さまときとあさ 洗ったばかりの白いカーテンを引くと、雲ひとつ無い青空が広がっていた。目覚めは良好。音を立てないように気をつけながら、するりとベッドから抜け出す。太陽に暖められたフローリングを裸足のまま踏みしめると、じんわりとぬくもりが伝わってきた。キッチンの近くまで来ると、昨夜仕込んでおいたホームベーカリーから香ばしい香りが立ちのぼっていて、思わず笑みが溢れてしまう。
冷蔵庫から貰い物のベーコンを取り出して熱したフライパンに滑らせると、やがてパチパチという音と共に透明な脂が染み出してきた。まだ赤みが残る部分を揚げるように火を通して、ホームベーカリーから取り出した焼きたてのパンの上に敷く。鼻歌を歌いながら脂を残したフライパンにタマゴを割り入れると双子の黄身が姿を見せた。こっちはあいつの分にしてやろうと、ベッドで眠っているだろう同居人を思い浮かべながら、出来上がった目玉焼きをベーコンを敷いたパンの上に乗せた。冷蔵庫にしまっておいたサラダと牛乳、そして少し迷ってから自家製のキャロットラペを盛り付けて、朝食は完成。
「左馬刻、朝メシできたぞ!」
そう声を張り上げると同時に、がばり、という音と共にバサバサッと何かを翻すような音、続いて慌ただしい足音が迫ってきた。
「いちろう! てめえ、おれさまからかってにはなれるなって、いつもいってんだろ!」
勢い良く飛び出してきたのは、サッカーボールふたつ分くらいの大きさのいきもの。混じりけのないまっしろな毛に覆われたさんかくの耳とふさふさの尻尾を持つ、真っ白な動物――しかし、決定的に犬や猫とはまったく違う生き物だった。
「おう、おはよう左馬刻」
四つん這いで走ってきたかと思えば、すぐに二本足で立ち上がり肩を怒らせているそれは、人間のこどものようにも見える。大福のような白く滑らかな頬。もみじのような手のひらに、くりくりとした大きな瞳。しかし頭頂部から生える獣の耳と、長い毛に覆われた尻尾が、このいきものが人間でも、動物でもないことを如実に表している。
「悪かったって。それよりはやくしねえと、メシ冷めちまうぞ」
そういなすと、いきものは不服そうながらも、くんくんと鼻を鳴らして現れた時と同じ機敏さで向かいの席についた。
「よし、じゃあいただきます」
「いただきます」
イケブクロの萬屋ヤマダ、その主――山田一郎は、この奇妙な生き物と共に暮らしている。
■
この生き物――左馬刻との出会いは全くの偶然だった。若くして萬屋を営む一郎には弟がふたりいる。次男の二郎とはふたつ、三男の三郎とはいつつ年が離れていて、長男である一郎はもっぱら二人の親代わりとして働いていた。しかし、そんな弟たちも中学への入学をきっかけに寮暮らしをすることとなり、一郎とは離れて暮らすことになった。
一郎の弟たちが通う学校は中学から大学までのエスカレーター式であり、学問・スポーツ共に優秀な生徒が揃っている。当然、教師陣のレベルも高く、進学にせよ就職にせよ、生徒の希望に応じて手厚いバックアップが受けられる。もちろん、生徒にも相応の努力が求められるが、それ以上に恵まれた環境であることは間違いなかった。
私立でエスカレーター式、しかも男子生徒は女子生徒よりも学費が十倍以上かかることもあって、弟ふたりを送り出すことはそう簡単ではなかった。しかし幸いながら、高校生である一郎が始めた萬屋はなんとか軌道に乗り、弟たちが卒業するまでの資金を貯めることができた。親元とも言える一郎の元から離れたがらない弟たちを叱咤激励し、次男である二郎を見送ったのが四年前、末っ子である三郎を送り出したのが一年前のこと。
そして弟たちが去り、静かになった家に新たな家族を迎え入れたのがちょうど半年ほど前のことだった。年末年始で帰省した弟たちと新年を迎え、再び送り出してからしばらく経ってから。ちょうど、雪に成りきらない氷雨が降りしきる、寒い日のことだった。
弟たちが家を離れたことで、山田家は急に静かになった。顔を合わせれば意地を張り合う弟たちをたしなめることが日常茶飯事になっていた一郎にとって、ふたりの声が聞こえない家はひどく寂しく感じられた。その日は前日から降り続く雨のせいで依頼も少なく、午前ですべて予定を終えてしまった。ビニール傘を叩く雨の音をBGMに、趣味であるアニメやライトノベル鑑賞でもしようと家への帰路についていた時のことだった。
始めは、誰かがマフラーか何かを落としたのかと思った。しかし近づくにつれ、それは長い毛に覆われた生き物であることが分かった。もしや犬か猫が車にでも轢かれたのかと思い、慌てて駆け寄った一郎は、傘を放り出すとお気に入りのスタジアムジャンパーが汚れることなど気にもとめず、毛玉を拾い上げた。
