いぬのおまわりさん 散歩道で出会う犬たちは、サンウクさんが好きだ。彼を見つけると撫でてもらおうと、どの子も笑顔で飼い主を引っ張ってくる。ついでに言えば、サンウクさんもあの子たちが好きだ。散歩中にどの子にも会えなかった時の彼は落胆を隠せずにいるし、そんな日の帰宅は少しだけ、遅い。
ある夜サンウクさんは特に言葉少なだった夕食のあと神妙なおももちで、私に話があると切り出すと途切れ途切れにはなし始めた。
―――俺の住んでた家の先の交差点のとこ、犬のトレーニングやる店があったの覚えてるか? ガラクタ屋の息子がやってた店。たまにあそこに頼まれごとをされてたんだ。それで、あそこの親父も年だから、店たたむってんでこないだ片づけを手伝いに行ったんだが、そこを息子が自分の店で使うって。保護犬とか、そういう施設をやるから。それで、俺も手伝わないかって、言われて―――
いまいち要領を得ず、話の核心が見えなくてつい気が散ってしまった。サンウクさんが中指の逆剥けを親指でずっと弄っていたから、痛くしてしまうんじゃないか、とそこばかり見つめていた。だから、急に少し声量があがり、音の輪郭がはっきりした単語が耳に届いた時、とっさに理解できなかった。
「――だから、犬の学校に行こうと思って」
いぬの、がっこう。
彼の手元を見ていた視線をあげる。真剣な顔つきのサンウクさんがこちらを見ていた。うわの空だったことがバレたかなと少し焦った。だから頭に浮かんだことを、そのまま口にしてしまった。
「……サンウクさん、って、やっぱり、わんちゃんだった、んですか?」
「……なんだって?」
あの懐かれ具合も納得です、などと付け加える前に怪訝な顔のサンウクさんと目が合って、慌てて取り繕った。
「あ、いえ。い、犬の学校、というと?」
よくよく聞いた内容はこうだった。サンウクさんは親しくしていた古物商に頼まれて、その息子が経営する、ペットホテルや犬のトレーニングのお店で時々バイトをしていたらしい。その古物店を閉めるにあたり、息子が跡地を使い遺棄犬の保護や譲渡などをする活動を始めるので、手伝ってほしいと依頼された、と言うことだった。バイトの内容を詳しく聞いたことはなかったけれど、以前そこで保護した子犬が、やっと自分の膝に乗ってきたと話してくれたことがあったのを思い出した。サンウクさんはその時、とても嬉しそうにしていたし、飼い主の見つからなかったその子を、結局古物商が飼うことにしたらしいと後から報告もしてくれた。
きっとそんなサンウクさんの気質をみての依頼だろう。はじめは断ったらしいが熱心に乞われ、それならば片手間に手伝うのではなく、ちゃんと仕事として向き合いたいと考えるようになったのだという。そのために、専門学校に通い勉強をしたいと思っている、とそう話してくれた。
「二年かかるけど、その間全く仕事ができないわけじゃないし、お前と暮らし始めて蓄えも増えたし……」
下調べを重ねて、学費と生活費はなんとかなりそうだと算段をつけたのだという。サンウクさんは続ける。
「でも入学するのには、まずは、高卒認定試験を受けないとならないらしい。俺は高校、出てないから」
久々に勉強しないと、とはにかんだように言うのに、国語系ならお力になれますよと返すと、サンウクさんは眉間に皺を寄せてからゆっくり口を開く。
「大丈夫だ、俺はもともと頭がいいから。たぶん、お前より」
思わず吹き出す。けれどサンウクさんは表情を変えない、わざと。彼は時々ユーモアのある面を覗かせる。暮らしを共にし始めた頃、テレビにボソリとツッコミを入れているのを初めて目撃した時には記念動画でも撮ろうかと思ったほどだが、今ではツッコミの数がサンウクさんの、番組へのお気に入り度を計る指標になっている。
いつまでも笑っている私に、冗談を言ったつもりはないぞ、とサンウクさんも表情を崩す。
「ふふ、わかりました。でも、私にできることがあったら、なんでも言ってください。あなたの力になりたいんです」
私がなんとかそれだけ言うと、一度は表情を緩めた彼は、また唇を引き結んだ。
「一人で居たらきっとこんな風に考えなかった。生活費はちゃんと入れる。それでも、お前にいろいろ負担をかけるかもしれないが……」
そう呟くと、サンウクさんは目を伏せる。
あなたはあたたかく、やさしい心で、これから出会う子たちに接するのでしょう。
時に他者を思って見せる厳しさも、きっとその子たちを導くはずです。
ねぇ、サンウクさん顔をあげて。
私が今どんな顔をしているか、あなたは知っていますか?
end