種蒔く手 ハン・ジュウォンは喧騒の只中にいた。
ピカピカだった愛車はマニャンを離れてから泥と砂ぼこりにまみれるばかりで、もうずいぶん前に手放してしまったから、電車を乗り継ぎソウルまでやってきた。
かつて暮らした街はしばらく来ぬうちに、まるで知らない顔をジュウォンに向けていた。どこから来た者も招き入れる寛容なこの街は、その実ただ無関心なだけで、よそ者に対してあの町のような拒絶すらもよこさないだけのことなのだ。寂しいところだ、と思った。自分も少し前まではこの街のように、人の営みに関心を寄せることなどなかった。己の痛みだけに囚われていたあの頃、そんなことは見えなかった。
地下鉄の出口を出た途端に押し寄せてきたものに竦み、うまく歩き出せなかったジュウォンはそれを取り繕おうとコートの前を掻き合わせた。そんなごまかしを見透かすようにジュウォンの背中を、ジャマなんだよと悪態をついた男が押しのけていく。ジュウォンはまだ、自分の変容に追いつけないでいた。
・・・
マニャンを去った後、いつの間にか入れられていたチャットグループがある。だが、ジュウォンがそれを読むことはあっても、書き込むことはまれだ。それでも、目に入った飲み会の誘いに、勤務の日程があえば顔を出すこともあった。昨日届いた、二日後の誘いのそれにも気が付きはし、だが勤務があるから反応は返さなかった。
──またハン・ジュウォンの返事がない
──あいつはいつもそうだろ
──まぁ気が向いたら来るわよ
読んでいることを知っていながら揶揄が続く。ジュウォンとてそれに気を悪くすることはもうなくとも、媚びるような返事をするつもりもない。そしてなにより、そんな自分を彼らが許してくれていることをもう知っていた。
──あっちのスルー野郎はどうするんだ?
からかいの矛先はもうひとりの常習犯、イ・ドンシクに向いた。
ドンシクは今、介護タクシーを営んでいる。事件が『記憶』に変わる頃、ドンシクはいつの間にか癒えぬ傷を負ったマニャンの町から姿を消した。そして、もう戻らぬやもしれぬと顔馴染みたちが諦めかけた後になって彼は何食わぬ顔で戻ってき、介護タクシーを始めるから巡回のついでに宣伝しろ、とにんまりと笑い、周囲を呆れさせたのだった。
どうせあいつも好きにするだろう、放っておけ、とコメントが連なる。すると、あの時と同じような調子で、ドンシクからしれっと返事が書き込まれた。
──俺も行こうかな、明後日ならたぶん行ける
「明日、お宅に伺ってもいいですか?」
ジュウォンは唐突にドンシクに問うていた。チャットの彼のアイコンに触れたら、いとも簡単に電話が繋がってしまったから。
「明後日の飲み会ではなくて?」
電話の向こうの困惑の声色で我に返る。なんで通話ボタンなんか押したのだろう。なにか言わなくてはと焦ると、ご都合が悪いですか? と口をついて出た。違う、そうではなくて、と失態を悔いている間に、電話の向こうからは笑いを堪える息遣いが聞こえた。
「かまいません。本当は夜、いつも暇にしています」
・・・
ジュウォンはソウルの街をぎこちなく歩いて、二人分を頼んでおいたレストランの総菜を取りに行き、ワインを選び、デザートを買い、辿り着いた花屋の前で立ち止まった。そして、ショーケースに艶やかな花々が品よく並んでいるのを見てはたと気づく。
──ドンシクさんに花を贈る? ……いや、まて、さっき買った焼き菓子も、成人男性に差し出すような見た目のものではなかったのでは……
父の名代で行かされた個人宅の集まりには、テーブルの足しになるようなものや華やかなスイーツ、奥方用に花束を買っていくのが常だったから、ルーティンのようについ足が向いた。己のしくじりに眉間に皺を寄せ引き返そうとしたが、馴染みの店員が、お久しぶりですね、と声をかけてきて引っ込みがつかなくなってしまった。店員が今日はどのようなイメージの花束を、と問いながら、ジュウォンが手に持つ紙袋に記された店名に視線を走らせる。顧客の、言葉にしないニーズを汲み取ろうとするその仕草が、今のジュウォンにはいたたまれなかった。
動揺を隠そうと店内に視線を巡らせると、籠に入れられた種袋のパッケージが目に止まった。興味を持ったと勘違いした店員が説明を始める。
「あぁ、それは、いろんな種類の花の種を混ぜた商品なんです。どんな花が咲くのかわからない楽しみがあると人気なんですよ。ガーデニングがお好きなご夫人へなら、趣向が変わって喜ばれるかもしれませんね」
ジュウォンは一刻もはやく店を去りたくて、その提案にのったふりをした。
・・・
花の種なんかを買ってしまった。
