幽霊の友達(序) 七月二十五日。高校三年の夏休み初日。梓月はほの暗い部屋を照射する電灯を見つめている。黒く肩まで伸びきった髪は、毛先が不揃いで傷んでいる。蜂蜜色と薄花色のオッドアイが長い前髪から覗かせていた。カーテン越しに差し込む光も、窓の外の喧騒もない。このまま、誰にも見つけられずに往生を遂げるのか。
ふと、部屋が冷気を増して寂びれた心地になる。霜風の出処を見ると、毛布を被り現今にそぐわぬ書生服を着た友人の姿があった。いや、人ではない。暗がりの中なのに薄らと光を帯びており、透けた身体の向こうには午前三時を示した壁掛け時計が見える。梓月は、どうせ夢だと悟るも、それの顔を見て不愉快な表情を顕にした。都合の良いように生み出した存在が何故泣くのか。
「なんでこんな夢ばっかり」
「違うよ」
記憶から薄れつつあった友の声が鮮明に聞こえた。
「なんだよ、ただの幻の癖に」
「ほんとうだったら?」
「本当なわけ、だってお前」
梓月の表情は青白く、額からは脂汗が滲み出ている。
「この前死んだじゃないか」
「ごめんね、ずっと待たせてしまって」
D君はそっと手を伸ばすも、梓月の目の前でしまいこむ。そして、何か言いたげに己の手と面食らった梓月を交互に見ている。しかし、梓月の沈黙に耐えられずに口癖を零す。
「ごめんなさい」
梓月は、半分起き上がった身体を再び床に落とす。
「寝させて」
「う、うん! 顔色悪いもんね……」
鼻につく言葉選びの下手さに覚えがある。一度寝て考えよう。朝になればわかることだ。
「梓月くん!」
混濁した目に友が飛び込んでくる。高校一年生の夏にプールサイドで肌を寄せ合い、暖をとっていたことを思い出す。友の傍が寒いと感じたのは、この日が初めてだった。
夢を見た。そこは真っ暗で冷たい場所。気がつくと、そこにはD君がいるいつもの夢。
「どうして、僕を置いていったの?」
震えながら俯いているD君を、見つめていた。
「僕は、ずっと待ってたのに」
友の声は、掠れていて苦しそうだった。ふわりと漂うD君の手に触れようとする。
「もう、疲れちゃったなあ」
D君がそう呟いた瞬間、目が覚めた。
梓月が一人で生活しているワンルームの部屋。時刻は昼過ぎ、真夏の暑さ。カーテンは締め切られ、電気をつけていない暗い室内で布団の中で丸まっている。扇風機の音だけが部屋に響いていた。ふと音のする方を横目に見ると、友が台所を崩壊させていた。首だけを動かして様子を見ると、ひっくり返った調理器具に、虚しく落ちた卵が見える。あちこちに濡れた米が飛び散っていた。
「なにしてるの」
「あっ、あっ! 起きちゃった。ちょっと見ないでくれる? 一瞬でどうにかするから」
そう言って腕で空をきるが、棚から鍋がシンクに落ち、盛大な音を立てて友の奮闘は終わりとなった。友はギャア! と声を上げて飛び跳ねる。怖がる幽霊って居るんだ。
「幽霊になってまで料理しなくても……食べなくてもいいんでしょ」
「だって梓月くんがまたご飯食べてないんだもの!」
「やかましいな」
梓月は首を戻して再び眠ろうとする。ガシャンガシャンと音を立て続けるのに焦れったくなり、数少ない皿を割られた時にようやく友に話しかける(文句を言いにいく)気になった。
「どうしてそんなことに?」
「僕、料理ができるのが取り柄だったのに……」
包丁に手を伸ばすも、何も掴むことなく空をきるだけだった。それでも諦めずに何度も繰り返したが、触れることはできないまま、諦めるように手を下ろした。そして、聞き取れない言語を呟いたと思えば目の前のスプーンが宙に浮いた。先程までの騒ぎはこのせいか。聞きたいことは幾つもあるが、落ち着いた暴れ馬を窘めることにする。
「パンでも食っとけばいいから」
梓月が渋々起きて冷蔵庫を開けると、圧倒的に余白が多いことに友は慄く。家の主は気に留めない様子で水を取り出して、カゴからしわくちゃな袋に入ったパンをちまちまと食べ始めた。
「もういいよD君。休みなよ。休んで欲しい」
「う、うん……」
猫背になってパンを食べる梓月に向かい合って正座をした振りをする。フワフワと浮いているのだから仕方がない。高い背丈を丸めて小さくなった姿は、彼の気の小ささを表しているようだ。
「いろいろ聞きたいことはあるんだけどさ、なんでここにきたの。家族のところは行った?」
