世界でいちばん幸せな地獄 父が死んだ。夏といっしょに。
父はひとりっ子で、シングルマザーだった祖母は数年前に亡くなった。母も、私が小さい頃に出て行ったらしい。父と私は、お互いがお互いに唯一の家族だった。男手ひとつで私を育ててくれた父のために、ひとりでもちゃんとやろうと思った。でも、たった17歳の子どもである私がひとりで葬儀や相続の手配をするのはやっぱり無理で、父の友人のルカさんの手を借りてなんとか色々の始末をし終わった私は、どっと疲れてダイニングの椅子に座り込んでいた。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
ルカさんの45歳という年齢にそぐわない若々しい手から差し出されたソーダを氷を鳴らしながら飲む。炭酸の泡が喉で弾けて、そのまま胃に落ちていった。
父の心臓が止まってから、私はルカさんのところに預かられていた。父は私が物心ついた頃から「おれになんかあったらルカを頼るんだよ。あいつなら絶対大丈夫だから」と言い聞かせていた。そのときの父は、いつも真剣な表情をしていたのを覚えている。
あの日、…父が、死んだ日。連日の猛暑から一転して肌寒いくらいの曇りの日。全部に灰色の靄がかかったような中で、道端の萎れて重たく頭を垂れた向日葵だけが夏の残像を微かに漂わせていた。
「お父さん、」
「……………、ああ。おはよ」
父はシーツに埋もれた頭だけを動かして、青白い疲れた顔で笑った。医者には「もう手の施しようがない」と匙を投げられ、せめて最期は、病院の寂しいベッドではなく家で迎えさせてあげたかった。
50代を目前にしても父の容姿は怖いくらいに昔のままで、痩せた身体と白く褪せてゆく髪色だけが父が正しく時間を刻んでいることを表していた。少し力を込めたら折れそうなくらい細い腕を擦りながら、ゆっくり話しかける。
「調子はどう?何か食べられそう?」
「んゃ。今日は、だいじょぶ」
「わかった…。お腹空いたら、いつでも言ってね」
「朝、食べた?」
「ちゃんと食べたってば。もう小さい子どもじゃないのよ」
「おまえたまに、とんでもなくズボラになるじゃんか」
「お父さんにだけは言われたくない」
掠れた声でそう言って、私の頬を撫でる父に泣きそうになった。いつだってそうだ。自分がいちばん辛いのに、私の方を心配する。優しすぎる人だ。
奥歯を噛んで涙を耐えていると、不意に手をギュ、と握られる。父は、笑っていた。やさしい、やさしい笑みだった。私の目をジッと見ながら、父は言った。
「……。おれがいなくなっても、上手にやるんだよ」
「え」
「おれさ、生まれもアタマも悪ィから、おまえに迷惑かけちまったよな」
「そんなこと、言わないでよ…」
「ごめん、ごめんな…。どうか、元気で。おまえ、ひとりじゃない、から。愛してる。ずっと、あいしてるよ。──、」
「おとうさ、」
血の気の無い、真っ白になった父の、空色の瞳がゆっくりと閉ざされてゆくのを、私が唯一父から受け継いだその色が消えてゆくのを、私はただ呆然と見ていた。最後に泡を吐くように私の名前を呼ぼうとして、父は、物言わぬタンパク質の塊になった。
「パパ、」
「パパ、ぱぱ。ねえ、パパ」
「起きて、よ。ぱぱ。わたし、まだ、なんにも」
私にされるがまま揺さぶられる父はよく出来た人形のようで、血の巡りの止まった内臓や骨が乾燥した皮膚の下でおもちゃみたいにカラカラ音を立てているような気さえした。
「しんじゃったのね」
口の端から転げ落ちた言葉は驚くほど胸にストンと落ち着いて、受話器をとって、何度も繰り返し覚えさせられた番号を順番に冷静に押す。3回ジリジリと鳴ったコールの後で、「Hi」とザラザラした音質のルカさんの声が聞こえた。
いざ言おうとした言葉は喉につっかえて、受話器を握ったまま呆けて父を眺めた。本当に、本当に、死んでしまったのか。
「……Hello?」
「……父が、亡くなりました」
「すぐ行く」
ガチャン、と通話を切って振り返る。分厚い雲の隙間から弱々しく漏れた光が、父の顔を淡く照らしていた。自分がこのうつくしい人の血を半分引いているという事実が、どこか遠い国のおとぎ話のように感じられた。
