ミスタ・リアスの逃亡/帰還「エッ」
ヴォックス・アクマは心の底から驚いて言った。昨日の夜中にたしかに腕に抱いて眠ったはずの恋人が、朝日が昇るのと同時に忽然と姿を消していたのである。 びっくりした猫ちゃんみたいな顔のまま空っぽのスペースをしばらくジッと見つめ、ノソノソベッドから降りた。脱ぎ散らかした服を適当に洗濯機に突っ込んで、早足で家中を回る。ベランダにもトイレにもミスタの姿はなく、ヴォックスは右手にティーカップを 持ってリビングのソファにドッカリ座り、なんとなくテレビを付けて、ついでに煙草にも火をつけてキャスターが滑舌良く話すのをぼうっと聞き流した。
こういうことは前にもあった。朝起きたらミスタがいなくて、ほとんど半狂乱で探し回っていたら当の本人がビニール袋を引っ提げてケロッと帰ってきたのだ。起こすかメモくらい残せと詰め寄ったが、「疲れてると思って」「忘れてた」とかわゆく謝られたもんだから うっかり美味しい朝食を拵えてしまった。他にも小さい喧嘩をしてプチ家出を決め込んだりだとか、漫画だかゲームだかの発売日だったりだとか、マアしばしば あることだった。それでもこうして毎回律儀に驚いてしまうから、ヴォックスからすれば釈然としないこと ではあるのだが。
とりあえず日課のTL巡回をして、ミスタにメールを入れておく。彼も一端の成人男性である。くだらない下ネタをかましたり子どもみたいなイタズラをした りピイピイ泣いていたりするイメージが強いが、世間一般で見ればそれなりの体格だし、職業柄腕っ節も弱くはない。あくまでも規格外なのはヴォックスの方だ。 今回はなんとなく厭な感じがしていたが、心配しすぎるのも良くないと頭を振って少し冷めた紅茶を啜った。
しかし、人ならざる者の勘というのは時に嫌になるくらいよく当たる。1時間、2時間経ってもミスタは帰ってこない。メールの返信もなく、ヴォックスはひとつの可能性に思い至って、煙草の火を押し潰してベッドルームのウォークインクローゼットを勢いよく開けた。
ふたり分のコートや靴が雑然と並ぶ中を探る。買ったはいいものの片手で数えるくらいしか使っていなかったスーツケースが無くなっていた。そのまま順繰りに見ていけば、ヴォックスのシャツやズボンが少しずつ消えている。どれも無くても気づかないくらい長年仕舞い込んであったものだ。
ヴォックスはミスタの持ち物は大抵把握している。 金を遣うのを好まないミスタの手持ちはひとからのプレゼントを除けばそう多くない。生活能力が著しく低 いミスタに代わって普段家事を担っているのも彼だから、無くなれば当然気づく。だから、ヴォックスの持ち物から抜いたのだ。ヴォックスを、刺激しないように。
同居を決めたときにある程度整理はしたが、それでも長く生きていればその分物が増える。普通の人間では把握しきれない数だ。ヴォックス自身、無くなっていたものの存在を今の今まで忘れかけていた。
その悪魔的な直感がまた働いて、ミスタが発売日だからと出かけて行った日付をひとつずつ検索した。確かにそれは事実だった。しかし、店舗があるのは ヴォックスが起きる前に行って帰って来られるような場所では無かった。ヴォックスは日本のアニメやゲームにそこまで造詣が深いわけではないから、ミスタの言うことに何の疑問も持たずにマアそういうモンなんだろうな。と思っていた。つまり、あの子は俺を、朝起きたとき白分がいない状況に慣れさせようとしていたわけだ。 …ミスタが早くに出かけるようになったのはいつからだ?何週間、何ヶ月前だ?その間、あの子は何をしていた?そもそも、無くても困らないような品々をミスタが持って行ったと確信しているのは何故だ?自分で処分したのを忘れているだけではなく?昨晩、ミスタは、ルームシューズではなくスニーカーだった。
クイーンベッドの端に腰掛けて、いよいよくっきりと色濃く浮かび上がってきた可能性に舌打ちしてミスタのプライベート用のスマホに電話をかけた。ミスタがヴォックスからの着信に設定したRunaway Babyがスルームの方から聞こえた。電気が点いていなかったから、……彼は暗闇をひどく怖がるから、入らなかったバスルームのバスタブのフチに捨て置かれたスマホと、鏡に真っ赤な口紅で書かれた「no going back」。……バターフィールド8のオマージュなんて粋なことをしてくれる。