「うん、もちろん。最初は家族に会ったら成仏できると思ってたんだけど、できなくて。あとは思い当たるのが梓月くんくらいだなって」
「俺なんかに未練あるの」
「未練っていうか、心配で。だって、前から僕が言わないと不摂生な生活繰り返してたでしょ。夏だし干からびてるんじゃないかって」
「え、わざわざ俺の家に飯作りにきたの?」
梓月が呆れた声で問いただすと、友は当然のように頷く。
***
D君が「梓月蓮」と出会ったのは、高校二年生の始業式。彼は、ごく普通の高校生男子のように見えた。しかし、数日すればこのクラスの違和感に気づいた。人を寄せつけない孤高で強気な態度が同級生からは煙たがられていることに。それでも、周りを気にしないように振舞う姿は美しかった。
対してD君はと言うと、読書が好きで、休み時間はひたすら本を読んでいる毎日を送っており、からかわれることがよくあった。しかし梓月は「虐めの的が増えたから自分は楽になる」なんて発想もせず、D君が物を盗まれているところを助けようとした。案の定、周囲の彼への辺りは酷くなっていくばかりで、D君は毎晩罪悪感で押し潰されていた。居てもたってもいられず、放課後に梓月と話すことに決めた。
「梓月くん」
二人以外居ない、冬の凍てついた空気だけが残る教室。落書きや彫り込みでボロになった勉強机三つを挟んだ、対角線上の席へD君は声を投げた。優柔不断な性格だったもので、タイミングを伺っていると彼が帰ろうと席を立ったので、慌てて声をかけた。思ったよりも声が響いてしまい驚かせてしまったようで、わかりやすく彼の身体が跳ねた。
「話しかけられると思わなくて……どうしたの?」
彼は、振り返ると少し心配そうな顔をする。
「どうして君は僕を守ってくれたの」
少しの間が空く。挨拶程度の会話はしたことがあるが、きちんと面と向かって話すのは初めてだ。そう考えると、D君は緊張してきてしまい、まっすぐこちらの目を見据える目から視線を落として赤い鼻を見る。
「俺も、君の気持ちがわかるから」
そう言って彼は控えめな笑顔を向けてくれた。いつも遠くから眺めていたものの、彼の笑顔はこんなに儚いものだったかと心を揺さぶられた。黙っているD君を見て眉を下げて話す。
「余計なお世話だったかな、ごめんね」
「……っ! そんなことない」
とにかく彼に謝りたかった。謝ったところで虐めが落ち着くわけでもないし、解決だってしないけれど。
「僕の方こそごめんなさい。許さなくて、大丈夫だから。君には謝罪をしてもしきれない。そして、あの時は助けてくれて本当にありがとう」
頭を下げる。背負っていた鞄ががつんと後頭部に当たる。
「謝らないで」
かつりかつりと響く足音はD君の前で止まり、そっと肩に手が触れた。そのまま身体を起こそうとしてきたけれど、より一層頭を落とした。
「思ったよりも頑固なんだね。嫌いじゃない」
突然、梓月が座り込んだと思えば目の前に顔を付き合わせてくる。D君は、人と顔を合わすのが元来苦手だったため大袈裟なほど思い切り仰け反り、背後にあった自分の席に背負い鞄をぶつけると、その衝撃で机が滑りどすんと冷たい木製の床に座り込んでしまった。
最初は梓月も笑って見ていたものの、想像以上だったD君の暴れっぷりに慌てはじめ、最後には、ぽかんとした様子だった。
「いた、たた……」
「怪我してない?」
男子にしては、やけに細く骨ばった腕が見えた。色白よりも、血の気が悪い肌色だと思った。差し伸べられた手を掴んで、先程の醜態を誤魔化すように飛び上がって直ぐに姿勢を正す。初めて至近距離に立つ梓月を見ると、D君よりも頭がひとつ分くらい低い。どんどん彼のことがわかっていくのが、なんだか楽しかった。
「████くんって、本よく読んでるよね。オススメとか教えてよ」
「えっ、本とか読むの?」
「いや、全然」
「うーん、どうしよう、文学小説しか詳しくないんだけど興味ある?」
「へえ、ファンタジー以外ならいいよ」
「ホ、ホント? じゃあ、入りやすいこの作者の本とかどうかな」
梓月は文学小説と相性が良かったようで、勧めたものをゆっくりだが読破しては感想を伝えてくれる日々が続いた。強かでありながら人を大切にしてくれる。そんな人と出会ったのが初めてだったD君は、梓月にとても心を許していた。
