桜色に染まれ 白馬に跨り道を行けば、此方に振り向いた子猫ちゃんたちが桜色に頬を染める。
新年度になり、桜並木には新しい風と共に花弁が舞う。私と同じ制服を着た学生たちは、皆浮き足立っているように見えた。それは、今日から進級し新しい生活が始まるから……というだけではないのだろう。
耳を傾ければ、聞こえてくる弾んだ声。近頃の学校内の話題は、とある噂で持ちきりだ。
伝説の桜の樹。
10年に一度だけ満開に咲き誇る、中庭の桜の樹。その樹の下で大切な人と一緒に幸せを願うと、その願いは必ず叶うという。
素晴らしく儚い話だと思う。ロマンがあり、夢がある。その話に花を咲かせ盛り上がる子猫ちゃんたちも可愛らしい。大切な人と共に桜を見れることだけでも素敵な時間だ。きっと、願いも叶うことだろう。
「そりゃ、信じるわけないでしょ。桜が願いを叶えてくれるなんて、そんな夢みたいな話。現実にはあり得ないって」
ただ、そんなはしゃぐ声の中、一つだけそんな声が聞こえた。
声の主を見てみれば、そこには黒いショートヘアにピンク色のピンが留められている可愛らしい少女だった。眉を下げて呆れた表情をしている彼女は、笑顔と期待で溢れたこの登校風景の中でも異質な存在に思えた。
彼女のことは見たことがある。確かテニス部の部員のはずだ。この間、試合に出ていたのを見たことがある。
「……ていうか、そんな簡単に願いが叶うなら、誰も悩まなくない?」
続けられるのは冷め切った、渇いた声。期待と希望に満ちた桜並木の中、その彼女はひどく寂しそうな顔をしているように見えて。それが、頭の片隅に引っ掛かった。
◆
「やあ、美咲。君は誰かと桜の樹の下へは行かないのかい?」
屋上で見つけた一つの背中に声を掛ければ、驚愕したようにびくりと肩が大きく跳ねた。振り返った彼女はパックジュースを片手に大層驚いた顔をして、私のことを見上げていた。
「……薫、先輩?」
「ああ、そうとも。私のことを知っているなんて、光栄だね」
「……そりゃ、有名人ですもん。逆に、なんでその薫先輩があたしなんかの名前を?」
「私にとって、子猫ちゃんたちの顔と名前を覚えることは造作もないさ」
「いや、あなたの子猫ちゃんになった覚えはないんですけどね……?」
フェンスに寄りかかり呆れたように溜息を吐くその隣に、一言断りを入れてから私もフェンスに背中を預ける。下の方に目を向ければ、中庭の桜の樹が目に入った。満開はもうすぐだ。
ずずず、とジュースを啜る音が静かな屋上に響く。そこそこ混んでいる中庭の喧騒とは対照的に、ここは私たち二人しか居なくてしんと静まり返っている。
「で?」
「はい?」
「さっきの問いには答えてくれないのかい?」
「さっきのって……ああ、」
美咲は居心地が悪そうに私から目を逸らして、もう中身が無いであろうパックジュースのストローを噛む。彼女からしたら、あまり接点のない先輩である私と二人きりは息が詰まるのかもしれない。
少しだけ間を開けてから、ゆっくりと息を吐き出した。
「……行かないですよ。そんな噂信じてないし。そもそも一緒に行く相手も居ないですし」
ああ、またその顔だ。呟くように吐き捨てる美咲の顔は、数日前に見た寂しそうな顔だった。その顔を見ると、胸が締め付けられるような、重たいような気持ちになる。
彼女は同じ部活でもない、同じ学年でもない、大勢居る後輩のうちの一人だ。今まで大して話もしたことなかったのに、何故彼女のことがこうも気になるのだろう。
「……なら、どうだい? 私と一緒に行ってみるっていうのは」
「はい?」
不審げに眉を寄せた美咲が此方を見上げる。初めて目が合った。澄んだ空に似たブルーグレーの瞳が、困惑を映してゆらりと揺れる。吸い込まれそうな、綺麗な瞳だと思った。