ヴォックスは感情のままに鏡を力一杯殴った。ガシャン!と派手な音がして、飛び散ったガラスが頬に小さな傷を作った。口紅と血で赤くなった拳を額に押し当てて、いかる呼吸をゆっくりおさめる。遠くから救急車のサイレンが聴こえる。ヴォックスは確信した。
ミスタ・リアスはヴォックス・アクマから逃げた。
ミスタ・リアスはスタンド・カラーのシャツに丈の短いジャケットを羽織り、スラックスを履いたオールブラックのシックな装いでロンドンのとある会員制クラブでブロードウェイ・サーストを煽っていた。ボックス席のテーブルの下で金色のポインテッドトゥパンプスが鈍く照明を跳ね返している。アクセサリーは一切つけていないが、金色のマスカラを塗った睫毛に囲われたバイカラートルマリンの瞳だけで十分に華やかだった。
ヴォックスから逃げて実に1ヶ月と2日が経っていた。…………きっかけは、多分無かった。
ずっと、5年や10年じゃきかないくらいずっと前から、漠然とした不安のようなものがあって、それが溜まり切ってしまったのが今だったんだろうと思った。 タイミングの問題だ。誰が悪いわけでもない。ただ、このままじゃ確実にヴォックスに迷惑をかける。から、 逃げた。ひっそり、こっそり、とんでもなく優しい彼が出来るだけ心を痛めないように入念に準備をして、メモを残せという言い付けだけ最後に守って、彼の腕の中から逃げた。明るくて暖かい花咲く楽園に背を向けた。アダムとイヴの成り損ない。蛇はおれの中にいた。
ミスタはここで、”客”を待っていた。なんてことはない。紳士淑女サマとお会いしてお酒を飲みながらちょっとお喋りして戯れてお金をもらうだけの簡単なお仕事(この仕事をミスタに紹介した男が言っていた)である。
家から持ってきたのは少しの着替えと、クレジットカードを使っては足が着いてしまうから少しの金だけで、その金もすぐに底を突きかけて、本当に、本当にギリギリだったのだ。住所が無いからマトモな職には就けなくて、こうするしかなかった。
ここで恥もプライドも捨てて子供みたいにえーんと泣いてお家にとんば帰りできたら良かったのだが、生憎とミスタにその気は無かったし、いくら普段ヴォックスにちまこい坊や扱いされているとはいえ、心身ともに26歳の大人である。そんな虫の良すぎることできるはずがなかった。合鍵も家に置いてきた。
とにかく二進も三進も行かなくなって、どや街のパブで呑んだくれて管を巻いているときに出会った男の口利きでここにいるのだ。これで6、7回目になるだろうか。 ミスタはゴールドの睫毛を伏せて、客にプレゼントされたトレジャラー・ブラックを1本咥えて、カル ティエのライターで火を点けた。1口だけ吸ってすぐ灰皿に押し潰す。これ一箱でF&Mの紅茶1缶と同じくらいの値段なのに。
煙で肺が汚れていくのと同時に大切なものを金で奪われているような気がしたのだ。もうそんな綺麗なことを言える立場ではないのに。……ひどく虚しい。こんなことを考えてしまうから、ミスタは人を待つ時間が嫌いになった。
「失礼。初めまして、君がルナルドかな」
しばらくして、ひとりの紳士が現れた。初対面の客で、あどけなくも傾国の美しさを持つミスタを見てハッと息を呑んだ。ミスタはそれに短く笑って、首を横に倒すだけのお辞儀をした。
ルナルドというのは、ミスタがこの仕事をするときに使う偽名だ。
「初めまして。ビーさん?」
ミスタは完璧なボッシュの発音で挨拶した。上昇志向の客はみんなコックニーやエスチュアリを嫌うし、アメリカン・アクセントアレルギーか何かだし、バレー・ガールが話しているのを聞いた日には卒倒するだろう。そのくせ酔っ払ってRPで武勇伝を語るやつなんかひとりもいない上、ミスタがベッドで舌っ足らずに喋ってやると喜ぶのだ。ミスタはいつもそれを内心でバカみてえ。と嘲笑ったあとに、無性に死にたくなる。
普段なら1時間ほど歓談してグラスを2杯ほど空に したあたりで腰を抱かれ、店を出るところなのだが、 ビーはジン・アンド・ビターズをオン・ザ・ロックで 飲みながら2時間半も喋った。
ミスタはさすがにこの無粋な客にイライラしてきて、 爪先でグラスのフチをコツコツ叩いた。ビーはそれに気づいたのか、額の横にちょっと汗をかいて、1枚の紙を差し出した。葉書サイズで、ビーのサインの下にもうひとつ欄がある。
「これは、なんです?」
「実は……君にぜひ会いたいという方がいて」
「お約束でしたらフェンター(紹介者の男)の方に……」
