薄すぎて伝わらない小話④【子供みたい】「動かないでよ」
まっすぐに彼を見つめる瞳。一点を捉え、微動だにしない。白い脱脂綿を、それはそれは丁寧に、そっと彼の頬に当てる。ずきりと刺すような痛みが走ったが、こめかみを多少ひきつらせる程度に堪えれば、志保の口元が柔らかく綻んだ。
「…意地っ張り」
「大したことはない。動くなって言ったのは君だろ」
彼女は彼の返事に応えることなく、呆れたように眉を下げる。
「傷は浅いけど…、これじゃ痛かったでしょう」
とんとん、と白い綿は血液を拭っていく。その微かな感触ひとつひとつが、彼の心をゆっくりと溶かしていく。先ほどまで気を張っていたからだろうか。切り詰めていた神経が和らいで、逆に疲れを感じ始める。
「砂は水で洗い落とせたみたいだけど…」
顔をぐんと近付けて、彼女は細かく観察する。前髪同士が触れ合いそうな距離。瞬きをする彼女の瞳。睫毛の長さがくっきりと見える。
近い。そう言いたいけれど、言葉にすることができない。どうも彼女の無自覚な行動は、疲弊した身体には刺激が強い。
「大きな絆創膏あったかしら。……ねえ、博士」
すっと彼女の身体が離れて、降谷はこっそりと胸を撫で下ろす。阿笠のところに向かった志保が背を向けているうちに大きくため息を吐いた。
志保は東都大学に通う医学生である。もちろんまだ医療行為を許されている身分ではないのだが、諸事情により、彼女は薬学に精通していた。
その能力を生かし、降谷の――公安の――協力者としてほそぼそと依頼を受けたり受けなかったりしていたのだが、ある日のこと。大きな事件を片付けた彼が直後に依頼を頼みに行ったとき、彼が傷だらけであったことから、彼女が大変激怒して、それをきっかけに、何故か彼は怪我をすると志保のところに足を向けてしまうようになってしまった。
志保に心配されると、こそばゆい。
降谷自身の初恋の思い出の影響もあるけれど、自分より一回りも下の志保が、あれこれ自分の世話を焼くのを見ると、ほかほかと心が温かくなるのである。
「全く…、生傷が絶えないんだから」
やれやれと絆創膏を持って志保が戻ってくる。テープ部分を剥がして、彼の頬に手を伸ばす。
「ははは」
降谷は仕方なく目を閉じた。
「…ちゃんと病院行きなさいって言っているのに」
「擦り傷だけだ。行くまでもない」
「それ、あなたの自己診断でしょ」
「君が診てくれるから」
「何バカなこと言っているのよ」
ぺし、と強めに貼られて、頬をつんと指された。目を開ければ、彼女は口を尖らせて、彼を睨んでいる。一回り下の小娘に叱られているというのに、何も腹が立たない。むしろ彼の口元は緩んでしまう。
「志…」
ぐうぅぅ、と。空気をぶち壊す腹の音が響く。げ、と顔をひきつらせる彼と、さして笑うでも驚くでもない彼女。
「……何か食べる?」
「いや、お構い無く…」
「レトルトのお味噌汁はどう? お腹に優しいし」
お湯、沸かしてくる、と彼女が立ち上がった。
「いや、本当に…」
「すぐできるから。それに…」
彼女は小さく首を傾げる。彼のことなど見透かしたように、落ち着き払った様子で言う。
「……ずっと寝てなかったんでしょ。食べた後ここで仮眠したらどう?」
「…いや、そこまでは」
「心配しなくても寝込みを襲ったりしないわよ」
そこで彼女はようやく、ふふんと意地悪げに笑った。
「後で子供たちが訪ねてくるから、その頃になれば騒がしくて寝ていられなくなると思うけど」
「………そう」
志保は見た目より、ずっと懐が深い。近寄りがたい印象はあるが、ある程度の信頼関係を築けば、根っから優しい子なのだとわかる。
面倒見はいいし、こちらのことを気遣ってくれる。……そう、こんな風に促してくれるのも、彼が特別、というわけではなく。彼女が子供たちの世話を焼くのと同じようなことなのである。
「それじゃあ…、甘えようかな」
決まったわね、と志保がこくりと頷いた。
仮眠のために、地下室を借りた。
彼が目覚めたときには、すっかり日が落ちていた。他人の家でこんなにくつろいでいいのだろうかと思いつつ、疲れていたからだと言い訳をする。
一階に通じる階段を上がっていくと、上はずいぶんと賑やかだった。
「――こら、使いすぎよ」
志保と子供たちが机に向かっている。時計を見ると時刻は午後五時。子供たちもそろそろ帰る時間だろう。彼ももう――家に帰るだけだが――帰らないと。長く滞在しすぎてしまった。
「あら、起きたの?」
降谷の姿に気付いた志保が立ち上がって、彼のところに歩いてきた。
「おはようございます、降谷さん」
「おっすー」
「よく寝てたね!」
