いとしき人に抱擁を「好きだ」
突然「スーツに着替えろ」と言われて連れて来られたフレンチレストランの一席。デザートプレートに乗ったよく分からない洒落た物体を咀嚼していた影山は、牛島の口から放たれた三文字を咄嗟に理解することが出来なかった。
「……んぬ?」
「好きだと言った」
「何がです?」
「俺が、お前のことを好きだと言っている」
「……俺も牛島さんのことは好きですけど……?」
「……」
素直な気持ちを言葉にすると、牛島は喉の奥に何かつっかえたような顔をして口をつぐんだ。手元のグラスに手を伸ばし、少しだけ残っていた赤ワインを流し込むように飲み干していく。
「お前、俺の言う『好き』がどういう意味か分かっているか?」
丁寧な所作で空になったグラスを置いて、試合前に重要事項を確認するように影山に問いかけてくる。
「……セッターとして認めてくれてるんじゃないんですか?」
「……やはりそうか」
真剣な空気を肌で感じて少し動揺しながら答えると、牛島はがくりと肩を落として項垂れてしまった。彼がこんな風になるのは珍しいので何か検討違いなことを言ってしまったのだろうかと急に不安になってくる。もしかしたら自惚れもいいところだと思われたのかもしれない。
「お前が優れたセッターだなんて今さらだろうが」
「そ、そうですか……」
どうやら認めてくれているというのは正しかったらしく胸を撫で下ろしたが、それなら尚更どういう意味なのか分からない。
「……お前のことを一人の人間として好ましく思うから交際をしたい、という意味で好きだと言っている」
「こうさい……それってあれですか。男の人と女の人がデート?とかするやつですか」
牛島から求められる行為としてはあり得ないものだとは思うのだが、『こうさい』という言葉で知っている意味合いがそれしか無かったのだ。
「そうだ。その交際を申し込んでいる」
「……」
「……」
「牛島さん」
「あぁ」
「今日どっかで頭打ったりしましたか?」
「なぜそうなる。俺は至って正常だ」
「……だって俺、男ですし」
「そうだな」
「それに俺……俺ですよ?」
「……当たり前だな。まぁ言いたいことは分かるが……要するにお前は自分の魅力を分かっていないから、俺に好かれる理由が分からないということだろう」
「みりょく……」
あまり日常的に聞くことは無い単語が飛び出してきたが、それがどうやったら自分に結び付くというのだろうか。影山の脳内は疑問符だらけだったが、好かれる理由が分からないというのはその通りではあったのでコクコクと首を縦に振ってみせる。
「色々あるが……まず顔が好みだ」
「顔、ですか……」
「あぁ……特に目が」
「目が」
「美しいと思う」
「う……」
「かっこいい」とか「イケメン」だとかはファンやインタビュアーに言われることはあるのだが、「美しい」は初めて言われたかもしれない。特に人の美醜に興味が無さそうな牛島にそんな事を言われるとは思ってもみなかった。
「それに、よく整えられた爪も綺麗だ」
「ぬ……」
「落ち着いた声も良いな。時おり難解な言語を話すが……生意気なプレーをするわりに、普段は存外素直なところも良い」
「……」
「そしてバレーを愛している。……まだまだ在るが言った方がいいか?」
つらつらと羅列される己の魅力とやらに呆気にとられているところに更に間を置かず問いかけられて、慌てて首を左右に振る。これ以上言われたら頭がパンクしてしまう。ただでさえ頭を使うのが得意ではないのに、こんな難しい問題を突きつけられてしまっては何処から消化しればいいのかもまるで分からない。途方に暮れるばかりの影山を、牛島は急かすでもなくじっと黙って見つめるだけだ。
しばらく経ってようやく動揺が落ち着いてきた影山は、ぽつりぽつりと自分の正直な気持ちを言葉にしようと試みる。
「……嬉しいッス。俺、人からそんなこと言われたの初めてだから、ほんとに嬉しいです……でも、すみません。交際とかは出来ないです」
「……理由を聞いてもいいか?」
片時も影山から目を離さない牛島から逃れるように下げた視線の先で、スパークリングワインがシュワシュワと透明な泡を立てている。つい三日前に二十歳の誕生日を迎えた影山のために牛島が用意してくれたものだ。週末に行われた試合に備えて今まで飲酒を控えていたので、今日が影山にとって初めての飲酒の機会となった。
イメージしていたよりもずっと飲みやすい口当たりのそれは、控え目な照明の光を吸収して弾ける気泡が美しく、お酒というよりは綺麗な見た目したジュースのようだった。
「……牛島さんのことは好きなんですけど、その好きっていうのがそういう意味での好きなのかはよく分からなくて……」
喋るのは得意では無いし、上手く言葉に出来ているかは分からない。ただ、自分などを好きだと言ってくれた牛島に対して誤魔化すような真似はしたくないなと強く思う。
「俺、いつもバレーのことばっか考えてるから人の気持ちとか考えるの苦手で……言葉とかもよく間違えるし。恋とか愛とか、よく分かってもないのに交際とかするのは、たぶん良くない事だと思って……」
好意を無下にするようで心苦しいが、きっとこうするのがお互いとって一番いいのだ。
しばらくの沈黙の後、牛島は淡々とした様子で口を開いた。
「……そうか。残念だが、それなら無理に応えようとしなくていい。バレー最優先なのは俺も同じだ」
「……」
牛島の表情はこれといって傷ついたようには見えないし、バレー最優先と言うのは間違い無いのだろうが、やはりどうしてもいたたまれない気分になってしまう。
「……」
「……」
耳にうるさい沈黙の中、時間だけが過ぎていく。
誤魔化すように手元のワインをちびちびと飲み進めるも、慣れないワインに頭がぼーっとしてきた。まるでふわふわと夢の中を漂っているような気分になってくる。
考えてもみれば日本バレー界のエースである牛島若利に、お洒落なフレンチレストランで愛の告白をされるなんてあまりにも出来すぎている。もしかしたらこれは夢なんじゃないかと頬をむにむにと軽く抓ってみるも、少し皮膚が伸びるくらいで夢から覚める気配も無い。
「……何をしている」
「えっ……いえ、ちょっと眠くなってきたみたいで」
「そうか……もういい時間だな。そろそろ帰ろうか。突然連れ出してすまなかったな」
「いえ……」
牛島に釣られるようにスマホで時刻を確認すると二十二時を回ったところだった。普段なら既に入浴を済ませて爪の手入れやストレッチをしている頃合いだ。
牛島に頷き揃って席を立つと、すぐにウェイターがやって来て入口まで恭しく付き添われてしまった。いつの間にか牛島が支払いを済ませてくれていたようで、手間取ることなく店を出ることが出来た。
外に出ると既にタクシーが横付けされており、大きな体を屈めて乗り込む牛島に続いて影山もタクシーに乗車する。扉が閉められて、ようやく一息つけるような心地だった。
寮への道を走り出してからしばらくすると、窓ガラスにポツポツと雨が当たり始めた。
「雨ですね」
「そうだな」
玉になって流れ落ちる水滴を見るともなしに眺める。イルミネーションが目に留まり、初めて影山は今日がクリスマスであったことに気がついた。あれよあれよという間に連れ出されたので、来るときは外の景色に目を向ける余裕が無かったのだ。
街の明かりを反射する雨粒は、スパークリングワインの弾ける気泡にも似ているような気がした。
ふと視線を感じて車内に意識を戻すと、シートに身を預け腕を組む牛島が熱心に影山を見つめていた。
「な、なんッスか……?」
「いや……やはりお前は美しいな」
突然何を言い出すのだと思った。二人きりでも恥ずかしいのに、この場にはタクシーの運転手も居るのだ。淡々と運転しているように見えるが、牛島の言葉は雨にかき消されることなく耳に届いたはずだ。
「やめてください……」
かろうじてそれだけ伝えてると、すぐにまた窓へと視線を戻す。街を彩るイルミネーションに集中しようとするも、どうしても牛島の存在を意識してしまう。体の右半分が妙に熱くて仕方ない。
一刻も早く寮に着いて欲しいと、心からそう思った。
長い長いドライブを終えて寮に着くと、たまたま玄関付近を通りかかったらしい星海がスーツ姿を見咎めて声を掛けてきた。湿ってぺたりとした髪でラフな服装をしている。すでに風呂に入った後のようだ。
「どうしたんだよ、んな気合の入った格好して。さてはデートか?」
「っ……!」
星海がなんの気無しに口にしただろう言葉があまりにもタイムリーで、影山は心臓が飛び出るかと思った。
「あぁ。そんなところだな……成人祝いに食事に連れて行ってやったところだ」
「そうなのか。良かったなぁ影山」
「……ッス」
固まる影山とは対照的に、牛島は落ち着いた様子で事情を説明している。淡々とし過ぎていて、先ほど影山を好きだと言ったことがまるで夢の出来事だったかのように思えるほどだ。
「でもいくらなんでも気合入りすぎじゃねぇの?影山贔屓がすぎるぞ」
「お前も成人したとき連れて行ってやっただろうが」
「俺のときはもっとこう、普通に居酒屋っぽいところだっただろ」
「それは確かお前が馬刺しを食べてみたいと言ったんじゃなかったか?」
「あ、そういやそうだったっけ。あそこの馬刺しスゲェ美味かったな……」
何やら二人の思い出話に花が咲いて、影山たちのスーツ姿への不信感はすっかりどこかに行ってしまったようだ。
そうしてしばらく馬刺しの話をした後、星海と別れてようやく自室へと向かう事ができた。黙って隣を歩く牛島の横顔を盗み見るも、そこから彼の感情を読み取ることは難しかった。
廊下の中程にある階段を上ると、右側の通路に影山の部屋が、左側の通路に牛島の部屋がある。
ちょうどその別れ道に差し掛かったとき、おもむろに牛島が口を開いた。
「……今日は」
「?」
「酔いが回るとまずいからシャワーは明日にしろ」
