トンネルってなんか怖いよね 噎せ返るほどに濃密な花の香りがした。熟れすぎた果物のようにどろりと甘く、その奥底にどこかツンと鼻を刺すような強さがあった。
何の花だろう。あたりを見回してみるが、どこにもそれらしき花は見当たらなかった。夏の盛り、青々と葉は生い茂っているが、花は1輪も咲いていない。
診療所への帰り道、あとはこの短いトンネルを抜ければすぐだ。目の前にぽっかりと開いたトンネルの入り口から、向こうの出口を眺める。20メートルほどの短いトンネルだ。出口は明るく、青空が見えている。山道とはいえ診療所も近く、それなりに人の手が入っているため歩きやすい。
ふと足元に紫色の花弁が落ちていることに気が付いた。涙型をふたつ並べたような、ハート型に見えなくもない丸みのある形で、片側は白く、反対へ向かって濃い紫へとグラデーションになっている。摘まみあげようと背を丸めて手を伸ばす。
「冨永っ!!」
突然のKの声に伸ばしていた手を止め、反射的に振り返った。こちらへKが走ってくる。慌てた声音、珍しく息を切らせて走ってくる姿に、姿勢を正した。
「急患ですか!?」
小走りでKの傍にむかう。
「よかった、間に合ったな」
「え? 何がですか?」
ガシッと両肩を掴まれる。Kはそのまま荒くなった息を正そうと呼吸を整えている。何が何だかわからない。
「何か普段と変わったことはないか」
「特には、皆さんいつも通りでしたよ」
「いや、往診のことでは無い」
Kの言葉の意味がわからず、冨永は首をかしげた。
「それ以外って、なんです? そういえば今なんか甘い花の匂いがして立ち止まった所でした。あとはもうトンネルくぐったら診療……じょ……トンネル? あれ? トンネルなんてありましたっけ? え?」
自分で言っておきながら、その違和感に気持ち悪くなる。トンネルなど、診療所へ続く道には無かったはずだ。恐る恐る振り返ると、後ろには何もなかった。見慣れた山の風景だ。
「冨永、とりあえず診療所に戻るぞ。すまないが、手を繋ぐが構わないな?」
Kの有無を言わせぬ気迫に押され、冨永は頷いた。肩に乗っていた手が滑るように腕をたどり、手に到達する。ぎゅっと一度それぞれの手を繋いだ後、片方だけ解放された。Kは冨永の手を引き、ずんずんと歩いていく。今まで冨永が行こうとしていたのとは反対へ。
そうだ、診療所への道はこっちだ。富永は急にぞわりと背筋が寒くなった。脳内にあのトンネルの風景が浮かぶ。出口に見えた青空の美しかったことと言ったら……
「……なが、冨永! 今日の夕食はなんだろうな」
「え? あ、あぁ、そうですね、今日も暑いんで、なんかさっぱりしたものが良いすね。いや、でも体力つけるにはそういうものばっかりは……って急にどうしたんです?」
「一也がもうすぐ夏休みになる」
「はぁ、そうですね」
ころころと話題を変える脈絡のない、やや唐突で強引なKの雑談に乗る。あぁ、そうか、これは考えるなと言うことか。もしくは別のことを考えろと。
そうこうしているうちに診療所にたどり着いた。繋がれていた手が、ドアが閉まると同時に解放された。誰かと手を繋いで歩いたのは久しぶりだった。すこし寂しい気持ちになる。
「すまなかった。説明する」
Kの後に続いて診察室へ向かう。冨永は患者用の椅子に座り、向かい合って座ったKの言葉を待った。しかしいつまで経っても眉間に皺を寄せたKの口はぴっちりと閉じられたままだ。
「あの……」
「あ、あぁ、すまない。どう説明すればいいか……いや、説明は出来ないな。そういうものだ。だが対処法はある」
いつもとは違う、曖昧で要領の得ない話しぶりに富永は困惑した。対処法が必要ということはまだこれからも何か起こるということか。悪寒が走り、腕を組んで二の腕をさすった。
「富永は一族のものではないから、その、拒まれたのだと思う」
何に、とは恐ろしくて聞けなかった。静かに先を待つ。
「だから、一族に入れば平気だろう。つまり、婚姻だとかそういうことなのだが、そこまでしなくてもそれに代わる行為があればなんとかなるだろう」
それに代わる行為ってなんだろう。婚姻に近い……えっ、まさかそれってセ……
「目を閉じてくれるか。嫌だろうが少し我慢してほしい」
えっ、うそ、いま? ここで? ちょっと俺まだ心の準備が……いきなりそんな、いや、Kとそんなこと、出来……なくはないな?