「………あはは、おはよう…」
子供たちも彼を見て、きゃっきゃと挨拶をする。降谷は苦笑いを浮かべた。
「少しは休めたかしら」
「うん…、まぁ、予想以上に」
「そう」
彼女は微かに表情を和らげた。それだけで胸がいっぱいになる。彼は慌てて顔を背けた。話題を変える。
「――ところで、何をしているんだい?」
子供たちが取り囲むテーブルの上に、図画工作でもするかのような文房具が広げてある。
「あぁ…これは」
「明日晴れますようにって、てるてる坊主作っていたの!」
志保が答えようとしたのを遮って、歩美が元気よく答えた。
歩美の手元に揺れるのは、確かに『明日天気になりますように』のてるてる坊主だ。彼はうっすらと週間天気予報を思い出す。明日の天気予報は確か、曇りのち、雨。
「明日、遠足でも行くのかい?」
「ううん、違うよ!」
「――サッカー見に行くんだよな!」
「ええ! これでばっちりです!」
子供たちが三者三様のてるてる坊主を誇らしげに掲げた。マジックで顔が描かれている。へえ、とまじまじと眺める。個性があって、なかなか面白いなと思う。
「脱脂綿を使いきっちゃったわ」
志保は机の上を見て、それから意味ありげに彼をじっと見る。
「最近消費が激しいし」
「ははは…」
降谷は肩をすくめた。
「笑い事じゃないわよ。もう少し気を付けてよね」
「……うん」
怪我をしなければ、会えない、とか。あれは子供の頃の話だ。もう自分は大人だというのに、と彼は苦笑いを浮かべた。
「――あ! 志保お姉さんも見せなよ! 作ったの」
「え?」
「志保さんも作ったのか?」
「……えぇ」
「志保お姉さん、おおはりきりだったんだよ!」
「何せ明日は比護選手が出るからな!」
比護。彼女の推しのサッカー選手だ。いつもクールな彼女を普通の女の子にしてしまう唯一の存在。
「……」
彼女の頬がさっと赤らむ。もじもじと、指を絡ませている。
「――へえ、良かったじゃないか。それじゃ、晴れてくれなきゃ困るな」
志保は彼のセリフに、顔を上げる。表情が綻ぶ。
「ええ…」
彼女は机の上に置かれたてるてる坊主を持ち上げる。彼女が作ったものなのだろう。布のバランスが均等だった。愛おしそうに指で撫でている。
「皆の家に飾るのか?」
「いいえ! ここに飾ろうかと! 今から物干し竿に付けようかなって話していたんです」
「もうだいぶ暗いだろう、大丈夫かい」
「降谷さん、手伝ってくれる?」
「いいよ、もちろん」
全員で庭先へ向かおうとすると、阿笠が、志保くーん、と呼んだ。
「何、どうしたの、博士」
「ちょっと来てくれんかのう」
彼女はてるてる坊主をちらりと見た後、彼に差し出した。
「ごめんなさい、これも一緒に頼んでも良い?」
「ああ、…いいよ」
ありがとう、と志保は言って、阿笠の方へ行ってしまった。渡されたてるてる坊主を見下ろす。まんまるい白い顔に描かれたイラスト。比護選手を描いたのだとすぐにわかる。
「お邪魔しました~!」
「気を付けて帰るのよ。降谷さん、この子たちのことよろしくね」
「あぁ。ちゃんと送り届けていくから心配しないで」
「えぇ、ありがとう。じゃあ、皆、また明日ね。寝坊しちゃ駄目よ。遅れたら置いていくからね」
「は~い」
帰り道だからと、子供たちを降谷が送ってくれることになった。もう外は真っ暗だ。彼の申し出は大変ありがたい。志保は門の前で四人を見送る。白い車が見えなくなるまでそこに立っていた。
志保はうきうきと家に戻る。明日はビック大阪の試合だ。夕飯を食べてお風呂に入って、ゆっくり休んで明日に備えなければ。忘れ物がないように準備しておかないと。鼻歌交じりで玄関のノブに手を掛けたとき、志保の視界に飾られたてるてる坊主が入った。ひとつ、ふたつ、みっつ――、あれ。
不思議に思って近付くと、隠されたように、見えない場所に吊るされたものがひとつ。
「………これ」
それが、自分の作ったものだと、彼女にはすぐわかった。しかも、志保にも易々と届かない場所だ。
彼女はそれを見上げて、意外そうに首を傾げた。これ見よがしに、目立たないところに付ける、とは。しばらく見上げた後、ぷっと吹き出す。
「……ほんっと、素直じゃないんだから…」
怪我をしなければ彼女に会いに来られない不器用な人。さっきは顔色ひとつ変えなかったくせに、こんな子供っぽいやり口をするなんて。
「…でも、明日はちゃんと晴れてもらわないといけないのよ」
志保は部屋の中から椅子を持ってきて、ちゃんと空がよく見える位置につけ直す。ゆらゆらと不安定に揺れるてるてる坊主を、窓辺から彼女はいつまでも眺めていた。