「ッス……」
あの告白について何か言われるのかと思ったが、星海に会ってからはすっかりそんな気配はかき消えてしまった。何も言われないならそれに越した事はないはずなのに、少しだけ不安になっている気がするのは気のせいに違いない。
「今日はありがとうございました」
「……いや。こちらこそ遅くまで連れ出してすまなかったな。今日はゆっくり休むといい」
「ッス。それじゃあ……」
挨拶を済ませ、軽く一礼して自分の部屋へ向かおうと背を向けた時だった。
「いつか……バレー選手でなくなった時」
「え?」
「もしお前が人生を共にする誰かを選ぶ日が来たとしたら、そのときは俺を選んでほしいと思っている……俺は常にお前を想っているという事を覚えておいてくれ」
振り向けば、あの揺らぐことのない強い視線があった。
いつかバレー選手でなくなった時、と。牛島はそう言ったはずだ。そんな言葉を彼の口から聞くことになるなんて。
「では、おやすみ影山」
「はい……おやすみなさい」
影山が呆然としているうちに、牛島は廊下の反対側へと向かって歩き出してしまった。牛島の言っていることなど半分も理解出来ていないというのに。その背中をしばらく見つめた後、思い出したように影山も自室へと足を向けた。
部屋に着くなり鈍った頭で半ば無意識に寝支度をして、冷たいベッドに潜り込む。布団が暖まるまでの間、ずっと牛島のことばかり考えていた。別れ際にあんな事を言われてしまっては考えるなという方が難しい。
結局、影山はぐるぐるとその日あった出来事を思い出しているうちに眠りに落ちていた。
翌日は目が冷めてすぐに昨晩の出来事は夢だったのではないか思ったが、カーテンレールに吊り下げられたままになっていたスーツが現実だったのだと静かに主張していた。
*
あのクリスマスの夜の以来、影山は牛島のことをやけに意識してしまうようになっていた。例えば更衣室などで二人きりになったとき妙に緊張したり、何気なく触れてから牛島の様子を窺ってしまったりもした。
一方の牛島はというと今までと何ら変化は見受けられない。
影山が付き合わないと返事をした時点で、今まで通りに振る舞う牛島の方が正しいということは分かっていた。だから自分だけが意識している状況は何となく良くないように思えてならなかった。
その状況を打破するために影山ができる事などただ一つだ。一層バレーに専心したお陰で影山のトスワークは冴え渡り、アドラーズは順調に白星を重ね、無事にファイナルステージ進出が決定したのであった。
その日の試合は本拠地で行われただけあって、試合後には影山の前にも大勢のファンが列を作っていた。
一人一人にお礼を述べながら握手やサインに応じるのも、今ではだいぶ卒なくこなせるようになったと思う。一年目の頃はただ挨拶するだけでもカタコトになってしまい、チームにもファンにも要らない心配を掛けてばかりだった。
それほどまでにファンサービスが苦手だった影山の助けになったのが他ならぬ牛島の存在であった。牛島は影山と同様に口数の少ないタイプだが、チームのエーススパイカーである彼の周りには毎度たくさんの人だかりが出来ていて、それを苦もなく捌いている様子は影山の良い見本となった。大げさな笑顔は要らない。ほんの数秒だけでもいい。相手の目を見て、少しでも口角を上げお礼を言う。そう意識するだけで、驚くほどスムーズにファンと交流出来るようになったのだ。
そういった経緯があって、影山にはファンサービスの際に自然と牛島の方に意識を向ける癖がついており、ファンの人数や客層などはなんとなく把握していた。
エースである牛島には男性や子どものファンも多いのだが、硬派な印象に反して意外にも熱心な女性ファンが多かったりするのだ。もちろん影山にも女性ファンはたくさん居るが、影山のファンとはまた性質が違うように思われた。
星海曰くガチ恋勢が多いのだそうで、ファンレターに連絡先が書かれていることも少なくないらしいし、以前どこかの局の女子アナに食事に誘われているところを見たこともある。さらにアドラーズのチアガールには白鳥沢から牛島を追って入団した女性も居るという話だ。
それほど女性にモテるエピソードに事欠かない牛島が、何故女性ではなく自分を選んだのだろうかと影山は首を捻る。牛島は嘘や冗談を言う人ではないのであの告白を疑ってはいないのだが、やはりどこか普通とは違う人だと思ってしまう。
そんなことを考えていると、一段落ついたらしい牛島がおもむろに此方に視線を向けてきたので、慌てて手元のサインに集中する。見ていたことがバレたら居心地が悪いし、意識が散漫になるのは何より並んでくれているファンに失礼だと気を引き締める。
ファンとの交流は順調に進んでいき、影山の列にはあと一人を残すのみとなった。
最後に並んでいたのはスーツ姿の男性で、影山よりは小さいが結構な長身であり、着衣越しでもバランスの良い筋肉が付いているのが見て取れる。
もしかしたらバレー経験者なのかもしれないと、少し浮足立ちながら男性と向かい合った。男性は緊張しているのか、ずっと足元に視線を落としたままだ。
「今日は観に来てくださってありがとうございます」
「……応援してます」
いつものように相手をまっすぐ見つめながらお礼を言うと、かろうじて聞き取れるような、小さな小さな声が返ってきた。
「……?」
どことなく聞き覚えのあるような声に引っかかり、良くないこととは思いつつも少し身を屈めて男性の顔を控えめに覗き込んでみる。
細めの眉に大きな三白眼。角ばった輪郭が中学時代のものと重なって見えた。
「……お前、階上か……?」
まさかとは思ったが、確認せずには居られなかった。目の前に北一時代の主将が立っているだなんて。
人違いだったら失礼だとか、そんな当たり前の事すら驚きが先行し過ぎて考える余裕がなかった。
「っ、覚えててくれたのか!……絶対分からねぇだろうなって思ってた」
驚いたように目を見開く男はやはり人違いではなかった。丸刈りだった髪が程好い短髪に整えられていて、中学の時とは随分と印象が変わって見える。都会っぽくなったというか、垢抜けたと言えばいいのだろうか。
「そんなことねぇよ……でもお前、なんかすげぇ雰囲気変わったな」
「あぁ。よく言われるよ……お前も、なんていうか空気が柔らかくなったよな」
「……」
きっと階上は好意的な意味合いで言ってくれているのだろう。しかし、王様だった中学時代の影山を思い起こされている。その事実だけで影山は返す言葉を失ってしまった。
「ほんとは影山と、もっと色々話したかったんだけど……お前どんどんすげぇヤツになっちまって……」
「……」
階上が丁寧に言葉を探している。今の影山と真摯に向き合おうとしてくれているのだ。過去と向き合うことがどれほど気力を伴うものなのか。金田一や国見との件で影山は痛いほと理解していた。
「……バレー、頑張ってな」
結局そう一言だけ言って控えめに笑い一礼すると、階上は影山に背を向けて列から捌けようと歩き出した。
「……っ!」
せっかく来てくれたのに、まだ何も伝えられていない。この期を逃したら、もう一生話す機会なんて無いかもしれない。
そう思った時には自然と腕が伸びていて、遠ざかって行くスーツの袖口を掴んでいた。
「影山……?どうした?」
「……ッ」
振り向いた階上は不思議そうに首を傾けている。
何か言わなければ。また彼は遠くに行ってしまう。
そう思うのに適切な言葉が全く思い浮かばない。
「……よく分かんねぇけど、ファンを贔屓するとマズいんじゃないか?」
数秒固まったままでいると階上が困ったように会場を見渡していた。
言われてからハッとして顔を上げると、少数だがまだ会場に残っていた観客たちやチームメイトが何事かと此方に注目してる。そういえばまだ階上の袖を掴んだままであった。慌てて手を引っ込めるが、階上には不快な思いをさせてしまったかもしれない。
「……悪ぃ」
「いや……」
「……」
影山が頭をフル回転させて言葉を探していると、小さく息を吐いた階上が何やら懐をまさぐり始めた。そして手のひら大の銀色のケースを取り出すと、その中に入っていた名刺から一枚選んで影山へと手渡してきた。
「これ、渡しとくわ。裏に私用の携帯番号書いてあるから」
影山でも聞いたことのある有名企業の名が記載された名刺をひっくり返すと、確かに11桁の数字が書かれている。
「……いいのか?」
「いや。むしろ天下の影山が俺なんかにいいのかよって感じだし……まぁ、なんかあったら連絡して」
「あぁ……」
影山が頷くと、階上は人好きのする笑顔を見せて今度こそその場を離れて行った。
後ろ姿を見送りながら、手渡された名刺を折れないように気をつけてジャージのポケットにしまい込む。思っていたより緊張していたのか、自然と深く息を吐き出していた。
「あれは誰だ」
一息ついていたところにいきなり声を掛けられ、影山の肩はビクリと跳ねた。ファンサービスを終えたらしい牛島が両手いっぱいに紙袋を下げて後ろに立っていた。
「中学のときバレー部の主将してたヤツです」
「北川第一か……」
「ッス」
「名刺を受け取っていたようだが」
「はい。連絡先教えて貰いました」
「今も交流があったわけではないのか」
「中学のときは……あんまり喋ったりしなかったんで」
「そうか」
牛島はあの決勝戦を会場で観ていたはずだが、階上との関係に何か思うところは無いのだろうか。じっと観察してみるが、やはり牛島はいつもと変わらぬ無表情だ。
「連絡するのか?」
「連絡……したい、です」
「ならすればいいだろう。向こうがわざわざ名刺を寄越したのなら何も問題はない」
「……それもそうッスね」
したければすればいいのだと、当たり前のように言う牛島はどこまでも彼らしい。
ブレない芯を持った牛島と話していると、途方もなく難しいものだと思っていた問題が途端に単純なもののように思えてくるのだから不思議だ。
