鬼さん、どちら。彼女は、いつも始業ベルの四分三十秒前きっかりに現れる。
私の時計は国内有数のメーカーだ。このブランドの名前は子供でも耳にしたことがあるし、それは極めて正しく時を刻む。丁寧な仕事をする、まさにジャパニーズブランド。私はこの息が詰まるような閉鎖的な学園生活で、ひたすらこの時計を眺めて生きている。教室の時計は全然あっていない。だけれど、私の腕にあるこの時計だけは正しさを証明してくれるような気がして、私の心を慰めてくれる。
この学校は小、中、高、大まで一貫したエスカレーター式の学校だ。お金があって、ある程度の学力がないと入れない女子校。
だが、それは外から見た一面でしかない。この閉鎖された場所は、目障りなものを閉じ込めておくのにうってつけだった。私も、親戚をたらいまわしにされたあげくここに入れられた一人だ。
しかもここには独特のヒエラルキーが形成されており、それもまた私を辟易とさせる。
そんな私が、最近、気付いたこと。
それは、私の隣の席の彼女が、いつも規則正しく動くことだ。
「おはよう、灰原さん」
私が挨拶をすると、彼女はこちらに視線を向ける。反応速度を秒針で図る。
「おはよう」
彼女は中等部から編入してきた子だ。髪といい、顔のつくりといい、絶対海外の血が入っている。それに加え、とても美しい造形をしているものだから、編入当時から多くの人の目を引いていた。
「今日は眼鏡なんだ」
「えぇ。……目が、痛くて。コンタクトが入らなかったの」
「そうなんだ」
彼女がコンタクトだったことも、そもそも目が悪かったことも初耳だ。私は彼女のことを知れて嬉しくなる。
「今日、入試があるからって、二時限目の体育、鬼ごっこだって聞いた?中学生にもなって、それはないよね」
「そうなの。それは嫌ね」
表情を全く変えず、彼女は頷いた。ちょうどチャイムが鳴る。教室の時計はバカだけど、チャイムを管理している時計は正確らしい。
珍しく時間ぴったりに教室のドアが開く。担任の先生はいつも遅れるのに、今日はちゃんと時間通りだと思うと、現れたのは担任ではなかった。クラスメイトたちの背筋が伸びる。
「おはようございます。今日は入試があるということで、■■先生はそちらに対応しています。なので今日は僕が代わってホームルームをやりますね」
現れたのは、数ヵ月前から講師としてやってきた安室先生。女子校に配属されたら絶対誰かが間違いを起こすのではないかと思わせる美男子。もちろんこの学校の生徒は外面だけはいいので色めき立ったりしないけれど、影でこの素敵な先生をめぐりおぞましいことが起きている、らしい。それに先生が関わっているのか、知っているかすらわからない。私はできるだけ関わらないように生きている。
隣に座っている灰原さんを見ると、彼女はいつも通り時間割りに目を落としていた。
今日は二月三日。節分。それで鬼ごっこだなんて、短絡的過ぎないだろうか。しかも生徒が怠けないように、鬼はジャージを脱いで体操服にならないといけないらしい。つまり、鬼になったらこの寒空の下、半袖半ズボンで放り出される。鬼にならないように、なんとしても逃げきらなくては。
しかもこれが仲良しクラスだったらいいけれど、何せこの学校だ。殺伐としているにもほどがある。
私は灰原さんが心配になるが、既に姿が見えない。
灰原さんはその容姿からか、ヒエラルキーの上層部から目を付けられている。表だって口に出されていないが、こういった機会があればこれ見よがしに狙われてしまうのだ。子供のくせに。いや、子供だからか。とにかく嫌がらせみたいで面倒くさい。
他の生徒に紛れながら、寒いね、嫌だねとぼやきながら時間が経つのを待つ。
眼鏡の画面に映る点滅。彼女はそれを冷静に見つめながら、ここはまだ安全かと考える。
背にした校舎の窓が、静かにからからと開いた。
「今日その眼鏡をしていたのは、このためかい?」
「そうよ」
彼女は顔色ひとつ変えずに答えた。
気配には気付いていたけれど、それが誰かは簡単に心当たりがついていた。
「学校では近付かないでって言ったわよね。女の嫉妬は恐ろしいのよ」
「鬼の居場所は把握しているんだろう?」
グラウンドを一望できる校舎の片隅で、彼女は膝を抱えて座っている。
「ここに隠れることはルール違反じゃないのか?」
「校舎に入るなと言われただけよ。ならここはセーフだわ」
「ふぅん」
きゃあきゃあと黄色い声が遠くで聞こえてくる。声だけはとても楽しそうで、彼女はくすりと笑った。
「元気そうで良かった」
「あら、元気そうに見えたかしら。陰謀渦巻く閉鎖された学園生活はなかなか興味深いし、こんなところに急に入れられて、さすがあなたの上層部は私の好みをわかっていらっしゃる、と思ったけれど」
「ははは」
「単に人の目から隠したかっただけでしょうけれど。一方で、愚かね」
誰にも見つからないように隠したつもりが、自分からも見えなくしてしまう。このような閉鎖された場所で、閉鎖されたコミュニティにいるということは、逆に、彼女に牙を磨かせてしまうことだ。
「妙な気は起こすなよ」
「あら、あなたも知っているでしょう?極めて品行方正な学生生活を送っているわよ」
カチャリと、彼女は眼鏡を直しながら笑う。
「彼らがお気に召すような女子中学生をね」
その笑顔は、彼の初恋の人には似ても似つかない。それが彼の胸をちくちくと刺す。
いつかこの彼女に、銃を突きつけられる日が来てしまうのだろう。何を言っても、何を伝えても、「彼」には彼女を止めることはできない。
そして彼はまた、彼女に銃を向けなければならなくなるのだろう。
果たして、自分は引き金を引けるだろうか。
雪が降りそうな灰色の雲を眺めながら、彼はそんなことを思った。