「彼にはもう言ってある。だがその……長期的なものでね。それに……あまり大きな声では言えない片手だから…」
「秘密保持契約が必要だと」
「そういうことだ。どうだろう、とりあえず前金で20万ポンド。報酬はこのくらいになる、働きによってはさらに上がる可能性も」
「……………詳しく聞かせていただいても?」
「依頼主はレディ・バシリッサ。期間はおおよそ3ヶ月……これ以上は言えない」
ミスタは0がずらりと並んだ報酬額を見て、ちょっとめまいがした。前金の20万ポンドだって高級車が 一括で買えるのに、今まででいちばん高いそれは、彼ひとりがどんなに豪遊しても使い切れないくらいだった。
眉ひとつ動かさずに、なんとも思っていませんよという顔をしてしばらく考える。正直言って魅力的だ。
レディ・バシリッサといえば裏じゃ有名な大金持ち。でも、これ以外にも仕事はあるし、裏には顔見知りも多い。わざわざ危ない橋を渡ってジ・エンドなんてことにはなりたくない。ミスタはニッコリ笑って紙を突っ返した。
「申し訳ありません、とても魅力的なお話ですが……お断りさせてください」
「なっ、こ。困る。君を連れて来られなかったら、わっ、私はころさ、殺されてしまう。っき、きみは、知らないかもしれないが、レディは、本当に恐ろしい……」
ビーはガタガタ震えて細い声で懇願した。ミスタは 急にビーが可哀想になってきた。仮にも探偵で、仲間にマフィアを持つ身である。現代のエリザベート・バートリの異名をとる彼女の聞いただけで失神しそうな残虐極まりないエピソードの数々を知らないわけはなかった。そんな女に仕えるビーがどんな目に遭っているのかは想像に難くない。
「レディは、決して君を傷つけたりしない。あの方は美しいものを愛でるのがお好きだから……。信じてくれ、」
「……OK、何をすれば良いのかだけ聞かせて。それから考えるから」
「あ、鳴呼……ありがとう…ありがとう......」
わざと口調を崩して親しげに言う。ビーはミスタの手の甲を自分の額に強く押し当ててさめざめと泣いた。ミスタはまだ受けるとは言ってないけど……。と思いつつ、掴まれた手を引き抜いて曖昧に笑った。
「……君には、レディの“アドニス”になって欲しいんだ」
「“アドニス”」
アドニスといえばギリシャ神話屈指の紅顔の美少年である。ミスタは鸚鵡返しに訊いてコトリと首を傾げた。その仕草がなんとも人形染みていて、物凄く精巧なビスクドールと相対しているようだった。ビーは思わず喉を鳴らして唾を呑む。
「レディがご幼少の砌にメトロポリタン美術館にご家族で行かれたときに、コッラディーニのアドニス像に一目惚れなさったらしい」
「へえ……」
「とにかくレディの話を笑って聞いて、薔薇園で蝶々と戯れてくれれば良い」
「………………わかった。受けるよ」
ゆっくりと頷いてサインすれば、ビーの土気色の顔が目に見えて明るくなる。そのままミスタに500ポンド握らせて、3日後に迎えに来ると言って店を出た。 ミスタは500ポンドをそっくりボーイに渡して、 オレンジ・ブロッサムを注文した。曇りのない窓の向こうで夕日が沈んでゆく。長い夜の始まりだった。
約束の時間にラルチザンのパッサージュ ダンフェ エクストリームを纏ってミスタは現れた。3日前の瀟洒なナリとは打って変わって白い総レースシャツとコルセット・パンツを着て、元々の中性的な童顔も相まって玉貌の美童のように見えた。
黙ってビーの車に乗り込んで、目隠しをされてレ ディ・バシリッサの屋敷へ向かう。車内には爆音のブラームスの子守歌が流れていた。いやに暑くて、ビーは苛立たしげにハンドルを叩いて窓をちょっと開けた。春のぬるい風に乗ってカレーの匂いがする。近くにインド料理屋でもあるのかもしれない。
スパイスが苦手なミスタのために、ヴォックスがわざわざ作ってくれる甘口のカレーが好きだったはずなのに、もう味が思い出せなかった。
レディ・バシリッサは大木を削って作ったような荒々しい風貌の女だった。鷹のような鋭い眼光に皆気圧されてしまったのだろう。だから彼女の初恋の美少年になれずに散ったのだ。しかし、ミスタは天国の花のように麗かに微笑んで、レディ・バシリッサの硬いゴ ツゴツした手をとり、その四角い指先にそよ風のよう にキスして見せた。
「バシリッサ」
