左馬刻と風邪引き 背筋を走る嫌な寒気と頭痛に、一郎は思わず顔をしかめた。
季節は五月――ここ数日降り続いた雨は、まだ夏になりきらない春の空気を冷やし、冬に巻き戻ったかのように錯覚しそうになる。いつもなら半日で終わるはずの調べ物はたっぷり一日かかってしまい、窓から外を見やると空は既に昏くなり始めていた。雨脚は緩む気配がなく、街では傘を差した人々が足早に過ぎ去っていく。まるで水の中にいるかのような息苦しさを感じ、ため息を吐いてから一郎はデスクから立ち上がった。瞬間、きりりと背中に痛みが走る。
「っ、つう……」
幼い頃、戦火に巻き込まれた際に負った背中の傷跡は、この雨がまだ続くことを知らせていた。
「いちろう、どうかしたのか?」
軽い目眩を感じ、こめかみを抑えて立ち尽くしていた一郎に声をかけたのは、同居人である左馬刻だった。一郎の膝丈くらいしかない背丈はどう見ても幼い子どもだがその実、知能は一郎と遜色はない。そして頭頂部から映えた柔らかな三角の耳。連日続く雨のせいかしんなりとしている尻尾と同じ、銀色の毛並みは明らかに人間とは似て非なるものだが、一郎はこの不思議な同居人を憎からず思っていた。先ほどまでソファで昼寝をしていたはずだが、どうやら目を覚ましたらしい。ごしごしと真っ赤な瞳を擦りながら、ぽてぽてと一郎の方に歩み寄ってきた。
「……左馬刻、悪いが今日はひとりで寝てくれ」
「⁉」
自覚した瞬間、存外素直な身体は次々と不調を訴えてくる。寒気に頭痛、背中の痛みに加えて目眩――完全に風邪の兆候だ。心なしか吐き出す息も普段より熱い気がして、歩み寄ってくる左馬刻を右手で制す。一郎からの明確な拒絶に左馬刻はぴたりと立ち止まった。先ほどまでの寝惚け眼はどこへやら、なにが起こったか理解出来ないと言わんばかりにぱちくりと目を見開いたまま呆然とした様子で立ち尽くしている。宇宙猫ならぬ宇宙刻といったところだろうが、今の一郎はそんな左馬刻の様子に気づく余裕はない。
「い、いちろ……?」
「どうも風邪引いたみてェだ。メシは準備しとくから今日は――」
「かぜ……って、いちろうはどうすんだ……?」
「俺はひとりで大丈夫だから……伝染すといけねえから、今日は絶対に部屋に入るンじゃねえぞ」
左馬刻の寝床と食事の準備を手早く整えると、一郎は重さを増した身体を引きずるようにして部屋へ向かった。途中、左馬刻が足元にまとわりつきながら不安げにこちらを窺っていたが、大丈夫だからと虚勢にもならない言葉をかけて半ば追い出すようにして自室のドアを閉めた。外からはドアを開けようとしているのか、カリカリという引っ掻くような音がしていたが、一郎は返事をしないと分かると諦めたのだろう、やがて静かになった。暑いのか寒いのかも判断のつかなくなった身体をベッドに横たえると、やがて一郎の意識は暗闇に飲み込まれていった。
■
ざあざあと降りしきる雨はいよいよ勢いを増していく。先ほどから雨だけではなく、雷の音も混じり始め、一郎は屋根のある場所を求めて足早に歩いていた。学ランは雨でぐっしょりと濡れ、肌にまとわりついて気持ちが悪い。朝方から感じていた違和感は、もはや無視できないほどに膨れ上がり、寒さ以外の理由によって肌が粟立つ。気を抜けば倒れ込んでしまいそうで、奥歯を強く噛みしめたまま、泥で汚れたスニーカーを懸命に動かした。
戦災孤児として児童養護施設で育った一郎は、弟である二郎と三郎と共に暮らすための資金を得るためにアルバイトに明け暮れていた。時には年齢を誤魔化して、時にはやくざの使い走りなど、後ろ暗い仕事すら引き受けていたのだが、どうやら無理がたたったらしい。それでも施設に戻れば弟たちや、ほかの子どもたちに伝染してしまうことを考え、適当な軒先を求めて一郎は夜の帳が降りた昏い夜道を歩んでいった。
ようやく辿り着いたのは、寂れた商店街だった。ここしばらく活発になっていた再開発と、それに伴う立ち退きのせいでシャッターはほぼすべて閉まっており、閉店の張り紙が貼られているものがほとんどだ。人がおらずとも、どこか雨風のしのげるところはないかとあたりを窺うと、一郎の立っているところからほんの五十メートルくらい先に、ぼんやりと白色の灯りが漏れていた。月明かりのようなそれに惹かれるように半ば無意識に歩を進めると、そこには木製の扉があった。扉には十数センチ四方の窓が据え付けられており、どうやら灯りはそこから漏れているようだった。一郎自身、立ち退きに関わっており、この商店街の店は全て把握していたつもりだが、こんな店は記憶にない。しかし、いよいよぼんやりとしてきた頭でこれ以上何かを考える気にはなれず、一郎はドアノブに手をかけた。ドアは見た目の重厚さに反して、思いの外すんなりと開いた。ちりん、とドアベルが軽やかな音を立てる。果たして扉の先にあったのは、洒落た喫茶店のような佇まいだった。アンティーク調のカウンターにはコーヒーカップやポット、ソーサーが並べられている。そしてカウンターの奥には店主と思しき男がひとりこちらに背を向けるようにして立っていた。