牛島のように自信を持っては出来ないかもしれないが、自分なりに前向きに階上と向き合ってみようと。そう決心して、ポケットの中にある名刺をぎゅっと握りこんで顔を上げた。
*
二月末。芯まで凍るような寒さが和らいで来た頃、アドラーズは最後の戦いで勝利を収め映えある三連覇を果たした。
若くしてチームの司令塔を務めた影山は、リオ五輪での知名度も相まって各種メディアに引っ張りだこで、落ち着いて普段通りの生活が出来るようになったのは、いよいよ世間も春めいてきたころであった。
大事にしまってあった名刺を取り出して意を決し階上に電話を掛けると、影山が本当に連絡を寄越してきた事に非常に驚いていた。せっかくまた話せる機会が出来たのだからゆっくり話がしたいのだと、言葉につまりながらも懸命に伝えると、彼は嫌な素振りもせずに影山を食事に誘ってくれたのだった。
約束の当日。階上が指定した居酒屋には寮からタクシーで三十分ほどで到着した。
もっと都心に近い場所でいいと言ったのだが、「お前方向音痴だっただろ」の一言で黙らされてしまったのだ。そんなことよく覚えてくれていたなと感心しつつ、では自分は彼の事をどれほど覚えているだろうかと考えると、舌の奥に嫌な渋みが広がった。
階上は先に到着していたようで、店員に名前を告げると奥の座敷へと案内される。
久しぶりに会った階上は少しだけ髪が明るくなっており、私服も春らしく爽やかな装いだった。
階上はにこやかな笑顔で影山を迎えてくれたが、簡単に挨拶を済ませてドリンクを注文してしまうと早々に沈黙が訪れてしまった。
自分が話をしたいと言って彼を呼んだのだから自分から話を振るべきなのだろう。しかし人の輪に入らずマイペースに生きてきて特にそれを気にしたこともなかった影山にとっては、自分から話題を提供するというのは5歳児がおつかいに行くようなものであった。牛島が相手なら沈黙も気にならないのだが、当然牛島はここには居ない。
影山が口を尖らせながら悶々と頭を悩ませていると、店員がドリンクを運んで来てくれた。
「とりあえず、乾杯すっか」
「……おう」
結局何も取り繕えないまま、助け舟を出してくれた階上に同意する。ビージョッキを掲げた階上に倣うようにしてウーロン茶入りのグラスを持ち上げる。
「じゃあ、三連覇おめでとう」
「……あぁ」
不慣れにグラスをぶつけると、それにそぐわないほど気持ちのいい音が出る。
ストローで吸い込んで喉を潤すと少しだけ気分が落ち着いた。美味そうにビールを飲んでいる階上を横目に、影山はいよいよ腹を括った。
「今日は……わざわざ来てくれてありがとな」
「いや、こっちこそ」
「……」
「……」
「あの……中学のときは、」
「悪かった……ッ!!」
本題に入ろうとした影山を遮って、階上がその場で勢いよく頭を下げた。突然の行動に、影山はぎょっとして目を丸くするほかない。
「おい、どうしたんだ……」
「俺たち試合中にお前のトス無視したろ」
「……っ」
「ひでぇ事しちまったって、ずっと後悔してたんだ……今更こんなこと言ったって遅いのかもしれねぇけど、本当にすまなかった……」
絞り出すようなか細い声で謝罪する階上の後頭部を呆然と眺める。人並み以上の大きな体躯が、今はとても小さなものに見えた。
てっきり臣下の言うことに耳を傾けない『王様』の首を跳ね落として平和に暮らしているものだと思っていたのに。あの時のことを階上もずっと後悔していたのだ。
「……顔を上げてくれ。ああなったのは、俺に原因があったから」
「……」
「大事なこと教えてもらったから……だから気にしなくていい」
独りよがりでは駄目なのだと。あの時はまだ気づいていなかったが、あの出来事があったからこそ自分は烏野でより強くなれたのだ。
静かに語りかけると、ようやく階上は頭を起こして影山の顔を見た。
「……やっぱお前ってスゲェ奴だな」
そう言って彼は気が抜けたように笑ったので、あぁ、今度は間違えなかったのだと、影山は重い荷が下りたような心地がした。これでようやくやり直せるのだろう。
それからは影山のバレーでの活躍を中心に、お互いの近況などについても話をした。
階上に二つ下の妹がいたことなんて今まで全く知らなかった。いかに自分が当時のチームメイトたちに対して興味を持っていなかったのか、影山は改めて思い知らされた。
アドラーズのチームメイトたちについては色々知っていることも多いので、きっと今の自分ならばもう少し上手く付き合えるのではないだろうか。
そんなことを考えながら話をしているうちに、だいぶいい時間になっていたようだ。階上が腕時計を見て「そろそろ」と呟いたので、影山も帰りのタクシーを店員に呼んで貰うことにした。
会計を済ませて、店の敷地の前でタクシーが来るのを待つ。階上はバスの時刻までまだ少し時間があるらしく、影山を見送ってから帰るのだそうだ。
「今日はお前とちゃんと話せて良かったよ」
「俺も……」
しみじみと口にする階上に、心の底から同意する。彼とこうして並んで話をできる日が来るなんて、高校のころの影山に言っても決して信じないだろう。
「あのさ、また誘ってもいいか?」
「あぁ」
尋ねられて、嬉しくなって頷くと、なぜだか階上は少し驚いたような顔をした。
不思議に思って首を傾げているとタクシーがやって来てしまったので、軽い疑問は放り投げ、階上に改めて礼を言って居酒屋を後にした。
タクシーの中で、影山は頭を下げる階上の姿を思い起こしていた。自分が仲間と向き合わなかったせいで起こった事件が、今までずっと階上を苦しませていたのだ。
人と向き合うことはとても大変で、でもそれ以上に大切なことだと、今はもう知っている。
今度こそ間違えないようにしなくては──
改めてそう誓い、流れる風景に目を移した影山の眼差しは強く、そして微かに憂いを帯びたものであった。
*
それからというもの、階上とは定期的に会っては他愛もない話をする仲になった。食事を共にするのみならず映画やカラオケなど、影山が今まで触れて来なかったものに触れる機会が増えていった。
友人と呼べる友人が居なかった影山にとっては、同級生と出かけること自体が新鮮で特別なことであった。
「──ずいぶんと機嫌がいいな」
談話室で最近お気に入りの猫動画を観ていると、背後から牛島に声を掛けられた。普段と変わった素振りはしていないと思うのだが、どうして牛島は察することが出来るのだろうと不思議に思う。
「今度、階上と猫カフェ行ってくるんッス」
「……猫カフェとはあれか。飲食しながら猫と戯れられるという」
「そうです、それです」
「お前はそんなに猫が好きだったか?」
「猫っていうか、動物はだいたい好きです。全然懐かれねぇんですけど……」
影山が悲しい事実を告白すると、牛島は太い眉をわずかに片方だけ釣り上げた。だいたい何か思うところがある時の態度である。
「牛島さん……どうかしましたか?」
「いや……階上とやらと友情を深めるのは結構なことだが」
「……?」
「お前を好いている身としては少し複雑なだけだ」
そう言って無造作に腕を組んだ牛島は、どことなくムスッとした表情に見える。あのクリスマスの夜以降、あまり影山のことを好きだという素振りは見せなかったというのに。これはもしかするとアレだろうか。
「……ひょっとして牛島さん、嫉妬してます?」
「そうだ」
「……」
潔い肯定が返ってきたが、階上は部で主将をやっていただけあり昔から人と交流するのが得意な人物だった。影山はその数多い友人の一人でしかなく、嫉妬するのはかなり的外れなように思われる。
「階上は良いやつなだけで俺の事とか別に好きじゃないですよ」
「そんなこと分からないだろうが」
「いや、ありえねぇッス」
「何故そう言い切れる。本人に確認したわけでも無いんだろう?」
「それはしてないですけど……した方がいいですか……?」
本人に確認するなんて出来そうにもないが、仮に聞いてみたとしても、コイツはいきなり何を言い出すんだと、おかしな目で見られて終わりそうだ。
「……やめてくれ」
いくら行動力の塊のような牛島でも流石に許容外らしく、首を横に振ると深いため息をついた。
牛島はそのまま腕を組んで、少しの沈黙の後不満げに口を開いた。
「……なぜお前は俺に動物が好きだと教えなかった」
「なんでって、そんなの今まで言う機会無かったじゃないですか」
「……そうだな、それはその通りだ」
こちらを責め立てているのかと思えば、とたんに歯切れが悪くなり何やら思案しているようだった。
影山が牛島と話すことなんて九割以上がバレーについてで、残りの一割はほぼ食事の話だ。影山はそれに不満なんて抱いたことは無かったし、牛島も当然そうだと思っていたのだが、それは単なる思い込みでしか無かったのだろうか。
「さっきから何なんですか……変ですよ牛島さん」
「……そんなことも今まで聞かなかった自分に腹が立っているだけだ。猫カフェぐらい俺がいつでも連れて行ってやるのに……」
まるで、自分が先に行きたかったのに先を越されたのが我慢ならないのだと、そう言って駄々を捏ねる子供のような言い草だった。
「……猫カフェぐらい我慢してくださいよ」
「猫カフェというより、お前が行きたがっている場所に他の男と行くのが気に食わない」
「そんなこと言われても……もう約束しちまったし……」
嫌なら先に言っておいてくれないと困る。階上は人気店を予約しておくと言っていたから、いまさら約束を破棄することも憚られるのだ。
「……そもそも俺はお前と付き合っていないのだから何も言う権利は無いんだがな」
相当困り果てた顔をしていたのだろうか。黙り込んだ影山を前に、牛島は苦々しい表情で薄く自嘲した。彼には全く似合わない表情だと思った。
「困らせて悪かった。楽しんで来るといい」
それだけ言うと、牛島は一方的に会話を打ち切って部屋を出ていってしまった。
