物なのだろう。俺は、変わってしまう事を受け入れ、覚悟を決めた小雪と同じようにはなれない。
「俺は……この想いは、お前には伝えないと決めているんだ」
「……」
「もう遅いから、そろそろ戻ろう、彰人」
「……一人で吹っ切れたみてえな顔しやがって」
低く唸るように呟いた彰人は、俺の顔を挟むようにして両手を背後の壁に叩きつけた。粗暴な振る舞いに目を丸くしていると、爛々とした眼光
が俺を射抜いて冷たい壁へと縫い付けた。
「お前は一人で勝手に納得してるみてえだが、オレは全然納得できねえ。何で言わねえ事に決めてんのかは知らねえけどよ……お前が大事に抱えてんのがオレへの想いだっつーんなら、それはオレが貰う筈のもんだろうが」
まるで、俺の抱えている想いが手に入らない事が惜しいとでも言うような、そんな都合の良い言葉に聞こえてしまう。しかし、もしこのまま口にしてしまったら、きっと今までと全く同じ関係では居られなくなる。
「言ったら、俺たちは変わってしまう………」
俺はきっと、ずっとそれが怖かった。
「……変わって何が悪いんだよ。俺はお前と組んでから、一瞬たりとも立ち止まったつもりはねえぞ」
「っ、それは……」
「オレは、お前を絶対に退屈はさせねえ。だからお前の想い、全部オレにくれねえか」
胸の真ん中に、焼けた楔を打ち付けられたようだった。彰人に本気の想いを真正面からぶつけられたら、俺のちっぽけな恐怖なんて灰になって消えてしまう。
俺はきっと一生、彰人の熱には逆らえない。
「っ……俺、は……彰人のことが、好きだ……周りの女子たちに嫉妬してしまうくらい、お前に恋をしてしまった……」
気づけば熱に浮かされたように、秘めていた想いをさらけ出していた。穿たれた心臓は動きを止めるどころか、ひときわ大きく脈を打っている。
間近にあるはしばみ色の瞳がゆるりと細められたかと思うと、冷たい壁から引き剥がされて、次の瞬間には暖かい腕の中に閉じ込められていた。
「冬弥……っ、ありがとな……!」
片手で俺の頭をぐしゃぐしゃに撫で回しながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる彰人は言う。
「お前が伝えてくれて、すげえ嬉しい。オレもお前に同じ想いを持ってたからな」
「……?」
「オレもお前が好きだ、つってんだが」
「……そう、なのか?」
「ああ」
思わず本当かと聞き返しかけたが、俺の乱れた髪を梳く手つきが優しくて、疑う気持ちもしおしおと萎れていく。それどころか、彰人の熱を持つ視線がずっと俺の顔に注がれていて、居た堪れない気持ちになって彰人の顔をまともに見られない。
「冬弥、お前、照れてんのか」
「う……そうかもしれない」
「もしオレに告白して、両想いだったららどうなるかとか、考えた事なかったのか?」
「……考えようとしたことはあったが、想像するのも彰人に悪いような気がして」
「へえ。やっぱお前、真面目だな……オレは色々考えてたけど」
「色々……」
「おう」
彰人は俺と両想いだったら何をしようと思っていたのだろう。一般的な恋人がするような、キスだったりそれ以上だったりを、俺としたいと思ってくれていたのだろうか。
「冬弥」
不意に真剣なトーンで名前を呼ばれ顔を向けると、蕩けそうなほどに熱を宿した瞳がすぐ眼前に迫っていた。
あ、と声を上げる間もなく唇に柔らかい物が触れ、数秒の後、軽く音を立てて離れていった。
「……帰るか」
そう事も無げに言った彰人の顔が少しだけ照れくさそうに歪んでいるのを見て、ようやく接触の実感が湧いてくる。胸が信じられないほど早鐘を打っていて苦しいのに、彰人はさらに容赦なく俺の手を引いて歩き出す。これでは退屈どころか、ドキドキし過ぎて身が持たないかもしれない。
恋というものはこれほど目まぐるしいものなのかと思うと同時に、この胸弾むような高鳴りを知る事ができて心から良かったと思う。
ふわふわと浮かれる気持ちを持て余して、俺に恋という感情を教えてくれた架空の少女へと思いを馳せる。右手に少しかさついた温もりを感じながら、俺は彼女の幸せを願わずにはいられなかった。