小さな夜叉のそのあと・
小さな夜叉は高い岩山のてっぺんの花の上で、璃月を眺めていました。
その小さな夜叉は大きな体を手にしました。
そして二つの願いを叶えることができました。
岩王帝君に認められ、
そして男と海を見に行きます。
「鍾離様」
魈は鍾離が椅子に腰掛けるのを待ってから言った。
「わ、我はまず、鍾離様に言わねばならぬことがあります」
そう少しばかり声を上擦らせながら続ける。
鍾離と魈は璃月港へ舞い戻った。海が見える宿の一室を自前のモラで数日借りる。鍾離は一先ずそこで全快ではない魈を休ませようと考えていた。そしてその一室に入り、鍾離が椅子に腰掛けるのを見届けてから、魈はその正面に膝を突いて頭を垂れた。
「言わねばならぬこととは、どのような?」
鍾離は手と声色で魈に顔を上げる様に示した。魈はそれに察して顔を上げる。
「我は貴方に無礼を働きました」
「無礼?」
「鍾離様に無礼な言葉の数々を……面目次第もなく、どのような言葉でお詫びをするべきか、いえ、どのような言葉でも足りるものではありません」
鍾離はその言葉に思わず笑みを零した。
「確かに俺が知っているお前からは想像もつかない程に明け透けな物言いの数々だった」
魈は顔を強張らせると、また深く頭を下げた。
「小さきお前はとても素直で、無邪気故に、とても真っ直ぐな言葉をくれた」
鍾離が魈の頭のてっぺんに向かって話すと、魈の前髪が少し揺れる。
「そして優しく、気遣いを忘れない。無礼などない、お前はいつでも俺に敬意を払ってくれていた。まぁ最初こそは少しばかり冷たかったが」
愉快そうにそう続けると、更に大きく揺れた。
「そして手に取るように分かるような形だと油断をしていると、何処かひた隠しして、俺を惑わせもする。実に愛らしく、いじらしい。それに――」
「も、もう……お止めください」
「無礼などないと分かってもらえたか?」
「このようにご恩情を賜り、深く感謝いたします」
硬くなっていた身は脱力し、垂れていた頭はまた違う意味で一層垂れ、羞恥で縮こまりそうな体を床に付いている腕を棒にするようにしてなんとか維持する。その傍らで鍾離は静かに笑った。くすくすと笑う声が聞き慣れず、どのような顔で笑っているのかも気になって、魈はおずおずと顔を上げるとそのまま目が合った。鍾離は笑い声を仕舞う代わりに顎を引き、ぐっと口角を上げる。
「魈、おいで」
「……はい」
鍾離は片方の手のひらを見せる様にして向ける。魈はすっと立ち上がると二歩三歩と近づき、その手に自身の手を置いた。
「馳せ参じてくれたか?」
その言葉に魈は一瞬の内、大きく目を見開くとすぐに苦いものでも噛むように眉を寄せ、目を閉じた。そして口を強く結び、その後はもごもごと動かす。
「鍾離様、あまり我をからかわないでください」
「これくらいの戯れ、許してくれないか。俺は今、とても良い気分なんだ」
そう言ってすりと魈の頬を撫でる。その手の中で魈は小刻みに首を振った。
「馳せ参じたとは言えません。我は貴方を随分とお待たせしてしまいました」
「待っていてくれていたのは、お前も一緒だろう?」
「またそのようなことを」
「暫くはこの調子だ」
「まさか」
「俺はお前に嘘を付かない」
魈が少しばかり驚いて鍾離を見返すと、鍾離は愉快そうに口元を緩めた。
「俺は、お前が帝君の名ばかりを口にすることに嫉妬もしたし、お前が俺を煽る様に花に抱かれて眠ると言えば花に嫉妬もした。全て噓ではない」
「煽った訳ではなく」
「無自覚とは恐ろしい」
「鍾離様、どうかもう」
「とても良い気分だ」
魈がまた脱力しかけると鍾離は魈の腰へと手を回した。
「今の俺はとても良い気分だが、それと同じくらいにお前を独占したい欲にも駆られている」
そしてぐっと魈の体を引き寄せる。
「わ、我には貴方だけです」
「俺は業突く張りになってしまったようだ。言葉だけでは足りない」
「また!」
と、魈は声を上げてからすぐに口を噤んだ。鍾離はまたくすくすと笑う。それを魈はほんの少しばかり恨めしそうに見てから目を閉じ、次に開ける時にはどこか困ったような色をもって鍾離を見つめた。
「鍾離様、正直に……申し上げます」
鍾離は魈の目に視線を合わせて、その先を促す。
「我は今酷く混乱をしていて、小さき頃の、その、あれこれが失せずにまだ残っていて……鍾離様がおっしゃる通り、小さき我はとても邪気がなく、堪え性もなく……それでいて業突く張りで、とても許容できませんが、それらがまだ残っていて、我は酷く混乱をして……」
「確かにとても混乱しているようだ」
堪らず魈は唸った。
「その業突く張りは次に何と言う?」
「今は……ほんの一瞬も貴方から離れたくないのです」
「これは俺に都合の良い業突く張りを見つけた」
鍾離は寄せた魈の体を更に引き、腿へと乗せ、その上半身を自分の胸に仕舞いこんだ。腰にある手はそのままに、もう片方の手で背中を撫でる。そして首を曲げ、魈の額に頬を添える。一度ゆっくりと擦る。
「では離れなければ良い」
「は、はい」
なんとかそれだけで答えると、魈は鍾離の胸の中で身を硬くして動かなくなった。緊張の面持ちで眉を寄せ、力強く目を閉じる。その姿を見て鍾離はふっと漏らす様に笑い、魈の髪を撫でた。
「ひとつ、お前に嘘を付いていた」
「嘘、ですか?」
嘘という俗めいた言葉が引っ掛かり、顎を浮かせて鍾離を仰ぎ見る。
「そう、嘘だ」
「海を見に行く約束ですか?」
「それは結果として叶えられた。その時の事実はどうであれ、今は嘘ではない」
魈は思わず唸りそうになった。最早小さくはないので、それに耐える。
「何でしょうか」
見当もつかないという魈の少し間の抜けた顔に、鍾離は頬を緩める。
「本当は、指先だけでは十分でなかった」
鍾離はほんの少しだけ口の端を上げる。
魈はその言葉に強く口を結んだ。その時の心情が今まざまざと蘇り、結んだ唇がうねうねと動き出す。
「こ」
居ても立っても居られずと、考えるよりも先に口から短い声が発せられる。
「今度は鍾離様が十分であるように……今回は嘘をつかせませぬ」
魈は鍾離の胸の上でよじ登る様に体を動かすと、そのまま首に手を回した。回してその後ろで強く結び、頭を垂れると額を鍾離の肩へぴたりと付ける。
「それは恐ろしい」
鍾離は首を傾けて魈の頭に耳を付ける。それから少しだけ腰を曲げ、魈の座りやすい体勢に整えた。
「十分などという切れ目を見つけることが出来るだろうか」
「では」
魈は顔を上げて、鍾離を見る。
「見つけないでください」
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