「……客か」
ドアベルの音に気づいたのか、店主らしき男は背を向けたまま呟いた。どうやら珈琲を淹れているらしい。男の手元からは軽やかな音と共に、香ばしい香りが漂ってくる。
「いや、俺は……」
しかし普段ならともかく体調を崩している今、珈琲を飲む気にはなれず、仕方なく店を後にしようとしたその時だった。
「あ? なんだお前、客じゃねえのか……だったらそこ座れや」
ふと、何かに気づいたように店主の男がこちらを振り向いた。背丈は一郎よりも少し高いくらい。しろがねの髪が照明の明かりを受けてきらめく。滴る鮮血を思わせる真紅の瞳に黒いシャツを身にまとった男は、カウンターの席を指さした。
「いや、アンタの言うとおり客じゃねえンだ。雨宿りさせて欲しかったんだが、珈琲は飲めねえ。邪魔して悪かったな」
客でないなら出て行けというのなら分かるし、一郎も事実そうしようとしていたのだが、なぜか座るように促されて困惑のまま言葉を返す。一言話すごとに頭の中で反響するような感覚がし、とにかくこの場を立ち去ろうとしたその時だった。
「ぅ、あ――?」
ぐるん、と目の前が半回転して一郎は思わずその場に崩れ落ちた。なんとか倒れ込むことは避けられたが、足元はどこかふわふわとしておぼつかない。
「んな状態でどこ行くってンだ。別にタマ取るってワケじゃねえンだ、おとなしく座っとけ」
泥で汚れたスニーカーのつま先を眺めるのが精一杯で、蹲っているとがしりと腕を掴まれた。いつのまにかこちらに近づいてきていた男に腕を取られたのだと気づいたのは、壁際のカウンター席に座らせられてからだった。
「……お前、家は」
「ない……今は施設に……けど、帰れねえ」
「そうか」
壁にもたれかかりつつ椅子に腰を下ろした一郎に、店主の男は短く尋ねた。男の問いに、一郎は唸るようにして答えるのが精一杯だ。
「家がないってことはお前、独りなのか」
「……ひとりじゃねえ。弟がふたりいる。今は……なかなか話せてねえけど、またいつか――」
いっしょに笑い合って暮らしたい――そんな情景を瞼に浮かべたまま、再び熱い息を吐く。敵の多い生き方をしていた一郎にとって、自分の素性を話すことは避けるべきのはずだが、不思議と目の前に立つしろいおとこに対しては弟たちにすら話したことのない想いを話していた。
「そうか……」
「…………」
男はというと、それきり口を閉じて黙りこくってしまった。なにか作業をしているのか、時折かちゃかちゃと食器の擦れ合う音はするが、それ以外は静かなものだ。外の大雨のせいか、一郎以外の客が訪れる様子もない。雨音と時折聞こえる陶器の音に耳をそばだてながら、ゆっくりと瞼を下ろしてうとうととしていたその時だ。
「ん……」
ふわり、と先ほどまで漂っていた珈琲の香りとはまったく違う匂いを鼻腔が捉えた。オレンジやレモンといった柑橘の爽やかな香りに、花のような甘い香り。絡み合う豊かな匂いは、まるでこの場所が寂れた商店街ではなく、花の咲き乱れる森の中にいるかのように錯覚しそうになる。
「おい、寝る前にこいつを飲んどけ」
ゆるゆると目を開けるとそこには、半透明の液体が注がれたグラスが置かれていた。輪切りのオレンジとレモン、それからハーブだろうか、白い小花がぷかぷかと浮かんでいる。香りはこのグラスから漂っているようだった。
「俺、金は――」
「ハ、風邪っぴきのガキから金なんざ取りゃしねえよ。それにどうせ今日はもう店じまいだ」
そう言われて、導かれるようにしてグラスを手に取る。まだ熱いそれをふうふうと冷ましながら口に含むと、柑橘の爽やかな味と、蜂蜜のような花の甘やかな香りが全身に広がっていく。それだけで、動くことすら億劫だった身体が楽になった気がする。再び心地よい眠気が忍び寄ってきて、壁にもたれかかると、一郎はそのまま深い眠りへと落ちていった。
■