ガラスの靴のプリンセスをやっと見つけた王子様のような甘ったるい声で名前を呼んでやると、見る見るうちに鋭利なまなじりが下がり、夢に潤み出す。 この女はきっと、おれをおもちゃ箱の奥底に、大事に大事に仕舞っておくんだろう。丁度良い。そうすれば誰にも見つからない。鳥籠の花になってやろうじゃないか。
「ぁ、あ…………アドニス……、やっと、やっとなのね」
バシリッサの丸太のような腕がミスタの首を絡めとる。ロマンスの始まりなんてこんなものだ。
それからミスタは四六時中バシリッサの横に置かれて過ごした。薔薇園のギリシャ風の四阿で笑い合い、 花冠を作ってやったりフルーツを切って食べさせてやったりした。 彼女が何か言えば笑って髪を撫で、愛の言葉を囁いて骨の形そのままの額に口付けのひとつでもしてやれば、もう彼女はミスタ無しではいられなくなった。 3ヶ月の予定よりずっと長引いて、ほぼ半年が経って いた。
その日もいつも通り、わざと寝ているフリをするバシリッサの平らな頬にキスをして起こしてやり、遅い朝食を身を寄せ合って食べ、彼女の中身の無い睦言を照れくさそうな、嬉しそうな顔で聞いていた。
薔薇園の芝生の上に座り、彼女の頭を白分の膝に転がしてゴワゴワした髪を梳くように撫でる。一瞬でも粗雑にすると泣きながらひどく殴られるので、慎重に、ありったけの愛を込めているのだという風に。簡単なことだった。ヴォックスが、ミスタにしたようにすればいいのだから。
幸福そうに頬を染めて微睡んでいたバシリッサが不意に「あっ」と声を上げ、目だけをミスタに向けて 「ねえ」と言った。ミスタはそれに興味ありげに穏やかに「なあに」と返す。バシリッサは立ち上がって 愛しい恋人の腕を子供っぽく引いた。しょうがないなぁという愛しさと呆れが混ざった顔を作って、はしゃぐバシリッサの後にゆっくり着いて行く。
「なに?どうしたの」
「見せたいものがあるの」
無邪気に言ったバシリッサに背中に鳥肌を立てる。
彼女の“見せたいもの”は大体人間と動物のグロテスクなツギハギだとか、怯えきった顔の女たちを使った残酷なショーだとか、とにかく普通の感性じゃ楽しめないものばかりだったから。
それでも、少しでも口の端を引き攣らせたりなんかすると「アドニスを満足させられなかった」とその哀れな生き物や女たちに苛烈な折檻が目の前で下される上に、ミスタも可哀想な彼らに鞭打ったり焼ゴテを当てたりしなければならなかった。無数のミミズ腫れやタンパク質が焼ける臭い。ミスタはどれだけ猟奇的なものを見せられても、腕に爪を立てて我慢していた。
連れられた部屋の真ン中には少女趣味な花柄の布をかけられた何かが転がされていた。薄ら上下しているところ、生き物のようだ。
バシリッサは嬉しそうにミスタをソファに座らせて、右腕にべったり絡みついた。使用人がフルーツとペティナイフの載った盆を差し出し、ミスタは蕩けるような笑顔で木苺を摘んでバシリッサに食べさせてやる。恍惚とした表情のバシリッサに顎で示されて、別の使用人が布を取り去った。
「一昨日偶然見つけて連れてきたの。新しいおもちゃに良いと思って。あなたに少し似ているでしょう?もちろんあなたの方がずっと美しいけれど、」
相当抵抗したのか鎖で厳重に縛られていたのは、射千玉の髪の青年だった。
特徴的な黄色とピンクのメッシュ、紫のインナーカラー。常に理性を湛えた紫水晶の瞳は驚愕に見開かれていたが、その実殴られたのか腫れた瞼の所為で半分も開いていなかった。口枷を嵌められた唇が音無くミスタ、と言った。シュウ、だった。
「?アドニ、」
表情を落としてジッと“おもちゃ”を見つめている恋人の顔を不思議そうに覗き込んだバシリッサの額にペティナイフを突き刺した。
次いで盆を捧げていた使用人の首を掻き切り、悲鳴を上げて震える別の使用人の頭を固い銀の盆で殴って拳銃を奪った。
何が起きたのかわからない顔で必死に足に縋り付いてくるバシリッサを蹴飛ばして、シュウに巻きついている鎖を撃って壊した。口枷を外し、咳き込むシュウの暴行の痕が残る背中をさする。呪術師の力なのか治りかけているとはいえ痛々しい。
シュウは血の混じった咳をして、青黒い痣のある顔でミスタを見上げた。切れた唇の端に乾いてこびりついた血に、心臓を黒い針で刺されているような気持ちになった。
「み、ミスタ、なんで、こんなとこ」
「訳は言えない。けど、心配しないで。とにかくここから早く出て。お願い」
「何言ってるの、いっしょに行くよ、ほら、こんなとこいちゃ駄目だ。ヴォックスが君のこと探してるんだよ」
