38℃に融ける 部屋に鳴り響くアラームの音で目を覚ます。重い瞼をなんとか開けながら隣を見るが、美咲の姿は無かった。同棲を始める時に二人で買った少し大きめのベッドが、今は途方もなく広く感じる。寝る前に根を詰め過ぎないよう声は掛けたのだが、結局彼女は徹夜したようだ。
フリーで作曲の仕事をしている美咲は、昨日はろくに食事も摂らず作業部屋に閉じ籠もっていた。締切が迫っている訳では無いのだが、本人曰く調子が出て来たので今手を止めたくは無い。とのことらしい。
ベッドから降りて着替えてから、美咲の作業部屋のドアをノックする。返事は無い。
「美咲、おはよう。調子はどうだい? 今から朝食を作るから、そしたら一緒に食べよう」
数秒後、呻き声に近い返事のようなものが聞こえて来た。一応の返事があったことに少しだけ安堵して、また呼びに来るよ、と一言だけ添えてキッチンへと向かう。
美咲は徹夜明けなので、きっと重たいものは食べられないだろう。たださえ昨日の夜もまともに食べていないのだから。
今日の予定は午後からバンド練習があるのみだ。時間はあるからいつもより少しだけ、手の込んだ朝食を作ってあげよう。朝は冷え込むし、温かいスープでも作ろうか。そう決めたところで戸棚にトマト缶があったのを思い出した。
人参、じゃがいも、玉ねぎをそれぞれ食べやすいように細かく賽の目に切っていく。キャベツは一口大、ウインナーは半分に。満腹感を持たせる為にマカロニでも入れようかと思ったが、生憎在庫を切らしていた。
それらを鍋で炒めてから、水を加える。暫くしてからトマト缶と、調味料を投入して味を整える。ぐつぐつと煮える鍋の音に、トマトの甘酸っぱい香りが部屋の中を満たす。我ながら出来は上々だ。
そろそろ美咲を呼んで来ようか。そう思った束の間、のそのそと重たい足音が聞こえて来る。加熱を中断して振り向けば、目の下に隈を作った美咲が此方にフラフラと近寄ってきた。
「おはよう、美咲。曲は仕上がったのかい?」
「……うん」
それだけ返事をすると、美咲は私に後ろから抱きついてきた。ぎゅっと私の身体を抱き寄せ、背中に顔を埋めて来る。儚い。徹夜明けのお姫様は、どうも甘えん坊のようだ。
とは言えもう少しスープは煮込みたいし、食器も今から用意しなければいけないので、名残惜しいが美咲には離れて貰わなければいけない。
「お腹が空いただろう。すぐに用意するから、待っていてくれないかい?」
「…………」
返事が無い。相当無理をしてしまったようだ。あまり調子が悪そうなら午後の練習は休むように説得してみようか。……難しそうだが。
どう説得するか考えていると、私にしがみついたままの美咲の身体が沈み込むように徐々にずるずると下がる。
「美咲?」
呼び掛けても返事は無い。美咲は蹲るようにして、今は私の足にしがみつく体勢に変わってしまった。……疲れているにしても、どうも様子がおかしい。
一言断ってからその腕を取れば、簡単に身体は剥がせた。そのまま後ろに倒れそうになったので慌てて支える。眉間に皺を寄せて固く目を閉じた美咲が、ぐったりと体重を預けてきた。額に手を当ててみる。熱い。徹夜が祟ってしまったのか、それとも体調が元々良くなかったのか。
心の中で舌打ちをする。もっと細かく様子を見てあげれば良かった。無理矢理でもちゃんと食事を摂らせて、寝かせてあげるべきだった。後悔は止まらないが、今はこの美咲をなんとかすることが最優先だ。
そっと身体を抱き上げて、寝室へ連れて行く。一旦美咲をベッドへ座らせてから、タオルとお湯、それから着替えを持って戻る。
「美咲、まずは着替えよう。起きれるかい」
「自分でやるから、いい……」
そうは言うものの目は虚ろで焦点は合ってないし、着替えを受け取ろうとした手は目測を間違えて私の服を掴む。とてもじゃないが、自力では無理そうだ。
「大丈夫だよ。私に任せて」
微笑んで、部屋着代わりにしているパーカーに手を掛けて――その手を止める。首を振る。何を緊張してしまっているんだ。これは着替えの為だろう。
自分に言い聞かせながら、パーカーを脱がせる。汗ばんだ白い肌を視界に捉えて、鼓動が高鳴る。また手が止まってしまう。目を逸らせない。
「あの、かおるさん……。やるなら早くやって……」
吐息混じりの美咲の言葉に、びくりと肩が跳ねた。急かすような、煽るような台詞。心臓の音が煩い。此処がベッドの上ということもあって、最近ご無沙汰だったこともあって、自然と思考は“そちら”へと偏る。
「……その、寒いんで」
付け足された言葉に我に帰る。邪な気持ちを否定するようにまた首を振った。美咲は具合が悪いんだ。頭の中で何度も反芻して、お湯で濡らしたタオルで身体を拭き始める。
「ん、」
時折漏らす声を聞き流しながら、機械のように黙々と身体を拭いていく。無抵抗の美咲は座っているのも辛くなってきたようで、徐々に私に身体を預け始めた。直接密着してくる肌の感触が柔らかくて、またそちらへ意識が行ってしまう。
眼前に広がる首筋に目が行く。理性と目的を忘れて好奇心のまま、舌を這わした。
「ぁ、かおる、さ、……」
美咲の手が私の服の裾を弱々しく掴んだ。そこで私は、はっとして今の自分の行動に気付く。言い訳の言葉を探していたら、
「……今は、それむり」
「…………すまない」
零された言葉に、熱が移ってしまったかのように顔が熱くなる。そうだ、今は看病に専念するべきだ。再び機械のように手を動かして、服を着せてベッドに寝かせる。この後はスープの続きを作って食べてもらおう。食欲はあるだろうか。いや、バンド練習を休む旨を連絡するのが先か。
思考を巡らせながら彼女の額に貼り付いた髪を退けると、薄く目を開けて此方を見上げてきた。熱で潤む、ブルーグレーの瞳。
その瞳に吸い込まれるように、唇にキスを落とした。先程のような本能に任せた行為ではなく、早く治りますようにという願いを込めて。
「……うつりますよ。ばかじゃないの」
小さな声で悪態を吐いた美咲が、そっぽを向くように布団を頭に被った。