anti/antithesis暗闇の中、ひとり蹲って泣いている子どもがいた。
「ぅ……、っく、……た、い……いたい……っ」
小さな両手で細い体を掻き抱いて泣くその子を、ヴィクターは昏い目で見下ろす。
「……何故、泣くのです」
「痛い、から」
「どこにも怪我など、していません」
「しています、ずっとずっと、痛いんです……!」
泣くことしかできない子どもに、僅かに苛立った。
「……なら、痛みを感じなくなればいい。痛みを伴う感情を、心を、殺してしまえば」
「……っ! 嫌、あ」
子どもを押し倒して、馬乗りになる。華奢で柔い手首なんて、片手で抑え込める。
「う、うう……!」
ああ、あの日の子どもは、こんなにも御しやすい格好の的だったのか。それは、彼らもさぞ愉悦に浸っていたことだろう。
白衣のポケットに入っていた、医療用のハサミを抜き取って握りしめた。狙うのはこの子の心、私の心。
「嫌です、嫌……っ、なんでっ、なんでいつも、誰も、わたしを見てくれないんですか……!」
「知りませんよ、そんなの。相容れないのなら、自分を、作り替えるしかないじゃないですか。何を言われても、何をされても何も感じない、感情のない怪物になれば、もう痛くない」
「嘘、うそ……! 結局20年経ってもわたしを殺しきれないくせに! 20年の間の傷が、ずっとここにあるんです! この傷は貴方のものなのに、貴方が見ないふりをして、全部わたしに押し付けるから!」
「……うるさい」
泣きじゃくる幼いヴィクター自身にハサミの先端を向ける。
幼いまま歪に壊れてしまった子どもの言葉を、痛いと訴えて泣き続ける心を、ずきずきと痛みだす胸を、見ないふりをして、気づかないふりをして、ヴィクターはハサミを持った手を高く掲げる。
「いらない」
「――……っ」
仲間を、ヒーローをモルモット扱いしたんだ。
そう。心持たないから、非道なことも平気でできる。
もういい、オマエなんていらない。
そう。それでいい。そうやって切り捨ててくれればいい。
俺はお前を許さない。
そう。許さないで。得体の知れない怪物を討伐するのと同じように、嫌悪して、遠ざけて。
研究、完成してよかったですね。
……どうして、そんなことを言えるの。私はただ、利用しただけ。
間違いなんて、軽々しく言わないでくれ。
なら、どうすればよかったの。
――二度と研究者を名乗るな。
ああ、そうだ。そうだった。
「分かってます、そんなこと。だからいらない。痛みも、涙も、感情も、心も。私はいらない」
ヴィクター・ヴァレンタインは、この世界に必要ない。
あのひとたちと同じ場所に居てはいけない。彼らはヒトで、私はバケモノなんだから。
ずきずき、びりびり。心臓が締め付けられているみたいだ。
煩わしい。感情なんてものがあるから、あの日からずっと、痛みが消えない。
どこにも吐き出せない痛みを怪物が抱えるなんて不毛だ。どうせならかの死体の継ぎ接ぎのように、彼を生み出した男のように、最初から機能していなければまだ、マシだったかもしれないのに。
そんなたらればをいくら説いたところで、何の実にもならないから。
「どうして私は、こんなに中途半端に出来てしまったんでしょうね」
ハサミを持つ手が震えていることも、視界が滲んで熱くなっていることも無視をして、柔らかな心目がけて振り下ろした。
「待って」
「――」
振り下ろそうとした手は、後ろから掴まれた。
ほぼ毎日を共に過ごした同い年の科学者の声のようにも、個人主義の集まりで互いに無関心だったはずのチームメイトたちの声のようにも、騙して利用していたのに優しいままのあの子の声のようにも、たった一度流した涙を知っているスーパーヒーローの声のようにも聞こえた。
「ヴィクター」
「――……っ!」
けれどそれは、誰よりも忘れたくない声。ずっと道しるべとなっていた光。
オズワルドが、抱き起こした幼い自分ごと抱きしめる。幼子をあやすように頭や背を撫でられて、碧い目を縁取る睫毛が震える。
「もういい。これ以上、自分を傷つけるのはやめなさい」
カシャンと、手にしていたハサミが落ちた。
「……、……って、そう、しないと、そうじゃ、ないと、わたし、は」
「怪物になんてなろうとしなくていい。君は優しい子だから、謂れのない刃まで受け止めようとしてしまうけれど。痛いと言うことは、助けてと泣くことは、決して悪いことではないんだよ」
「――……」
言葉に詰まって、ヴィクターは何も言えなくなる。
隣にいた幼い自分に手を握られていた。小さな体に押し付けてきた、どこにもないと言い張っていた傷はしっかりとその子の体中に刻まれていて、今もずっと血を流していた。
「……いたいんです、ずっと」
零れたのは、ずっと我慢してきた痛み。
幼い子どもはヴィクターに寄り添うように体を寄せて溶けていき、ひとつになる。あの子に与えていた傷は、呼応するようにヴィクターの体に現れた。
こんなにも傷ついて、傷つけていたのだと自覚をすれば、じくじくと痛みがいや増してくる。
「痛い。いたい、です……」
「うん、痛いね。だからもう、やめなさい。過ぎるくらいに充分だろう? 本当は最初から、君がこんなことをする必要はなかったんだ」
背を撫でると、指先にべったりと血がこびりつく。痛みに震えるヴィクターを、オズワルドはあえて強く、痛むように抱きしめる。
「ひ……っ」