「…………、ごめん」
ミスタは眉をこれでもかと下げた情けない顔をして、固く握った拳でシュウの腹を思い切り殴った。油断していたところに綺麗にキマった一撃にシュウは「ウッ」と言って気絶し、ダランと横たわった。
「ごめん、ごめんね。シュウ、本当にごめん」
ずっと謝りながらシュウを抱えて屋敷を出た。途中騒ぎに駆けつけてきた使用人を何人か撃って、車の点検をしていたビーも撃った。弾が無くなってもキチガイみたいに引き金を引き続けた。無我夢中だった。
ビーの車を奪い、シュウを優しく後部座席に乗せて、アクセルを強く踏んで走り出す。この屋敷に初めて来たときにしていたカレーの匂い、あれはバルチの匂いだった。花と血と硝煙で馬鹿になってしまった人一倍利くはずの鼻を擦って必死に匂いを辿る。しばらくしてバラック小屋が並ぶ小規模な市場が見えた。 そこの傾いた宿屋の女将に鬼気迫る勢いで金を握らせてシュウのことを頼み、またアクセルを踏んだ。雨が降ってきてフロントガラスを覆う。
路肩に乱暴に停めた車の中でミスタは「ちくしょう」と言って泣いた。おれは友達を、きょうだいを殴った。助けようとしてくれてたのに。決して声は出さなかった。親指の付け根のあたりをギリギリ噛んで、雨が止むまでそうしていた。
みじめだった。
「なるほど」
シュウは後頭部に冷や汗をかきながら「そう言えば怖いってこういうことだったなー」と遠い目で思った。鬼火がチリチリと燃える音に溜息を吐く。
宿屋でなんとか動けるようになるまで待って、仕事でたまたま遠路遥々イギリスまで来たら拉致されて、 そこに目の前の鬼が修羅の形相で探し回っているミスタがいましたよ。というトンチキ話を噛み砕いてたった今伝えたのだ。
「小狐は、ハートの女王の城にいたわけか」
ヴォックスは、怒っていた。同時に、悲しんでいた。 とてつもなく。
ミスタが去ってから7ヶ月と2週間。ヴォックスは その間ツテを全て使って、半年ほど前にルナルドと名乗るミスタに似た男がよく出入りしていたというクラブを突き止めたが、その後すぐに消息を絶たれてしまった。パスポートは置きっぱなしだったから、トランクにでも詰められていない限り国外には出ていないと踏んでいたが、よもやレディ・バシリッサに飼われているとは思わなかった。
彼は別に、逃げ出したことに対して怒っているわけではなかった。
共に過ごして言葉を交わして、抱きしめ合って、少しずつでもお互いを尊重し、信頼できる関係を築いてきたと思っていた。それなのに、ミスタはそうではなかったのだ。ヴォックスとの対話を放棄して、口を閉ざして去ることを選んだのだ。
そんなに俺の言葉は、愛は軽かっただろうか。ミスタにとって、俺のそれは信ずるに値しないものだったのだろうか。それはヴォックスに対する侮辱であり、ヴォックスの愛するミスタ自身を軽んじているということだった。やるせない。これでヴォックスに嫌気が差して捨ててやったというならある種の踏ん切りもつくが、どうもそうではないらしいというのも、その気持ちを助長させていた。
ニコニコ腕を組んで背もたれに身体を預け、ふと時計を見る。いつもなら、ミスタと適当に借りた映画を観たり、YouTubeで配信を見たりしている時間だっ た。ゴッソリ表情が抜け落ち、一瞬ののちに気まずそうにしているシュウに笑いかけた。
「ありがとう。疲れているだろう?ゆっくり休んでくれ」
「そうするよ。もう少しこっちにいる予定だから、何かあれば連絡する。なんか……あまり良くない感じがするんだよね」
「君の素晴らしい勘が今回ばかりは外れることを祈ってるよ」
鬼の癖に胸の前で十字を切って疲れた顔で笑ったヴォックスの肩を軽く叩いて、シュウはホテルに向かうキャブに乗り込んだ。扉が閉まり、再びひとりになったヴォックスは、ソファに倒れるように寝転んで薄く目を閉じた。
強制的にミスタを連れ戻すことが出来ないわけではない。ミスタがヴォックスに会いたいと思っていればの話だが。それに、引きずり戻された小狐に怯えた顔で見られでもしたら、きっと立ち直れない。もしかしたら手荒なことをしてしまうかもしれない。それだけ は避けたかった。
喉の奥から乾いた笑いが漏れる。400年前の戦世にあった己ならばこんなことは考えなかっただろう。
「…………随分と、意気地なしになったものだな」
笑ってくれる人間ももういない。