つめたい雨のせいですっかりと冷えてしまったからだは不安になるほど軽く、あちこちが泥で汚れていた。しかし、何より一郎の気を引いたのは、その生き物が長い毛に覆われた耳と尻尾以外、人間の子どものような姿をしていたからでも、三角形の耳にこれでもかと空いたピアスに驚いたからでもなかった。一郎がそのちいさなからだを抱き上げた瞬間、ほんの僅かにいきものが身じろいだ。生きてる!そう思い、息を詰めて見守っていると、色素の薄い睫毛が二、三度震えてから、ゆっくりと瞼が開いた。時間にして数秒、或いは数瞬に過ぎないその時、一郎は生まれて初めて見る、自分と同じ赤色の瞳から目を離すことができなかった。
「いちろ! このにくなんだ? うめえ!」
舌っ足らずな声に名を呼ばれて顔を上げると、そこにはすっかりと山田家に馴染んだいきものが目を輝かせていた。初めて出会った赤色の瞳を爛々と輝かせ、夢中になってトーストを齧っている。
「ベーコンな。依頼人が礼にってくれたんだ。ホッカイドウの牧場産らしいぜ」
「ホッカイドウ……?」
「あー、左馬刻は知らねえか。北だよ。寒ぃトコ」
一郎の返事に、いきもの――左馬刻はほんの少しだけ考える素振りを見せたが、すぐまた食事に夢中になってしまった。ガツガツと口元にパンくずをつけながら食べる様は見ていて気持ちが良い。
「こら、あんま焦んな。いつも言ってンだろ。メシは逃げねえからゆっくり食えって」
卵の黄身で汚れた手を必死に舐めとる姿に苦笑しながらナプキンで口元を拭ってやると、途端に左馬刻は不機嫌そうに眉を顰めた。
「おまえこそいつもいってんだろ! ガキあつかいすんじゃねえ! おれさまはいちろうのツガイなんだかんな!」
「はいはい。ありがとよ」
短い手足を振り回しながら言うその言葉は左馬刻の常套句だった。左馬刻曰く、『ひとめみてきにいった』らしい。目を覚ましてから、そして一郎が引き取ると決めてからというもの、耳にタコができるほどに聞かされている言葉だった。もちろん、本気にしている訳ではない。幼い子どもが年上の幼馴染みや教師に抱く憧れを誤認しているのだろう。弟たちも幼い頃はそうしたことがあったし、愛読書であるラノベにもそう書いてある。しかし、左馬刻は一郎のそんな態度が気に入らないらしい。頬を膨らませてなおも言葉を言い連ねる。
「いちろう! おまえまたほんきにしてねえな! おれさまのほんとうのすがたはすっげえカッコイイんだっていつもいってんだろーが!」
「おうそうだな。左馬刻は将来は絶対カッコよくなるもんな」
「しょうらいじゃねー! おれさまはもうカッコイイんだ!」
噛み合わない会話に苛立つ左馬刻を横目にトーストを齧る。左馬刻はというと、一郎が真に受けていないことを感じ取ったのか、ぷんぷんと怒りながらも、残ったサラダに手を伸ばしていた。しかし、その隣にあるオレンジ色の野菜に気づいた瞬間、小さな手に握られたフォークがぴたりと止まった。
「いちろ……これ、」
「ん、ああ。サラダがちっと足りねえから添えてみたンだが、無理そうなら食わなくていぞ」
左馬刻を引き取ると決めたとき、何が食べられるのか、食べられないのか医師に相談したことがある。なにせ今まで見たことのない生物だ。食べ物が動物のそれであるのか、人間のそれであるのかは素人の一郎にはまるで判断がつかなかった。しかし知り合いの医師曰く、消化器官といった内臓や身体のつくりは人間のものと同一で、どうやら食生活は人間と同じでいいらしい。好き嫌いはあるが、禁忌とされる食べものはないようだった。
そして、左馬刻の嫌いな食べものはどうやらふたつ。ピーマン、そしてニンジン。世の子どもたちを代表するようなその好みに、眉を顰めるよりも微笑ましさが勝ったのは記憶に新しい。左馬刻はというと、天敵を前に全身の毛を逆立てながら、やがて恐る恐るといったように、くたりと味が染み込んだニンジンをフォークですくい取った。
「おれさまは、カッコイイおとなだから、くえる……」
そういって千切りになったニンジン二きれ、三きれを思い切ったようにぱくりと口に運んだ。
「お」
「う、ウ……」
途端にボフン、と音がたたんばかりに尻尾の毛が逆立つ。それでも必死に口を動かす姿はいっそいじらしささえ感じる。もしゃもしゃ、ごくん。
「す、っげえじゃねえか、左馬刻! 偉いぞ!」
「どうだ……おれさまカッコイイだろ」
ぷるぷると震えながらも胸を張る姿は格好良い、よりも小さな生き物への愛おしさやかわいらしさが勝って、思わずわきの下に手を差し入れて抱き上げてしまう。
「いいこだな~、よしよし」
「あ、こら! いちろ、おまえまたおれさまをガキあつかいしやがって……!」
ふわふわな頭を撫でながら、耳の付け根を軽く搔いてやると小さな体から力が抜け落ちていく。抱き上げた体から伝わる体温は温かく、リビングに漂う二人分の朝食の香りが自分がこの家にひとりでないと教えてくれる。
うららかな春の日、萬屋ヤマダの新たな日常は一人と一匹の声から始まる。