再び一人になった影山は牛島の気持ちについて考えてみることにした。あんな顔をしてしまうほど階上と猫カフェに行くことを嫌がるのは何故なのか。
例えば牛島が友人、もとい彼曰くマブダチの天童と猫カフェに遊びに出かけたと想定してみた。しかし、そうなったとしても影山は何も感じないだろうと思う。大きな図体で猫と戯れる牛島は見てみたいと思わないでも無いが。一緒に行く相手が誰だとしてもせいぜい仲が良いなと思うぐらいだ。
やはり恋とはよくわからないと首を捻り、一時停止したままだった黒猫の動画をふたたび再生した。
*
2018年のVリーグが幕を開けた。
今年からアドラーズにはブラジルバレー界の大スターであるロメロが加入し、以前にも増して攻撃的なチームとなった。
開幕前は四連覇も盤石なのでは、という下馬評であったが、積年のライバルであるブラックジャッカルに日向が加入し、今年初めての対戦では惜しくも敗北を喫することとなった。かなり悔しいが、だからこそバレーは面白いのだ。
牛島も相手チームに日向が加わったせいなのか気迫に鬼気迫るものがあり、味方ながら恐ろしく、トスを上げていてワクワクと心が踊った。
楽しい時間を名残惜しみながら観客たちにサインをしていると、金田一と国見が下まで降りて来ているのが見えた。
今しかないのだと、影山は声を大きく張り上げた。周囲の注目を集めていたようだが、そんなことはどうでも良かった。多くは伝えられなかったし返事も無かったが、きっと伝わったはずだ。
元気に生きてさえいれば、この先いくらだってバレーができる。自然とそう思えるような、エネルギーを与えてくれるいい試合だった。
*
影山はとある報道番組に出演するため、牛島と星海と共にチームバスで某テレビ局へと移動していた。
近年人気が高まりつつある男子バレーの特集を組まれる予定らしく、ファン人気の高いアドラーズとブラックジャッカルから妖怪世代を呼び寄せての座談会だそうだ。
テレビ局に着き通された控室には既にブラックジャッカルの四人が到着しており、何とも賑やかな様相を呈していた。
全員が揃ったところで番組側から企画の説明が入る。ややこしい事はよく分からないが、視聴者から寄せられた質問を司会が読み上げるので、それについて適宜答えればいいようだ。
「まずい所は番組の判断でカットするので自由に喋て貰って大丈夫です」との事で、リハーサルのようなものも特になく、いきなり収録が始まってしまった。向かって左側から前列は影山・牛島・日向・宮、後列は星海・木兎・佐久早の順にひな壇に腰掛ける。
局の人気女子アナウンサーが取り仕切り、収録は順調に進行していった。
「──では次の質問です。『妖怪世代で一番モテるのは誰ですか?』」
五問ほど答えたところで、何やら質問の毛色が変わってきた。バレーの質問ならまだ答えられるが、そういう方面になると影山の手には負えなくなる。
「俺やな。俺が一番モテる」
「ウザ……」
「聞こえとるで臣くん」
ここぞとばかりに真っ先に名乗りを上げた宮は、後列の佐久早の厳しい呟きも意に介さずに自分のモテエピソードを披露し出した。散々ウザいウザいと茶々を入れられているが、この状況でも物怖じしない宮には純粋に関心してしまう。
「まぁ、俺か飛雄くんかってところやない?俺の方がモテるけど」
「宮さんはああ仰ってますが影山さんはどうですか?」
「えっ」
「誰が一番モテると思われます?」
突然話を振られて思わず肩が跳ねた。喋らなくても宮や星海が中心になって盛り上げてくれていたので完全に油断していた。
しかし名指しされてしまった以上は喋らないわけにはいかない。最も苦手な類の質問ではあるが、影山の頭の中には一人の人物が浮かんでいた。
「牛島さん、けっこうモテますよね?」
試合後に彼に群がる女性たちの目つきを思い出しながら、率直な意見を口にする。
すると隣に座る牛島の表情がみるみる険しいものへと変化していく。これはまずい事をしたかもしれない、と。焦ったときにはもう遅かった。
「……振っておいてよく言う」
「っ……!?」
全員の注目が牛島に集まっている中で、とんでもない言葉が聞こえてきたような気がする。空耳だと思いたかったが、一瞬で固まった場の空気がそれを完全に否定していた。
「……」
「……」
「ん……?」
「……??」
「えっ!!ウシワカ影山に告ったの!?」
疑問符が飛び交うスタジオに元気の良い木兎の声がこだました。
凍りついた空気を意にも介さない牛島が平然と木兎に答えようとした瞬間、それまで呆気に取られていた宮が勢いよく立ち上がり、一人開けて右側に座る牛島の肩を手のひらで鋭くどついたのだった。
「いや、分かりにくいねんボケが!!お姉さん困っとるやろ!真顔で言うことちゃうやん!なぁ翔陽くん!?」
「あっ、ハイ!俺もそう思います!!」
牛島と宮の間に座る日向は、突然頭上に伸びた腕に身を縮こませながらも勢いよく返事をした。どうやら冗談という事で押し切ろうとしているようだ。
「は〜やっとられんわ。こんなボケボケコンビは置いといて先進めましょ?」
宮が呆れた様子でインタビュアーに話を振れば、彼女も調子を取り戻せたようで次の質問を読み上げ始めた。恐ろしい方に話が脱線しかけたが、宮の機転により何とか軌道が元に戻ったようだ。
その後は特に影山と牛島に話題が振られることも無くスムーズに座談会は進行した。影山は最前列で固まりながら、ただ時間が過ぎるのを祈ることしか出来なかった。
控室に引っ込んでからというもの、宮の暴れっぷりはそれは凄まじかった。
「おたくら一体どうなっとん!?冷や汗かいたわ!せっかく俺が前列で置物になっとった飛雄くんにナイスパス出したのに台無しや!!」
怒り冷めやらぬ様子の宮は、なぜか大声で星海にまくし立てている。星海はその勢いに顔を顰めながらクッと顎をしゃくって問題の人物の方を指し示した。
「俺じゃなくてウシワカに直接言えって」
「ぐっ……」
星海の正論に宮は一瞬怯んだようだったが、結局問い詰めたい気持ちが先行したらしく吹っ切れた様子でズカズカと牛島へと近づいて行った。
「なぁ牛島くん、なんであんな事言うたん?たぶんカット入ると思うけど限度があるやろ」
「影山が俺を振ったくせにモテるなどと言うから、少し腹が立ってつい本音が漏れてしまった。軽率に口にしてしまったことに関しては反省している」
「アカン……っ!ホンマやった!ホンマもんの痴情の縺れやった!」
「やるなーウシワカ!!」
「やっぱ凄いね若利くんは」
頭を抱えて喚く宮と、なぜか感心している木兎と佐久早。相変わらず個性派揃いのブラックジャッカルの面々だが、いつも影山絡みだと主張の激しい男が今日はやけに静かにしているのが気になった。
何か考えこんでいるらしいオレンジ頭を眺めていると、大きな目が鋭く此方を捉えて一瞬ドキリとするも、すぐに日向の意識は牛島に向かったようだった。
「牛島さん、影山が好きなんですか?」
ようやく喋ったかと思ったらなんて事を言い出すのか。それを改めてここで確認して何の意味があるのか全く理解できない。
「あぁ、そうだ」
「い、潔い……でもなんでまた影山を……失礼かもしれないですけど、牛島さんってあんまり恋とか興味ないイメージなのに」
「……意外だ」
「何がです?」
「理由など説明せずともお前なら分かるものだと思っていた」
「……っ、いや……まぁ……何とな〜く察しはつくような気がしないでもないような……」
何故かしどろもどろになって視線を右へ左へ泳がしまくっているが、あの日向が何となくでも察しがつくことに驚いた。理由を牛島の口から直接聞いている身でもいまいちしっくり来ていないというのに。
「おい日向。それ、どういう……」
日向に直接問いただそうとすると、遮るように牛島に強く肩を掴まれた。
「……そろそろ移動の時間だ」
「ぬ」
どうやらちょうど帰りのバスの準備が出来たようで、スタッフがアドラーズのメンバーを呼びに来てくれた。聞きたい事があったがあまり待たせてはおけない。
後ろ髪を引かれながら三人で廊下に出ると、宮が控室からぬっと顔を出してきた。何事かと不審に思っていると、突然肩を掴まれ低い声で語りかけられる。
「飛雄くん……牛島くんに襲われそうになったらちゃんと逃げるんやで」
「?……牛島さんは人を襲ったりしないです」
「ほんま君そういうとこやねん……」
ごく当たり前な事を言っただけなのに、なぜか宮のはその場で項垂れてしまった。かと思えば勢いよく顔を上げ、カッと目を見開いて次の瞬間声を張り上げたのだ。
「頼むで光来くん!!飛雄くんの貞操を守ったってな!」
「……あいつはテレビ局の廊下で何てこと叫んでんだ……おい影山、さっさと帰るぞ」
「ッス」
よく分からない事を頼まれた星海は、正しく意味を理解しているのだろう。呆れた様子で影山を促して来る。
「色情魔のように言われるのは心外だな……」
前の方からボソリと牛島の呟きが聞こえてきた。先ほどから影山の知らない言葉ばかりが飛び交っていて、当事者の筈なのに置き去りにされている気分だ。
「しき……じょうま……?」
「おい……」
「すまん。今のは俺が悪かった」
なぜ星海が牛島を嗜めて、牛島がそれに素直に謝ったのか。影山には分からないことばかりだ。
帰りのバスの中で星海に意味を尋ねてみるも、「お前には早い」と一蹴されてしまった。面白くないが埒が明かないので、影山は早々に目を閉じ疲れを癒やすことに専念した。
*
短時間だが仮眠を取ったお陰で、寮に着いたころには影山の目は冴えざえとしていた。
夜もだいぶ遅い時間だが、ちょうど良い機会だと思ったので、部屋に戻ろうとする牛島の袖を掴んで引き止める。
「牛島さん、ちょっといいですか?」
「……さっきの言葉なら忘れろ」
「それはもういいです。気になりますけど……そうじゃなくて、話したい事があるんで部屋に来てもらってもいいですか……?」