ガリガリ爪を噛む。鉄錆びた味が口の中に広がった。外は1週間続けての雨で、頭痛がしそうなくらい高いカナリー・ワーフの摩天楼の上の方は霞んで見えなくなっていた。
レディ・バシリッサはどうなっただろうか。命が助かってもきっと後遺症は残るだろう。どうせ豚箱行きならもうそれで良い。けれど、シュウに知られてしまった。清廉潔白を人にしたみたいな、おれのきょうだい。シュウに、あんな女と仲睦まじそうに絡み合っているところを見せてしまった。
ミスタはそれがどうしようもなく恥ずかしくて、情けなくて泣きそうになり、紫煙を思い切り吐いた。煙が目に染みたことにしたかった。…まだトレジャラー・ブラックを吸っていた。高級ホテルに泊まっている客が安いやつを買うと逆に目立つのだ。そんなところにだけ頭が回った。ストレートのウイスキーが喉を焼く。大して強くもないのにがぶ飲みした所為で不快な眠気が脳にまとわりついてくる。
最悪だ。
きっと、ヴォックスも知ってる。おれが別の人間と喋って笑って、身体を触らせてお金をもらってるって。怒ってる、だろうなあ。
ミスタは椅子に座ったまま喉を反らして天井を仰ぎ見、ガスガスした引き攣るような笑い声を上げた。今すぐ死にたかった。
ひとしきり涙が出るほど笑ってから、金と拳銃をポケットに突っ込んで、酒瓶をぶら下げてふらふら部屋を出た。フェンターに会いに行くのだ。多分バレているからもうあのクラブは使えないけれど、いつまでも引きこもっているわけにはいかないし、同じ場所に居続けるのは危険だ。
カーペットが敷かれた長い廊下をノロノロ進む。頭上のシャンデリアに監視されているみたいだった。途中にある鏡や花瓶に映り込む自分の顔が醜くて恐ろしくて、ずっと爪先ばかり見ていた。
ドンッと肩が誰かにぶつかった。一拍遅れて顔を上げると、ホテルの内装に相応しいスリーピーススーツの初老の紳士が心配そうな顔でミスタを見ていた。如何にも善良そうな、今のミスタにいちばん毒になる人間だった。…どこかで会った気がした。
「申し訳ない、大丈夫ですか?」
「はい、はい、大、大丈夫です、すみません、…」
「本当に?顔色が、あまり…」
「んとに、だいじょぶ、なんで。これから、外で友人と会う、ので」
「なら良いのですが…。ア、右のエレベーターは点検中でしたよ」
「ア、そ、あり、ありがとう、」
「いえ」
紳士は眠たくないと言い張る子どもを見るような顔でミスタの背中を見送った。ミスタはほとんどもたれかかるようにして一階のフロントに降りるボタンを押した。もうひとつの扉の前に置かれた点検中の看板をぼんやり見ながら、手持ち無沙汰に瓶の中身をジャポジャポ揺らす。
チン、とエレベーターが到着した音がした。
「なんでだよぉ……」
左右に開いた扉の奥に佇む人物を見て、ミスタは顔中をクシャクシャに歪めてポツリと呟いた。
「Hiミスタ、
助けに来たよ」
エンジェル・フェイスの文豪は言った。真っ青のロングコートを着たアイクはびっくりするほど綺麗で、ミスタは引き金に引っ掛けていた指を外して二つのエレベーターの間に寄りかかった。顔を見ると泣いてしまいそうだった。アイクは扉を開けたまま出てこなかった。
「なに、助けるって、なに」
「君の逃亡劇を。ルカも協力してくれるって。下で待ってる」
「ハ、おれに本場のキャビアトースト食わせてくれるワケ」
「君がそうしたいなら、乗ってきてよ」
「ふ、ハ、あは」
嘘でしょ。
ミスタは息だけで呟いて、上半身を捻ってウイスキーをアイクの顔面にぶっかけた。アイクは思わず顔を覆って咽せる。タイミング良くさっき呼んだもうひとつのエレベーターが到着し、看板を蹴飛ばしてそれに飛び乗ってぐんぐん降った。点検中なのは嘘だった。あの紳士もグルだ。全部嘘。おれは、助けて欲しいなんて、言っちゃいない。
運良く途中で乗ろうとする客もおらず、ミスタは拳銃を握りしめてフロントに着くのを待った。8階、7階、6階。おかしい。いくらなんでも、ここまで降りてきて誰も乗ってこないなんてことがあるだろうか。…思い出した。あの紳士は、一度だけ見かけたルカの世話役に似ている。
ミスタは慌ててボタンをガチャガチャ押して4階で降りた。酔いが回った身体を叱咤して、壁にぶつかりながら階段を下る。フロアを猛然と突っ切って2階のカフェのビチャビチャの滑るテラスから植え込みに飛び降りた。
客とスタッフの悲鳴を背中に聞きながら、最短距離で駐車場まで走る。着地したときに少し捻った足首が痛んだが、そんなことを気にしている場合ではなかった。フロントで待ち構えているだろうルカに気づかれるより前にここから去らなければならない。