随分と懐かしい夢を見た気がする。着替えもしないままベッドに潜り込んだせいか、身体は楽になるどころか怠さを増していた。体温を測ることすら面倒で正確には分からないが、熱が出ているようだ。喉も渇いていたがベッドから出る気にもならず、一郎は布団を被り直すと、身体を丸めながら夢のことを思い出していた。
まだ施設で暮らしていた頃、弟たちと暮らすための金を得るために随分と無茶をした。年齢を誤魔化して工事現場でアルバイトをしたり、やくざの使い走りをして借金の取り立てや立ち退きの手伝いをしていた。そんな仕事ばかりしていたせいか、弟たちとは距離ができてしまい、しまいには無理がたたってついには体調を崩してしまったことがある。医者にかかれば施設の人間に知られるだろうし、そんな状態で帰れば弟たちを初めとした子どもたちに伝染してしまう。そう考えた一郎は、取り立てのアルバイトを終えた後、誰もいない廃屋で夜を明かそうとしていた。
その時に訪れたのが、寂れた商店街にある一軒のコーヒーショップだった。そこで出会った店主らしき若い男は、客商売をしている割には随分とぶっきらぼうだったが、客でない一郎に屋根を貸すばかりか、温かい飲み物を出してくれた。そのおかげか一晩眠ったあとは、それまでの体調が嘘のように身体が楽になっていた。しかしカウンターに突っ伏すように眠っていた一郎が目を覚ますと、店には誰もおらず、それどころか、それまでこぢんまりとしつつも綺麗に整頓されていた店の内装は嘘のように寂れていた。そしてそれから何度訪れても、男の姿を見つけることはできず、それどころか店にすら辿り着くことはできなかった。
(――なんで今さらあの時のこと思い出してンだ、俺は……)
いよいよ熱は上がってきたようで、ぞくぞくと背筋を走る寒気とは裏腹に、体内に籠もった熱が行き場をなくして全身が沸騰したかのように熱い。呼吸をすることすら億劫で、なんとか再び眠ろうとしていたその時だった。
「――?」
キィ、という蝶番が軋む音とともに、入り口の扉が開いた。
――なんだ、夢か
そう直感したのは、そこにいるはずのない人間が立っていたからだった。ちょうど雲間から指した月光が電気が落とされて真っ暗になった部屋に差し込む。月明かりが照らしだしたのは、ひとりの男だった。ちょうど差し込む光のような白銀の髪に白い肌、そして一郎の左眼と同じ、真っ赤な瞳。背丈はちょうど一郎と同じくらいで、そして一郎は男に見覚えがあった。
「目、覚めたと思ってたのに……まだ、ゆ、めン中かよ……」
「…………」
先ほどまで見ていた夢――その夢に出てきた男と、寸分違わぬ姿のしろいおとこが、扉の先に立っていた。男は一郎の言葉に反応するでもなく、ただじっとこちらを見つめている。たった一度、出会っただけの人間を夢に見るなんて、随分と参っているようだ。
「あァ……けど、ちょうどよかった。夢でもいいからさ。アンタ、もうちょっとそこにいてくれねえ……?」
「…………」
やはり男はひとことも発しない。しかしこれが夢だからだろうか、一郎の言葉に男は足音を立てずに部屋の中に入ってきた。ふわり、とどこかで嗅いだ懐かしい匂いがする。
「なんか、すげえリアルな夢……あの時の匂いまでする……」
「…………」
オレンジとレモン、そして花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。心なしか呼吸が楽になり、この夢を見ながら再び深い眠りに就こうとした時だった。
「……え、あ?」
額に温かな感触を覚えて、ゆるゆると瞼を上げる。男は相変わらず、なにも話さない。けれど、男の右手――筋張った男らしい手のひらが、一郎の額に乗せられている。死神のような見た目に反し、温かな手のひらの温度と、触れる手の優しさに、なぜかぎゅうと胸が締め付けられる。優しい匂いと手のひらは、心地よいはずなのにそれ以上に切なくなって、知らず頬を熱いものが伝う。
「……、…………、……」
「……ぇ、な、に」
滲んだ視界で確かに男の唇が動いたのを見たのに、何の音も聞き取れない。思わず聞き返そうとするが、男は表情変えることなく、額に当てていた手のひらをずらして一郎の視界を覆った。その途端、まるでコンピューターの電源が落ちるようにしてぶつりと一郎の意識は途切れてしまった。
「あの頃と全然変わってねえじゃねえか。ったく……寂しいこともテメェじゃ分からねえとか、難儀なヤツ」
