角砂糖三つ「ヴィクはきみたちが思ってるよりもずっと子どもだよ」
博士はそう言って、珈琲に角砂糖を三つ入れた。
「……」
「あ、今おれのほうが子どもっぽいって思ったでしょ」
「え? あーいや、あはは」
図星だった。
普段の行動を見ていると、どう考えてもドクターのほうが年相応で、博士のほうが幼く見える。
ドクターは常に落ち着き払っていて声を荒げるところなんて見たことないし、憔悴しているところを見たのも一度だけだった。
博士は反対に、しょっちゅう駄々をこねたりその辺りに行き倒れていたりと、とてもじゃないが同い年には見えない。
「ま、ヴィクは昔から大人びてたけど」
「でも、子どもっぽいって」
「うん。逆位相的に……とでも言えばいいのかな。ヴィクは子どものときに子どもらしくいられなかったから」
「子どもらしく……?」
隣の一人掛けソファに腰かけた博士はまだ砂糖の溶け切っていない珈琲をくるくるとかき混ぜながら、一口飲んでうぇ、と渋い顔をして舌を出す。
「やっぱ自分で淹れても苦いだけだ。ヴィクが淹れてくれたのはブラックでも飲めるんだけど」
「ドクターの珈琲は美味いよな。店で出せるレベルっつーか、店のより美味いかも」
「でしょ」
ドクターのことなのに、自分のことのように博士は誇らしげに笑う。
気持ちは分からないでもない。
俺もアキラや弟分たちが褒められていたら、自分には関係なくても嬉しく思うだろう。
「昔から、コーヒーにはこだわってたから」
「へぇ」
「ほぼ唯一好きって思える飲食物だからね。ヴィクはあれで結構、好き嫌い激しいから」
「そうなのか? 食事に興味はなさそうだけど」
確か、いつかの会合だかパーティだかでも、社交辞令として最低限口にする以外はほとんど何も食べていなかった気がする。代わりに常に手に持っていたのは例によってコーヒーだ。
「分かりやすく残すとかひとに押し付けるとかそういうことはしないけどね。むしろおれが食べてもらってる」
「それはどうだろう」
やっぱりそうなると、さっきの言葉はよくわからない。
ドクターが子どもって、どういうことだろう。
疑問をそのまま伝えると、博士はさっきと同じ表情をして揺れるコーヒーの表面を見つめた。
「純粋なんだよ、ヴィクは。一途でまっすぐ、自分を曲げない。恋に恋して、夢を見るように今を生きてる少女みたいに」
「……」
正直そんな詩的な言葉が出てくるとは思ってなかった俺は驚いた。
自分を曲げないというのは、分かる。
件の研究だってそうだ。自分が悪者みたいな扱いをされても、自分を実験台にしてでも叶えようとして、そして実際成し遂げてしまった。
代償は大きかったけれど、誰に何も言われても突き進むというのは、誰にでもできることじゃない。
「でも、世間一般からすればヴィクは異端だ。世間一般と括ること自体ナンセンスだし、おれはヴィクを異端だと思ったことはない。科学者なんて変人の集まりだしね」
「そんなこと……」
「あるんだよ。ヴィクはその変人だらけの科学者のなかでも、ひときわ変なやつだ。だけどそれは、同じ畑のおれにとっては美徳、忌むべきものじゃなく愛しい個性だ」
「個性……」
「それでも世間では異端の存在だ。ヴィクの研究が露呈したとき、ひとをひととも思わないのかって糾弾するひとのほうが多かったよね」
博士は今、何を考えながら話しているのだろう。
ドクターのことを本気で心配して、あのジェイに真正面から啖呵を切って、そんな博士を、ドクターは守った。多分唯一、ドクターが自分から率先して動いたのがこの時だ。
少なくとも、俺が知っている限りはそうだ。入所したての頃は襲撃されても優雅にコーヒーを飲んでいたドクターが、誰よりも早く博士の元へ駆けつけた。
そこにいたのは紛れもなくヒーローだったんだ。