「あっ、僕、でも」
「冨永、口を閉じて」
あっ、うそ、俺、Kとキスしちゃってる?
「もういいぞ」
「は? え?」
柔らかな唇が一瞬触れて、そして離れ、それで終わりだった。ゆっくりと目を開けるとKは診察用デスクに椅子を向けてカルテを開いている。今までの全部が俺の妄想だったのかと思えるほどだ。口づけのその先を期待した自分が恥ずかしい。
「あ、じゃあ、僕むこうで往診のカルテ記入とかしてきますね」
「あぁ」
振り向かずにカルテを見つめるKを残して診察室を出た。それ以来、冨永がトンネルを見ることは無かった。
「――ってことがありましたよね?」
あれはまだ冨永が村に赴任して1年ほどのことだった。当時は気味が悪く、しばらく怯えながら山道を歩いたものだ。しかしあれ以来なにもなかったのでいつの間にか忘れていた。それをふと思い出したのだ。電話越しに、恋人が近況報告をしていた時に。
「あれ、やったんですか。対処法。その新しい研修医の高品先生に。それに前に預かっていた一也君の同級生の彼にも」
じっとりとした嫉妬が声に滲むのは仕方のないことだろう。
「あぁ……そう、か……していない。お前だけだ」
「え? 本当ですか? なんで?」
しばしの沈黙のあと、Kがぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「嘘をついた。すまん。お前が怖がると思ったんだ。あれは、一族じゃないから拒まれたと説明したな? 正確にはそうじゃない。冨永が気に入られたんだ」
Kの言葉を理解するのを心が拒んだ。ようやっと飲み込むと、今度は、何に?と疑問に思ったがすぐに打ち消した。聞きたくない。
「だから、これは俺のだと主張すればなんとか出来ると考えて、その時はああするしかないと」
「えー……でも、それなら他の人が気に入られたらどうするんです?」
「他の方法がある」
「えぇー!あるんすか」
「誤解するなよ。あの時は無かった。だが困るだろう? それで詳しい人に調べてもらった。今は別の対処法がある」
「なーんだ、良かったぁ」
「嫉妬したか?」
「えぇえぇ、しましたよー。当たり前じゃないですか。ずっと忘れてたのに急に思い出したんすよねー。高品先生の話を聞いたからかな。俺に似てる?」
「まったく似てない。安心しろ。俺には冨永だけだ」
「わかってますよ。ふふ、そこは心配してません。でもあの儀式、他の人にするの嫌だなって思っただけです」
触れるだけの一瞬のキスだった。けれど俺には十分すぎるほど効果があって、何度も思い出しては眠れない夜を過ごす羽目になったのだ。
「そういえば、あの時、Kもしかして照れてました?」
今ならわかる。目を開けた後に見たKは椅子に座って背を向け、振り返らなかった。目はカルテに向けられていたが、パラパラと捲るだけできっと読んではいなかったのだろう。
「あぁ、そうだ。それに冨永の反応を見るのが怖かった」
「へぇ、どうだったかな、あの時は恐怖のほうが大きかったかもなぁ。でも嫌だとは思わなかったなぁ。これで終わり!?って思ったぐらいです」
ふふっとKの小さく笑う声が聞こえてくる。
「それはすまなかったな」
「えぇ、もっと手も繋いでたかったですし。ということで、直近の休みを教えてください。デートしましょ」