「この痛みが、君が怪物なんかじゃない証左だ。やり直すことができない以上、君はこの痛みを抱えて生きなくては」
「……どう、やって」
「本当はもう知っているだろう? 引いていた線を飛び越えなさい、築き上げてしまった分厚い壁を乗り越えなさい。ひとりでは難しいようなら声を上げて。壁の向こうにいる者たちはきっと、その声を聞き届ける。手を貸してくれる」
「……で、も」
また、否定されたら。最初から信じていなければ、攻撃されてもああやっぱりと諦められる。そのための壁だった。
壊してしまえば、そうやって誤魔化すことができなくなる。
不安に揺れる碧い目にうっすらと浮かぶ滴をそっと拭う。
「彼らを信じたいのなら、怖くても踏み出しなさい。私が君に教えられることは、もう全て教えたよ」
手を引いて、立ち上がらせる。
傷だらけでふらつくヴィクターを支え、目線が上になった教え子にオズワルドは目を細める。
「ノヴァよりも小さくて華奢だった君が、大きくなった、立派になったね。その体も、君が努力して積み重ねてきたもののひとつだ。大事にしなさい」
「……オズワルド」
「その傷と痛みを癒すのは私ではないよ。ほら、行きなさい」
オズワルドが指し示したのは、遥か上空。真っ暗闇で何もないと思っていたそこに、ちかちかと瞬く小さな星の光があった。
「――……」
小さいのに、遠いのに、暖かくて眩しくて、ヴィクターは目を細める。
いいのだろうか。あそこに行きたいと、あそこに居たいと、願っても。
光を求めて手を伸ばしても、許されるのだろうか。
オズワルドの手から離れ、星を頼りにふらりと踏み出す。
一歩、また一歩。躊躇いながら手を伸ばして、迷いながら痛む体を動かした。
いつまでも距離が縮まらなくて泣きそうになったとき、周りをふよふよと飛び回る物体に気が付いた。
「……っ、……エクスペリメント……?」
ヴィクターの周囲をくるくると飛びまわっていた彼のサブスタンス――エクスペリメントは、ヴィクターの呼びかけに飛び跳ねる。
ぽこぽことどこか気の抜ける音を出しながら自己分裂を続けながら無数のキューブ体が現れて、各個体はヴィクターに甘えるようにすり寄ってから離れて、列を作って並んでいく。
段々と高度の上がるそれは、星に向かって伸びる階段になった。
「……登れ、と?」
困惑するヴィクターに、エクスペリメントたちは頷くように上下に揺れる。
階段のその先に、手放そうとしていた光がある。
もし、もしもまだ、許されるなら。
優しいあのひとたちの隣に、一番端の、隅のほうでいいから、椅子が欲しい。そこに居させてほしい。
恐る恐る、階段を登る。一歩進むごとに傷は痛む。あんなことをしておいて許されるわけがないと、痛みが囁く。
痛くて痛くて、何度も足が止まりかけて。
そのたびにオズワルドの最後の教えを支えにして、引き戻しそうになる足を上へ、前へ向けた。
もう一度、もう一度だけと願いながら。
長い長い時間をかけて、階段の一番上へたどり着いた。
小さな星は変わらず、頭上で瞬いている。
距離は近くなったが、手を伸ばしてもほんの少し届かない。
飛んだら、届くかもしれない。
そう思うのと同時に、届かなくて、落ちてしまったらという不安も押し寄せる。
また、一番下まで堕ちてしまったら。今度こそ自ら階段を登る気力なんてなくしてしまうと思った。
あんなに下の暗いところから声をあげても、ブラックホールみたいに吸い込まれてこの光の向こうには届かないと思った。
足が震える。心臓がどくどくと早鐘を打っている。
手を伸ばせるのは、飛べるのは一度きり。
空を飛べると、本気で信じていた。
物心つく前に抱いた最初の憧れ。その瞬きが広がって世界は色づいて、ヴィクターに研究者という道を示した。
五歳だか六歳だかの頃の記憶だ。あの時は怖いもの知らずで、二階の窓から飛ぼうとして両親を飛び上がらせた。
空を飛びたかったのだと言ったとき、二人は嗤わなかった。
それなら助走をつけなきゃ。風に乗るための翼も必要だね。
他には何が必要かな。一緒に考えてみようか。そうやってひとつずつ、着実に準備をしよう。
そうすればきっといつか、きみの夢は叶うから。
優しく微笑んで、頭を撫でてくれた。あの時否定されなかったから、世界のあちこちに落ちている不思議に素直に目が輝いた。
あの時の無鉄砲な勇気を、もう一度。
「……飛べる。飛びたい」
エクスペリメントが後ろに広がって、助走をつけるスペースを作ってくれた。彼らに確実に手が届く安全圏まで運んでもらうのでは、星に憧れる資格さえないと思った。
最後の一手は、自分で越えなければ。
ぎりぎりまで下がって、目線はまっすぐ星を見据えた。
蝶や雲を追いかけて走るのは楽しかったが、ただ走るのは苦手だった。いささか体力が足りないことがアカデミーに通っていた頃教官に何度も懸念されて、ヴィクターのためだけのトレーニングメニューを考えてくれた。
当時の教官はもう退官して田舎暮らしをしているらしいけれど、今の私を見たら褒めてくれるだろうか。
再び、一歩を踏み出す。駆ける。自分が出せる全力全霊で駆けた。夢中になったら痛みも忘れていた。
踏み込んで、手を伸ばして、跳んだ。
もう一度、帰りたい。光の中へ、優しさの中へ。
「――……っ、あ……!」
指先が少し触れた。けれどあと数センチ、星を掴むには届かない。
重力は容赦なくヴィクターと星の距離を遠ざける。
ああ、やっぱり。大それた願いだった?