服が雨を吸って鋼の鎧のように重たい。ニコチンで落ちぶれた肺は上手く働かず、口の中が渇き切って涙が雨と混じって後ろに流れていった。獣のような呼吸音が酸欠の脳にガンガン響く。冷たい空気が皮膚を容赦なく刺した。
駐車場が見えてくる。十数台の車が並ぶ中でエンジンのかかっている車に駆け寄り、中の人影に向かって拳銃を突きつけた。が、ミスタは全ての気力を失った。拳銃が手から滑り落ち、カランとアスファルトにぶつかる。
中にいたのはルカとシュウだった。
「もうやだあ…」
わざとミスタに気づかせて、フロントに降りずに駐車場に向かうように仕向けたのだ。アイクの見え透いた嘘もそのため。
もう全部終わりだ。ミスタは子どものように車と車の間で膝を抱えてちっちゃくなって泣いた。ボロボロの姿で声を潜めて肩を震わせるミスタは、翼をもがれた天使のようだった。いつの間にか背後にいたアイクが肩にコートをかけてくれるのも、ルカが傘を差しかけてくれるのも、シュウが背中をさすってくれるのも全部無視して、まるく閉じこもって泣いた。
もうほっといてよ。と思った。迷惑かけたくなくて離れたのに、なんで。
「探したぞ」
慣れ親しんだバリトン。金襴緞子の声音が今はとてつもなく怖くって、膝の間に隠した顔を上げることができなかった。きっとおれのことを軽蔑してる。もうあの、あまい蜂蜜の瞳では見てくれない。
そう思って弱々しい肺から糸息を吐いていると、見かけより逞しい腕がミスタを抱きしめた。ミスタはビク!と身体を震わせて世界一安心できる場所だったそこで破茶滅茶に暴れた。ガタガタの爪で腕を引っ掻き、傷だらけでドロドロの足を何度も蹴り上げる。それでもヴォックスは動かなかった。ジッと押し黙って、ミスタをしっかり抱え込んで離さなかった。滲んでくる体温で境界線が曖昧になってゆくのに焦る。この腕に縋りたくなくて逃げたのに。重荷になりたくなかったのに。
「なんっ、だよ、せっかく、せっかくひとが、っう、決心つけて、っさあ、なのに、」
「戯け!!」
「ッヒ、」
ヴォックスは突然太い声で吼えた。それを間近で浴びたミスタはしゃっくりみたいな短い悲鳴を上げて、ビリビリ震える鼓膜をそのままに大きな目をパチクリさせた。し、叱られた。
「お前。お前という奴は本当に、大馬鹿者。俺が、何故怒っているかわかるか」
「ぅ、ぁ…?えと、に、逃げた、から」
「嗚呼そうだな。お前は俺から逃げた。だが、違う。俺は、お前が誰にも頼らなかったことに怒っている。独りで抱えてどうにかしようとしたことに怒っている」
「は…」
「言いたくないことのひとつやふたつあっても良い。俺のもとから離れたって良い。お前がそれを心から望むなら。が、お前、黙って行方をくらましたら彼らが、俺がどう思う」
「おこる…?」
「怒っているな。そうだ。
よく聞きなさい。俺たちは心配したんだよ。お前のことを、すごく。お前がいなくなってから俺はろくに寝ていないし、あの女のもとにいると聞いたときにはもう、もう一度死んだ気分だった。お前、相談するべきだったよ。危ないことに関わる前に。
…お前にとって、俺たちはそんなに軽かったか。恋人が、友人が突然消えても笑っていられるような奴だと思っていたか。代わりがいるとでも、自分がいない方が上手く回るとでも?それがお前の決意に基づくものでも、すまないが、それだけは尊重できない。何故なら、俺も彼らもお前を愛しているから。お前が犠牲にならなければいけないような世界で幸せになんてなれないんだよ」
「…………」
「頼むよ。俺から愛しい人を奪わないでくれ、彼らから友人を奪わないでくれ。お前を愛する人々からミスタ・リアスを奪わないでくれ」
ヴォックスはほとんど祈るような気持ちで言葉を紡いだ。聖書の文句を身体中に刻んでやったって良い。どうかどうか、この愛に慣れていない、愚かで一生懸命なひとの子に届きますようにと。伝わっているなんて慢心は捨てなければならないのだと深く実感した。ミスタと自分の尺度の差に気づけなかった。
目をまんまるにしてポカンとヴォックスを見上げていたミスタは、口の端を戦慄かせてポツポツ喋り出した。
「み、みんなを信じてなかった、わけじゃ、なくって」
「ウン」
「いつか、急に、無、無くなるんじゃないかって、ずっと、どっかで、怖くて」
「嗚呼」
