お前たちにはわかるまい ヘッ、仔理の手先共が揃ってぞろぞろと、五月蠅えったらねぇナァ。蟻ぢゃあるめぇし。そんなお偉ェ鎧なんぞ着込んぢまって、御立派に太刀なんぞ提げていやがる。なんでェ、ソリャ、竹光かい?ッヘ、へ、そんなに怒りなさんなよ旦那。 俺ァな、アンタのその御自慢の御刀が、彼の方にひとッつも傷を付けられなかっ たのをしっかとこの両の眼で見てンだ。無様だったなア、彼の方の御羽織すら斬れねぇで。グルグルグルグル、手前ェの尾っぽ追っかけてる犬みてぇに。情けねェったら!ハハ。
…マア、聞いてくれよ。あすこはな、桃源郷なンだよ、俺たちの好きなものを食えて、好きな所に住めて、好きな着物を着れたンだ。俺のカカは柳町の、 吹けば飛ぶような小見世の遊女でな。俺ァ四つのときに、まだ生まれたばっかりの妹とドブ川に棄てられて、それでもなんとか生きてたンだ。盗みも、殺しもやったよ。お天道様に顔向け出来ねぇようなことは全部やった。…そんな顔してくれるなよ。でなきゃ、死ンでた!ホラ、見えるだろ お役人様に捕まる度に、焼火箸を当てられんだ。これが八つのとき、金をスったのがバレちまったンだ。んで、これが…十一ンときだな。食うモンがねぇんで猫を攫ったンだが、それがどっかの長屋の大家の猫でな。ハハ、酷ェ目に遭ったよ。…マ、そんな風に生きてたンだな。俺たちゃ。妹も十二のときから辻に立ってな、…春を鬻いでた。俺ァ自分が情けなくって、毎晩妹に謝ってたよ。 兄貴なのになア、御免なアってな。でも、妹は、十四で死んだ。酔っ払いの男に酷く殴られて、身体中痣で真っ青ンなって…身包み剥がされて死んでた。 飛び抜けて 美人じゃァねェが、可愛い子だったんだよ。笑うとなァ、ここんとこ、右の頬べたにひとつエクボができて、ソリャア可愛かった。 その日はな、運良くちょっとばかし御銭が手に入ったから、俺は、妹にかんざしを、買ってやろうとしたンだ。危ねェから、今日は辻には立つなって言い付けてな。 二百文の安物のかんざしを握って帰って来た俺を待ってたのは、唾吐きかけられて転がされた妹の骸だったんだよ。……俺は妹をゴザで包んで、冷たい、固い身体を抱いてジッと朝が来るのを待ってた。夢だと思ったンだよ。物凄く悪い夢。でも、日が高くなっても妹は動かなかった。痣がドス黒くなってきて、腕も足もダランとして黄色くなって……。俺、どうしてだか泣けなくて、それが悲しくって、ドブ川まで妹を引き摺って行って、水ン中に自分の頭ァ突っ込んで、無理矢理泣いたンだ。涙と鼻水と、なんだかよくわからんモンを色々ダラダラ流して、もう死んじまおうと思ったんだ。このまま妹を抱いて、ドブ川に身投げしちまおうってな。……そンときだよ、彼の方が現れたのは。向こう岸に立ってたンだ。 上等の白い着物を着て、肩にこれも上等の黒い羽織をかけてな。…み、水の上を歩いて、 俺たちの方まで来たんだ。ゆっくり、ゆっくり。俺は、俺はお迎えが来たと思った。糞みてェな人生の最期に、神さんか、仏さんが遣わして下すったんだと思った。だ、だって、彼の方は、彼の方は、お、俺の汚ねぇ顔を撫でて、地べたに跪いて、妹を抱きしめて、な、泣い、泣いたんだ。金色の、お天道様みたいな目から、ポロポロ涙をこぼしてさ。棒切れ同然の、金の無い、身寄りの無いガキの死ぬとこなんざ誰も、心痛めたりしねェのに、彼の方は、泣いたんだよ。着物が汚れンのも気にしねェでさ。は、蝿だって集って来てンだぜ。臭いも、酷いし、青くて赤くて黒くて、見れたモンじゃねェのに。ずっと、ずっと、俺たちを抱いて泣いてたンだ。そのあと、俺は眠っちまって、気づいたら彼の方の屋敷に寝かされてた。俺ァ手前ェの目を疑ったね。骨と皮ばかりの人間なんざひとりもいなかったし、破れた着物を着てる人間なんざひとりもいなかったし、暗い穴ぼこみてェな目をしてる人間なんざひとりもいなかった。明るくて、穏やかで、豊かで、鳴呼俺ァ今、極楽浄土にいるンだなと思った。でなきゃおかしいものなァ。呆気に取られてる俺のとこに、粥やら白湯やらをニコニコして持ってくるンだ。辛かったろう、安心してお休み。なんて言うんだ。木綿の、綺麗なべべ着せられてさ。身体もまっさらに洗われてて。…しばらくして、彼の方が来た。片腕に綺麗な娘を抱えて……妹だった。痣が紅と白粉で上手に隠してあって、錦織の着物を着て、金襴緞子の帯締めて。髪も洗って結ってあって、鼈甲だの、珊瑚だの、蒔絵だののかんざしやら櫛やらで飾られて。きっと、どこの国のどんなお姫様より綺麗だったよ。彼の方は俺の手を引いて、野菊の咲いてる綺麗な丘まで連れてって、その天辺にふたりで穴を掘って、ちゃんと 白木の棺も拵えてあった、そこに、妹を埋めたンだ。俺はそこで初めて、心から泣いた。妹が死んだのがどうしようもなく悲しくって、おいおい泣いた。…人ならざる者?旦那、野暮言っちゃいけねェよお。ソリャそうだ。だって、人間があんなに優しいわけねェもの。人間があんなに綺麗に泣けるわけねェもの。馬鹿だなア。彼の方はな、神様なんだよ。俺を、妹を、人間扱いして くれたのは、彼の方が初めてなんだよ。だからな、旦那。俺ァ、なにがあっても、彼の方がなにであっても、共に生きて、共に死ぬって決めてるンだ。彼の方は存外寂しがりだから、俺如きでも、話し相手がいないといけねェンだ。 ……彼の方の名? 知らねェよ。俺たちの足りない舌じゃ上手く呼んで差し上げられん。それぢゃあな、旦那。俺は死んでも彼の方への恩を忘れねェし、死んでもアンタたちへの怨みを忘れねェよ。
男は、隠し持っていた小刀で自分の首を掻き切った。驚愕している兵士の後ろに立つ、最愛の主に微笑みながら。
「俺の名はヴォックス・アクマ」
「覚えて死ね」