その瞳に見惚れるようにじっと見つめていたら、今日何度目かの溜息が返ってきた。眉を寄せたまま、美咲が首を傾げる。
「大切な人っていう話だったんじゃないんですか。そもそもお互いのことなんてよく知らないでしょ、あたしと先輩」
「そういう話だったね。でも、美咲は噂を信じていないのだろう? なら、私たちが一緒に行ってもいいのでは?」
「……そういうもん?」
「尤も、私にとっては全員大切な子猫ちゃんだけどね」
美咲が溜息を吐く。呆れたような様子で苦笑いした後、また表情は沈んだ顔へと戻る。胸が、また小さく痛む。
「ていうか、あたしとなんかと行かなくても、薫先輩なら一緒に行きたいって人いっぱい居るんじゃないですか」
投げやりな言葉だった。くしゃり、とジュースの紙パックが手の中で潰される。潰されたのは紙パックなのに、何故か私の胸がひどく痛む。
そう。彼女には、こんな表情よりも笑顔が似合うと思ったのだ。きっと、可愛らしい笑顔を見せてくれると。
「では、こうしよう。君とお互い大切な存在になりたいから、一緒に桜の樹に願いに行きたいんだ」
その気持ちに気付いたら、次の台詞はすぐに出た。彼女の笑顔が見たい。彼女の大切な人に、特別な存在になりたい。もっと、彼女のことを知りたい。
「なんで、そこまであたしを……?」
「さあ、どうしてだろうね? ただ、君とは運命的な絆で結ばれている気がしたのさ。直感だけどね」
そう、これはきっと運命なのだ。接点のない後輩の一人が急に気になってしまうのも、もっと関わりたいと思うのも、寂しげな表情を笑顔に変えたいと思うのも、ぜんぶこれが運命的な出会いだからなのだ。
ただ、まだ美咲の浮かない顔は晴れない。困惑と不安を貼り付けた顔が、此方を見上げるだけだ。
「……あたしと、薫先輩が? ……はは、なんですかそれ」
渇いた笑いには私は首を振って、再び中庭へ視線を下ろす。美咲も倣うように、同じく中庭へ視線をやった。風で散った桜の花弁が屋上へ舞い上がり、美咲の黒髪へと一枚着地する。
私がそれに手を伸ばせば、美咲が驚いたように肩を小さく跳ねさせた。
「かのシェイクスピアもこう言っている。『運命とは、最もふさわしい場所へと、貴方の魂を運ぶのだ』、とね」
「……シェイクスピア? ……ふふ、なにそれ」
首を傾げた美咲が、くすりと小さく笑う。たったそれだけで、胸が満たされた気持ちになれるのだから、これはやっぱり運命の出会いなのではないだろうか。
髪に乗った桜の花弁を取ってあげてから、その手を彼女へと差し出した。
「そうだね……ではどうかな。まずは親交の第一歩として、一緒に下校してみるというのは?」
「それは……どうしようかな、先輩目立つから」
先程よりは柔らかい表情で控えめに笑った美咲が、おずおずとその手を取ろうと此方を見上げた。
◇
スマホのアラームが鳴る。手探りで止めて、まだ意識がはっきりしない中起き上がった。下ろしていた髪が視界を邪魔するので、手で払い除ける。
欠伸を一つしてから、ショートヘアの少女の姿が頭を過ぎる。……夢にしては、随分意識がはっきりしていたような、現実味があったように思う。
着替えて髪を結い、身なりを整えて外へ出る。公園に着けば、そこも満開の桜が咲き誇っていた。
「薫さん」
桜吹雪が舞い一面のピンク色の景色の中に、手を振る愛しい姿を見つけて私も手を振り返す。彼女の元へ歩み寄れば、嬉しそうに顔を綻ばせた美咲が私を見上げた。
「……夢はもう、叶っていたようだ」
「? なんの話?」
「いや? ――行こうか、美咲」
髪に付いた桜の花弁を取ってあげてから、手を差し出す。美咲がその手を取ったのなら、優しく握ってゆっくりと歩き出そう。
隣を見れば、はにかんだ美咲のブルーグレーと目が合う。ピンク色に薄く染まった頬は、桜の色とよく似ていた。