「そしたら、もう、どうしようも、なくなって、それで、このままじゃあ、迷惑っ、かけると、思っ、」
「不安だったな」
「だっ、から、に、逃げた。の。ごめ、おいてってごめんなさいぃ」
「いいよ、いいよ、ミスタ。怖かったな。ひとりでよく頑張ったね」
ミスタは、この孤独を誰よりも恐れている優しい鬼が、ひとりぽっちでまんじりともせず明かした夜を想像して、ヴォックスのシャツにしがみついてとうとうえーーんと声を上げて泣いた。すっかり坊やに戻って、グズグズ鼻を啜る。ヴォックスはミスタの頭をゆっくり撫でながら、抱き上げたままルカの車に乗り込んだ。「シートを汚してしまってすまない」と謝れば、「POG!全員濡れてるから変わんないよ」と明るく返される。
しばらくわんわん泣いていたミスタは、隣に座っているシュウの服の袖をチョンと摘んで、ヴォックスの胸元から半分顔を上げた。
「殴っちゃってごめんねえ」
「いいよいいよ。ちょっと強かったけど」
「ぅぅうゔごめんんん」
「んはは。じゃあ今度バーガー食べに行こう。2時間いっしょに待ってね」
「ヴン」
シュウは罰にもならない罰を提案して軽やかに笑った。ミスタはヴォックスに抱えられたまま首を伸ばしてシュウの肩に額をグリグリ押し付けた。上からんへへ、と優しいアイボリーの笑い声が降ってくる。
「アイク、」
「なぁに」
「お酒、かけて、ズビ。ごめん」
「気にしてないよ」
「く、クリーニング代、出す」
「いいって。僕も嘘吐いてごめんね」
「うわぁん」
助手席のアイクはシートベルトに邪魔されながらぎこちなく振り返って微笑んだ。ミスタはまたピイピイ泣いて、背もたれの隙間からアイクのインク染みのついた白い指先を握った。言葉の力をいちばんよく知る彼に、辛いことをさせてしまった。
「ルカぁ…」
「謝らなくていい」
「う、」
謝っても許さないという意味か、とキュ、と唇を噛んだミスタはしかし、バックミラーを見てパチッと大きな瞬きをした。
ルカは泣いていた。声を出さず、溢れる涙を拭おうともせずに、奥歯を震わせるだけの男泣きであった。それは脳髄が痺れるほどカッコよくて、実際真横で見ていたアイクが口元を覆って「エッかっこよ…」と場違いに高い声を上げていた。
「ごめん」
「なんでルカが謝ンのさ…」
「オレは、みんなに笑っててほしいんだ。オレの家族に。ほとんど我儘みたいなもんだけど。……オレ、守れなかった。ごめん」
嗚呼、こいつは確かに“ボス”だと思った。どんなに弾丸をぶち込まれても、どんなに鋭利な刃物で刺されても、家族が背後にいる限り、こいつは立っているのだろう。
ミスタは心臓を鉛の手で掴まれたような気分になって、バックミラー越しにルカの涙の膜でキラキラ輝くアメジストと目を合わせた。おれより3つも年下の、22時には眠たくなっちまうベイビーなのに、こいつはなんて厄介でカッコいいやつなんだろう。
「ありがとう、ルカ」
久しぶりに口にした言葉だった。ミスタは全員の目をゆっくり・しっかり見て、もう一度「ありがとう」と言った。ずっと薄っぺらい、自己満足に塗れた謝罪を繰り返していたミスタには重く響く言葉だった。ゆるゆる微笑んだ友達を、きょうだいを見て、最後に恋人を見つめる。
「愛してる、ヴォックス」
「…………俺も、愛してるよ。ミスタ」
鬼は泣いた。いろんな感情で喉をグルグル言わせながら、さっきよりよっぽど強くミスタを抱きしめた。息ができないくらい愛しくて幸せだった。今すぐ死にたかった。爪先まで幸福でいっぱいで、みんながいるここで。ふたりはひとつのもののようにひっついていた。
「……っ、ごめん、裏で、裏でやって…!!」
10分後、狭い車内で展開されるふたりだけの世界ムードに耐えられなくなったシュウに誇り高い姫騎士のような顔で言われ、ふたりは「スマセ…」と呟いて離れた。アイクがダッシュボードを叩いて高らかに引き笑いをし、それにツボったルカがハンドルを切り損ねかけて四方八方の車から死ぬほどクラクションを鳴らされた。パトカーのサイレンが後ろから近づいてくる。
「アッやべっ」
「イギリス警察仕事早いな」
「文春砲待ったなし案件」
「両手が自由なうちにママに謝っとけ」
「刑務官ASMRの解像度が上がってしまうな…」
5人はゲラゲラ笑って雨降る街を駆け抜けた。濡れた建物や車がネオンを反射して光る。ミスタは目を閉じて、ああ夜が明ける。と思った。
ミスタ・リアスは大好きなヤツらのもとに帰った。