小さなクリスマスの富K「こんな時間に来てもらって悪かったね」
痛めた腰を摩りながら老人は申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえいえ、明日まで我慢するのも診療所まで来るのも大変でしょう。いつでも気にせず言ってくださいね。湿布と、痛み止めも出しておきます。それから……」
富永は往診カバンから必要なものを取り出して説明しながら渡していく。
「夕食はもう?」
奥さんが湯気の立つ湯呑を乗せたおぼんを持ってキッチンから戻って来た。これから寒い外へ出ることを思い、ありがたく頂くことにする。
「ええ、先ほどすませました。お茶いただきます」
「ケーキは食べたんか? これからか?」
老人の言葉に富永は一瞬どうしてそんな質問をするのだろうとさえ思った。視界に入った壁掛けのカレンダーのおかげでやや遅れてクリスマスイブであることを自覚した。
「いやぁ、バタバタしててすっかり。用意もしてませんでした」
男二人ですし、と言いかけた言葉は先に発せられた奥さんの言葉によって喉の奥に消えていった。
「そう……今年は診療所もふたりになったからと思ったけど、そうよね、大人の男の人ふたりでケーキなんて食べないわよね」
ふたりになったから……
「それ、は……」
うまい言葉が取り繕えなかった。見ないふりをしている事柄が不意に目の前に突きつけられて富永は微かに動揺した。ずっと気になってはいるのだ。どうしてK先生はひとりなのかと。きっと村の人たちは多かれ少なかれ事情を知っているのだろう。
「あぁ、いや、うちのが余計なことをすまないね、ささ、もう遅いから」
「いえ、気にしないでください、あ……、いや、その……この辺で今からケーキ買えるところなんて、ないっすよね?」
無理だとわかっていても、言わずにいられなかった。もう9時を過ぎていた。仮に車で村の外へ出ても、移動している間にどの店も閉まってしまうだろう。
「すいません、変なこと言って。では、お大事になさってください。お茶、ご馳走様でした」
「先生、ちょっと待って頂けます?」
立ち上がりかけた富永を制して奥さんはキッチンに戻っていった。お気遣いなく、と声をかけたが聞こえていないようだ。再び腰を下ろした富永は手持無沙汰に、そして妙にそわそわした心持ちで待った。
「お待たせしました。こんなものしかなくてごめんなさいね。何かないかと探してみたんだけれど」
奥さんが両手に抱えて持ってきてくれた品物を富永は温かい気持ちで受け取った。
「お前、なんだ、そんなもの、先生だって困るだろ」
「いえ、すごく嬉しいです。お気遣いありがとうございます。本当に良いんですか?」
「ええ、余りものでごめんなさいね」
富永は感謝を述べて家路についた。
真っ暗な道、頬にはキンと冷えた冬の空気が突き刺さる。日が落ちると一段と厳しさが増す。往診先で温まった体は診療所につく頃にはもう冷え切っていたが、往診カバンと共に下げた紙袋の中身が心を温めてくれた。
診療所で待つ神代のことを富永は思った。出がけに休んでくれて構わないと伝えたがきっと起きて待っているだろう。
どうしてひとりなのか。診療所には彼だけでない他の誰かの生活のあとがそこかしこに見られた。棚の奥にしまい込まれた使われていない調理器具、可愛らしい柄の毛布や調度品。彼だってずっとひとりな訳はないのだ。家族はどうしたのか。いつからひとりなのか。
気にならない訳がなかった。けれど、どこまで踏み込んでいいのかわからなかった。いつか彼から話してくれたら。話したいと思ってくれるまで待とう。仕事にも、共同生活にも支障がないのだから。無理に踏み込む必要はない、そう結論付けて日常に埋もれさせた。
クリスマスイブ。幼いころは他の子どもたちがそうであるように楽しみにしていたし、思い出も思い入れも多少はある。けれど成長するにつれてそれは勉強と仕事に追いやられていった。例年なら街を歩けばイルミネーションや装飾で、あぁ、そういう季節かと思う程度だ。今年は診療所で慌ただしく過ごすうちに何もせず今日を迎えてしまった。
12月に入ったあたりでクリスマスのことを考えはした。けれど、必要ないと安易に決めつけた。ここへは遊びに来ている訳じゃないのだからと。
自ら選んで無医村にやってきた。誰もいないことを覚悟していた。クリスマスだなんだとそんなことは無縁だと決めつけた。すべて自分で選んで。そうじゃない選択肢も持ちながら。
けれど彼はどうだろう。少しだけれど知っている事情を繋ぎ合わせれば朧ながらにも見えてくる。Kが嫌々やってるなんて微塵も思わない。けれど、そこに選択の自由があったのかどうか。去年の冬はひとりでどんなクリスマスを過ごしたのだろう。
