夜が来る。
村人達は怯えて、このまま何も起こらず朝を迎えてくれと家に閉じこもって祈るだけ。
そう、今までと同じように。それで良かったのに。
──今夜は満月。
いつもと違う風が吹き始めていた。
「……りん?」
そんな静まりかえった闇の中、一人の男の声が響く。声をかけた相手は無言で立っており、闇に溶け込んでいた。姿形は確認できるが、表情を窺い知ることは出来ない。
声をかけた男、潔は声をかけた相手に近付こうと踏み出したが、途端にむせ返るような血の匂いを感じる。それは人狼である潔の本能を刺激するには十分すぎるものだった。
潔が視界に捉えているもう一人の同じく人狼の男、凛はそんな状況のど真ん中にいたのだ。おそらく本能を潔以上に刺激され、かなり高揚してるだろう。潔はそう思いつつも、話を続けた。
「もうこの村は良いのかよ」
「……あぁ」
「なんでまた急に……、この前、色々都合良いからしばらく此処を拠点にしようぜ、て話ししたばっかじゃん」
「……」
凛は答えない。
そこに月明かりが照らされる。
今まで闇に溶けていた凛の姿がよく見えるようになる。同時に表情が月明かりの元に晒される。
そこには、瞳に闇夜と同じ色のどす黒い粘り気のある火が浮かんでおり、顔面など身体中に血飛沫が散っている凛がいた。
足元には、もはや原型も人数も分からないくらいに入り混じった『人間だったもの』の赤と黒の池が出来ていた。
その惨憺たる光景に一瞬驚きはした潔だったが、すぐに気を取り直す。
「そこまでブチ切れてるなんて久しぶりじゃん、本当にどうしたんだよ」
「……、お前に」
「ん?俺?」
「このクソ野郎共が、お前に、触れていた、それだけで、生きてる価値なんてねェだろ」
「んー……、もしかして昼間のあれか……」
この村を拠点とすると決めたものの、もちろん二人が人狼だとばれる訳にはいかない。
人間と変わらぬ姿に偽装して、村に溶け込んでやり過ごす。いつもと変わらぬ人狼としてのやり方だった。
そして今回も、いつものように新入りとして顔を見せて、今後の交流に響かない範囲で所謂ご近所付き合いをしていた。
今日の昼間もその一環で、少しだけ顔を出そうと思ったのだが、潔達が到着した頃には既に様々な人物が泥酔状態だった。
これはさっさと引き上げたほうが良さそうだと、潔と凛は会話もそこそこに抜け出そうとした。
だが、そこを運悪くタチの悪い酔っ払い集団に潔が絡まれてしまった。
止める間もなく、無遠慮に潔との距離を縮めて身体を密着させた。そしておそらく"そういう"意味も含めたねっとりとした視線も向けられているのを感じて、潔は嫌悪感と悪寒が止まらなかった。
そこにすぐ凛が割り入ってくれて、すぐ様その場を離れることが出来たわけだが。
──どうやら凛は、この出来事を相当腹に据えかねていたようだ。
「あー……、あれは俺もちょっと油断してた。ごめん」
「…んとに、ふざけてんじゃねぇぞ、クソ潔」
黒い炎を揺らめかせたまま、凛が潔に近寄る。歩く度にバシャバシャと水音がする。
血をべっとりと纏ったまま、潔の衣服に付くのもお構いなしに潔の身体を抱き締めると、そのまま首元に噛み付く。
「いっっっっ……てぇ……!!お、い……りん……!」
「うるせぇ、黙ってろ」
傷口から溢れる血を舐めとり、そのまま首筋から輪郭にかけて舌を這わせる。その行為に潔の身体に甘い痺れが走る。
「何度も言わせんな。お前は、髪の毛から足のつま先まで、俺のモンなんだよ。また他の奴に触らせたら、そいつを殺す」
ビリビリと感じる殺意と共に潔への独占欲や執着心、色んな感情が混ざった黒く重い激情を向けられて、潔はそっと笑みを浮かべる。
「わかってるよ……、しばらくは二人で、な?」
こうなってしまっては、潔に近付く者全てを殺してしまいそうな勢いだったため、しばらくは少し人里離れた所で過ごすしかないな、と潔はひっそり溜息をついた。
その潔の返答に少しだけ満足したのか、まだ放たれている殺気は健在だが、噛み付くのは止めて、潔の胸元にぐりくりと頭を押し付ける。マーキングか、と凛の好きにさせる。
「……まだあいつらの匂いが残ってやがる、うぜぇ」
「お前も返り血まみれでやばい匂いなんだけど……、とりあえず一回家に帰ろーぜ。少し休んだら朝が来る前に移動しよ」
凛の手を握り、二人家路につく。
ひんやりとする夜の空気の中、お互いの手から感じる体温だけは温かい。
(もう、凛以外の体温なんて忘れちゃったな……)
そんなことをふと思いながら、結局最期の瞬間まで凛の体温しか知らないままなのだろう、と潔は繋がれた手をまた強く握りしめた。