「お前ら最近仲良いじゃん」
クラスメイトからそう言われるのも遅くはなかった。
「弱いもの同士で傷舐めあってんの?」
確かにお互いに被害者側ではあるが、そんな浅はかな関係じゃない。
「守ってもらったからって犬みたいに引っ付いてるだけじゃねえの」
違う。でもここで反抗したら相手の思うつぼになってしまう。感情を抑えて、黙って、ただ黙って。しばらくすれば飽きたのかそのまま彼らは去って行った。
でも、きっと、彼も同じようなことを言われているのだろうと思う。ある意味、自分が足を引っ張ってしまっているんだと気がかりになる。
「関わらない方がいいのかな」
D君は、整頓されているが物が多い自室に積み重なった本たちを眺めて独り言を零す。今まではからっぽな人生を埋めるために、様々な本を読んでいた。彼が、この本を全て読破したら自分そのものになってしまうのかとボンヤリ考えて有り得ないと笑った。でも、彼の人生をこれ以上崩してしまうのなら、彼から離れるべきだ。
それからは、帰りは真っ先に家に向かい始めた。彼との交流の場であった、二人だけの教室はもうこない。それからは、クラスメイトからも二人の話題が減り平穏が訪れた。
しかしある日、D君が帰っていると帰り道に梓月が見えた。でも彼だけじゃない、クラスメイトも一緒だ。嫌な予感がする。話し合いをしているだけだったものが段々と激しさを増して口論から取っ組み合いの喧嘩に悪化した。流石に見ているだけではいられない。唯一の取り柄である、生まれつき恵まれた身長と体格を駆使して梓月を引き抜き駆け出す。
「なんで████くんが……!」
「今はいいから! とにかく走って!!」
何処に行けばいいのかわからずひたすらに走る。入り組んだ路地裏を回っていれば彼らを撒いたようで、立ち止まった途端、普段走らない反動で息切れが酷かった。言いたいことは沢山あるのに喉が焼けるように痛いせいでまともに音にならず、ひたすら口を不自然に動かしながら、なんとか彼の無事を確認する。
「だいじょ、ひぃ……」
「落ち着いて、深呼吸、はい」
助けられたのがどっちかわからないなあ、と苦笑いをしながら呼吸を整える。
「梓月くん、あんなところで何してたの」
「……その、████くんがあいつらになにかされたのかと思って、問い詰めようとしてたんだ」
「え?」
「いや、何かされたんじゃないの? 最近早く帰ってるし。そのせいで学校に居づらいのかと思ってて……」
「えっ、それは、その、ああっ」
とんでもない誤解が生まれていたことに気づき、髪を両手で掻き乱しながら蹲る。
「ごめん、違う、違うんだ……梓月くんのためにと思ったのに逆に傷つけてしまうなんて……うう……」
見事に尽く空振り空回りだ。事の顛末を彼に伝えると、何となくわかっていたが真っ先に怒られた。
「そんな心配してたの!? 俺のことなんだと思ってるの!?」
「お人好しの馬鹿!! 自分のことなんか考えない間抜けぇ……!」
「そういうことじゃないってば!」
傷心してしまい、起き上がる気力もなく地面にへばりついたまま、力のない八つ当たりをする。穴を開けて埋まりたい。
「だからって友達から離れることはないだろ」
「でも迷惑かけちゃうかもしれないよ」
大きなため息が聞こえる。
「迷惑かかってもいいって言ってるんだ。何より友達が離れていってしまう方が辛い」
D君がゆっくり顔を上げると頬をつねられた。
「いふぁい!」
「もうこれからはこんなことしないで。はい、これ借りた本」
本をしっかりと握り締める。もう絶対に離さないように落とさないように。
「うん」
そう言って安心した柔らかい笑顔を見せてくれた。
それからというもの、以前の放課後に二人で教室に残っては本の感想を言ったり、時には校内を探索して見つけた空き教室で、お互いの本を模擬授業として紹介しあったり、全てが楽しかった、とても。大袈裟だけれど、D君にとって彼との毎日が今までの人生で一番楽しかった。
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梓月は、初めてあった日のことを思い出していた。友の性格は利他的で感受性が豊かで、心配性。幽霊になっても変わっていないなと考えている間にパンを食べ終わる。しかし、それが梓月は不安だった。もしもその善意が悪用されてしまったらどうするのか。他人に尽くして身を滅ぼしてしまったら元も子もない。そんな消化できない思いを抱え続けていた。
