001_立春(2月4日頃)「福は内」
軽快な声とともに、風見のこめかみ辺りに何かが当たった。「福は内」ということは豆が投げられたものと思われたが、その割にはカサついた人工的な音がした。前方を気にかけながら左側を一瞥すると、やたら上機嫌な上司が目に映った。
「何ですかいったい」
信号が青になったことを確認してアクセルを踏む。
「昨日は節分だっただろ」
それだけで先刻の説明になったと思っているのか、降谷は以降黙ってしまった。節分だったから何なのだ、と風見は内心思う。赤信号で停車した隙に投げつけられたものを確認すると、正四面体をした透明のフィルムがシートベルトのバックル付近に転がっていた。「福豆」という文字とかわいらしい絵柄の赤鬼がプリントされたその中には、炒った豆が十数粒入っているようだった。
「ポアロで配った余りですか」
「ああ」
降谷の潜入先である喫茶店の名前を挙げたものの、喫茶と福豆にはあまり繋がりがないように思える。風見の心中を察したのか、降谷は「飲み物を注文すると豆菓子が出てくるチェーン店があるだろう」と続けた。
「まあ、あれを真似るつもりはないんだが。ポアロで節分に合わせた限定メニューでも作れないかって話になって」
「二月なら節分よりもバレンタインに合わせた方がよいのでは」
思わず上司の言葉をさえぎってしまったが、降谷も「だよな」と苦笑した。
「僕もそう思ったんだけど、なぜか梓さんがやる気になってしまって」
笑いをこらえながら、降谷は語り続ける。風見も何度かポアロの女性店員を見かけたことがあるが――共に草野球をした仲でもあるが――確かに独特の雰囲気をもっている。降谷が時折話す様子からも、彼女は突拍子のないことをするイメージがある。
「ほら、節分の時期って柊の葉とイワシの頭を玄関先に飾るだろ。そこからイワシのパイを作ろうって言いだしたんだ。でも原価率は高いし仕込みも時間かかるしでなんとか諦めてもらおうってなって、」
「それで豆を配ることになったんですか」
「そう。あのチェーン店を引き合いに出して説得したんだ」
隣でくつくつと笑っている降谷を横目に、風見は車を走らせる。以前は上司が何の屈託もなく笑う様子など想像もできなかったが、いつの頃からか風見の前でも笑顔を見せるようになっていた。ただ、風見には降谷が笑ったからといって一緒に笑ってよいものか、判断がつかない。「まあ、イワシよりはそのあとのチョコレートの方が魅力的ですしね」などと無難な返しをするほかなかった。
降谷は機嫌よく相槌を打ち、それからしばらくは二人とも無言になった。
次に降谷が口を開いたときには波が収まったのか、彼の声の調子はいつもの落ち着いたものに戻っていた。
「バレンタインはバレンタインで限定メニューを提供するんだけど」
転がったままになっていた福豆を拾い上げるためか、降谷の指が風見の太もも辺りに触れた。
「チョコレートの方をあげればよかったかな」
ダッシュボードにゆるい画風の赤鬼がプリントされた四面体が置かれる。エンジンの振動で、豆がからからと小さく音を立てている。そういえば以前、食事をチョコレートだけで済ませて叱られたことがあったと風見は思い出した。あれからしばらくチョコレートを食べていない。
「豆の方が健康的なので……、豆でいいです」
なんとも微妙な返しだが、降谷の機嫌は損ねなかったようだった。「じゃあ」と言って降谷はダッシュボードに福豆の袋を二つ増やした。
「君の年齢だと、一袋じゃ足りないだろう?」
ちょうどハンドルを切ったタイミングだったため、風見が降谷の表情を見ることはできなかったが、いたずらっぽい笑みを浮かべているのだろうと想像ができた。
「ありがとうございます」
一応礼を言って、路肩に車を停める。
「着きましたよ」
雑談しているうちに、上司を送り届ける予定の場所に到着していた。
降谷はコートを手に取ると、助手席のドアを開ける。風が強い。
「二時間後に拾ってくれ。場所は分かるな」
先ほどとは打って変わって、いつもの厳しい上司の顔になった降谷が言う。返事をしながら、風見は慌てて降谷にマフラーを放り投げた。
「使ってください。木枯らしも吹いていますし……」
一瞬きょとんとした表情を見せた上司は、邪魔になるからと丁重に断ると、「木枯らしじゃなくて春一番だ」とお得意の知識を披露して助手席のドアを閉めた。
風見は風に揺れる金髪を数秒眺めて、アクセルを踏み込んだ。ダッシュボードから、赤鬼が風見を見ていた。