シールを貼られただけのむき出しのパッケージを手に、電車の中でそのことばかり考えた。ムンジュ駅に着く頃にはそれは憂いとなってジュウォンを覆っていた。タクシーに乗り換えマニャンに向かう間に、門の鍵を開けておいたからいつもみたいに勝手に入っておいで、とドンシクからわざとらしいメッセージが届く。さんざん無遠慮な言葉をぶつけてきたというのに、今は返信さえ思いつかない。深く息を吸いたくて顔をあげると、バックミラー越しに運転手と目が合った。鼻歌を歌う彼に嗤われたように感じて、タクシーを途中で降りて歩き出す。訝しんだ運転手が徐行して様子を覗き込んでくるのを避けて、細い脇道へ逸れた。どうせなら遠回りして、少しでもドンシクに会うまでの時間を延ばしたかった。
寂しいマニャンの町をとぼとぼ歩く。知らぬ間に河原に出ていた。着任初日にパン・ホチョルを探しさまよったそこは、今も他者を厭うように葦が生い茂っている。この町を嫌い、この町に拒まれたあの頃の自分のようだった。それでもドンシクが守りたかったものの一端に触れた今なら、躊躇なくここに飛び込むことができる。警官として自分にできることを続けると告げた時、ドンシクが寄せてくれた信頼は、それからずっとジュウォンの支えになっていた。けれど、彼が奪われたものを考えると、自分に罰さえ与えてくれた彼にジュウォンが差し出せるものは、なにひとつないと思い知らされた。憂鬱が呵責に変わると、枯れた葦原を荒らす突風が生き物のようにまっすぐに向かってき、ジュウォンをそこからも追い払ってしまった。
・・・
寒風に凍えるほどになってようやく向かったイ家の門扉に手をかけて、深呼吸をする。錆びたヒンジがぎぎぃと鳴くと、すぐに玄関からドンシクが顔を出した。
「ジュウォナ! よく来たね。ああ、大荷物だ、手伝おう」
駆け寄ってきたドンシクの顔をまともに見られず、これは手土産で、と硬い表情のまま持ってきたものを突き出す。手には花の種だけが残った。受け取った紙袋の中を覗いたドンシクが笑う。
「おやまぁ、ハン・ジュウォン! これはね、よそよそしい手土産ですよ。駅前のチキンでいいのに!」
「……気に入りませんか?」
「あなたの選ぶものだから、美味しいのに決まっています。でも、チキンをがっつき合うのが気の置けない友人、てものじゃありませんか?」
「……友人……同僚、いえ、元同僚です……」
そう、ただの。
「そうですね。でも、疑い、憎み、全てを暴いて晒し合ったことで、友人になれたのだと僕は思っていますよ」
そう言って笑うドンシクの顔は、初めてまみえたあの日から、いや、監査対象として写真を目にしたあの日から、なにも変わらず、なにも他人に読み取らせない。
あぁ、僕はまだあなたのことを信じていないのか。
いつまでも物言わず立ち尽くす手に握られた小さな袋に気づいたドンシクに、それは? と問われる。とっさに隠そうとしたが、阻むように手を掴まれた。
あぁ、あぁ。温かい手なのに。なんて温かい、僕に触れるドンシクさんの指。
ジュウォンの目からぽとりと涙の粒が零れ落ちた。
「……わからなくて。あなたに何を渡せばいいのか、わからなくなったんです」
そして、ジュウォンは花の種を買うはめになったわけを、全てドンシクに白状した。
消え入りそうな声の『自白』を聞き終えるとドンシクは、奪った種のパッケージを振り中身をカシャカシャと鳴らすとにたりと笑う。
「ねぇ、ジュウォナ。僕はね、首だけ切られて朽ちるのを見守るだけの花束より、こちらの方がずっと嬉しいです」
嫌な言い回しをするものだと非難のつもりで、涙の残る目で睨む。それでも、ドンシクと目が合うと、ジュウォンの本心はいつも知らぬ間に零れ出してしまう。
「……その花の咲く頃また、来てもいいですか?」
ドンシクの瞳の色を確かめたくて覗き込む。けれども視線を躱すようにドンシクの瞼はゆっくりと閉じられ、ふたたび開かれるとそこには、いつかふたり歩いた冬の湖のように、凪いで艶やかな黒があるだけだった。
「もちろんです。この種が芽吹く頃、葉が露をまとう朝、満開の絢爛、花殻を摘みに、それから、新しい種を手に、いつだって来てください」
こんなに広い庭があるのですから、そう言って縁台の砂をはらいジュウォンに座れと促す。
「ここに座って庭を眺める楽しみを、あなたは知らないでしょう」
目に煩いほどの色彩を。
冬枯れた草むらの寂寥を。
「はい、でも、ここであなたと一緒に見たいです」
「いいでしょう。いつでも用意しておきます。ああ、寒い! さぁ、早く中へ。ごちそうを食べましょう」
どんな花の咲くかわからない種を、あなたはここに蒔くという。
その花に埋もれて笑うように眠るあなたを、僕はどうやって起こそうか。
あなたになら触れられるだろうか。
あなたはそれを許してくれるだろうか。
僕はまだ、あなたの本当の体温を知らない。
了