秀才 たくましい大胸筋、その真ん中あたりをめがけて人差し指を奴につきつけた。鉄筋のように硬いだろうと思っていた筋肉の層は意外にも柔らかかった。黒須一也の第一印象は何故かそれになってしまった。
スーパードクターK・西城KAZUYA、その『写し』。
親父から、高品院長から話を聞く度に「そんなことはあり得ない」と思いつつ、まるで特撮ヒーローのようだと心を躍らせている自分が居た。現在「K」を襲名している神代一人──彼は「表」には滅多に出てこないが、西城KAZUYAと同じく、この業界では名の知れた人物であった。
地頭が良いのねぇ章さん。医大に入った際ご近所の婦人にそう言われた。冗談じゃ無い、オレ達「普通」の人間がどれだけ苦労して医学の道を歩もうとしているか、天才ではない、秀才の頭だ、凡才の頭だ、ひたすら努力を重ねなければ天才には遠く及ばない、それをわかっちゃいない、地頭がいい、なんて言葉だけで片付けようとするんじゃない。飛び出てしまいそうな言葉をグッと飲み込んだのを思い出した。
「黒須一也、お前も天才の一人だな」
甚だしい越権行為で他の研修医を出し抜いて、悠々とこうして仮眠室で寝ているとは。バーボンをあおらなければ患者の死にも向き合えない医師が居るという事を知っているだろうか。オレの独り言は聞こえたか。どうやら聞こえていないようだ。静かに寝息を立てている。
新人担当医の代わりに遅番となり、暇潰しに院内を見回って仮眠室で寝息を立てている奴を見つけた。緊急オペが二回、いや三回、異なる診療科を立ち回り、(それは越権行為だと忠告した筈だ)過不足なく周囲の手の助けを求め、また自らの手を差し伸べる。
「──Kは神のようだった」
ベロベロに酔っ払った親父が小さく呟いた言葉だった。神は分け隔てなく手を差し伸べてくださった、と。
ただ然しだ、「神の手」は「人の手」であって、数多の人に求められたその時に二本の腕だけでどれだけの人を救う事ができるだろうか。
「──お前は母親のトリアージをしたそうだが」
規則正しい寝息は変わらず、恐らくはトラウマめいたものさえ克服しているのだろうと思った。強く雄々しい野獣のような肉体。黒須と比べるとほんの少しだけ線の細い神代一人の姿が頭の中に浮かんだ。
神代一人──神の代わりの器を持つ唯一の人。Kを継ぐ者。お前もやがてKの名を継ぐ、そのように出来ていると。
「人の手で救える命の数はたかが知れている、だがその範囲で、オレ達普通の人間は命を救うんだ」
完全に独り言だった。他のベッドで寝ている奴らに聞かれているかもしれない。でも見た目には完璧に見える超人を、そう、光の巨人を前にして何も言わずには居られなかった。
どうやっても秀才は天才たり得ない。
光の巨人にはなれやしない。
地球防衛隊の一隊員だけでは怪獣とは戦えない。
「K」は憧れの対象であり、また自分には成し得ない事を成す存在だ。
嫉妬とすら言い難い、薄暗いこの感情はどうしたら治まるのだろうか。
「黒須──オレが子供のように握手をして欲しい、なんてあのKに言ったら、どうなるだろうな」
苦笑しながら、上下する大胸筋にシャツの上から触れた。
口から入った空気は肺を通して酸素を全身に運び、二酸化炭素を回収して再び口から漏れていく。
「人間てのは、まァよくできてるよ」
神が人間を創造られた。
そんな一節がどこぞの聖典にはあるそうだ。だがオレはそんな事信じちゃいないし、どう足掻いても現実世界に光の巨人は居ないのだ。
黒須の身体を通して夢想の世界に溶け込んでいた。腕時計を見る。およそ十分の出来事だった。
「さて行くか──さらば、ウルトラマン」
谷岡章外科部長がその場を後にしてから僅か十秒、ポケットに入っていたPHSのベルが鳴る。
「──外傷無し、脈拍無し、体温は? 基礎疾患不明、道路に仰向けに倒れていた、ああ、そうか、意識レベルはどうだ──オペ室は十分、いや五分で空けろ、今すぐにだ!」
けたたましく音を立て走り去る谷岡の足音を、黒須一也は聞いていた。