影山が尋ねると、牛島は少し迷ったような素振りを見せてから頷いた。「用が済んだらすぐに帰るぞ」と言いつつ断らないあたり、やはり牛島は影山に甘いのだろう。
足早に移動して牛島を自分の部屋へと招き入れる。来客用のソファなど無いので、申し訳ないがカーペットに直接座ってもらう。暖房のスイッチを入れて、影山は自身のベッドに腰を下ろした。
一瞬牛島が渋い顔をしたように見えたがおそらく気のせいだろう。
「……牛島さんは、どうして俺が好きだって気づけたんですか?」
時間がもったいないので早速本題に入ることにした。
今日、日向が言っていて改めて思ったが、牛島は自分と同じでバレー以外のことには興味がないのだろうと、ずっとそう思っていた。
しかしそれは影山の勘違いで、牛島は恋というものがどういう感情なのか、影山には分からない事をちゃんと知っていた。
「色々考えたんですけど……恋とか愛とかってどういう感情なのか、やっぱり俺にはよく分からないんです」
考えても考えても分からないので、いったい牛島はどうやって気がついたのか、本人の口から直接聞いてみたかったのだ。
牛島は影山の漠然とした疑問にも真剣に考えを巡らせ、ゆっくりと自身の感情を確かめるように話し始めた。
「……俺もお前と似たようなものだ。お前の事は好ましいとは思っていたが、初めは自分が恋をしているとは思ってもいなかった」
「じゃあどうして……」
「来シーズンには俺もお前も海外に移籍するだろう?」
「……はい」
当然バレーの話になって面を食らう。とても大事なことだが、それが牛島の恋の自覚とどう関わっているのだろう。
「会いに行けない距離では無いが、一緒に過ごせる時間はうんと短くなる」
「はい」
「そう思ったとたんに惜しくなった」
「……なにがですか?」
「お前がだ。影山」
大きな左手が下から伸びてきて、ベッドの縁に置かれた影山の右手に掠めるように触れて離れていく。
「お前に、こうして触れたい時に触れなくなると思うと……たまらない気持ちになる」
影山に触れた感触を確かめるように、牛島はゆっくりと拳を握りこむ。そしてその拳を愛おしむように見つめる横顔に、影山の心臓は大きく脈打った。
「……恋や愛がどういったものなのか分からないと言ったな。明確な定義は俺も分からないが、……少なくとも俺は、お前のことをいつも抱きしめたいと思っている」
「いつもですか……」
「あぁ。今もそうだな」
だったら抱きしめてくれてもいいのにと、そんなことを思ってしまった。牛島に抱きしめられたら、恋とはどういう物なのか少しは掴めそうなのに。
わかっている。振られた側である牛島からは大それた事は出来ないのだと。
だったら影山から抱きしめてみるのはどうなのだろうか。
「あの……」
「なんだ」
「抱きしめてみてもいいですか?」
意を決して尋ねてみると、牛島は俯いて深く息を吐いた。左手でこめかみを揉むような仕草をした後、ゆっくりと顔を上げたときには眉間に深い皺が刻まれていた。
「影山」
「はい」
唸るような声だった。
「あまり軽々しくそういう事は言うな」
「でも……」
「歯止めがきかなくなる」
「?」
「お前に……抱きしめる以上のことをしてしまいたくなる」
「抱きしめる以上って……」
「……キスだったりセックスだったり、だ」
「せっ……?」
飛び出してきた言葉に、まず自分の耳を疑った。本当に牛島が口にしたのかと、まじまじとその厳しい顔を見つめてしまう。
「……まさか、セックスがわからないのか?」
「えっと……いや、わかります。わかりますけど、そのセックスであってるんですか?」
「お前にはセックスの概念が何種類もあるのか」
「いえ、あの……あれを、その……入れるやつですよね。……俺、男ですよ?」
「男同士でもセックスは可能だ」
「……」
詳しくは分からないが、なんとなく同性でどういう風にするのかは聞いたことがあった。中学の頃、あまり交流のなかった先輩に嬉しそうに説明された経験があるからだ。その時は俺相手にこんなことを話して何が楽しいのだろう、と適当に生返事をしていたのだが、まさか自分がそれを求められる立場になるなんて夢にも思ってはいなかった。
「言っておくが、俺はお前にそんなことを強要する気は無いからな。抱きしめる以上を問われたから例として答えただけだ。……だからそんなに警戒しなくていい」
「警戒っていうか……びっくりしました」
まさか牛島が自分とセックスをしたがっているなんて。そう考えると、今ベッドに腰掛けていることが途端に恥ずかしくなってきた。まるで牛島の視線に服の下まで透視されているようだ。
影山は俯いて頬の熱を収めようとするも、低い位置にいる牛島にはその真っ赤な顔が丸見えになっていた。
「……驚かせて悪かった。聞きたいことはそれだけか?」
「……ッス」
「では俺はもう帰るぞ」
「ッス」
ただ頷くことしか出来ない影山をじっと見つめた後、牛島はのそりと立ち上がる。
「戸締まりはきちんとしておけ」
「ッス」
「ではおやすみ影山」
「……おやすみなさい」
わざわざ部屋まで来てもらったというのに、影山は立って見送ることすら出来なかった。惜しげもなく注ぎ込まれた牛島の想いを消化しようと試みるだけでいっぱいいっぱいだったのだ。
軽く触れられただけの右手が、じんじんと痺れるような熱を持っていた。
*
普段はあまりテレビを観ない影山だが、バレーの特集となれば話は別だ。数日前に収録した座談会がオンエアされるというので、ほぼ試合のDVD視聴専用のモニターと化しているテレビを地上波に合わせて待機する。
しばらくするとスポーツコーナーの目玉として先日の座談会の様子が映し出された。
最初はバレーに対する質問がいくつかなされ、それぞれバレーとの向き合い方を答えていく。収録の時は自分が喋る内容に気を取られて他のメンバーの話をじっくり聞けなかったのだが、今こうして客観的に聞いてみると参考になることもとても多い。
そうして真剣に番組に集中していると、何問か答えた後に突然BGMがコミカルなものへと変化してした。まさかと思った次の瞬間、問題の質問が読み上げられた。
──妖怪世代で一番モテるのは誰ですか?──
影山は硬直した。まさかこの質問を使われるとは思っていなかった。全部流したらまずい事になるというのは流石の影山でも理解できた。
いや、まだ宮のトークだけが使われる可能性も否定できない。きっと大丈夫だ、と祈るように画面を見つめる。
そんな願いも虚しく、質問を司会者に振られた影山は牛島へとトスを上げてしまった。
──……振っておいてよく言う──
低いが試合中でもよく通る牛島の声を恨めしいと思う日が来るなんて。
凍りついた場の空気も、宮のやけっぱちなフォローも、全て包み隠さず放送されてしまった。
影山は居ても立ってもいられず、テレビの電源を切ってすぐさま廊下に飛び出した。すると廊下の反対側に、同じように立ち尽くしている男の姿があったのだった。
それから牛島と二人で、マズいことになったと無言で目くばせし合っていると、階段の方から昼神がやって来て揃って彼の部屋へと連行されてしまった。昼神は他のチームメイトと一緒に談話室で放送を観ていたらしい。
「……これを見て」
部屋に入るなり、前置きなくスマホを取り出した昼神に画面を見るように指示される。二人で身を乗り出して目を凝らすと、どうやら某SNSが表示されているようだった。
「アドラーズの公式アカウントなんだけど、皆さんからたくさんのリプライを頂いちゃってね」
──牛島さんが影山くんに告白したって本当ですか?──
──応援してます!──
──お二人の結婚はいつですか?──
──アドラーズは選手への教育をもっとしっかりやるべきだと思います──
「……とまぁ、放送後からこんな具合でね。面白がってるのが大半だけど、ファンの中にはほんとに困惑してる人も居るからね」
ずらりと並んだメッセージに、本当に放送されてしまった事を実感して頭が痛くなってくる。
「別に付き合うなって話じゃないんだ。今までだってウチでそういうの無かったわけじないし……ただ、公にするには君たちは世間の反響が大きすぎる。バレーに集中出来ない環境になるのは困るだろう?」
それは非常に困るのでこくこくと大きく首を縦に振る。牛島も隣で静かに頷いているようだ。
思わぬ事態で気が動転している影山は、昼神が二人付き合う前提で話をしていることにも気づかなかった。
「とにかく、あれはああいう冗談だった。人に何か聞かれたらそう言うんだぞ。バカ正直に本当のこと言わなくていいから」
「はい」
「わかりました」
とりあえずは納得したらしい二人の様子に、肩の荷が下りたように昼神は大きく息を吐いた。
*
二十一歳の誕生日を迎えた翌日。影山は階上と共に都心部にあるバーまでやって来ていた。
以前こういったお洒落なバーに来たことがないと話した事があり、それを覚えていたらしい階上が誕生日祝いにおすすめの店に連れて来てくれたのだ。
控えめにライティングされた店内には落ち着いた音楽が流れている。ドラマや映画には全然詳しくないのだが、いかにもそういった番組で出てきそうな小洒落た雰囲気の店だった。
階上が名前を伝えると、窓辺に面した二人がけのソファに案内された。まず何を飲むか聞かれたが、カクテルは全く分からないので強過ぎない甘口のものをおまかせで頼むことにした。階上は何か呪文のようなカクテルを注文していた。
いかにもお高い店で出てくるような、繊細な見た目のカクテルが影山の前に置かれた。よくこんな風に作れるなと、関心しながら階上とグラスを交わす。
「一日遅れだけど、誕生日おめでとさん」
「……さんきゅ」
「悪いな。シーズン中なのに」
「いや、祝って貰えんのうれしいし……明日は練習午後からだし平気だ」
「ならいいんだけどよ」