「梓月くんが幸せに暮らせるまでここにいるよ」
「そういうのやめろよ」
自分を心から想う友の笑顔を見た瞬間、涙が溢れ出した。梓月は、再会を喜ぶことよりも悲憤した。友は、運が悪く交通事故によって命を落とした。それによって、自分たちを救わない環境から離れて転生ができたはずだ。自分たちを見捨てた世界から解放されたはずだ。なのに自分のせいで留めさせてしまったことを酷く後悔した。誰よりも幸せになって欲しかったのは、目の前の友だ。
「どうして俺を恨まないんだ」
「友達だもん、それに梓月君は何も悪くないよ」
「でも、生きてるのは俺だけ、俺だけだ……こんなの意味がない。逆なら良かったのに」
それを聞いてD君は傷ついたように目を見開いたあと、梓月から顔を背けた。
「梓月くんは悪くないよ、それならむしろ……」
「……なに」
「いいや、やっぱりなんでもない。よくわかんないや」
「ばか」
「ヒドイ!」
肌にまとわりつく汗に苛立って、D君の傍が冷たかったことを思い出す。冷気に当たろうとD君に手を伸ばすと、するりと離れていく。
「あっ、ああ! だめ! だめだよ」
いつにも増して大きな声を出したと思うと、慌てている様子だった。部屋の隅にまで離れてしまったD君を安心させようと両手を上げて降参を表した。
「ごめんって、わかったよ。触らないから近くにいてくれない? 暑くて死にそう」
「それならいいよ……でも絶対触っちゃダメだよ!」
「なんで?」
「それは……その、ここに来る前にも人とすれ違ったり、気づいてもらおうと触ろうとしたんだけど、みんな苦しむんだ。梓月くんにまでそんなことしたくない」
友の悲愴な面持ちを見ては、引き下がざるを得ない。
「……わかったよ。そんなに嫌がるならしない」
友の傍で横になる。いつもは蒸し暑さで脳が茹だるのに、心地よい冷気で過ごしやすかった。
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八月一日
今日は朝早くから蝉が鳴いている。D君が来て一週間が経つ。
扇風機の前を陣取って、Tシャツの首元を摘んでパタつかせては涼んでいた。アルバイト資金だけでは生活費で手一杯でエアコンを買う余裕もなかった。一人暮らしを始めるまでは、投資をしてくれる人間がいたが、都合が悪くなり飛び出たのが最後だ。もう少し居れたらエアコンも買えただろうに。今年は例年以上に猛暑らしく、夜になっても一向に気温が下がる気配はない。カラッとした暑さの夏でも室内にいるとなれば別だ。
「あちー」
アイスが溶けて手に垂れた。
友は、俺のそばにいることで成仏できると思っているらしいが、結局のところ俺次第なのだと思う。今日もD君が料理を頑張っている。
夕暮れが近づくと友は、毎日毎日飽きることなく、外を眺めては、何かを探すような素振りをしている。
「D君、なにか見えるの?」
友は困ったように笑って、そして少し安心していた。周囲を見渡していると思ったが、いや、何かから目を背けているのか。よく見れば実際のところ窓の縁を凝視しているようだった。
「うん、いや、外が見たかったんだけど」
「その割には見てる時に落ち着きがないけど」
友が何を言っているのかさっぱりわからなかった。心配になった梓月は悩みを知りたかった。
「誰かいた?」
「大丈夫、不審者とかじゃないよ」
「じゃあ何……言ってくれないとわからないよ」
「言っても、わからないかも」
「それでもいいから」
なんと説明しようか悩んでから友がしどろもどろに話始める
「丸くて、空に浮かんでて……UFOじゃなくてもっと、まんまるで……」
「飛蚊症?」
「ち、違うよ!絶対にアレは」
何か言いかけて友が横目で窓の外を見ると、すぐに目を逸らして梓月と視線が合う。
「そこに」
「そこに浮かんでるの?」
「浮かんでるかはわかんない!一瞬しか見れなかったから……」
「そのさ、もしかしてだけど、D君の言うアレって、太陽じゃないの」
そう言うと、友はハッとしたように頷く。しかし、また顔が曇る。
「……アレが?」