あの場所に、怪物にも人にもなれない中途半端な私は、ふさわしくなかった?
必死に伸ばしていた手から、力が抜けかける。
「――……て」
声を上げなさい。
いつだって行き先を示してくれるのは、今は亡き唯一の師の声だった。
「たす、けて……!」
遠ざかっていた星が、強く輝いた。
「――ヴィク!」
伸ばしていた手を、一番非力な幼馴染が、一番力強く両手で掴む。
「やっと聞こえた、きみの声! 絶対離すもんか! 二度と、きみを!」
「――……、ノヴァ」
「じゃ、お手伝いしてあげる☆」
軽快な声がして、二人の手を淡く光る糸がしっかりと繋ぐ。
悪戯が成功した子どものようにビリーが笑い、それを皮切りに沢山の手が伸びてくる。
先ほどオズワルドと共に聞こえたような気がした声の、主たち。壁の向こうの、大好きで大切で、だからこそ怖くて距離を置いた人たち。
「せー、の!」
ヴィクターを引き上げようとする手が増えるたび、声が大きくなるたび、暗闇が星の輝きに照らされて晴れていく。
傷だらけのヴィクターに、ノヴァが抱き着く。ちからいっぱいに掻き抱く。
「……。ノヴァ、痛い、です」
「うん、うん。やっと痛いって言ってくれた、やっと助けてって言ってくれた。ずっとずっと、気づけなくてごめんね」
「……。……ごめんなさい」
ずっと目を背けてきた。聞こえないふりをしてきた。
呼びとめる声を覆い隠す非難の声だけを、刃に変えて自分で突き刺していた。痛みに麻痺するように、感情が分からなくなるように。
だから手を伸ばしたら掴んで、抱きすくめてくれる人がいること。声を聴いてくれる人がいること。認めて、傍にいてくれる人がいること。
そんな簡単なことに、目の前にずっとあった答えに、歳を取ってやっと気づいた。
ずきずきと絶え間なく痛みは体中を苛むけれど、幼い心に押し付けてきた分一気に圧し掛かってくるけれど。
彼らが傍にいてくれるなら、耐えられると思った。
彼らが彼らの傍にいることを許してくれる限り、彼らの傍にいたいから、痛みと共に生きると決めた。
遅すぎただろうか。
「まだ、大丈夫です。遅すぎることなんて、きっとないんです。貴方が僕に、教えてくれたことですよ」
ああ、眩しい。
「帰りましょう、ヴィクターさん。僕らの居場所に」
伸ばされた手を取ることを、光の下を歩くことを、もう躊躇わなかった。
「あっヴィク! きみが受け持ってた案件意味分かんないんだけど! 助けてっていうかきみに戻していいよね」
「そんなに理解不能な案件を持っていた覚えはないんですが……」
「この前、面白そうなサブスタンスを回収したんです。ヴィクターさんには退屈かもしれないですけど、見てもらいたくて」
「退屈なんてことはありません。そのサブスタンスを見て貴方がどのように感じたのか、ぜひ教えてください」
「ヴィクター、メンターの仕事、ボクだけでもこなせないことはなかったけど、面倒だし時間かかるから手伝わせてやらなくもない」
「回りくどいですね」
「はは、賑やかだな。どうだヴィクター、いいものだろう」
「……。……そう、ですね」
本当はきっと、最初からただこうして笑い合いたいだけだった。
大切な人の教えを胸に、大事な人たちと一緒に過ごして、大好きなことに夢中になりたかった。
子どもみたいな些細な願いは、とっくの昔に叶っていた。
今度こそ、取りこぼさない。
仲間に囲まれながら歩くヴィクターの表情は、自然と和らいでいた。