階上の気遣いが面映い。彼がこういう優しい人間だと知れて良かったと心から思う。
関係を改善出来た安堵感に浸りながらしばらく話をしていると、階上が突然「ちょっと聞いていいか」と改まって尋ねてきた。不審に思いながらも頷くと、一番触れられると困る質問が飛んできた。
「お前さ、ウシワカに告られたってマジ?」
「っ!!」
冷や汗をかきながらも昼神に言われたことを思い出す。こういう時のために事前に忠告してくれていたのだと思い至って、影山は内心昼神に感謝した。
「あれはああいう冗談で……」
「でもさ、ネットとかで色々写真出回ってるぞ」
「色々って……」
「なんかウシワカがすげぇ愛おしそうにお前見てたりするやつ。ほら、このまとめとか」
状況に既視感を覚えつつ階上のスマホを覗き込むと、画面をスクロールするたびにやたらと距離の近い影山と牛島の画像が次々と流れていく。
影山と話している時もそうでない時も、牛島の影山を見る目には確かに熱量のようなものがあった。
「これで冗談ですは無理があるだろ」
「……」
からかうように笑う階上に返す言葉が見つからない。完全に牛島の告白は事実だったのだと確信してしまっている。こういう時の対処法は影山は聞いていない。
「それで、もう付き合ってんの?」
「……付き合っては無ぇ」
「付き合って“は”、ねぇ……」
「……ッ」
「お前、誤魔化すの下手くそ過ぎんだろ……」
呆れたように言われてしまってバツが悪い。なんせ友達と呼べる存在が今まで無かったので、こういう事には全く慣れていないのだ。
「告られたのはマジなんだろ?何で振ったんだよ」
「……男同士だし……恋とか、俺にはよくわかんねぇし……」
「ふぅん……ウシワカに対して気持ち悪いとかはねぇんだ?」
「別にそういうのはねぇけど……」
「……お前それ満更でも無いんじゃねぇの?」
「ぬ……?」
「普通なら男に告られた時点で鳥肌もんだぞ」
「……そういうもんなのか?」
「そういうもんだよ。もし仮に……」
何か言いかけた階上が、途中で引っかかったように口をつぐんだ。スラスラと影山を問い詰めていたのに、いったい何があったのだろうか。
「どうした……?」
「いや、何でもねぇ……お、グラス空いてんじゃん。次何飲む?」
「えっと……全然わかんねぇ」
「飲みやすいのがいいならあれとかいいんじゃねぇか?あの女の人が飲んでるフルーツ入ってるやつ」
そう言って階上が横目で示す先を見ると、女性がたくさんのフルーツが入った赤いカクテルを美味しそうに味わっていた。
「……じゃあそれで──」
それからの階上の追及は容赦のないものであった。牛島との関係について根掘り葉掘り尋ねてくる階上を躱すことなど出来るはずもなく、ただただ恥ずかしさを誤魔化すように勧められるがままカクテルを煽るだけだった。
*
目を開けると見慣れない天井があった。
頭の痛みを堪えて視線を横に動かすと、近くのソファに階上が腰掛けていた。
「ここは……?」
「お前酔っ払ってまともに歩けなかったから、とりあえず近くの休めそうなホテル入った」
「そうなのか……」
そういえば、おぼろげながら階上に肩を抱かれて歩いていたような記憶がある。ほとんど自力で歩けていない状態だったと思うが、影山の体重を一人で支えて歩くのはかなり骨が折れたたはずだ。
「わるかっ……」
慌てて身を起こしてベッドから立ち上がったとたん、視界がぐにゃりと歪んでバランスが崩れてしまう。
「あぶねぇ……っ!」
「う……」
「無理すんなよ……怠いなら寝とけ」
ふらついて崩れ落ちかけたところで階上に肩を掴まれ、再びベッドへ横たえられた。
階上の顔には疲労の色が滲んでいる。加減が分からず飲みすぎてしまったせいでだいぶ迷惑をかけてしまった。どちらかというと階上の方が休息が必要なように思えてならない。
「なぁ……お前も寝ろよ」
自分の隣のスペースをぽんぽんと叩いてみる。幸いな事にこのベッドはやけに大きくて、190cm近い影山の体を悠々と受け止めている。二人横になるくらい何の問題も無いように思えた。
「なんかこのベッド、スゲェふかふかだぞ?」
ふわふわと雲の上に浮いているような感じがする。きっとかなり良いベッドなのだろう。
遠慮しているのか中々乗って来ない階上をじっと見つめると、観念したかのように隣のスペースに飛び込んで来た。
「きもちいいな」
「っ……、はあぁ……」
階上は何やらベッドに顔を埋めて大きく息を吐いている。ふかふかの感触を堪能しているのだろうか。
「お前、酔っぱらいすぎ……」
「べつにそんなに酔ってねぇし」
「酔っぱらいはだいたいそう言うんだよ……息も酒くせぇしよぉ……」
「……お前だってくせぇし」
自分だけが臭いと言われるのが心外で、階上の口元に鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いだ。案の定強いアルコールの匂いがして、影山は思った通りだったと少し得意になった。
すると鼻先に階上の手が伸びてきて、きゅっと軽く摘まれてしまった。
「んむっ」
「んとに……ムカツクぐらい綺麗な顔してんな」
「……?」
すぐに手を放した階上がしみじみと何か言っている。やはりまだ酔いが残っているようで、上手く言葉が理解できない。
「……嫌なら殴れよ」
殴る?なぜ殴る必要があるんだ?と影山が困惑していると頬から耳にかけてをおもむろに撫でられてしまう。
「ちょ……くすぐってぇよ」
「……」
耳元を擽るような感触に耐えられずに首を反らすと、今度はその晒け出された首筋を這うように指でなぞられる。
影山は肩を上げて首筋を庇おうとしたが、階上は離れるどころか影山に乗り上げるように首元に顔を埋めてくる。続けて柔らかいものが触れる感触に思わず肌が粟立った。
「んぅっ……お前、さっきからなんか変だぞ……?」
階上のいつもとは異なる様子に、急に不安が押し寄せてきた。さんざん迷惑を掛けられて怒っているのだろうか。
「……好きな奴が目の前でこんな無防備になってんのに、耐えられるわけねぇだろ」
「すき……?」
恐れていたものとは正反対の単語が聞こえてきて、確認するように小さく復唱する。
「っ、……あぁそうだよ!」
「よかった……」
「……!」
嫌われているわけでは無いのだと分かって、ふぅっと細く息を吐く。
するとどういう訳か影山の上に覆いかぶさっていた階上の顔が悲しげに歪んでしまった。
「クソッ……」
どうしてそんな辛そうな顔をするのだろうか。考えないといけない気がするのに、アルコールが邪魔をして上手く頭が回らない。
回らないながら必死に頭を働かせていると、突然聞き慣れた着信音が室内に響き渡った。サイドボードの上に置かれていた影山の携帯に、身を起こして手を伸ばした階上は、その画面に表示された名前を見て小さく舌を打った。
「……ほら、彼氏からだぞ」
差し出された携帯の画面には牛島の名が表示されていた。彼氏ではないと訂正なくてはと思ったが、今はせわしなく鳴り止まない電話に出る方が先だ。
『今何時だと思っているんだ』
地を這うような低い声が耳に飛び込んできて、一瞬でふわついた意識が覚醒した。
「っ……」
『外泊届は出されていないようだが』
「すみません……飲んでたらちょっと寝ちゃってて」
『だから程々にしておけとあれほど言っただろうが……お前、今どこに居る』
「えっと……」
影山が戸惑っていると、会話が聞こえていたらしい階上がスマホを当てているのとは逆側の耳元で囁いた。
──××区××町、二丁目の──
「××区……××町、二丁目の……」
言われるまま、ホテルの住所を口にする。
──×××ってラブホテル──
「ッ……!」
ラブホテルが何をする場所かなんて、いくら影山でも知っていた。今まで自分はそんな場所で階上と何をしていたのだろうか。頭からサッと血の気が引いていく。
『おい』
「すみませんっ、今から帰るんで!」
それだけ宣言して通話を切った。半ば反射的にスマホの電源も落としてしまった。おそらく牛島は再び掛けてくるだろうが、今彼とまともに会話出来る気がしなかったのだ。
「帰るのか?」
「……あぁ」
今度は倒れないように、慎重にベッドから立ち上がる。一瞬くらりとしたが一人で歩けないほどでは無い。
大急ぎで身支度を整えていると、ベッドに転がったままの階上に声を掛けられる。
「一日くらいいいだろ……向こうも無事だって分かってんだし。午後には着けばいいんだろ?泊まってこうぜ」
「いや、帰る」
外泊届も出していないのに朝帰りなんて失態は避けなければ。
それに、先ほどから階上の様子がどこかおかしいような気がするのだ。気怠い喋り方や剣呑な目つきは酔っているようにも見えるが、普段の彼はこんな酔い方はしない。
「そんなにウシワカが大事かよ……」
影山が着衣を整え部屋のドアまで辿り着いたとき、背後のベッドから低い呟きが聞こえた。背中をゾワゾワとしたものが駆け上がる。早くこの部屋から出なければ。そんな奇妙な焦りが影山を急かした。
「開かねぇ……」
しかしドアノブに手を掛け力を込めるも、金属のそれはピクリとも動かない。押してみても引いてみても、扉は全く開きそうにない。
「影山」
真後ろからやけにはっきりと名前を呼ばれる。背後からぬるりと手が伸びてきて、ドアノブを掴む影山の手を労るようにそっと撫でた。
「っ……」
「酔い潰れて男にホテル連れ込まれてさ、このまま何事もなく帰れると思ってる?」
「……」
「なぁ、こっち向いてくれよ」
恐る恐る振り向いた影山が目にしたのは、いつもの優しい目とはまるで違う、温度を失った仄暗い瞳だった。
「あ……」
どこかで見たことがあると思った。
そうだ、これはあのときの、あの決勝戦のときの瞳によく似ている。
気づいてしまった途端、体が石化したかのように硬直して動けなくなった。
「やっと近づけたと思ったのに、お前はすぐに遠くに行っちまう……なぁ、教えてくれよ……いったいどうやったら、お前は俺を見てくれるんだよ……」
