おやすみ、ストレイシープ お日さまが沈んで夜が更けてくると、お月様とお星様がきらきら輝き出します。
こんなに月と星が綺麗な夜は、きっとよく眠れるはず。けれど今夜は、寝たいはずなのになかなか眠れない子が居たのでした。
次の日は大事な大事な用事がありました。自分が入っているバンドのライブがあるのです。けれどそのことを考えれば考えるほど頭の中はぐるぐるして、なかなか眠気が来ません。眠れぬ子は、ますます焦ってしまいます。
「やあ、こんばんは。眠れないのかい?」
しっかり閉めていた筈の窓から声がして、眠れぬ子はびっくりして窓を見ました。風でなびくカーテンに、人影が写っています。
「警戒しないでおくれ、子猫ちゃん。……いや、今は眠れない迷える“仔羊ちゃん”とでも言うべきかな?」
カーテンの向こうから現れたのは、シルクハット姿にアメジストの杖を持った魔法使いでした。魔法使いは、モノクルの中のルビーの瞳を煌めかせながら微笑みました。
「私かい? 名乗るほどでも無いが……敢えて名乗るならブルーシープ、とでも言っておこうか。眠れぬ君へ心地良い眠りを持ってきたのさ」
眠れぬ子が首を傾げます。
ブルーシープと名乗る魔法使いのシルクハットの下からは、淡いパープルとピンク色の薔薇と羊の角が見えます。
まだ半信半疑な様子の眠れぬ子……改め仔羊がベッドの上で布団をぎゅっと握り締めます。
それを見た魔法使いは、杖を一振り。すると、暖かな火が小さく灯り、仄かに部屋の中を照らします。同時に微かに香ってくるのは、薔薇の香りでした。
「焦らなくてもいいんだ。夜は長い。こうして、体の力を抜いてゆっくりするのも儚い夜の過ごし方だよ」
魔法使いに促されるまま、仔羊はふわりと香る薔薇に身を任せてみます。いい匂いがして、暖かくて、さっきまで焦ってぐるぐるしていた気持ちが小さくなっていくようでした。
魔法使いがまた杖を振ります。部屋の本棚から、一冊の本がふよふよと漂ってきました。魔法使いがその本を手に取ります。
「これが君の好きな絵本なんだね」
仔羊は頷きました。
魔法使いがまた杖を振ります。一振り、もう一振り。すると床に魔方陣が現れて、パープルの光を放ちます。その輝きと共に現れたのは、一人の女の子でした。
ヘッドドレスには魔法使いと同じ淡いパープルとピンク色の薔薇がアクセントとして飾られ、更に、やっぱり同じ羊の角が黒髪の中から覗いていました。
女の子はブルーグレーの瞳を眠そうに瞬かせながら、欠伸をしました。
「なぁに、薫さん」
「お仕事だよ、美咲。この眠れぬ仔羊ちゃんに、君の声を聞かせてあげてくれるかい?」
女の子は、魔法使いのお手伝いをする使い魔でした。使い魔の女の子は魔法使いから絵本を受け取ると、仔羊のベッド脇にゆっくりと腰掛けました。
「じゃあ……ちゃんと聞いててね。ええっと、あるところに———、」
それは、とても心地の良い声でした。
静かに物語を紡ぐ声は、雲一つない夜空みたいに透き通っていて、お月様に寄り添うお星様のように控えめで、夜空に融けてしまいそうで。
先程まで全然眠くなかった筈の仔羊の瞼も、次第に落ちて。使い魔の女の子の声に誘われるように、すとんと眠りに落ちるのでした。
◆
「お疲れ様、美咲。今日もありがとう」
「別に、あたしはなんも……」
使い魔の女の子は首を振ります。実際、心を安らげて眠りへと誘っているのは魔法使いの魔法であって、使い魔の女の子はそのお手伝いをしているに過ぎません。それでも魔法使いは、頭を撫でて褒めてくれるのでした。
さて、その日のお仕事は終わりましたが、夜はまだまだ長いのです。ここから朝までは、魔法使いと使い魔の女の子。二人だけの夜の時間。
魔法使いが椅子に座って名前を呼べば、使い魔の女の子がその膝の上にぽすんと座ります。その頭を優しく撫でてから、落ちないように腰を抱き寄せます。そして、反対の手で杖を一振り。
現れたのはティーポットとカップ。ふよふよと宙に漂うティーポットが、カップの中を琥珀色の液体で満たします。
魔法使いは更に杖を振ります。熱々の紅茶に注がれるのは、熱いミルクとたっぷりのお砂糖。甘く仕上がったミルクティーからは、アールグレイの香り。
中身を零さないようにそうっと浮きながら、カップは使い魔の女の子の両手に収まりました。舌を火傷しないようにふうふうと息を吹いてから、一口。甘くて、温かくて、お腹も心もいっぱいに満たしてくれるしあわせな味がしました。
「美味しいかい?」
使い魔の女の子はカップに口を付けながら頷きます。
ほんとうはミルクもお砂糖も入れないコーヒーの方が好きでしたが、お仕事の後、真夜中に魔法使いが淹れてくれるこの甘い甘いミルクティーも大好きでした。
きらきらに輝くお月様とお星様を見ながらゆっくりとお茶を飲む時間が、魔法使いも使い魔の女の子も大好きで、大切でした。
「美咲の読み聞かせは本当に儚いね。今度は私にも読み聞かせておくれ」
「えー……、」
おしゃべりしながらお茶を飲んでいれば、あっという間に空は明るくなり始めます。
お日様が顔を出せば、またお月様が煌めく時間まで使い魔の女の子はおやすみです。
「それはまた今度にしてさ……。今日は、薫さんがあたしに読んで」
それは、使い魔の女の子にしては珍しいお願いでした。魔法使いはちょっぴりびっくりした顔をした後、優しく微笑んで本を開きます。
仔羊の誰も知らない、使い魔の女の子だけが知っている、物語を紡ぐ魔法使いの声。
やがてお日様が昇る準備を始めた頃。
魔法使いの膝の上では、使い魔の女の子が身体をもたれさせてぐっすりと眠っています。魔法使いはその頭を優しく撫でてから、杖を振って使い魔のおうちに帰すのでした。
ばいばい、おやすみ。またお月様が煌めいたら会いましょう。