「ヴィクはちゃんと、考えてるよ。無意味なことはしない。……まあ確かに、説明不足なところはあるんだけど……誰かと対立したとき、自分が折れるという選択肢はヴィクにはないんだ。それは一種の我儘で、端的に言えば我を押し通してるだけ。子どもっていうのは、そういうところかな」
「……」
「他にもあるけどね、要はヴィクは、アダルトチルドレンに当てはまる子なんだ」
「アダルト、チルドレン」
確か、幼い頃の環境が原因で精神年齢が子どものまま体だけ大人になってしまった人間のことだ。
大抵は親に愛されなかったとか、逆に異常なまでに愛情を注がれるがゆえに雁字搦めになってしまったとか、そういった心象的な要因がアダルトチルドレンを生む。
「……ドクターは、愛されてなかったってこと?」
「いや、ご両親はヴィクを可愛がってたよ。ちっちゃい頃のヴィクは本当に可愛かったからね、おれなんて初めて会ったとき女の子だと早とちりして、この子はおれが守らなくちゃ! とか思ったし」
「お、おう」
からからと笑う博士に、かつての自分が重なる。
幼いマリオンと出会ったとき、一目ぼれして告白してフラれた。
まさか、同じことをしているとは。
内心どぎまぎしだした俺には気づかず、博士は話を続ける。
「で、ネグレクトというほどでもなければ、優秀であれと押し付けたわけでもない。どっちかというと基本放任主義で、ヴィクのやりたいことはなんでもやらせてみて、そのうえで躓いたら手を貸す、みたいな。いい家族だったよ」
「じゃあなんで、アダルトチルドレンなんて」
「ヴィクが欲しかったのは、そういう愛情じゃなかったから」
子どもなら、誰しも親の愛を求めるものだと思っていた。
俺だって、幼い頃マリオンに出会ったのはそもそも離婚した母親を捜しに行ってのことだ。
アドラーの家系が嫌いなわけじゃない。親父への対抗意識はあるけど、腹違いでも妹は大事だし、新しい母親との関係も良好だと思う。
そんな複雑な家庭でもないと思うのに、ドクターにその家族愛と呼ばれるべきものはいらなかったのだろうか。
「いくら可愛がっていても、ヴィクの言葉は難解でおじさんたちはたまに困ってたな。いわゆるなぜなに期が途切れないものだから、答えられないときもある。だから、そのうちヴィクは家族にそれを……共感と理解を求めることをやめた」
「……」
「自分の考えを理解してもらえないっていうのは、けっこう寂しいんだよ」
少し切なげな表情をして、博士はしっかりと砂糖の溶けたコーヒーをまたひとくち飲んだ。
これはきっと、博士も経験のある寂しさなんだろう。
天才と持てはやされる二人だ。実際、二人の会話は難しすぎて俺には到底理解できない。
おれと同じ視点で物事を考えられるのはヴィクしかいない。
あの日、ジェイに博士が言っていた言葉を思い出す。
あれは二人にとっては、相当重い意味を持っていたということだ。
お互いだけが、お互いを理解できる。ついていける。ひとりじゃないと思える。
「ヴィクにとって、それができた初めての相手っていうのが」
「オズワルド博士、ってことか」
「うん。あいつ、父さんに出会えたことは最大の幸福だってインタビューなんかでも公言してるけど、それは大げさでもなんでもないんだよ。理解してくれて、自分の先を行く大人に、ヴィクは初めて出会ったんだ。だから、そんな父さんができなかったことをやりたいって思うのは、当然といえば当然でね」
「……」
「ヴィクの神様はいつまでたっても父さんで、それが眩しすぎたから、ヴィクはそっち以外に進む道が見えなくなっちゃったんだ」
「だから、一途でまっすぐ……」
一本道しか見えないのであれば、それはまっすぐ進むしかないだろう。
後戻りなんて誰にも出来ないんだから。
「もちろん、細かい脇道はたくさんあるよ。でも、最終的には父さんが示した道に戻ってきちゃう。それくらいでっかい目標だったんだよ。……おれはまだ、ヴィクにとっての父さんにはなれないんだって、悔しくなっちゃう」