「……ッ!」
しなだれ掛かるように階上が抱きついてきて、首筋に再び生暖かいものが触れる。間をおかずチクッとした痛みが走った。初めは何をされているか分からなかったが、歯を立てられているのだと察した瞬間、ぶわりと全身に鳥肌が立った。人肌のはずなのに、触れられたところから体温が奪われていくような感覚がした。
あの人とは違う。咄嗟に影山はそう思った。
牛島に触れられると、火傷するんじゃないかと思うぐらいにその部分が熱くなるのだ。
──乾いた音が空気を裂いた。
じんじんと痺れる右手と、頬を押さえる階上の姿。自分が彼をはたいてしまったことに気づいて、さっと頭から血の気が引いていく。
「あ……」
とんでもないことをしてしまったと狼狽する影山を尻目に、階上は黙って影山から離れると入口の横に設置してある自販機のようなもに向き直った。そして財布を取り出してカードで支払いを済ませると、ドアノブからカチャンと鍵の開く音がした。
「……こういうホテルは先に精算しないとドアが開かねぇんだ」
「……」
「……どうした。開いたぞ」
「階上、わるかっ……」
「馬鹿なのお前。謝んなよ」
言い切る前に一蹴されてしまった。
「もう行け」
「でも……」
「いいから、早く行ってくれ……!」
階上の悲痛な叫びに、気づけば足が動いていた。このままこの場を離れたら、せっかくやり直せた事が全て水の泡になってしまう。そう思っていても、影山には言われたまま出て行く事しか出来なかった。
ホテルを飛び出して、訳も分からず歩き続けた。十二月の空気は刺すように冷たく、酔いなどあっという間に冷めてしまった。
ずっとバレーに明け暮れてきた影山にとって夜の繁華街を一人で歩くなど初めての経験だ。早々に道に迷ってしまい、どこがどこだか分からないままに時間だけが過ぎて行った。
長い時間歩き続けて少し冷静を取り戻した影山は、以前牛島が言っていたことを思い出した。
──迷ったら交差点の青看板を見ろ。駅から離れていなければ大抵は駅の方向が示されている──
駅まで行ければどうにかなると、確かそう言っていたはずだ。他に宛もないので、牛島言われた通りにやってみる事にした。
大きな交差点に差し掛かるたびに、上方の青看板を確認する。来る時に階上と一緒に利用した駅名がしっかり書かれていたので、それに従ってとにかく足を進め続けた。
へとへとになってようやく駅にたどり着いた頃には、とうに日付を跨いでいた。電車の運行は全て終了してしまっている。
こうなってしまってはタクシーで帰るしかないだろう。寮まではかなり距離があるが致し方ない。最初からそうすれば良かったのだと、今になって気づいて自分に呆れてくる。
タクシー乗り場はどこだろうかと、ふらふらと歩き始めた時だった。
がっしりとした長身の男が、大股で此方に近付いてくる。一瞬警戒したものの、近づくにつれよくよく見知った顔がはっきりとしてきた。
「影山!」
信じられないことに、牛島若利が確かにそこに居た。大声で呼び掛けてくる顔はいつもにも増して険しいものだった。
思わぬ人と遭遇した驚きと、その人の今にも強烈なスパイクでも叩き込んできそうな様子に動けないでいると、正面までやって来た牛島にいきなりぐっと腕を引かれて足元がよろめいた。声を上げる前に、がっしりとした腕で体を支えるように抱きすくめられていた。
「う、しじまさ……」
「……無事で良かった」
ぎゅうぎゅうと強い力で抱きしめられながら、耳元で吐息混じりに囁かれる。心の底からホッとような声色に、一気に体から力が抜け落ちていく。人の温もりがこんなにも安心できるものだったなんて今まで知らなかった。
「……帰るぞ。近くに車を停めている」
「……ッス」
牛島の体が離れていくのを何となく名残惜しく思っていると、大きな右手が影山の左手を掴んで、そのまま駐車場へと向かって歩き始めた。
はたと周りを見渡せば、数名の通行人が足を止めて此方の様子を伺っていた。中には携帯を構えて撮影しているような人まで見受けられる。いつから見られていたかは知らないが、ひょっとするとこれはかなり拙いのではないのだろうか。
「う、牛島さん、人が見てます……」
「うるさい」
「でも……」
妙な噂が立ったらチームに迷惑をかけるだとか、昼神にまた叱られるだとか、色々な難しいこと考えて行動しなければいけなかったはずなのに。
「……俺はもう我慢しない」
そう呟いた牛島は重ねた手にいっそう力を込めた。痛いほどの力加減だったが、影山は何も言えなかった。今は難しいことは全て忘れて、牛島の温もりだけを感じていたかった。
*
新しく入社した女性社員が影山のファンだったことが切っ掛けだった。
まるで推しているアイドルを語るような熱の入れ具合に、近年の影山人気の過熱ぶりを改めて実感したものだ。
影山とは同じ中学出身で一緒にバレーをしていたことがあるのだと。そう言えば盛り上がる事は分かりきっていたのに、階上はそれを伝えることが出来なかった。
バレー部での活動は充実していたが、決して綺麗な思い出ばかりではなかったからだ。
自分が主将になって迎えた中総体の決勝戦で、影山のトスをレギュラー全員でわざと無視したことがあった。
影山の才能は当時から抜きん出たものだったが、それ故に周りに無茶な要求をする事が多かった。影山に対する不満が積み重なったものが、よりにもよって試合中、それも中総体の決勝戦という大舞台で爆発してしまった。
集団心理というのは恐ろしいもので、あの時は自分達の行いが正しいのだと疑いもしていなかった。
階上が進学した実業高校には男子バレー部が無かったので、中学を卒業してしまってからは大好きなバレーに触れる時間は格段に減ってしまった。当然、影山の事なんて考えることもなかった。影山は気にしてなんかいない筈だと勝手に結論づけて、記憶の奥底に仕舞い込んでいた。
後輩から影山の名を聞いてからというもの、中学時代の事を色々と思い出すようになった。あの頃の自分はあんな風にしか出来なかったが、今の自分ならもう少し影山に歩み寄る事だって出来たかもしれない。
そんな後悔のようなものが次第に深まってきて、今の影山はどうしているのだろうと、画面越しではなく一目実物を観てみたいと思い、試合会場へと足を運ぶことにしたのだ。
バレーをする影山は、ただ美しかった。
中学の頃と同じように、ひたすらに、ひたむきに、バレーと向き合う横顔があった。『好き』を研ぎ澄ませるとこういう風になるのかと、ある種の感動のようなものを覚えた。
見て見ぬふりをしていた罪悪感が、一気に膨れ上がって胸の中で渦を巻いた。
謝らなくては、と。その一心で試合後ファンサービスの列に並んだ。
影山は自分のことなどきっと覚えていないと思っていたのに、しっかりと階上の名前を呼んでくれた。覚えていて貰えたのは素直に嬉しかったが、それと同時に恐ろしくなった。影山はきっとあの試合のこともずっと覚えていたのだろう。
だから影山の方から話をしたいと呼び出された時は気が気で無かった。とにかく全力で謝るしかないと頭を下げれば、あの経験を糧に成長出来たのだから気にしなくていいと、影山は実に健気な事を言った。
影山の不器用さや一生懸命さに気づいてしまってからはあっという間だった。転がり落ちるように恋に落ちていた。
あんな事をしでかしておいて今さら虫が良すぎるとは思ったが、傷付けた分これからうんと優しくしよう。そう心に誓っていたはずなのに。
自分がこれほどまでに嫉妬深い人間だとは思っていなかった。影山に向けるには重苦しすぎる感情を突きつけて、無垢な影山をまた傷つけてしまった。
お互いの為にももう会わない方が良いのだろう、と。そう思うのに寝ても冷めても考えるのは影山の事ばかりだった。
今年もアドラーズがファイナルステージに進出したというニュースを自室でぼうっと観ていたときだった。
突然見知らぬ番号から電話が掛かってきたのだ。仕事柄知らない人間から掛かって来ることも無いわけではないが、既に夜も遅い時間帯でいくらなんでも非常識だ。
「もしもし……」
何者かと訝しみながら通話ボタンを押す。おかしな業者であれば着信拒否してやれば問題ない。
『階上か?』
「……どちら様ですか?」
『失礼。俺は牛島だ。この間はうちの影山が世話になったな』
不躾に名前を呼ばれてた苛立ちを隠さずに尋ねれば、思ってもみない名前が出てきて呆気にとられた。
一瞬なぜ牛島がとは思ったが、理由は考えるまでも無い。影山がどこまで喋ったのかは分からないが、わざわざ釘を刺しに電話してきたのだろう。
ニュースを観ていたと悟られるのが何となく嫌で、テレビの電源を切りながら探りを入れる。
「……なんで牛島さんが俺の連絡先……影山に聞いたんですか?」
『いや、岩泉に聞いた』
再び思ってもない名前が出てきて困惑が深まってしまった。
中学の頃の岩泉は及川と共に打倒牛島に燃えていたので、牛島と交流なんてするイメージが全く湧かなかったのだ。
『影山には聞かれたくない話だったからな』
「……」
『単刀直入に言う。もう影山と関わらないでくれ』
想像どおりの台詞が飛んできた。こちらの意思なんて歯牙にもかけない、有無を言わさぬ態度に思わず反発してしまう。
「……なんでですか。牛島さんにそんな事に言われる筋合いは全く無いと思いますけど」
『筋ならある。俺は影山が好きだ。だからお前には諦めて貰いたい』
「影山と付き合ってないんですよね?牛島さんにそんなこと言える権利無いでしょう?」
もう、半分やけくそだった。最後に影山と会った時はまだ付き合ってはいなかったが、二人が結ばれるのも時間の問題のように思われた。
そうであって欲しいという願望を込めて、階上はまだ付き合っていない可能性に賭けた。
『……俺は影山は幸せになるべきだと思っている』