そのとき私は、ああ父は、天使になったのだと。そう、思ったのだった。
「パパ」
蝋燭の弱い灯りだけが頼りの部屋で、腐らないようにドライアイスの白い煙に包まれて横たわっている父は、もうイッコの物体にしか見えなくて、それが怖くて、悲しい。
凍った睫毛や白い頬に指先が少しでも触れたらそこからヒビが入ってパキンと割れて壊れてしまいそうで、近付くことも出来ずにこうしてずっと、膝の間に顔を埋めてぼんやりとしている。
そうしている間にも、目を開けている父の顔が、声が、手の温もりが、少しずつ確実に遠ざかって行ってしまう。いつか思い出せなくなる事実が、こんなにも痛い。
明日には灰になる。父だったものになる。
「しなないでよお」
あなたの髪も瞳も爪も骨もぜんぶぜんぶ灰になる。空気に混じっていなくなる。そう思った瞬間に、いきなり涙が溢れてきて、声を上げて泣いた。死なないで、なんて馬鹿なことを繰り返し繰り返し言いながら、泣いて、泣いて、泣いて。気付けば、朝だった。暴力的な朝日に目を閉じたまま、父の方を向く。
誰か、いる。
「Hi,gorgeous」
「、」
聞き覚えのない深い深いバリトン。なのに、心臓の後ろの方に一瞬過ぎった、妙な、安堵。
「だ、れ」
「おや、目がウサギみたいじゃないか。可哀想に」
腫れた目元を、乾いた、男物の香水の匂いがする皮膚が覆って、離れる。恐る恐る瞼を持ち上げて、驚くほどクリアな目を限界まで見開いた。父の頬を愛おしげに撫でて、唇だけで笑ってみせた男は、私と同じ顔をしていた。
私は男の顔と、手を凝視したまま、口の端を震わせて怒鳴った。
「っ離れて!パパから離れて!!触らないで!離れて!離れてっ!!」
「瞳の色がそっくりだなあ。それ以外は俺に似たのかな」
「知らない!知らない!さわらないでよ!!出てって!!!」
「そう怒るなよHoney」
ハハ、と呑気に笑ってその場から1歩も動こうとしない男に無茶苦茶に腹が立つ。パパは、天使になったんだ。誰も、誰も、天国に行くのを邪魔しちゃいけない。だからあれは最後の涙だった。もう泣かない。泣いちゃいけない。この世にパパの気がかりになるものを、残したくない。
男は、長い黒髪と金色の瞳をゆらりと揺らして、ただ微笑んでいる。小さな生き物が走り回っているのを見るような顔で、ニコニコと。
「……。あんな坊やが、赤ん坊をちゃんと育てられるなんてなあ」
「黙ってよ。どっか行きなさいって、!」
「俺の前から消えて何をしていたかと思えば。ハハ。よく躾けたもんだ。鬼の子なんて。手に余るだろうに。ナア」
「うるさい、知らない。あんたなんか」
冷や汗が背骨をダラダラと伝って落ちる。混乱した頭でも、ひとつの可能性が嫌というほど明確に浮かび上がってきた。
コトリと首を傾げて、目を伏せる。男は、言った。
「悲しいなあ。娘に、冷たくされるのは」
「ッ、!」
ブワ!と鳥肌が立って、短く息を吸う。やっぱり、この男は、私の。パパの。
「ヴォクサーヌ!」
バン!だかドン!だかという大きな音と共にルカさんが私を呼んで、荒々しく部屋に転がり込んでくる。普段と違う鋭い紫は、男を認めた瞬間にキュ、と小さくなって、ルカさんは唖然として立ち尽くした。小さな声で「どうして、」「どうやって」と呟き、ほとんど無意識に、滑り落ちるように「ヴォックス」と、おそらくは男を呼んだ。
「ヴォクサーヌ?」
男はそんなルカさんに懐かしそうな笑みをほんの数秒向けて、口角を釣り上げて私の顔を覗き込んだ。男の琥珀色に、父の瞳の色が混ざる。
「ヴォクサーヌか!ハハ、は。良い名前だね。本当に」
「なに、」
「嗚呼、ミスタ。ミスタ!確かに、俺ァひとりじゃなかったよ。ふふ、お前がいなくても、上手くやったさ。そりゃ。ばかな子。生まれも育ちも関係ないのに。本当に、愚かで、哀れで。愛しい子。なあ、俺だって」
ひとり語りかける男は、神の子の死を嘆く民衆のようにも、親に置いていかれて地団駄を踏む子供のようにも見えた。私の、ようだった。ポロリと、小さな涙が1粒だけ零れて、男はストンと表情を落とした。
「俺だって、愛してたさ」
静かに呟かれた言葉の後に、男もパパも消えた。
嗚呼、父は、いってしまった。