口調と裏腹に、ひどく優しい声で呟かれたその言葉はどこか安心したかのような表情で眠る一郎には届くことはなく、ただぼんやりと輝く月明かりの中に溶けていった。
■
「う、ううん……」
窓から差し込んでくる朝日に目を細めながら、一郎はベッドから身体を起こした。熱はすっかりと下がったようで、昨日までの怠さが嘘のように身体が軽い。しかし普段よりも寝過ごしてしまったようで、窓の外ではすでに人々が行き交い、時折電車が線路を走る音が聞こえてくる。そういえば昨日はろくに着替えもしないまま眠ってしまったのだった、と思い起こしてまずはシャワーをと思ったその時、はたと違和感に気づいた。
「あれ……俺、いつ着替えたっけか……?」
昨日はスタジアムジャンパーを椅子にかけてパーカーとデニムのままベッドに潜り込んだことまでは覚えているが、いま一郎は身につけているのは寝間着のスウェットだった。記憶がないだけで着替えたのかもしれないが、汗でべたつく不快感もなく、シャワーを浴びたか、身体を拭いたかでもしたかのようだ。しかしそれにしては一郎自身、まったく覚えがないというのもおかしな話だ。一体どういうことか一郎が首をかしげていると、ふと嗅ぎ慣れない、しかし確かに記憶に残る香りが部屋の中に漂っていることに気づいた。
「この匂い……?」
オレンジとレモン、そしてハチミツのような花のきれいな香り。熱に浮かされていた昨夜、過去に出会った男の幻と共に現れた香りが部屋の中を漂っている。部屋の中を見渡すと、香りの元はすぐに知れた。ベッド脇にあるテーブルの上。弟たちと撮った写真が収められている写真立ての隣に、用意した覚えのないグラスが置かれている。そしてグラスの中身を見て、一郎は思わず目を見開いた。グラスの中に注がれた半透明の液体、その中に浮かんでいるのは輪切りのオレンジとレモン、そして白い小さな花――かつて一度だけ出会った男が寄越してくれた飲み物だった。
「――――ッ⁉」
弾けるようにしてベッドから飛び起きて周囲を見渡す。一郎しかいないはずの部屋。しかしテレビに面して置かれたソファの上に自分以外の姿を認め、一郎は目を見開いた。
「……さまとき?」
ソファの上に大の字になって寝息を立てているのは、一郎の同居人である左馬刻だった。昨晩、心配して追い縋る左馬刻を前に扉を閉めたはずが、いったいどこから入ってきたのか、手足を投げ出してぐっすりと眠っている。ソファの前に置かれたガラステーブルの上には、中身が空になったコーヒーカップがちょこんと鎮座している。左馬刻はといえば見ているのか時折、頭頂部から生えた耳や手足と同じく投げ出された尻尾がぴくぴくと動いている。
「もしかしてお前が……?」
昨晩はかなり朦朧としていたから、閉めたはずのドアがきちんと閉じられてなかったのかもしれない。左馬刻が持ってきてくれた飲み物の香りから、無意識に夢を見てしまったのだろう。そう納得して、遅い朝食でも作ろうと部屋をあとにしようとしたその時だった。
「む、にゃ……いちろ……?、……、……ッ、もうだいじょうぶなのか⁉」
ぱちり、と大きな赤い瞳が見開かれて、一郎が瞬きする間もなく、ちいさないきものは飛び起きるとその勢いのまま、一郎の懐に飛び込んできた。
「うぉ……っと、ああ、もう大丈夫だ、心配かけて悪かったな」
「! おい、いちろう! おれたちはツガイなんだからあやまんじゃねえ‼」
「……ははっ、そうだな。おかげで助かった……ありがとな、左馬刻」
「……‼ ふ、ふん! わかりゃいいんだよ、いちろうもようやくおれさまのカッコよさがわかったか!」
懐に抱きついたまま胸を張る左馬刻に笑みを溢しながら、一郎は寝室を後にする。番かどうかはともかく、自分のことを気にかけてくれた同居人のために、ニンジンを抜いたとびきり美味い朝食を作ってやろうと思いながら。
そしてキッチンに向かう道すがら――
「……そういえば左馬刻、さっきなんか夢でも見てたのか?」
「おう! いちろうとケッコンするゆめだ!」
「そうかあ……そういえば俺も夢、見てたぜ」
「おれさまとケッコンするゆめか⁉」
「いやただの昔の知り合いの夢だ……けどそうだな……うーん、もしかしたら……初恋のひとの夢、かもな」
「⁉」
「……なんてな。さあ朝メシにするか!」
ぴん、と尻尾を立てて固まってしまった宇宙刻をひと撫でしてから一郎はキッチンへ向かう。寝室に置きっぱなしになっているはずなのに、鼻腔をくすぐるレモンとオレンジ、そして花の香りを感じながら。