「俺もそう思いますけど……つまり自分なら影山を幸せに出来るってことですか?」
まだ二人は出来上がってはいないようだが、自分なら影山を幸せに出来ると言わんばかりの物言いに感情が逆撫でられるようだった。
『少なくとも、バレーを愛せない者が影山を幸せに出来るとは思えない』
「っ、俺だってバレー好きです……!そりゃあアンタみたいに全部バレーに捧げてる人から見たら大した事ないように思えるのかもしれないですけど……」
『中総体の決勝戦』
牛島に対する憤りと反論が、その言葉一つでサッと影を潜めていく。
『それほどバレーを好きだというなら、何故あの時お前はボールを追わなかったんだ』
見ていたのかと、問うより前にある光景が視界を過ぎった。
ふと見上げたスタンドの端。興味を無くしたようにその場から去って行く大きな背中。
あの時牛島に見放されたのは影山だったと、ずっとそう思い込んでいた。
『もう影山に近づくな』
電話越しの牛島が、背中を向けて去って行く姿が見えたような気がした。
通話がプツリと切られて、部屋は静寂に包まれた。階上は再びテレビを点けることもその場から動くことも出来ず、ただじっと虚空を見つめていた。
*
「──というようなことを伝えたな」
向かいに座る牛島が平然と口にした内容に、星海は階上という男への同情を禁じ得なかった。厄介なことに首を突っ込んでしまったと思わないでも無いが、こうなることは半ば覚悟していた。
というのも星海が彼らのプライベートを根掘り葉掘り聞き出す事態になったのは、アドラーズ主将からたっての要望があったからだ。
先日、影山が門限を過ぎても寮に帰って来ないという事件があった。一般的な所属選手ならば規則違反とはいえども大した問題にはならないのだが、対象が影山なると話は変わってくる。
状況を聞いた牛島が影山に電話をすると、だいたいの住所を聞いたところで一方的に通話を切られてしまったらしい。それからの牛島は恐ろしいもので、試合中のような圧を放ちながら瞬く間に寮を飛び出して行ってしまったのだ。
あっけに取られていた星海は、昼神の「大丈夫かなぁ……」という切迫した呟きに、静かに同意するほかなかった。
翌朝には星海たちの憂いは現実のものになった。インターネットには路上で牛島が影山を抱きしめ、強引に手を引いて歩いて行く様子が画像、さらには動画でまでアップロードされていた。盗撮だと嗜めるファンも多かったが、消されても次から次へと新しく上げ直されて拡散していく様子には恐怖すら覚えた。背景のイルミネーションも相まって「映画のようだ」と概ね好意的な反応だったのがせめてもの救いだ。
その日、星海は朝イチで昼神に呼び出され、牛島に探りを入れろとの指令を出された。「なぜ自分が」と反射的に尋ねたところ、
──今若利と話したら流石にキレちゃいそうでね……いや冗談だよ、ハハハ……──
なんて、全然笑っていない目で言われてしまった身にもなってほしいと心から思う。
とにかく上から直々にそういう指令があったので、自身の好奇心も手伝って牛島に色々と質問してみたところ、予想以上に複雑な人間関係の一端を垣間見せられてしまったわけである。
以前影山から中学時代にトスを無視された経験談を聞いた事があるのだが、その相手が今になって随分影山との距離を縮めていたらしい。
牛島が焦る気持ちも理解出来るのだが、手心の無さには此方まで肝が冷えてしまう。
「なんつうか、結構エグい事すんだな」
「……そうかもしれないな」
「そいつウチの試合観に来てくれてたんだろ?珍しいじゃん。大事な大事なお客様にお前がそんな態度とるなんて。もしこれでソイツが来なくなったら影山気にするんじゃねぇの?」
牛島が真実を伝えたとしても伝えなかったとしても、どちらにせよ影山は自分のせいで試合に来なくなったのだと思うはずだ。プレーの大胆さからは想像がつかないが、影山は意外と人の心の機微に臆病なところがある。おそらく中学での事件がずっと尾を引いているのだろう。
初めは階上と交流する事を咎めなかったあたり、牛島も影山の過去を乗り越えようとする姿勢を尊重しているものだと思っていたのだが。
「……純粋に友人として、ファンとして影山と接するなら俺も歓迎するが、あの男はそうではないからな……手加減などしていられない」
「へぇ……」
「……なんだ」
「いや、感心してんだよ。あのウシワカも嫉妬したりするんだなって」
「……大人げないだろうか」
大人げないかそうでないかと問われれば、間違いなく前者になるのだろう。恋敵に対する容赦のなさもそうだが、特に路上で衝動的にハグしてしまうあたりが。
だがある意味それも牛島らしいと思えるぐらいには、星海は牛島の人となりを知っていたし好ましいと思っていた。
「まぁ、お前はそれでいいんじゃねぇの?」
人目も憚らず、思わず抱きしめてしまうような。それほど愛せる人間に出会えることは、きっと滅多にない事なのだろう。ならばそんな恋を近くで見守ることだって、もちろん滅多に無いことなのだ。こんなに面白そうなこと、応援しない方が絶対に損をする。
二人の恋の発展に思いを馳せていると、ふとそれを苦い顔で受け止めそうな人物の事を思い出した。
「ところで福郎さんめっちゃキレてたぜ」
「……本当か?」
「あぁ」
「……それはマズイな。菓子折りでも持って行った方がいいだろうか」
それは恐らく逆効果だろう。気にするべき所はそこでは無いのだと、口元だけで笑いながらキレる様子が容易に想像出来てしまう。
「……やめといた方がいいと思う」
「そうか」
「今度の試合で挽回するしかねぇな」
「……努力しよう」
これから外野に色々言われる事もあるだろうが、雑音など実力で黙らせてしまえばいいのだ。バレーでも恋でも、この男に妥協は似合わない。
「頼りにしてるぜ、エース殿」
景気づけに逞しい背中を叩けば、頼れる主砲は力強く頷いて表情を引き締めたのだった。
*
ファイナルステージの二戦目はアドラーズのホームで行われた。
なるべく余計なことは考えずにプレイするよう心掛けていたが、影山の目はタイムアウト中に客席を映すたびに短髪の男の姿を探していた。
あの日以来、階上とは連絡を取れていない。思い切って一度だけ電話を掛けてみたが、繋がりはするものの出てくれることも折り返してくれることも無かった。
とうとう愛想を尽かされたのだろうかと、沈んで行きそうな心を押し留めるように丁寧にボールを繋いでいく。チームメイトたちの積極的な攻撃のお陰もあり、フルセットに及ぶ熱戦をなんとか制することが出来た。
試合後、影山はギリギリまで体育館に残ったが、結局階上の姿を見つけることは出来なかった。
心持ち肩を落としながら更衣室に戻ると、着替えを済ませた牛島が一人静かに佇んでいた。他のメンバーはみんな早々に出ていってしまったようだ。何かあったのかと尋ねるも、牛島は黙って首を横に振るだけだった。
なんとなく、牛島は自分の話を聞くために残ってくれていたのではないかと、そんな風に影山は思えた。もしかしたら単なる勘違いで、ただ影山自身が話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない。
どちらにせよ、牛島が何も言わないのを良いことに、影山は心のぐちゃぐちゃをぽつりぽつりと零し始めた。
「──俺、また間違えたかもしれないです」
あの時の階上の何かに失望したような、仄暗い瞳。もう向けられることは無いものだと思っていたが、それは影山の脳天気な勘違いだったようだ。
「せっかく色々話せるようになったのに……あいつ、もう試合来てくんねぇのかな……」
同じような過ちをいったい何回繰り返せば気が済むのだろう。
わざわざ会場まで観に来てくれたというのに、自分のせいでバレーから遠ざかってしまったとしたら。そんなことを考えると、影山は自分自身に失望して俯いてしまう。
「影山」
「……はい」
静かな、だが強い口調で語りかけられる。ゆっくりと顔を上げれば、王者の眼が真っ直ぐに影山を捉えていた。
「『また間違えた』と言ったな。『また』とは何だ?お前は自分のしてきた事が間違いだとでも思っているのか」
「……牛島さんも見てましたよね。中総体のとき」
「あぁ」
「それで……あんただって俺を要らないって言ってたでしょう」
改めて牛島とあの時の話をするのは初めてだったが、「要らない」と言ってしまえるぐらいに影山は間違っていた、という事ではないのだろうか。
「……白鳥沢にはな。あの頃の俺は、強さには多様性があるということをまだよく理解していなかった。お前たちと……烏野と戦った時から、そういったことを考えるようになった」
「……」
「今、お前は日本の司令塔で、皆がお前のトスを必要としている。それが事実だ。俺の言い分に何か間違っていることはあるか?」
異論は認めないと言わんばかりの牛島の様子に、影山は毒気を抜かれたように呆けてしまった。
影山にとって都合の良い言葉ばかりが聞こえてきて、夢を見ているのではないかとすら思えるぐらいだった。
「お前が正しい努力をしてきたことは、今のお前を見ていればよくわかる」
そう言って牛島は目を細めた。まるで大事な宝物を見るような、そんな優しい表情だった。
とたんに影山は鼻の奥がツンと熱くなって、牛島の顔がまともに見られなくなった。必死に表情筋を正しい位置に戻そうとしていると、牛島が「どうしたんだ」とぐにゃぐにゃの顔を覗き込んでくる。
「……俺っ、たぶん今、スゲェ変な顔してるんで見ないでください」
「……あぁ、ではそうしよう」
フッと小さな呼気の後、逞しい腕が伸びてきて影山の体をかき抱いた。
牛島の暖かさに包まれたとき、もう駄目だと悟ってしまった。
自分はこの人のことを、どうしようもなく好きになってしまったのだ──
胸の裡から溢れ出す想いのままに、影山は大きな背中に腕を回し、逞しい身体をめいっぱいに抱きしめていた。