「ただいま戻りましたー」
もしかしたら寝ているかも、と玄関から声を落として告げると奥から返事が返ってきた。声のもとに向かえば神代は富永が出ていった時のまま、ダイニングテーブルで本を読んでいた。しおりの位置がだいぶ進んでいる。
「大丈夫でしたよ。湿布と鎮痛剤を出しました」
「そうか。寒かっただろう。鼻が赤くなっている」
「この辺、ホント厳しいっすね。あ、そうだ、良いもの貰ったんです」
奥さんが用意してくれた紙袋を掲げる。有名なおせんべいのメーカー名が大きく書かれている。
「おせんべいじゃ無いですよ」
中からひとつひとつ取り出してテーブルに並べていく。パックのイチゴ、小さくカットされた個包装のバームクーヘンがたくさん入っている袋、カラフルな細長い蝋燭が5本、そしてスプレータイプのホイップクリームだ。
「これは……」
神代が言葉に詰まるのが面白くて富永はなんだか楽しくなった。
「先日お孫さんが来て、奥さんの誕生日にケーキを作ってくれたんですって。その残りです」
「確かお孫さんはまだ小さかったと思うが」
「ええ、だから娘さんがホットケーキを焼いて飾り付けしたそうです。それでこれ、知ってます? 泡立てられたホイップクリームが出てくるらしいっす」
ほお、と神代が不思議そうにクリームのパッケージを手に取って眺めた。
「ちょっと待っててくださいね」
富永はコートを脱ぎ、イチゴを片手にキッチンに立った。イチゴを洗い、皿やフォークなど必要になりそうな物をささっと用意して再びテーブルに戻ると、神代の向かいに座り小皿をふたつ目の前に並べた。バームクーヘンの大袋をあけ、二つ取り出すとそれぞれの皿に乗せる。そして神代の手の中からホイップクリームを取り返した開封した。
「えーと、これを取って、それで、こうして、こうか! うわぁっ、あっ! あちゃー」
バームクーヘンの上に向けて絞りだされたクリームは富永の予想を大きく超えて勢いが強く、その面積を大いにはみ出して皿へと溢れた。絞りだすというより噴出と言ったほうがあっていた。不格好になったクリームの上、やけくそになって富永はヘタを毟ったイチゴを一つのせた。
「フッ、フフ……」
神代から漏れたその微笑みは富永が今までみたどれとも違っていた。回復した患者さんからのお礼に応えるとき、有意義な議論が出来たとき、わからなかった症状の原因にたどり着いたとき、垣間見せる微笑みも確かに彼の素なのだろう。けれど、今の表情はそのどれよりも柔らかかった。可愛らしいと言えるような、すこし幼いように見えて、富永はもしかしたらこの人は思っているよりも若いのかもしれないと思った。実年齢よりもその内面は早く大人にならなければいけなかったのかもしれない。
柔らかな微笑みなのに、どうしてか富永はきゅうっと胸が苦しくなった。なんだこれは。
「あ、はは、失敗ですね、あの、クリスマスケーキのつもりだったんですが、はは」
誤魔化したのは出来栄えか胸の苦しさか。
「いや、ありがとう」
神代が崩壊したクリスマスケーキもどきの皿を引き寄せた。
「あっ、それは俺が自分で食べますよ。次はもっと綺麗に作って見せますから!」
取り返そうと伸ばした手は遮られる。
「いい。これが、良いんだ」
頬が熱い。ドンっと衝撃を受けたような錯覚に眩暈がした。鼓動が早い。
「え、でも、そんな……、あ、なら代わりに僕のはK先生が作ってください。これ結構難しいっすよ」
クリームの缶を手渡した。しばらく説明を読んでいた神代がおもむろに缶を傾け、ボタンを押した。売り物みたいとは言わないが、初めてにしては上出来だった。少なくとも皿に零れてはいない。
「えぇー! なんで!? ズルい!」
「なんだ、ズルいとは。お前がやるのを見ていたからな」
それは嫌味でもなんでもなく、ただ事実なのだから悔しい。
「はぁー、さすがっす。じゃあ、これ、何色がいいです?」
蝋燭の入った袋を開ける。何でも構わないと言うので最初に手に触れたオレンジ色を神代のクリスマスケーキに差した。続いて少し袋から飛び出していた青い蝋燭を神代が作ってくれた自分のケーキに差す。
余った蝋燭を使ってコンロから火を移し、部屋の電気を消した。真っ暗な室内でオレンジ色の炎が揺れている。それだけでいつもの食堂が特別な空間になった気がした。
暖かな光に照らされてケーキを見つめる神代を眺める。子供のころ、ここでこんな風にクリスマスや誕生日に揺れる火を見つめたのだろうか。光源の揺らめきに神代の瞳がきらきらと輝いていた。
「メリークリスマス、K先生」