旅人眠れない。
少女は諦めて目を開ける。固く目蓋を閉じていても、結局眠気は訪れなかった。暗い天井を見上げ、どうせ眠れないのなら、と起き上がる。
隣の阿笠を見るけれど、静かに身体が上下しているだけ。聞きなれた寝息は聞こえないから、狸寝入りかもしれない。同居人の気遣いに微笑みつつ、少女はベッドから下りた。上着を羽織り、音を立てないように屋上へのドアを開ける。
夜はいつものように、しんと静まり返っていた。閑静な住宅街の夜。ちらほら見える街灯の明かり。
例の組織にいた頃。夜更けまで研究に没頭して、ふらふらしながら見上げた空のことを思い出す。あのとき、時間の感覚がなくて、夜と明け方の境目なのか夕方と夜の境目なのかわからなかった。それくらいよく似ていて、でもすぐに太陽にかき消されてしまった。
夜風は涼しいを通り越して、冷たい。少女は小さく身体を震わせるけれど、すぐ戻る気にはなれなかった。
明日、この小学生の身体に別れを告げる。いや、これからもこの肉体、細胞であることに変わりはないのだが、今夜が灰原哀の最後の夜。
万全の状態で当日を迎えるべきだとはわかっていたけど、眠れないものは仕方がないし、気持ちが平常でいられないのは当然のことだから。
だから、少女は静かに目を閉じる。この身体で感じる全てのことを、元の身体に戻っても忘れないように。
びゅう、と強い風が吹いた。雲に覆われた月が顔を出す。
「こんばんは、あるいはおはようございます。レディ」
自分以外の人の気配に、少女はうっすらと目を開けた。
「……………」
「一点、お尋ねしても?」
それはまるで、夜を切り裂くような。
屋上で立つ彼女の目の前に、風にたなびく白のマント。少女は大きく瞬きをして、焦点を合わせる。
眩しいくらいの白を纏った青年は、自分の耳に手を当て、首を傾げる。
「この辺りで、つい先ほど。私を呼ぶ声が聞こえまして」
「……空耳じゃないの」
少女の吐いた言葉が白く濁る。
「おや、そうですか」
私は耳はいい方なんですとにこりと笑う。女性、限定ですけどね、と付け加えた。
少女はつられて笑った。
「私は…、あなたを呼んだりしないわ。呼ぶ理由がないもの」
「ではあなたではなく、眠り姫かもしれませんね」
「……眠り姫?」
「えぇ、明日、目を覚ますであろう、お姫様ですよ」
「…………」
黙り込んだ少女に、彼は日が昇る方向を見上げた。空はまだ暗く、星は輝く。ふと小さな友人とのやりとりを思い出した。絡ませあった小指の感触。
「目覚めた後に広がる世界はさぞ、眩しいでしょうね」
「…そうね。眩しすぎるわ」
少女は静かにうなずいた。おそらく、もう一度、目を閉じたくなるくらいには。
「物思いに更けるお嬢さんに私からのアドバイスですが」
「……アドバイス?」
「どちらの世界が正しいなんてありません。自分が今立っている場所が自分の世界です」
「……」
「目的のある旅も、良いでしょう。でも人の生には、ゴールなんてありません。あったとしても、その場所を目指して歩き続けることこそが、あなたの時間のほとんどになるでしょう」
「わかったようなことを言うのね。あなたも、…ずっと求めていた『宝石』があったのではなくて?」
「あれは…私にとって経由点です」
ふふ、と彼は笑った。
「本当のゴールにはたどり着けなくともいいのです。ですがそれはもちろん、諦めればいい、という意味ではない。……それはわかりますよね?」
「…わかるわ」
「過去を切り捨てたりしなくていい。過去と、今と、未来と。混ざっていることの方が心地好くなる。そしてそれが、楽しいのです」
「楽しい?」
「楽しんでいいんですよ。だって、それこそが旅なのだから。あなたしか、経験できない旅です」
「――あなたのように、隠れて、現れてを繰り返すことは、あなたにとって楽しいこと?」
「……私は、奇術師です。人を笑顔にすることが、私の喜び。始まりはどうであれ、こんな生き方も悪くはない。決してたどり着きはしない背中を目指す。そのために、この姿を纏う。それでいいのです、私は。成り代わりたいわけではない。そこに向かって歩くのが」
「あなたの、目的」
「えぇ。――あなたに。明日、目覚める彼女にこの言葉を伝えたくて。…少しでも笑顔を与えられたなら、いつか私とあなたがこの夜を忘れても、今夜空を見上げたことは意味のあったと思うので」
「忘れちゃうの?……ずいぶん薄情な紳士なのね」
「……ははっ」
ふわあ、とマントが広がる。
彼が膝を付き、少女の手の甲にそっと唇を乗せた。
「レディ。夜分、失礼しました」
別れが、近い。
悲しいわけでも寂しいわけでもないのに、そこまでの関係でもないのに。
今生の別れでもないのに。
「あなたと、あなたの旅が健やかなものとなりますように」
「……あなたも」
心が温かくなる。これを感謝というのだろう。ありがとうと伝える代わりに少女は誓う。
「あなたを見てるわ。ここからじゃない、どこか別の場所で。あなたと、あなたの旅を。朝でも、昼でも夜でもない……あなたの世界を」
「ありがとう」
男は、そこらへんの少年のようなあどけない笑みを浮かべ、それからすうっと気障な男の顔に戻る。
「あなたの涙が落ちる音が聞こえたら。どこへだって駆けつけてみせますよ」
「そうそう簡単に泣かないわよ」
「そうですか。でも、…心に抱いた苦しい想いを誰にも言えないときには、どうか私を思い出してください」
「………そう」
それは起きない方がいいことなのだろう。だけど最後の最後で追い詰められたとき、手を伸ばせる先があることは、なんと温かいことなのだろう。そういえばこの人物は、少女の命の恩人でもあった。
ふわりと、白いマントが舞う。さよならの時間だ。世界はまだ漆黒の夜に包まれているけれど、ここだけは夜明けが近いような錯覚を起こした。
「…ならあなたも」
少女は笑った。どこまでも、お人好しで優しい優男め。
「――私を思い出してくれたらいいわ」
遠くなる背中に告げた。届いたのか届かなかったのかわからないけれど、少女は暗闇に浮かぶ白を見送った。